.第1章(30)
第1章

     1

 窓から覗く雨のにおいがくすぐったい。梅雨はもう過ぎたはずなのに、今日は今朝からどしゃぶりだ。暑いからという理由で、雨だというのに窓は開けていた。窓側の席に座るぼくには、嫌でもちょっとの水滴がかかる。鬱陶しいわけではないけれど、体の内にこもる暑さは、むしろ大きくなっている気がした。
 授業に熱心に取り組む生徒は、夏の暑さの度合いのわりには少ない。あと一週間すれば一学期が終わる。夏休みになる。授業中の生徒たちの会話は、もっぱらその計画についてだった。どこ行こうか、山行かねーか、えーやだよ山とか、じゃあ海、きみってアウトドアなんだね、やっぱりまずは無難に映画行こうよ、そういえばあのホラー映画って来月公開だったね、えーホラーとかやだよ……。ぼくの後ろのあたりで、そんな茶番が繰り広げられている。ぼくは誰にも気付かれないくらいの溜息をついた。後ろの子たちは、微妙に当たってきている雨粒が気にならないみたいだ。
 先生が、おいそこうるさいぞって注意した。雨の音が耳を撫でていた。先生の声と、生徒の笑い声と、雨の跳ねる音が混ざり合う。だけどわだかまることはなくて、それは教室のどこかに溜まり込んでいた。ぼくは消される前に黒板の文字をノートに写して、また溜息をついた。
 誰もぼくには話しかけない。
 曇り空は汚くなかった。決して、それがねずみ色でも、ねずみとは程遠い。ただ、それによってできる陰が、ぼくの顔にできる陰が、汚らしく思えた。窓にこっそり映る顔が、雨粒に晒されて歪んでいく。
 ほどなく授業終了のチャイムが鳴って、ほどなく授業終了の礼をした。今日の授業はこれでおしまい。あとは帰るだけだ。だけれどどしゃぶりの中歩くのが嫌だった。だからぼくはこれといった目的もなく、終礼を終えたあとも学校に居座り続けた。ぼくの他にも、まだほとんどの生徒が残っている。いつもなら部活動をしている生徒は、教室をすぐ出ていって運動に励む。だけれど地面を打ち付ける水が原因で、どうやらほとんどの部活動が、立ち往生しているらしかった。今教室にいないのは、体育館で動く部活の人と、勇気をふりしぼって雨を歩いている人。
 雨ひどいね。誰かがそう言う。帰れないなー。誰かが返事する。
 雨の中を歩くのが嫌。それを噛み砕いていえば、ぼくは傘を持っていない。家に置き忘れてしまった。ぼくが登校したときはまだ小雨だったから、忘れたことに気付いても道中で引き帰すこともしなかった。今はただ鬱陶しい。雨ではなくて、自分が鬱陶しい。
 だけれどぼくには兄貴がいる。兄貴もこの高校に通っていて、二年生だ。兄貴が帰るときに、傘に入れてもらえばいい。いっそのこと傘を奪ってしまってもいい。兄貴は特進科というクラスに所属しているから、ぼくよりも授業が多い。けっこう待たないといけないけれど、濡れて帰るよりもマシなはずだ。
 あーあ、なんで傘忘れちゃったんだろう。誰かがそう呟いていた。ぼくと同じ境遇の人がいたことに親近感が沸いたけど、声のほうを向くのはしない。目が合ったりしたらいけないから。目が合ってしまったらどうすればいいのか分からなくなるから。だけどぼくには、兄貴がいる。きっとその子にはいない兄貴。雨がやめばいいなと思った。
 時間が経つにつれ、教室にいる人は減っていった。粘り強く雨がやむのを待っている人もいるけど、だんだん、諦めて帰っていく。傘を持っているくせに帰らない人はなんなんだろう。そう一瞬だけ思って、だけど考えるのをとめる。ぼくだって傘があっても、どしゃぶりを歩くのは嫌だ。傘があっても絶対濡れる。
 雨がおさまる様子はない。むしろどんどん凶暴になっているみたいだ。なにをそう怒っているのだろう。ぼくは雲の気持ちが分からない。教室の生徒たちは単純に喋っているのに、ねずみ色の空の動きは複雑だ。
 ずっと向こうの空が渦巻いていた。暗い層が幾重にも押し潰されていて、どんどん雨粒が絞り出される。雨がおさまる様子はない。
 ぼくは学校が水浸しになるところを想像した。もし雨水がどこにも染み渡らずに、地面に溜められていったなら。まるでグラウンドが水槽のようになって、水かさが増すごとに生徒たちが上階へと逃げていく。だけれど水かさがとまることはなくて、ついには学校全部が水に沈んでしまうんだ。そんな想像も容易くできるくらい、まだまだ雨は活発だった。そんな想像もできてしまうくらい、兄貴を待つのは退屈だった。
 だけれど溜息は出なかった。教室にはもう、ほとんど人はいない。目が合うのが嫌だから、具体的に数えたわけではないけれど、だいたい五人くらいだろう。五人は集まって、なにやら談笑をしている。どうせ夏休みの計画でも練っているんだろう。
 ぼくも夏休みになにをするか考えようと思った。人から誘いが来ないにしても、ぼく個人にだって夏休みは配給される。ぼくの夏休みだ。だったらぼくが計画を立てないといけない。
 宿題は配られたその日に終わらせるつもりだ。どうせ高校一年生、そんな多くの宿題は出ないだろう。あ、自由研究は出るのだろうか。あれが出ると少し困る。自由研究はどうしても独創性が求められてくるから、つい時間をかけてしまうのだ。時間をかけても、いいものはできないというのに。それでもどうにかアイデアをひねり出そうと、時間を無駄に浪費してしまうんだ。
