●ああ遺言は物語のように -真- ●
 第1章 心臓

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黒猫が木を引っ掻いていた。爪でも研いでいるのだろう。木に傷ができる。
森は暗い。深く続いてゆく漆黒が、鬱蒼とした木々を包んでいる。生き物がいそうな雰囲気ではない。が、それと同時に、なにか恐ろしいものが潜んでいるようでもある。
その森にひとつだけ、ぽつんと小屋があった。もはやそれが小屋として機能していることも疑わしいほど、歪み傾いた小屋である。
彼女はそこに住んでいた。ひとり静かに住んでいた。
暖炉の炎が、ゆらゆらと燃える。火の灯りが作り出す陰が、彼女の足に及んでいる。
彼女の両目には、なにも映らない。盲目というわけではないが、彼女にはものを見る気力というものがないのだ。それほどまでに、彼女の意思は磨耗していた。
彼女の赤い髪が、暖炉の炎に同調することはない。薪が炎に食らわれても、彼女が薪を割ることはない。ただ燃えている、それだけであった。そこに目的はない。それに意思は伴わない。
黒猫は森を彷徨っていた。出口を探しているのか、あるいは目的地が森の中にあるのか、足取りは確かなものではない。
黒猫は森の暗闇と同化する。黒いのだから当然だ。ただその猫は、この森には不釣合いなほど真っ白なものを咥えていた。それは紙である。綺麗に折りたたまれた、明らかに人の手が施したであろう紙である。
木々の陰が、その白を覆い隠そうとした。だが紙は、まるで威勢を放つように白さを保ち続ける。黒猫は尻尾を真っ直ぐに伸ばして歩いた。どこかへ向かう。
小屋の炎は、依然として燃え続けている。まるでそれは心臓のように、休むことを知らない。
彼女の瞳はなにも捉えない。終幕を迎えてから半年間が経ったが、彼女の瞳は一向に働こうとしない。むしろ「見ること」そのものを忘れてさえいそうである。
それでも炎は尽きずに燃える。
黒猫が辿り着いた先には、歪み傾いた小屋があった。曲がった窓から、ゆるい灯りが見える。
黒猫は迷いのない足取りで、小屋に近づいていく。猫は足音をたてないというが、その黒猫はわざとらしく枝を踏んで歩いていた。まるで自分の存在を知らせているように。
 黒猫は扉を引っ掻いた。


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 小屋の炎が、彼女の赤毛に明暗をつける。
 静かに彼女は、音の鳴ったほうを向く。いちいち炎が彼女の顔を彩っていた。光が当たるところは明るく、当たらないところは暗い。ただそれだけであるはずなのに、彼女の顔は、それによって生命活動を維持しているようであった。
 要するに、生きる気力というものが、彼女からは全く感じとれない。
 彼女は扉を開けた。彼女が扉のノブに手をかけたのは、実に半年ぶりのことであった。
 彼女の視界に広がる、鬱屈とした世界。歪んだ世界。木々が陽光を遮り、雑草が花を殺す。
 黒猫は銅像のようにじっと座っていた。この森と同化するように黒い。ただその中で唯一、異彩を放つものがあった。それは黒猫に咥えられている。
 彼女が手をのばすと、その猫はすんなりと咥えていたものを地においた。赤毛の彼女は、それに目を遣いながらも、猫の頭を撫でる。
 猫は目を垂らして、彼女の腕に擦り寄った。撫でられるのが心地よいようだ。
 森が一層と歪んでいく。猫に嫉妬でもしているのか、それとも赤毛の女を取り込もうとしているのか。
 彼女は黒猫を、小屋の中に招き入れた。森の影が入らせまいと手をのばすが、それが黒猫を捕らえることはなかった。扉が閉まる。
 猫が咥えていた紙は、手紙だった。ただ、差出人や宛名は書いていない。どこまでも白く、余念どころか必要なことさえも排除しているようであった。
 彼女は、その封を切る。
 黒猫はじっとして、暖炉の炎を眺めていた。ぴんと張っていた尻尾は、既になだらかなものになっている。
 封の中の紙は、封の白さに反して真っ黒いものだった。そして、ただそれだけだった。
 なにも書かれていない。
 彼女は訝しげにそれを取り出した。完全にその姿を現せど、文字はひとつも見当たらない。ただどうしてか、中身を失った封が、徐々に褪せていっている。
 彼女はまた封にそれを戻した。すると不思議なことに、封の純白が蘇ってくる。
 眉をしかめて、彼女は黒猫を見遣る。黒猫は銅像のような姿勢で、じっと炎を見つめていた。
 彼女はつられて、暖炉の炎に視線を遣う。
 炎は――彼女の心臓は、今にも消えそうになっていた。とても、小さい。
 彼女は咄嗟に、手にしていたものを暖炉に放り投げた。それが薪の代わりになって、また炎が燃え盛る。