 ちょっと遠めの教室で、がたがたと椅子が動く音がした。授業が終わったんだ。起立、礼。そのとき椅子は音を立てる。時計を見ても、確かにそんな時間だった。
 あと終礼だけすれば、兄貴たち特進科も下校時間だ。雨はやっぱりやんでなかった。少しくらい休んでくれてもいいのに、これっぽっちも疲れた様子がない。もしかしたら自分の元気さに麻痺してしまっているのかもしれない。いわゆるトランス状態。ランナーズハイ。雨を降らせすぎてやむことを忘れてしまってるんじゃないか。
 兄貴はきっと、ぼくが残っていることは知らないだろう。兄貴の教室のところで、待機しておこう。
 ふと教室を見渡すと、先ほどまでいた五人組はいなくなっていた。帰ったんだ。結局時間だけ潰して、得られるものもなしに帰っていった。無駄な生活。でも、もしかしたら、夏休みの具体的な計画が決まったのかもしれない。
 そろそろ終礼が終わるだろう。もう教室に行かないと。
 ……だけれどその必要はなかった。ぼくが立ち上がる前に、兄貴がやってきたからだ。傘を持って。水色の傘。ぼくの傘だ。
「あ、兄貴」
「ようよう。やっぱ待ってたか」
 面倒くさいから腰は持ち上げない。そのままぼくは兄貴と会話をする。兄貴も億劫なのか高一A組の教室には踏み入ってこない。ドアのところで立ち止まっている。
「おまえ、傘忘れてただろ」
 雨はまだまだ降っていた。湿気がぼくの髪を梳く。だけど雨は櫛じゃない。髪は整うよりも散らかっていく。それでも梳き続けるし、ぼくもそれから逃げようとしない。
「持ってけって朝、母さんが」
 兄貴は傘を軽く持ち上げる。水色が教室の敷地内に侵入した。既に許可していたから、誰も迎撃しない。ただ雨は弾丸のように、未だに降り続けている。
 今、教室にはぼくしかいない。それは明晰なことではあるけれど、決して寂しいことではなかった。兄貴が来る前だってそう。ぼくはこの特異な特徴のせいで、孤独がつらくなかった。
「あれ? じゃあ、なんで休憩時間のうちにでも届けてくれなかったの」
 ふと気付く。そもそも兄貴がすぐに届けてくれれば、ぼくの下校時間までに届けてくれたなら、ぼくはさっさと帰れたはずだ。それなのに兄貴は、自分の授業がすべて終わってから届けにきた。考えてみたらそれは、ただの時間の無駄遣いだ。
「ああ、ごめんごめん。忘れてた」
 悪びれもせずに謝ってくる。雨の音が妙に大きく聞こえた。すっかり耳になじんでしまっているけれど、そのくせしていつまでも残ってる。
 黒板が雨に残響していた。音ではなくて空気に。乱雑に消された黒板上には、まだチョークの色が混じっている。今日の黒板消しの当番が誰だかは分からないけど、これでもちゃんとしたほうだと思う。粉は残っていても、上に筆を進めたら充分に読める。やり直しはさせられない。そんな絶妙な消し加減だ。
 そういえば、今日は教室掃除を誰もしていなかった。担任もそのへんは大雑把な人だから、たぶんみんなサボったことにも気付いていないだろう。そういえば、ぼくも今月は教室の担当だった。
「ほら」
 つかつかと入ってきた兄貴が、適当に傘を差し出した。ぼくはそれを受け取る。手にとって、窓のほうを見遣った。いままで何度も見てる。雨はやはりペースを保っていて、このままやむのを待っていたら夜になってしまいそうだ。バケツをひっくり返したような雨、といいたいところだけれど、それだとバケツの大きさが大変なことになるだろうから取りやめにした。ぼくが学校に登校した時間帯からいままで、ずっと降り続けている。
「帰らないのか?」
 兄貴が訊いてくる。無頓着な表情だ。ここでぼくが「帰る」と言っても「帰らない」といっても疑問を示さないんじゃないだろうか。どちらを答えてもそれが当然だとでもいうように、自分だけ先に帰っていくんじゃないだろうか。
 ちょっと、試してみたくなってきた。
「良い天気だね」
「……なに言ってんだ。おまえ」
 だけれどちょうどいい言葉が見つからなかった。「帰る」でも「帰らない」でもない、第三の適切な表現。それがどうしても見つからなくて、自分でもあべこべだと分かることを発言していた。やっぱり兄貴は呆れ顔。そのままなにも言わずに、自分の教室のほうへ戻っていった。荷物を取りにいくんだろう。
 ぼくはまだ、席を立てずにいた。ふんぎりがつかないというか、なんだかこの時間まで待っていた自分がもったいなくて仕方がない。なにか意義のあることをしないと、どうしても立ち上がれないでいる自分がいる。効率の面で見れば、このまま濡れて帰って、シャワーを浴びて、遅れて帰ってきた兄貴を叱りつけるほうが無難だった。それなのにぼくはそれをしないで、雨と生徒の音に耳を傾けていた。
 窓から涼しい風が吹く。夏だから寒くはない。だけど暑くもない。ちょうどよく涼しい。でもずっと浴びていたら風邪を引いてしまうかもしれないと思った。