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 彼女が安堵の溜息を漏らす。彼女の視界には、煌々と燃える炎が映っていた。
 それを見て黒猫が、大きな声を上げて鳴いた。
 彼女が振り向いて、黒猫の姿を捉えようとした。……が、もうそこに猫はいなかった。
 いや違う。黒猫は、黒い紙になっていた。床に静かに、紙が置かれている。
 彼女はそれを拾った。黒猫の姿が変わり果てて少し寂しく思っていた。
 黒い紙は折りたたまれている。広げると白い文字が並んでいるのが分かった。爛々と炎がゆらめく。
 途端、轟音がした。
 ひしゃげる扉。建物全体が揺らぐ。また轟音。彼女は否応なく暖炉の心臓を心配した。徐々に自意識が戻ってくる。
 扉が完全に外れた。敵の姿がたち現れる。それは森だった。この森だった。
 彼女は黒い紙を隅に投げ遣り、戦闘態勢に入った。半年前までの記憶は、彼女から武器を奪うことはしなかった。
 森が建物に侵入してくる。暗澹たる森の意思。彼女の首めがけて飛び移る。
 彼女は舞った。本人が舞踏を意識しているわけではないが、彼女の動きはまさしく舞である。鮮やかで、華やかで、美しい。半年の間動かなかったというのに、彼女の動きは滑らかで、炎の出現に疑問をいだかせない。森の翳が燃える。灰の追随も赦さない。
 彼女は半年ぶりに小屋を出た。それを見計らって森が襲いかかる。畳まれた円。彼女にはそう見えた。マッシュルーム。そう喩えることもできる。森が小屋を中心に、端から練りこもうとしているのだ。
 その対応策は、彼女の考えるところではひとつ。
 彼女は舞う。優雅に煌びやかに。ただ一粒の灰も赦さない。戦争が終わってもそれは変わらなかった。轟音は起こらない。
  〝闇夜にうたえ、深淵になじめ。虚無の奥にはなにがある。〟
 断片の記憶。炎を噴き出すとともに、彼女の脳裡に言葉が浮かんだ。
  〝心を閉ざした少女よおどれ。乾いた涙に足ぬらせ。〟
 彼女は少しの疑念に駆られたが、それより先に、炎を四方に噴き出すことにした。炎が森を包み込む。森が消滅した。
 小屋も消えてしまった。ただ彼女の心臓――炎だけが、力強く揺らめく。
「あなたは……消えなかったのね」
 彼女は足元に擦り寄ってきた黒猫を、ひょいと持ち上げた。



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 戦争とは負の逆流である。
 いくら悔いても、彼女は過去を取り返すことはできない。先ほど燃やした森も、もう修復することは叶わない。この森は、攻撃的ではあれど、それがために敵が侵入しにくく、住み心地の良いところだったというのに。彼女はそれを手放してしまった。自意識と引き換えに。
 当然ながらここに住み続けるのは困難になってしまった。 ほうぼうに生えていた草々も、一本たりとも残っていない。森の命は摘み取られてしまった。
 陽光が降りかかる。堂々と、これまで届かなかったぶんを取り戻すかのごとく。燃え盛る。あの太陽は、莫迦者なのか。彼女はふいにそう思い至るが、すぐに考えを打ち消した。太陽に意思はない。だから体を燃やすことができるのだ。
 彼女にも、半年前まではできた。
 脚を焦がしながら走った。我が手を燃やしながら人を殺めた。胃の中に火をつけて、それで空腹を紛らわした。
 軍人ほど戦争を嫌がる者もいない。彼女は軍人ではないが、それに近しい立場にはいた。赤毛の血統。永劫に語り継がれるはずだった血筋。つながっていくはずだった、Mの魔法。
 黒猫が喉を鳴らした。彼女は、自分が猫を抱えたままだったことを思い出す。地面におろしてやった。尻尾はしなれている。小屋で見たときは毛に艶があったが、今見るに、彼女の魔法の被害で毛先が燻っている。炎の影響を受けているということは、この黒猫は彼女の攻撃範囲内にいたということになる。その上で生存しているというのは、どういうことなのだろう。彼女はこの猫に興味を持った。同時に自意識が戻っていく。彼女はこの一件だけで、急激に回復しつつあった。戦火の傷が癒えていく感覚を、彼女自身も自覚している。
 その安定感と同時に彼女は、恐怖心といえるものも感じた。深淵を覗き込み、自我を放棄したはずが、森の消滅を犠牲に回復してきているのだ。戸惑わないはずがない。彼女は自身に鍵をかけた。というのに、それが訳もなく施錠されてしまった。一匹の黒猫によって。
 焼け野原(と形容するには、いささか灰が足りないが)を見渡す。この森は、山の麓に広がっていたものだった。山へ向かうか、その反対側へ向かうか、彼女は迷った。未開のあの山はどこよりも危険にまみれ、かといって反対側――街のほうへ行く勇気もないのである。原っぱに立ち往生するしか術はなかった。この半年間、頭脳を働かせなかった彼女にとって、判断というものは久しい存在であり、そのために時間をかけて迷っているのだ。
 黒猫が彼女の足に擦り寄った。くすぐったいと彼女は感じた。足元を見遣る。黒猫は先ほどの紙に変化していた。彼女はそれを拾い上げ、白い文字を読むことにした。



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精鋭諸氏

 この半年間、私はなにをしていたのだろう。
 ただ感情のない日々を過ごしていた、なにをする気力もなかったのだ。
 それは、あの戦火を生き抜いた精鋭諸氏なら例外なく感じたことだと思う。
 この半年間は、まるで真っ白だった。なにも、そこにはなにも、なかったのだ。
。申し遅れた。
 私は当時、闇魔法軍を指揮していた者だ。闇の血統を率いる者として、私は当時、眠ることなく戦い続けた。多くの仲間が死に、多くの敵を殺した。闇魔法に飲み込まれて、みずから命を絶つ若者も少なくはなかった。はじめこそ悲しんだが、次第に悲しみも忘れてしまった。ただ機械的に、操り人形のように、闘争に没入していった。戦争が終わるまで、とぎれることなく。
 無間の悲しみは、死者の飽和によってあっけない終わりを迎えた。武器がすべて使えなくなるまで、私たちは戦い続けていたというのだ。すべての血統が滅亡寸前の状態にまで瀕し、すべての人間が、負の逆流に飲み込まれた。誰も逆らうことはできなかった。
 特に、赤毛の血統が受けた結果は、惨憺たるものだったという。ある精鋭ひとりを除き、マゼンタ魔法を扱う者すべてが、終わりなき業火に落ちていった。一族が滅んだのだ。あの栄華の代名詞ともいわれた赤毛魔法が、一瞬にして。ただひとりを残して滅んでいったのだ。
 こんなことがあるだろうか。闇魔法の血統もその半数を失くした。光魔法は四割、シアン魔法は六割、エルフたちは七割が死に絶えたという。そのほか、少数人で構成されていた血統や種族のなかには、赤毛たちのように完全に滅亡したところもあるかもしれない。
 このおよそ信じられないほどの生命を犠牲にして、私たちが獲得したものはなんだ。それは無だ。虚無である。なにもない。私たちは数多くの命をどぶに捨てたのだ。
 いま人類は縮小し、凋落の一途をたどっている。そこに希望の色はない。しかし。私は気づいた。気づくまで半年かかった。私たちは血統を捨てねばならない。血統間で殺し合いが起こり、この惨状となったのだ。私たちはいま、血統という枠組みを超え、全人類ともに復興を目指すべきではないのか。みな、手を取り合って。虚無と対峙して。
 私たちは新たな時代を迎えねばならない。
 私たちは、新たな未来を切り開かねばならない。
 それが戦時中軍士であった私の義務だ。そしてそのためには、あなたたち精鋭の力がいる。すべての血統を混同し、すべての魔法を融和する、そんな未来を実現するにはなみの力では足りはしない。
 精鋭諸氏よ、生き残りの英雄たちよ。
 どうか、私に力を貸してくれ。
 すべては魔法の未来のために。すべては人類の未来のために。

 少しでも賛同いただけるのなら、鏡の泉に来てほしい。
 私はそこで、いつも待っている。

闇魔法のホルストより
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 手紙を閉じると、その黒い紙はぶくぶくと膨れ、黒猫の形にもどった。その異様な様相に、彼女もさすがに眉をしかめるが、手は黒猫の首もとをくすぐってやっていた。そうすると黒猫は目を細めて、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らすのだ。
 鏡の泉。ホルストという者からの手紙は、そこを指定していた。
 すぐ近くだ。
 あの山を越えたところ。彼女は焼け野原となった麓から、碧おいしげる木々を見上げる。山肌は静かな風の音を響かせながら、彼女に威嚇した。あの山は危険だ。麓の森のようにそう簡単には燃やせない。
 もう一度焼け野原を見渡す。綺麗なほどに草木は消えて、地面にあるのは彼女と、黒猫と、彼女の心臓だけになっていた。彼女は黒猫を地面におろし、足元に転がっていた心臓を手に取る。燃え上がる炎は、森ひとつを食べて満腹を感じているようだった。ちりちりと空気のはじける音がする。黒猫がじっとそれを眺めて、小さく一声、にゃおんと鳴いた。
「なんだこれは」
 途端、唸りをあげる低い声。声は山から聞こえた。彼女は振り返る。そこにはコボルトの集団がいた。人の形をした獣たち。
「これを、おまえがしたというのか。おまえひとりが」
「ありえない。他に仲間がいるな」
「ありえない」「ありえない」
 統制の悪い無駄吠えが、周囲から飛び交う。あっという間に彼女はコボルトたちに取り囲まれていた。俊敏な脚は険しい山のなかで鍛え上げられたのだろう。荒い息遣いが、いたるところから零れ出る。
 ふぅと溜息をひとつついて、彼女は猫の傍らに心臓を置いた。
「見張っておいて。おねがいね」
 げらげらと品のない笑い声が、こだました。おねがいね。おねがいね。コボルトたちが彼女の口調を真似る。焼け野原のうえで煩わしい足音が続いた。周囲をぐるぐると回り歩きながら彼女の首元を狙っている。
 ザコだ。彼女は瞬間的に悟った。人の胴を持ちながら四足歩行を続けるコボルトたちは、そのために頭の発達を遅らせたらしい。一匹のコボルトが地面を蹴る。むきだしの土が跳ねた。鋭い牙が覗かせる。その跳躍を引き金に一斉にコボルトが飛びかかってきた。なんて能無しなのだろう。彼女は口の端を持ち上げる。みずから処刑台に乗ってくるコボルトたち。彼女は両腕を広げた。
  〝あの子はだあれ。〟
 声がする。
  〝式の邪魔だ。あっち行け。〟
 彼女の体中から、気体の棘が飛び出した。それは熱せられた槍だ。鋭利な棘がコボルトたちを迎撃する。コボルトたちの目を、喉を、心臓を容赦なく貫いた。空けられた傷口は、棘のあまりの高温によって一瞬に溶解し、もはや血を流すことさえ赦さない。きたならしい呻き声。遠吠えが土に叩き落される。
  〝醒めない夢よ、どこへ往く。〟
 どこへも行かない。彼女は頭を押さえた。この言葉はなんだろう。わからない。
 四肢を動かせているコボルトは一匹もいなかった。運の良い生き残りも、息も絶えだえで焼け野原のにおいを嗅いでいる。
 猫の鳴き声がして、目を伏せると足元に黒猫がいた。彼女の心臓を抱きかかえながら、彼女を見上げ喉鳴らす。熱風の影響を微塵も感じさせないその奥深い瞳は、灼熱の太陽の光を浴びながら、小さくその煌びやかさを誇示していた。
 そして、空気を掻っ切る音。彼女の体がぐらついて瞬きほどの暗闇が彼女に襲いかかった。膝をつく。一体なにがあったんだ。彼女は目の前の黒猫を見やる。違う。猫の仕業ではない。周りのコボルトたちもまさか動けるはずがない。
 遅れて痛みがこみ上げてくる。そしてようやく、右肩に矢が刺さっていることを知った。
 誰かいる。