 座ったまま、椅子の下におさめてあった鞄を持ち上げた。机の上に置く。そろそろ帰る支度をしよう。……といっても、準備するようなことはなにもない。教科書はロッカーに入れておけばいいし、宿題は出なかったし。持って帰るものがない。鞄も置いていっていいんじゃないだろうか。だけれど、校則というものがある。登校時には、必ず学校指定の鞄を持たないといけない。いわば鞄は、通行証みたいなものだ。これがないと入れない。
 廊下を人が通った。兄貴のクラスメイトの人だ。直接話したことはないけれど、成績優秀だって話はよく聞く。長い髪をくくることもせずに垂らしている。先輩はぼくを一瞥した。それでも進む速度をまったく落とすことはしない。教室の前の廊下を歩いて、そのまま、階下へ続く階段を下っていった。
 その後にまた、数人の先輩たち。あれ、|寺本《てらもと》の子まだいるじゃん。先輩の一人がそう言った。ぼくはそれを聞いたけど、先輩はぼくに聞かせるために声を発したわけではないみたい。それ以上ぼくに声をかけることはなくて、そのまま進んでいく。代わりにその人は、ぼくの兄貴に話しかけていた。その集団の中に、兄貴もいたのだ。
 兄貴は適当にそれを繕って、ぼくに視線だけ送って階段を下りていく。あの視線は、先に帰るぞっていうなんの変哲もないサインだ。サインを送るならもっと複雑で難しいもののほうが面白いのだけど、残念ながらそれだとぼくが分からない。
 兄貴よりも授業数は少ないのに、ぼくのほうが遅れて帰宅することになりそうだ。
 それでもぼくは、踏ん切りがつかずにいた。未だに椅子に座ってる。なぜかという理由も特に存在しなかった。ただ、もったいなかっただけだ。傘が来るのを待つのに、一時間以上を費やした。そのくせして雨は強く地面を打ちつけたままだ。なにか得るものが欲しかった。傘を待つことで、手に入れることのできる特権のようなもの。待つことを後悔しなくても済む材料。
 ぼくは椅子に座ったまま。なにか起こらないか期待し続ける。机の上には鞄があって、机の横には傘がある。鞄は淡い藍色で、傘は明るい水色だ。ぼくの皮膚は肌色で、髪はたぶん黒色だ。黒板はチョークのせいで濁った白色をしていて、その前方の教卓は机と同じ木の色をしている。ぼくは色を数えながら、なにか起こらないか希望を抱いた。なにか起こってほしかった。化学しか予定のない夏休みを、どうにかして彩りたかった。
 夏休みまであと一週間。来週の水曜日の終業式を終えたら、一ヶ月もある余暇が始まる。クラスのみんなは、その計画を練るのに必死みたいだ。ぼくもそろそろ考えないといけない。遊びに誘ってくれる友達がいなくても、自分で楽しめるなにかが必要だ。誰もいない教室で、そんなことを思考する。
 時間は無情に過ぎていく。一人では夏休みの計画も立てられないことに、ぼくはついに気付いた。一人ですることなんて限られている。
 ぼくは数十分ぶりに溜息をついた。その途端、教師が廊下を通った。おい、やることないなら帰りなさい。無神経にそう言って、そのまま通り過ぎていく。結局、なんの利益もなしに帰るのか……。ぼくは私物を潰されたような気分になった。たしかに時間もぼくの私物だ。
 汗をかいていた。そのことにやっと気付いた。雨が降っていても汗はかくんだ。体の内にこもる熱というのは、雨くらいじゃ簡単に流せない。むしろ化学反応の溶媒になるばかりだ。もう帰ろう。
 ふと窓の外を見た。さっきまで自分が、机上の鞄ばかりに顔を向けていたことに気付いたからだ。頻繁に窓の外を眺めていたのに、夏休みのことを考えている間は藍色の入れ物ばかりを見ていた。
 ……汗が流れ出したのは夏の暑さのせいだけではなかった。暑さをかろうじておさえてくれるものが、いつの間にか途絶えていたんだ。
 雨はすっかりやんでいた。
 やった。そう思った。成果がやっと現れてくれたんだ。待った甲斐があった。期待はたまには満たされるんだ。
 そうなると傘は煩わしいものだった。だけれどそれくらいは気に留めることじゃなかった。雨がやんだことが素直に嬉しい。
 ぼくは造作もなく立ち上がった。椅子を引くのにさほど大きな音は立たなかった。さっき通り過ぎた教師が、反対側からまた現れた。ぼくの姿を見て、なにか声をかけようとしたみたいだけれど、もう帰るつもりの様子を確認したからか、なにも言ってはこなかった。
 ずっと座っていたせいなのか、湿気のせいなのか、スカートに皺が寄っていた。


     2

 シャープペンシルを走らせる。つい最近に初老を迎えた教師が、いきいきと黒板に化学反応式を書いている。ぼくはそれをノートに写す。シャープペンシルは目で追わない。結局それはぼくの意思で動いているのだから、目を離したくらいじゃ逃げ出さない。
 ぼくは化学が好きだ。説明のつきそうもない現実を分析していく化学が好きだ。板書しながら、ぼくは文字の意味を吟味する。ほかの子は、たぶんそんなことしない。ただなにも考えずに書き写すだけ。ぼくだって、英語や国語の授業ではそうだ。
 窓の外では、相も変わらず雨が降り続いていた。昨日に引き続き、今朝からとまっていない。装填する隙を見せることなく、雨は撃たれ続けていく。誰を狙っているんだろう。