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 右肩に刺さった矢の矢筈が、自身の出所を示している。彼女は即座に炎を投げた。しかし小さな火の玉は、空気だけの道では進行しづらい。途中でついえて、届かない。木々が生い茂っていたときと比べて、炎の扱いやすさが格段に落ちていた。可燃性の物質が少なければ少ないほど、彼女の炎は弱るのだ。
 彼女は立ち上がる。矢を引き抜き地面に落とした。黒猫が彼女から離れる。傷口は炎で塗り固める。敵はどこだ。既に他のところへ移動しているはずだ。刹那また矢尻が陽光を跳ね返す。今度は見えた。彼女は腰を低くする。右に大きく足を突き出し、矢尻の求愛を退けた。そのまま間合いを一気につめて、敵の隠れている木々を睨みつける。焼け跡と分断された先に、盛り上がった山肌が木の葉色の髭をたくわえている。彼女の炎が及ばなかった範囲。敵はそこから攻撃をしかけているのだ。
 久しく走っていなかったためか、太腿がすぐに悲鳴をあげた。焼け野原を駆けて、一番近い木の枝をへし折る。その木陰に敵はいなかった。彼女が走り寄る間に、またどこかに移動したのだろう。後方から空気を切る音。まさか後ろに? 振り返ると矢尻が首に迫る。咄嗟に飛びのけるが右肩の同じ所が抉られた。
 山と焼け野原の境界線で、彼女は尻餅をつく。しまったすぐに起き上がらねば。尻ではなく手のひらに痛みがあったから見てみると、ぱっくりと切れている。そういえばへし折ったまま掴んでいた枝が、消えている。
 矢の飛んできた方向を見るが、そこにはまっさらな焼け野原が広がっているだけだった。矢を放った直後に隠れたのか。すばしっこい奴だ。足音さえも聞こえなかった。まるで猫のようだ。焼け野原の真ん中で、彼女の心臓を抱きかかえている黒猫を、彼女は見やる。
 敵は背後にいた。また山を登ったのか。駆け降りるように彼女に間合いを詰める。弓矢を腕に握っていた。弓の弦が切れている。そうかあのとき、枝を咄嗟に投げていたのか。その勢いで手のひらが割れた。彼女は立ち上がる。賢明な敵は、すぐさま姿を山のなかに隠した。
 矢を封じたのならこちらのものだ。彼女は笑みを浮かべる。弓のない矢なんて、マッチ棒のようなものでしかない。あとは見つけて殺すだけだ。いっそのことこの山まるごと燃やしてしまえば――。
「まさか赤毛の魔法使いに、生き残りがいたとはな。驚いた」
 男の声だ。敵の発している声なのだろう。声のしたほうに意識を向ける。
「赤毛を相手取るのは、得意なんだ。赤毛ならいままで何人も殺してきた。一人やればあとは簡単だ。おまえらはみんな、弱点が同じなのだからな」
 また別の方向からだ。位地を特定されないように常に移動し続けているらしい。そこまでしてなぜ言葉をかけてくるのか。催眠術か、いやそうではなさそうだ。だとしたらやはり、ここら一帯を一気に燃やされるのを恐れているのか。
「弱点? なにかしら、それは」
 彼女は返事をする。同じように位置を変えることにした。弓が壊れたとはいえ、敵がひとつしか弓を持っていないとも限らない。それに動いている間に、運が良ければばったりと出くわすことができるかもしれない。
「心臓だ」
「……なにを言ってるの」
 この男はなにか勘違いをしている。赤毛の魔法使いでなくても、心臓を射抜かれれば人間は死ぬ。
「おれは知っている。なぜおまえたちの炎が、無尽蔵なのかを」
「そうよ。赤毛は自分の心臓が動いている限り、魔法に制限はつかない」
 この命続く限り、赤毛の炎が消えることはない。
「つまり心臓を貫けば、おまえたちは魔法が使えなくなる」
「だからなにを言ってるの。魔法以前に体が使えなくなるでしょう」
 この男は、知っているのか。あるいは知っていると勘違いしているのか。彼女は山影のあちこちを遊歩し続ける。なかなか敵に遭遇することはない。あるいはぐるぐるに回りあっているのか。向きを変えてもときた足跡を走り出す。そして膝が崩れた。
 突然のことに理解が追い付かない。地面に手をついて葉の混じった山肌のにおいを嗅ぐ。視界がぐるぐるにかき回される。毒だ。
「やっと効いてきたか。化物には効かないんじゃないんじゃないかと、ひやひやしたぜ」
 矢尻に毒が塗ってあったのだ。走ったことによって、すっかり体中に毒が回ってしまった。
 男の笑い声が聞こえる。しかし聴覚もぐるぐるで、もはやどこから笑っているのか、まったくわからなかった。