 昨日は、雨は帰り際にやんでいた。たぶんそれから今朝までが、装填の時間だったんだろう。大気中の凝結した水蒸気、水が重たくなって落ちてくる。きっとそうなんだろうけど、この雨はどうしてもふるい落とすようなものには見えない。だってそれじゃあ、誰も残りはしなさそうだから。
 授業終了のチャイムが鳴った。化学担当の教師はなにも言わずに、チョークを受け皿に置いた。それを合図に、副会長が起立と言う。礼。
 授業が終わっても雨はとまらない。当然といえば当然だ。ぼくは次の授業の用意を机に置いて、トイレに向かった。昨日の五人組がドア付近にいて、通るのがとても大変だった。それなのに向こうは「ごめん」と一言だけで、ぼくが廊下に出たときには大声で会話を再開する。いや、そもそも停止していないから、再開するのではなくて続行する。
 廊下は思ったよりも肌寒かった。腕の細かい毛が、涼しさに撫でられて震えている気がした。時期として梅雨はもう過ぎたはずなのに、ここ二日間だけ、切り取ったみたいに梅雨だ。そのくせして、じめじめした感覚はない。暑さは漂っているけれど、それは体の内に篭る暑さだった。夏の熱気も、雨に押されて人の体内に逃げ込んでいる。
 高一A組の教室は学校の二階にある。二階の、東側だ。東から西にかけて、A組、B組、C組が並んでいる。C組のさらに西側には音楽室がある。防音は強くないようで、たまにA組の教室にまでメロディーが届くことがある。古い校舎だというわけではないはずなのでけれど、まあ、予算上の都合もあるだろうし。
 ぼくは音楽室のところまで歩いた。音楽室の向かいにトイレがある。壁にぽっかり隙間が空いていて、入って左側が女子トイレだ。女子トイレには幸い、誰もいなかった。電気が点けられていなくて、ぼくはその状態のままにして閉じこもる。電灯を消したままにしておけば、誰かが来たとき分かるからだ。ぼくと一緒で、電灯を点けようとしない人なら意味がないけど。
 雨はやまない。昨日からまるで、なにかを待っているみたいだった。なにかが訪れるまでは、ずっと降り続いてやるぞ。空がそう言っている気がした。
 じめじめしていないくせに、あたりは暗い。ぼくのまわりだけでなく、向こうも、あっちも、全部暗い。教室に戻ってもそれは同じだ。いくら蛍光灯が光り輝いても、それを空が吸い取ってしまう。吸収して、吐き出さずに雨に変換してしまう。それを解決する術を、ぼくはどうしても考えることができなかった。
 自分の机には、きちんと用意した教科書類が置かれていた。誰も触らなかったみたいだ。ほっと息を入れて安心する。だけれどそんな顔を見られてはまずいから、無表情に徹しての安堵だ。ぼくは次の授業の準備物を持って、また教室を出る。もうドアに五人組の姿はなかった。たぶん、もう美術室へ行ったのだろう。
 美術室は三階にある。ちょうど音楽室の上の位置だ。
 ぼくはさっき歩いた廊下を再び歩く。上履きの鳴らす足音が鬱陶しい。誰かの耳を不快にさせていないか不安になった。腕の細かい毛が震えてる。
 音楽室は広めで、その向かいにはトイレの他に、もうひとつ小さな部屋がある。高一Aの教室と比べたら、だいたい、五百円玉と一円玉くらい大きさが違う。その部屋が、高二文系特進科の教室だ。机は教卓を除いて五つしかない。特進科へ入るのを志望する生徒のうち、一年の間の成績が芳しかった人が入ることができる。
 その教室の横にある西階段を昇って、三階へ赴く。踊り場にある小さな窓が、ほんのり灰色に陰っていた。空に目をつけられた気がして、無視するつもりで三階にまで到達する。着いてから振り向いても、その小窓に顔は見えなかった。
 美術室にはもうほとんどの生徒が座っていた。少し驚いた。数人の生徒が、入ってきたぼくを見た。胸が引きつった。息をとめたまま適当な席に座った。美術室では席は自由だ。
 だけれどたいがい、誰がどこに座るかは相場が決まっている。いつも違った席に座るのは面倒臭いからだ。大きめの机が六つ佇んでいる。縦に二つ、横に三つ並ぶ。二かける三で六だ。よく目に付く五人組は後ろ側の真ん中の机を占領している。その両端に女子のグループがおのおのできている。前のほうでは、廊下と反対側の机二つに男子のグループが形成されている。前の廊下側、そこが余りのかき集められた場所。ぼくはその一端に座っている。
 だけれど、余りの中でも小さなコミュニティは成り立っている。ぼくを除いた四人は、いわゆるオタクという人種で、陰湿としながらも楽しそうに集まっている。うち一人は女子なのだから、もっとよく分からなくなる。その女子とはあまり会話しない。
 授業開始のチャイムとともに、美術の教師が入室してきた。暗いエプロンを羽織っている。長い黒髪を後ろで結わえている。起立、礼。いつものように会長がかけ声をする。ぼくもみんなも声に従う。冷静に考えてみると滑稽だった。
 教師が、今日することを説明する。説明といっても、先週の続き、としか言わなかったけれど。言う間に、全員のところに彫刻刀が支給された。遅れて鏡もやってくる。オタクグループの女子が、みんなの持ってくるね、と言って席を立つ。普通よりも大きめの教卓の上には、生徒それぞれの、制作途中の作品が積まれていた。女子が数枚の板を持ってくる。中にぼくのものもあった。造作もなくはい、と差し出してくる。なにか言おうとしたけれど、喉がつっかえて上手く言えなかった。だけれどその女子は、ぼくが板を受け取るのを見ると、涼しい顔で顔を逸らす。ぼくが感謝を言うか言わないかなんて、彼女にとってはどうでもいいんだ。
 板に彫られているのは、自分の顔。鏡を見ながら自分の顔を模するのが、ここ数回の美術の課題だった。みんなさっそく、作業に取り掛かっている。一部の人は未だにおしゃべりを続けて、彫刻刀を持とうとしないのだけど。
 ……ぼくは美術が苦手だ。独特の感性というのが、よく分からない。個性というものはDNAによって確約されているはずなのに。それをわざわざ前面に出すのは、いったいどういう動機なのだろう。それでもぼくが美術を選択したのは、今まで会ってきた理科系の先生が、みんな絵が上手かったからだ。きっと生物学で細胞でも模写したり、回路なんかをたくさん図式したからだ。それならぼくも、先代を追って絵が上手くなってなきゃいけない。そのほうがきっと役に立つ。そういう気持ちで、入学当初、音楽ではなく美術のほうに丸印をした。
 自分の顔に、刀を入れる。確かな手ごたえがあった。木屑が丸まって跳ねていく。
 雨はまだやまない。いったいどこから、そんなに多くの水を集めたのだろう。どこから引き出したのだろう。不思議でならない。なにをそんなに頑張ることがあるのだろう。
 窓を眺めていたということは、つまり、向こうの二つの机を眺めていたことになる。そのうちの男が、ちらちらとぼくに視線を送っているのが分かった。気持ち悪かった。ぼくは自分の顔に目を落とす。
 肩に届きそうで届かない髪。毛先はそれぞれ、糸を通す針みたいに鋭い。鼻が低い。
 彫刻刀を揺り動かす。たまにつっかえて手首が痛くなる。刀を持っていないほうの手が、ちょうど刀の向く先にあって慌てて正した。それで板がずれて、変なところを削ってしまう。変な顔。
 また顔を上げてみた。先ほどの気味の悪い男子は作業に頭を捧げている。少し安堵して、その間に窓の様子を眺めてみた。雨はまだ、やみそうにない。窓は閉め切っているからにおいはとどかないけど、たぶん、昨日と同じようなものだろう。くすぐったいにおい。
 美術室では、腕がそばだつことはない。暖房も冷房もついていないけど、ドアと窓が閉じ込めてくれてはいる。外界の攻撃から一応、守ってくれている。それだけで充分だ。雨は隙を探って、大袈裟な音を立てて降り続いている。
 あ。
 声を出してしまった。小さく、声を。
 目を逸らしたのがいけなかった。余所を見るときは手元を休ませるべきだった。彫刻刀はシャープペンシルではない。自分の意思を逸脱することが、わりとよくあるんだ。
 指先から、紅い血液が滲み出てくる。まるで風船みたいに膨らんでいた。あ、血ぃ出てるー。同じ机の女子が、本当に他人事だと思うような口調で言う。教師が駆けつけてくる。近くまでやってきて、過剰に大丈夫かと訊いてきた。教師は大変だ。これくらいの傷で責任を押し付けられないか気が気でならないんだろう。
 ぼくは大丈夫ですと答えてから、拭くものを求めた。すかさずティッシュを持ってくる。それで指先をくるんだ。やわらかい紙が紅く染まる。水分を受け取った綿飴みたいにしぼんでく。
 美術の授業が終わった。起立、礼。副会長がぞんざいに言う。
 階段を下りる。踊り場が雨で濡れていた。小窓がいつの間にか開いていたからだ。手すりをしっかり持たないと、ふと誤ると転んでしまうかもしれない。
 二階に下りて、兄貴の教室の前を通る。中身をふと見てみると、兄貴とそのクラスメイトさんが談笑しているのが見えた。兄貴のくせに、ぼくの兄貴のくせに友達付き合いは良好だ。
 上履きが濡れているのがよく分かった。ぼくが歩くごとに廊下が汚れた。だけどそれを指摘してくる人はいなかった。上履きが踊り場の水のせいで汚れたのは、ぼくだけではないからだ。
 夏休みどうしよっかー、あー、なかなか決まんないよなぁ。後方から声がする。昨日からよく聞く、五人組の会話だった。どうやらまだ、夏休みの計画は煮詰まっていないらしい。やっぱ海行こうぜ、えーやだよー、やだやだばっかりじゃ行くとこねぇじゃん、夏休み長いんだから全部行っちゃえば……、ちょっとそれはハードだよ。臆面もなく楽しげに。テンポのいい会話を繰り広げている。
 教室に入ると、既に音楽を選択した生徒たちが戻っていた。美術を選択した生徒が三十人程度であるのに対し、音楽を選んだのは五十人に達する。音楽・美術は三組合同で行われる。今年度はそうだけど、今の二年生は美術のほうが多いらしい。要は確率の問題で、学校側も特視していないみたいだ。
 夏休みまであと六日だ。
 なにをしようか、どうしても思いつかない。化学しかない。