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 一本取られたな。彼女は心中で苦笑する。森やコボルトたちが、あまりに相手にならなかったから、忘れていたが、彼女は半年前までこんな連中と渡り合ってきたのだ。姿を視認させもしない素早さと、弓が折れてもなお焦りを見せない声。毒が巡り切る瞬間を、虎視眈々と伺う敵の顔が、ぐるぐるになった脳内で想起された。どんな顔をしているのかはわからない。それは全感覚が攪拌されているからなのか、それとももとから見たことがないからなのか。体中から汗が噴き出る。
 男の足音が、ようやく聞こえた。すぐ近くにまで来ている。しかしどの方向に、どのくらいの間隔でいるのかは知覚できなかった。毒が邪魔ばかりをする。熱い。
「これで終わりだ。赤毛の女」
 髪を掴まれる。まさかそんなに近くに来ていたのか。
 やはりこの男は、赤毛を殺し慣れている。赤毛は彼女たちマゼンタ魔法の使い手にとっては、矜持に近い意味を持っていた。髪を掴まれた状態で相手を燃やそうものなら、自身のその矜持も燃えてしまう。そのため髪をことさら大事にしている魔法使いは多かった。まさか髪の毛のために命を捨てることはないだろうが、一瞬の隙が生まれてしまう。
 暗闇のなかで、赤い痛みが世界のすべてを突きさした。弓はひとつしか持っていなかったらしい。手で握った矢を持って、それを強引に胸に突き立てている。そんな矢の使い方があったのかと笑ってしまいそうになった。一点に集中された痛みのおかげで、相対的に毒のつらさが和らいだ。掻き混ぜられた視界が、徐々に、晴れていく。
「ポインテールとか、ツインテールもいたな。バカな女たちだった」
 髪をくくっていたマゼンタ色の魔法使いも、いたことだろう。どうぞこの髪を掴んで引きずってくださいとでも言っているようなものだ。確かにそういうバカ者はいる。
 けれどバカだと罵っている者が、バカでないとも限らないのだ。
 視界がようやく明瞭になってくる。敵の顔を間近に見ることができた。青い髪の男。目つきがぎらぎらとしていてまさに殺人鬼だ。いままで何人も殺してきた目だ。いまなお殺し続けている目だ。彼女は、ほほえむ。
 彼女の微笑に、男は気分を害したように矢をぐりぐりと掻き混ぜる。刺さった胸がぐちゃぐちゃと音を立てて掻き混ざるのは、まるで自分が紙粘土にでもなったかのようだった。穴が広がっていく。ぽっかりと胸に空いた穴が、取り戻すことができないほどに大きくなっていく。なにか言ったらどうなんだ。男の声が耳をすり抜ける。髪の付け根が痛い。男はいまだに、彼女の心臓が胸にあるものだと勘違いしている。そしてついに、しびれを切らした男は、刺していた矢を引き抜いた。
 ひっかかった。
 胸から鮮血の炎がしたたり落ちた。その胸に心臓など入ってはいなかった。彼女は立ち上がる。体中が熱い。血液がすべて炎に変わっている。
  〝知らないの。わたしはなにも知らないの。〟
 男が驚きの声をあげた。もう遅い。手を伸ばす。ひきつった顔。頭を掴む。
「なぜだ。なぜ心臓が――」
 彼女の炎は、可燃性のものが少なければ少ないほど弱る。翻して、燃えるものさえあれば彼女の炎はいくらでも協力になれた。
 魔力の源である〝心臓″があり続ける限り、無尽蔵の炎がついえることはない。
 男は足掻いて、彼女の腕を両手で掴んだ。あまりの高温によって彼女の皮膚が男の手と癒着する。皮がめくれて液状の炎が男の手を包んだ。悲鳴。
 火だるま。


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 黒焦げになった男は、いやな臭いを放って、地べたに倒れ込んでいる。彼女も男と対になるようにして倒れ込んだ。山の地面は起伏が激しく、寝転がっていて気持ちのいいものではない。風が木々を通り抜けていくたびに、風は彼女の傷口にかじりついた。出血はとめどない。
 だめだ。早く傷口を塞がないといけない。矢を引き抜かれた拍子に、一気に空気が体のなかに入り込み、彼女の全身の炎が覚醒してしまった。体内の血液を毒ごと蒸発させてしまったのだ。休むことなく、炎が体を伝っていく。いまは炎となっているとはいえ、それは彼女の大切な血液だった。このままでは干からびてしまう。
「ああ、つかれたな」
 言葉がついて出た。戦時中の自分を思い出す。あのときはこんなことを言う余裕なんてなかった。彼女は、自身の体内に火を灯した。血液が炎となっているこのときだけは、彼女は自分でいくらでも血液を生成することができた。心臓さえ無事でいれば、彼女は際限あく炎を生み出すことができるのだから。
 でも、あまり良い気分ではなかった。いつまでもこうしているわけにもいかない。体内に火を灯したまま、どうにかしてこの大きな傷口を止めないと、そのうち疲れて死亡する。だからいつまでもこうしているわけにもいかないのに、彼女はいまだに起き上がる気力を作れずにいる。拘泥の炎だった。
 獣の唸り声が聞こえる。生き残りのコボルトだ。さきほどまで土のにおいを嗅いで痛みを凌いでいたのだろう。のそりと起き上がる物音と、咳き込む喉、引きずりながらも、山のなかへ侵入してくる爪痕。
「そうか。つかれたか」
 荒い息遣いが、彼女の顔にかかる。彼女は眉をしかめた。彼女の攻撃を食らって、なおも立ち上がることができたことだけは認めよう。コボルトが大きく牙を覗かせる。直後、肉塊は土の肥やしになっていた。
 おかげで上半身だけだが起き上がることができた。彼女は足をのばしたまま、あたりを見渡す。黒焦げの肉塊がふたつと、通気性の良さそうな木々が立っているだけだ。少し離れた焼け野原には、他のコボルトたちの死体が無造作に転がっている。
 すぐその後に、また別の足音。まさかいまのは囮だったのか。彼女は体をこわばらせ視界を翻す。
 そこにいたのは黒猫だった。彼女の心臓を、大事そうに抱えている。いつの間にここまで来たのだろう。心臓を持ってここまで歩いてきたというのか。それにしてはまるで気配を感じなかった。黒猫の前足のなかで、彼女の心臓が大きく鼓動する。
 黒猫が、彼女の手のひらを舐めた。くすぐったい。割れたままだった手のひらの傷が、塞がってゆく。猫の舌特有のざらざらとした感覚が、頭をぐっと引き締めて、縫い合わせるように芯の強い感覚が広がっていく。とても曖昧な、けえれど確かな感触が、彼女を浸して癒していく。
 この猫はいったい。右肩の傷跡が、消えていく。左胸の穴が、閉じていく。太腿の緊張がほぐれる。すべてが元に戻っていく。不可逆を可逆にする魔法。彼女は猫の首元を撫でた。気持ちよさそうに猫は目を細める。
 この猫は……。
「ブラボー。ブラァボー」
 思考を遮る伸びた声。猫の背後に、見知らぬ男がいた。
 猫が嬌声を上げる。彼女の手からすり抜けて、男の足元に駆け寄った。脛のあたりに頭をこすりつける。
「だれ」
「お初にお目にかかれて光栄にございます。わたくしは、この猫めの飼い主です」
 男は、慇懃に礼をした。どこかぎこちない動きだ。付け焼刃の礼儀が鼻につく。短いお辞儀から体を起こすと、彼は口元を不気味につりあがらせていた。
「お迎えにあがりました。鏡の泉まで、わたくしがご案内いたしましょう」
 にゃあ。黒猫と彼女の瞳が対峙する。彼女が黒猫の瞳を覗き込んでいるようでも、その逆のようでもあった。
 次から次へと、不快な面した者がやってくる。彼女は男に、炎をぶつけてやりたかった。だというのに、黒猫の瞳が、あの爛々と煌めく宝石の瞳が、それを許さなかった。
「どうぞヌルとお呼びください」
 聞いてもいないのに、彼はそう名乗った。
 ふと違和感をいだいて彼女はぐるりを見渡す。周囲には青い髪の死体も、コボルトたちの死体も転がってはいなかった。どこかに消えた? いや、それどころか傾斜だった地面が、平地になっている。
 ここはあの山肌でもなければ焼け野原でもない。
 知らぬ間に山を越えたのだ。