 ふと、兄貴のことを思い描いた。まるで彫刻でかたどられたみたいに浮かび上がってくる。兄貴は、友達が多い。少なくともぼくにはそう見える。人気者ではないけれど、きっとほとんどの人が兄貴の存在を認めている。すれ違えばその人が誰であるか分かる。兄貴はそんな人間だ。いうなれば有名の度合いでいえば中流階級の人間だ。その兄貴は、夏休みの予定はどうなっているんだろう。訊いてみたい。
 途端にチャイムが鳴った。次の授業が始まる。今日の最後の授業だ。英語の授業だ。
 男性教師が辞書を携えて入ってくる。いつも持ってきているけど、それを用いる瞬間をぼくは、まったく見ない。一ヶ月に一度見るか見ないかだ。それぐらい英語の教師は、頭の中に辞書を抱えているし、生徒たちも無用な質問をしてこない。英語の授業は好きじゃない。
 教師が黒板に筆記体を書き始めてさっそく、ぼくは窓の外を見遣った。雨は依然として降り続いている。だけどさすがに疲れてきたのか、雨脚はだいぶ弱くなっていた。それでも傘が必須なのは変わりそうもない。ただ頑固に、雲が水滴を捻出している。それほどまでして、いったいなにを望んでいるんだろう。
 灰色の雲と雲。それは重なって大きな雲に見える。というよりも、一つの灰色の空に見える。たぶんこの雨は、空の青い成分だ。ぼくはそう気付いた。空が灰色なのは、こちらの弾丸数を相手に悟られないためだ。灰色に青を隠して、残りの数も晒さないまま打ちひしぐ。相手の気力を打ちひしぐ。
 教師が、ぼくを指名した。ぼくが気付いたときには、もう二度目の声かけだったそうだ。教師はいらいらした口調で、教科書の一部分を読むように指図する。ぼくはそれに従った。決して、発音は上手ではない。むしろ下手だ。
 この前、面白い話を聞いた。英語を発言していると、ふとそんなことを思い出す。化学の時間に、先生が雑談していたのだ。日本人は、スペイン語の発音が世界で一番上手な国らしい。もちろん、スペインに次いで、という意味で。発音の形式が似ているのだそうだ。……だけれど同時に、日本語は、世界で一番英語の発音が下手な国でもある。これはアメリカにもイギリスにも次いでいない。本当の意味で、世界で一番だ。
 読み終えたら笑いが込み上げてきた。一生懸命にそれを押さえ込める。肩が震えていた。教師がそれを見て悪態をついていた。隣の席の子が、ぼくのおかしな動向に視線を伝えている。きみ、変だよ。その子の目は、しっかりとそう伝えていた。とばっちりを受けて、続きの部分をその子が読まされた。だけどその子は嫌な顔しない。どうでもいいんだ。発音が悪いことなんて気にせずに、適当に読み上げていく。ぼくは、その姿が、純粋に羨ましく思った。
 その子が読み終わると、次はその横に移った。
 授業が終わって、終礼もすぐ終わった。夏休みまでは、特にすることはない。生徒も先生も、みんなそうなんだ。どんよりと低空飛行したままの雲。そんな時分の中で、窓の外だけがせわしなく働いていた。
 ぼくは鞄を持って、西階段へ向かった。下駄箱へ行くには東階段のほうが近い。だからほとんどの生徒は登下校のとき東階段を利用する。その混雑した状況をぼくは嫌った。だからたいてい、東のほうが込み合いそうなときは西階段を利用する。ぼくみたいな考えをする人は、案外、少ない。
 階段を下りる前に、ふと、三階へ続く踊り場を見上げた。窓は開いたままで、そこはもう水浸しだ。誰も拭き取らないのは、夏休み直前の怠惰のせいだろうか。それとも、ただ気付かなかっただけだろうか。
 ちょうどそのとき、階上から声がした。兄貴の声が。兄貴はどうやらさっきまで、三階か四階で授業を受けていたらしい。
 兄貴が踊り場にまで下りた。兄貴の横に、先輩がいる。兄貴とクラスメイトの、長い髪のあの女性だ。昨日、廊下を通り過ぎるのを見かけた人だ。
 二人は別に、なにか話しているから隣り合っているわけではない。ただ単に、意識することもなく横合いになったみたいだ。教室が同じで、同じ授業をさっきまで受けていたのだから、不思議なことではないかもしれない。ちょうど、兄貴の後ろに数人の先輩もいるし。
 だけど――。
 先に足を滑らせたのはどっちだったのだろう。たぶん、女子の先輩のほうだったと思う。足を滑らせて、隣にいたクラスメイトの肩を咄嗟に掴んで。
 鈍い音が連なった。転がり落ちる様子はまるで、へこんだ形のボールのよう。目まぐるしく兄貴と先輩が、上に下に転がっていっている。
 それは一瞬のことではなかったけれど、ぼくはどうしても動き出すことができなかった。先輩が唸る。良かった。二人とも意識はあるようだ。二人が上半身を持ち上げる。まだ足が絡まっている。
「ったく、いってぇな」
 そう発言したのは先輩のほうだった。力強い口調に、ちょっぴり驚いてぼくの脚が震える。
 先輩が頭を掻く。だけどふいにとまった。
「ん……?」
 先輩は、自分の髪を指で梳いた。どうしたのだろう。転んだせいで変に乱れてしまったからだろうか。
「へ?」
 その様子を見て、今度は兄貴が口を開けた。ぽかんと、なにが信じられないのか、先輩の顔を凝視する。もう半年間ぐらいクラスメイトでいるはずなのだから、一目惚れをするタイミングではないのに、兄貴は先輩に見入っている。