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 山を越えたそこは、山肌に囲まれている、小規模な盆地のようなところだった。眼前には凍った泉が広がっている。湿気を含んだ野原は彼女の足首をくすぐり、ここが現実である実感を、否応なくいだかせた。
 彼女は、数歩だけ泉に近づいて、覗き込む。一歩進むごとに地面から滲み出てくるしめりけは、煩わしいものではなかった。
「ここを拠点とする際、わたくしが凍らせておいたのですよ。厄介者が出てこれないようにね」
 厚い氷の奥で、なにか赤味のかかった影が視界をちらついた。なんだろう、と思うよりも先に、誰だろうという印象をなぜだかいだいていた。まるで本当に、泉のなかに人間が潜んでいるような気がしたのだ。
「あれが、わたくしたちの拠点です」
 ヌルが指をさす。泉を挟んだ向かい側に、荘厳といっても貧相といっても通じそうな木製の屋敷がたたずんでいた。きっと簡単に燃えるのだろうな。彼女は瞬間的にそう思ったが、しかし、泉の湿り気のために、火を寄せ付けないかもしれないと思いなおした。
「くくく……、燃やしてもなんの得にもなりませんよ」
 存外に大きく聞こえる声。屋敷から目を逸らすと視界にヌルが飛び込んできた。気持ち悪いほどに近くに立っている。彼女は一歩後じさりをする。踵が氷の淵に触れた。
 全身真っ白の衣に身を包んだヌルは、口の両端を張り裂けんばかりに持ち上げて、笑いをどうにか堪えているような顔をしていた。気持ち悪い。自然と出てくる嫌悪感が、彼女の背中をなぞる。
 どこの種族の人間なのか、まったく見当がつかなかった。どこの人間でもないのかもしれない。ふとそう思って、それはどういう意味かと自分の思考に疑念をいだく。先ほど丸焼けにした青い髪の人間は、青い髪ではあれど、魔法を使っていなかったあたりシアンの血統とは異なる人間だったのだろう。そのような少数民族は、いくらでも散在しているものだし、ヌルのまたそのひとりに違いない。
 そしてまた、マゼンタ魔法の血統もまた、その少数のカテゴリに落とし込まれていることを悟る。生き残りはひとりだけ。もはや少数とさえ言えない壊滅的な状況が、半年経った今頃になって、彼女の肩にのしかかる。それはとても、重たい荷物だった。
「なにもそう、悩む必要はないのです。あなたは生きているのですから」
 この男は人の心が読めるのだろうか。だとしたらなんて気持ちが悪いのだろう。黒猫が彼女の心中とは関係なくのんきな鳴き声を出す。白衣の一部を染めている黒猫は、ヌルの傍にいるばかりで、彼女のところに戻ってくれる気配がなかった。それがまた彼女の嫌悪感を掻き立てる。不思議な猫だった。
 いまや焼け野原となっている森にいたころとは違って、泉を取り囲む山肌は、どこか優しげな空気を纏っていた。少なくともこちらの動向を伺って、隙あらば攻撃してくるような傾斜には見えなかったのだ。いま背にしている山などは、ただ向きが異なるだけで、同一の山であるはずなのに、なぜこうも異なるものなのだろう。彼女にはわからなかったが、ただこの曖昧な感覚だけは、確かに合っていると確信することができた。相手が敵か、そうでないかの認識は、あの戦火のなかで磨き上げた彼女の武器のひとつだった。
「あの屋敷に、ホルストがいるはずです」
 彼女が思考にふけていることは、見通しているだろうに、ヌルは勝手に話を進めていく。
 ホルスト。それはあの手紙の主の名前だ。かつて闇魔法軍の指揮官をしていた男。闇の血統を統率していた男。彼から手紙を受けたことが、彼女の意識が再開したきっかけだった。しかし会ったことはないはずだ。会っていたならどちらは生きてはいないはずなのだから。
「くくく。それはないでしょう。大袈裟な」
 拳に熱がこもる。「あまり調子に乗らないほうがいい」黒猫が鳴く。着火しかけた火種が、途端に委縮してしまう。
「これはこれは。ご無礼を働きました。くくくく。申し訳ない。いや申し訳ない」
 だらんと力のない礼をする。もはや彼女がヌルを眼中に置いていないことを、了知したうえで平謝りをやってくる。もしやこいつは、彼女の炎を浴びてしまいたくてこうも彼女の機嫌を損ねにきているのだろうか。隙だらけのその動きを、灰にされてほしいということなのだろうか。彼女にはこの男のことはわからない。わからなくていい。彼女は一目、黒猫に視線を遣ると、ヌルをそのままにして屋敷のほうへと歩いていった。
 二階建ての屋敷は、荘厳で貧相な扉を構えており、彼女が悠長にノックをしたならば、音を立てずに即座に開く。扉の奥から魔法のにおい。彼女は自身の吊り上がる肩を否応なく感じた。
 扉の先に漂う魔法は、戦場のにおいに他ならなかったのである。


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 彼女は一歩を踏み出した。扉の先に、足を踏み入れる。この向こうに戦場が広がっているというのなら、足取りを迷うことはない。ただ張りつめた空気を掘削し突き進んでゆくのみである。標的の首元を狙って、赤い眼孔を絞っている。
「よく来た。赤毛の魔女よ」
 焦点を合わせた先には、闇にうずもれた男がいた。恰幅のいい男だ。肩のあたりがすっかり色あせた黒いコートを羽織っており、その下にはヴェストが覗いている。腹は出ているが、決して下品であったり、裕福であるような腹の出方ではなかった。鼻の下にたくわえた上品な髭が、そう印象付けさせているのかもしれない。
 ホルストだ。彼女には直感的に、それがホルストであることがわかった気がした。
「なにをそう殺気立っている。ここは安全だ」
「くくく。そうですとも。誰もここのことなんて、知らないのですからねぇ」
 後ろについてきていたヌルが、細い声を出して笑った。
 ヌルのことは無視をして、彼女は屋敷の中を見渡す。扉の先に、煤を被ったような暗い壁。その壁が胴体で、その両脇から階段が腕のように伸びている。ふたつの階段は肩のところで合流し、その先に扉。見上げるとシャンデリア。まるで気力がないようで、そこから発せられる光は乏しい。彼女は両腕をさする。
「私はホルストだ。挨拶は済ませただろうが、後ろにいるのがヌル。そしてその使い猫の、アーウィン」
 アーウィン。彼女は咄嗟に振り返る。ヌルがにへらと口角を持ち上げる。すぐに逸らして、その足元を見た。黒猫と目が合う。アーウィン。名前があったのか。この子に。アーウィン。
「他には?」
 アーウィンから視線を外すことなく、疑問を投げかける。アーウィンはこの暗い屋敷のなかでも、その存在をはっきりと彼女に示していた。この暗闇と、黒猫の闇とは、異質であるようだ。
「他にもう一人だけ、小さなお仲間がいるが、それだけだ。私の招集に応じてくれたのは」
 彼女は眉をしかめた。自分を含めて、四人と一匹? たったのこれだけだというのか。これではまるで。
 まるで? まるで何だというのだろう。
「さて、来ていただいたばかりのところ悪いが、貴方は今から選択をしなければならない。つまり、私たちと共に来るか、それとも辞退するかだ。貴方は自由意志によってそれを選択することができる」
 ヌルが古ぼけた椅子を持ってきた。長話になるのだろう。促されるままに腰かける。かすかに軋んだ音が鳴る。
「先に言っておくが、これだけは誓ってほしい。私たちのこれからの活動すべては、全人類のためのものだ。国や種族のためではない。従って私たちは、この活動中、不用意に血を流してはならないのだ。決して、人を殺めてはならない。戦争はこりごりだ」
 語気が強まる。人を殺してはいけない。彼の言葉を汲み取り反芻する。難しいことではないだろう。
 彼女は、首肯した。
「……ありがとう。では今から、私たちの計画を説明しよう」
 赤毛の魔女よ、貴方は魔王というものを知っているか。……そうだ。昔話に出てくるあの魔王だよ。
 かつて、魔法は混沌を極めていた。人々は魔法の悪しき力に飲み込まれ、争いが絶えなかった。人々は魔法を使うのではなく、魔法に使われていたのだ。
 その魔法を浄化したのが、魔王だ。突如現れみずからを魔王と名乗った彼は、魔法に秩序を与えた。魔法が血液のように混濁し澱みを生まないように、炎魔法や氷魔法などに分類し、人類に〝魔法書″を授けた。人々は魔法書によって魔法を扱えるようになり、魔法は立派な道具となった。
 魔王は英雄だ。その絶対的な力によって、血を一滴も流すことなく魔法を改革したのだ。
「くくく。血を流さぬ革命者を、果たして英雄と呼べるのでしょうかねぇ」
「英雄さ。魔法に革命を与えたのだからな」
 しかし人類は愚かだった。魔法の悪しき部分を取り除いたところで、人間から悪を取り除くことなどできなかった。争いにしか使えない魔法が、なんにでも活用できる魔法に成り上がったからといって、人々は魔法を争いにしか使わなかったのだ。彼らにとって魔法とは武器でしかなかったのだ。
 魔王は彼らに、本当の魔法の使い方を教えようとした。しかし彼らは魔王が思うほど、賢い生き物ではなかった。人々は魔王を異端の者と蔑んだ。魔王が英雄であることを認めようとしなかった。
 人類を代表する十人の戦士たちが、魔王に挑みかかった。魔法書を作り上げた魔王に向けて、魔法書による魔法を仕掛けた。人類の哀れな反逆だった。魔王は悲しんだ。
 そして魔王は、魔法書とともに姿を消した。人類の魔法はまた魔法書のない、血を媒介とした動物的なものに成り下がった。魔法書がなくなったことにより、炎魔法の血をもつ者は炎魔法しか、氷魔法の血をもつ者は氷魔法しか扱えなくなった。それはまるで塔の崩れるさまだったという。
「しかし魔王は、消える間際に戦士たちに言葉を残した」
 彼女が、昔話の最後を引き継ぐ。
 椅子のぎいぎい言う音は、気にならなくなっていた。小さい頃、暖炉の前で老婆が立てた音と似ている。彼女は些細なことに気付く。
「魔王は蘇る。魔王は、再臨する」