 大丈夫かー、と呼びかけた他の先輩たちも、二人の異変に感づいたようだ。二人を取り巻いて、不思議そうな顔で覗き込む。
 兄貴だけでなくて、先輩も呆けた顔をしている。見つめ合って、絡まった足をほどこうとしない。電池の切れたロボットみたいに、二人はじっと見つめ合っていた。
「おい寺本」
 先輩が兄貴に呼びかける。兄貴ではなくて先輩のほうが、声のほうを向いた。
「|絢《あや》?」
 高二文系特進科のもう一人の女子が、先輩の肩をぽんと叩いた。どうやら、兄貴と一緒に転がった先輩は、絢という名前らしい。よく見かけるけど名前を聞いた覚えがなかったことに、今頃気付いた。けれどそんなことは今は問題ではなかった。
 絢さんは自分が呼ばれたことに気付かなかったみたいだ。クラスメイトに呼ばれても応答しないで、兄貴の顔を、首を吊ったぬいぐるみみたいな扱いで眺めている。
「と、とりあえず保健室だ」
 先輩の一人がそう言った。そうだ。もしかしたら、頭を打ったのかもしれない。兄貴が脳障害になったら大変だ。夏休みの計画が一気に埋まってしまう。
 ぼくは先輩たちと一緒に、兄貴と絢さんを保健室にまで連れていった。二人とも力が抜けているけれど、意思だけはちゃんとしてるみたいで、わざわざ運ぶ必要はなかった。ちゃんと自分たちで歩いていた。……だけれどなにも喋ることなかった。起き上がったとき絢さんが言った「ったく、いってぇな」という文句だけが、まだ頭の中で木霊している。
 保険医の先生が診るに、頭には特に損傷はないらしい。外傷のない、内側だけの怪我がある可能性もなくはないけど、とても低いんだって。二人はひとまず保健室で安静にさせることにした。他の先輩たちは、特進科だからまだ授業がある。ぼんやりとした顔の二人に声をかけて、教室に戻っていった。
 ぼくは保健室に残っていようと思ったけれど、保険医の先生が帰りなさいって言った。こういうときは普通、外部の人は入れないものなんだって。安眠の邪魔になるだろうから。
 傘を持って、ぼくは下校することにした。校舎の玄関を出る。
 ……雨はすっかりやんでいた。


     3

 ぼくは自室で漫画本を読んでいた。部屋の中にはクーラーが取り付けられているが、それを動かすつもりはなかった。今は節電シーズンだ。それに、先ほどまで降っていた雨が、湿気もろとも熱を持っていってくれたみたいで、それほど暑くない。窓を開けていれば充分に涼しかった。この部屋は二階にあるから、風通りも良い。どうせそう思っていられるのも、雨上がりの今だけなんだろうけど。
 SFの漫画だ。SFの中でもスペースオペラというカテゴリに入る種類のもので、ちょうど、宇宙スーツを着た青年が、奇怪な姿をした生命体へレーザー光線を浴びせている。今どき珍しい。
 兄貴、今なにしてるだろうな……。ふと、漫画を読んでいるとそう思った。宇宙スーツの青年は、兄貴とは似ても似つかないけれど。
「た、ただぃま……」
 ちょうどよく、兄貴の声が階下からあった。帰ってきた。怪我でもしたのか、ずいぶん弱弱しい声色だ。自信のない幼子みたい。
 ぼくはブックカバーを栞代わりにして、漫画をベッドの上に置いた。自室を出て、ちょっと急な階段を下りる。
 兄貴はまだ玄関にいた。靴もまだ脱いでいない。なにをそう、おどおどしているのだろう。ぼくの姿を視界に入れた途端、慌てふため始めた。小動物を前にした気分だ。おかしな兄貴。
「おかえり」
「へ? へえ!?」
 頓狂な声をいちいち上げる。兄貴は自分の顔を指差した。だけどすぐに元の位置に取り繕う。
「わた、俺の部屋は二階です……よな!?」
 噛み噛みだった。
「兄貴……大丈夫? やっぱり頭打ってたの」
「へ? いや、その……」
 兄貴はやっぱり様子が変だ。ぼくはよく分からないまま、兄貴を兄貴の部屋に案内することにした。兄貴は階段の急なことに驚いて、手すりがないことにもっと驚いていた。慎重に上っていく姿を見ていると、記憶喪失をつい危惧してしまう。
「兄貴、兄貴の名前はなに?」
「え……えっと、寺本|雄吾《ゆうご》くん」
「なんで『くん』付けなの……」
 本当に頭がおかしくなっちゃったんだ。
「じゃあ、ぼくの名前は?」
「ぼく……?」
 兄貴が眉をしかめた。なにを訝っているんだろう。階段を上る足がとまる。ぼくもついでにとまった。
「そっか。そういえばきみは、『ぼく』だったね」
 兄貴の部屋は、ぼくの自室のすぐ隣だ。隣というよりも、向かいといったほうが正しいかもしれない。二階には部屋が二つある。階段を上ってすぐ右側にドアがあるのがぼくの部屋、左側のが兄貴の部屋だ。
「ありがとう」
 親切にも兄貴は礼を述べた。そもそも部屋を案内するという状況が不思議でならないというのに。兄貴はそれ以上、詳しい説明をしてくれなかった。結局、頭に異常が生まれてしまったのか。きっとそうなんだろう。保険医の先生は病院への紹介状を書いてくれたのか。近いうちにでも、病院で診てもらったほうがいい。絶対そうしたほうがいい。
「寝るといいよ。お母さん、今日は遅くなるって」
「え、うん……」