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「それで、この昔話がなんだというの」
 顔を上げるとまた椅子が軋んだ。昔話の説明をしている間、ホルストは彼女の前をうろつき歩いていた。彼女が訊くと、ホルストは足を止め、口髭を撫でる。
「魔王がもし、実在したとしたら? そして魔王を蘇らせることができたとしたら?……さすれば魔法が、秩序を取り戻せるのだとしたら?」
 くくくく。不快な音が混じる。ホルストもその音には眉をしかめていた。
「くだらない」
 一蹴する。
「魔王が実在して、魔法書なんて架空の武器が本当にあって。それで魔王が再び現れる? 一体なにを根拠に」
「根拠ならあるよ」
 高い女の声。彼女は咄嗟に立ち上がった。椅子の足が床を引っ掻く。
 ――他にもう一人だけ、小さなお仲間がいる。
 ホルストの言葉を思い出す。
「おい、いつ帰ったんだ、いつの間にそんなところに」
 ホルストが狼狽を見せる。彼の視線を辿ると、階段を上った先に、彼女はいた。
 翅虫、違う、妖精だ。矮小な体躯の人間が、手すりの上に座っている。その背中には透き通る六枚の翅。ライム色の髪。
「小さいとね、ちょっとした隙間から入れるようになるんだよ、ホルちゃん」
 ころころと笑う。童のような、幼い顔立ち。
 手すりを滑って、妖精がこちらにやって来た。手すりの先端まで滑り切ると、ばたばたと翅を動かして、宙を舞う。それはどう見ても翅虫だった。
 手で掴む。「おいっ」ホルストが静止に入るが遅かった。妖精が手の中でキャンドルのように光り輝いたかと思うと、その翅もろとも燃えてしまった。燃えかすと灰が砂のように零れ落ちる。
「なにをしているんだ! 殺しはしないと誓っただろう!」
「ごめんなさい、つい」
 妖精をつい殺してしまった。罪悪感が微塵も籠っていない目が、ホルストの肩をわなわなと震わせる。
 ヌルが相変わらず笑っている。ホルストとは真逆の意味で、肩を震わせていた。
「あっぶねー。あっぶねーあぶねー」
 見るとヌルの隣に妖精がいる。焼けていない生きた妖精だ。視線を落とすと確かに灰は落ちていた。
「念のため代わり用意しといて正解だったわー。いきなり握りつぶして燃やすとかないわーまじないわー。マジカルフルーツだわー」
 意味のわからない言葉をぎゃあぎゃあと喚く。原理は知らないが妖精は生きていた。
「もーホルちゃん。気を付けてよね。この人が危険なのは最初から分かってたことじゃない」
「あ、ああ。すまない」
 狼狽してばかりの黒いおじさんは、改めて見ると大したことがないように見える。彼女は首を傾げた。
「それで、魔王がいる根拠ってなに」
 彼女の眼光は、妖精の無垢な顔を確かに捉えていた。妖精は苦笑いをする。一度殺しにかかってきた相手に、何事もなかったかのように話の続きを促す。
「根拠はあたし。あたしが根拠。仲間が揃ったらね、みんなで魔王を蘇らせに行くのよ。魔王がどこにいるのか、あたしは知っている」
「私たちが? この四人が?」
「そう。えーっと確かあと一人来てくれるはずだから、正確には五人だね。アーウィン入れたら五人と一匹だ」
「くくく……。いえ、その一人は、もう来ませんよ。どこかの誰かさんが燃やしてしまった」
「えー?」
 妖精がぶんぶんと赤毛の周りを飛び回る。避けられたとはいえ、一度燃やされた相手に、なぜそうも安易に近づけるのか、彼女には理解ができなかった。燃やせばいいのか? 彼女は手を伸ばす。ホルストがすかさず喝を入れた。逡巡して、手を降ろす。
「そう。それでいいの」
 妖精は相変わらず翅虫のようだ。それにこれが来てから、暗かった室内が妙に明るくなっている。妖精の鱗粉が、なにか作用しているのか。彼女にはなんとなくそれが不快だった。
「あたし、ティンク。よろしくね」
 不快なやつはおしなべて、聞いてもいないのに名乗りをあげる。
 ティンクの真下でアーウィンが、床の鱗粉を引っ掻いた。


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ひとつだった。マゼンタ魔法や、シアン魔法といったものはなく、魔法使いは炎の魔法も氷の魔法も自在に扱うことができた。その時代の彼らは、血で魔法を起こしていたのではない。〝魔法書″を使っていたのだ。
 魔法書。



「くくく……。本当はあともう一人、こちらに向かっていた狩人がいたんですけどねぇ。どこかの誰かが、燃やしてしまっ