 兄貴の喉は、まるで女の子みたいに優しい。絹みたいな声だ。普段の兄貴とは違いすぎる。これも仕方ないのかもしれない。頭を打って、脳がショックを受けて、一時的に混乱状態にあるんだ。きっとそうだ。こういうときは、ともかく脳を休ませなきゃいけない。
「じゃね」
 そう言ってドアを閉めた。兄貴のことは心配だけれど、実をいうと、そんなに心配してはいなかった。兄貴はもともと、怪我の多い人だから、どうせ数日も経てば元に戻る。怪我をたくさん受けてきた分、治癒力も強くなっているんだ。きっと。
 自室に戻って、ふと、壁にかけられている時計を見遣った。ぼくが帰ってきてから、三時間が経っている。外はすっかり暗い。
 兄貴は今までなにをしていたのだろう。文系特進科の授業が終わる時間からは、だいたい一時間半くらい経っている。兄貴と絢さんは保健室で安静にさせられていたから、たぶん、クラスの人たちよりも早く下校させられたんじゃないだろうか。それなのに、この時間になるまで帰ってこなかった。まるでなにか、帰ってこれない理由があったみたいな。
 ……考えすぎかな。
 ぼくは漫画本を手に取った。手元を誤って、栞代わりにしていたブックカバーをはずしてしまう。
 ……。母親が仕事から帰ってきたのは、夜十時を少し過ぎたあたりだった。どうやら母親に学校側からの連絡はなかったようで、兄貴の容態を知っていなかった。
 ダイニングの机で母親と向かい合う。ぼくは自分で適当に作って、既に夕飯は食べ終えていた。母親が、ぼくが作り置きしておいた料理を口に運ぶ。
「……それで? 雄吾がまた怪我したって?」
「そうそう。階段から転がり落ちたんだよ」
「それはまた、派手にやったねぇ」
 母親は気楽そうに箸を握っている。これは日常茶飯事なのだ。そんなに慌てることでもない。
「それに、他の人も巻き込んだんだよ」
「ありゃ、それは困ったもんだね」
 だけど他の人にも迷惑をかけたとなっては、日常茶飯事だと笑い飛ばすことはできない。わざわざ紙袋つきでお菓子を買って、迷惑をかけた家庭へ挨拶をしにいかないといけない。昨今の世間はそうなんだ。一歩間違って、近所づきあいが悪くなったら大変だから。
「雄吾は今、寝てるの?」
「うん」
 トイレの水が流れる音がした。
「起きてる、みたい」
 ぼくは椅子から腰を持ち上げて、ダイニングを出た。出て少し歩いて、左側にトイレがある。ちょうど、兄貴がトイレから出てきていた。
「兄貴」
 呼びかける。……だけれど兄貴はぼくを無視した。無視したというよりも、気付きいていないようだ。顔が真っ赤だ。一目散に階段を上っていく。
 ぼくはその後姿を見て、どうしても、兄貴が女の子のようにしか見えなかった。

 朝。ぼくは六時ぐらいには起床して、朝ごはんの準備をしていた。基本的に、食べることに関する家事は、ぼくが担当だ。学校での昼ごはん――ぼくと兄貴の弁当も、このときに作っている。
 七時になる前には、母親も起きてきた。洗面所で顔を洗ってからダイニングにやってくる。キッチンはダイニングの中に設けられている。
 机に並べられた朝ごはんを眺めて、「|由美《ゆみ》もずいぶん上手くなったじゃない」と言ってきた。純粋に嬉しい。中学校を卒業するまでは、まったく料理などしたこともなかったのだ。
「由美、ちょっといい?」
 弁当の準備がひととおり完了したところを見計らって、母親がそう声をかけてきた。ぼくはなんの疑問も抱かず、母親の向かいの椅子に座る。母親は机の上の卵焼きをつまみ食いしていた。それを嗜めると、まあまあ、と言ってもう一個口に運んでしまう。
「突然だけどね、私、明後日から一ヶ月間くらい、仕事で遠出することになったから」
「え、一ヶ月……?」
「そう。一ヶ月。だいたい、由美たちの夏休みが終わる直前に帰ってくることになるわ。いきなりだけど、どうしても断れない仕事だったし、これを上手くやれば、きっと給料も……」
「分かった分かった。問題はないよ」
 ぼくはそう言ってあげた。どうせ、無理だといってももう決まったことだから、と返ってくるんだ。それなら、気残りをさせずに仕事に送り届けたほうが、きっと仕事にも精が出る。
「お金はいくらか預けておくから、よく考えて使いなさい。花嫁修業だと思って……」
「はいはい。分かりましたよー。いいから早く出世してよね」
 母親が仏頂面をする。
 ……兄貴が起きたのは、七時半くらいだ。まあ、いつもと同じくらいの時間だ。
 階段を下りてきた兄貴を見て、ぼくは驚かずにはいられなかった。目が赤かった。目元も少し、染まっていた。泣いていたんだ。
「ごはん、食べる?」
 ぼくはなるべく笑顔を作ってそう言った。兄貴は、うん、と頷く。ほんとに、女の子みたいだ。泣いた直後の、素直に戻った女の子。
 まだ治っていないみたいだ。
 それでも兄貴は、滞ることなく朝食を食べた。おいしいと、何度も呟いてくれていた。照れるからやめてよと言っても、耳に入っていないみたいに、おいしいを繰り返す。
「ねえ、兄貴」
 ぼくは、兄貴が箸を置いたのを見計らって話しかけた。
「なに」
 兄貴は、やっと兄貴と呼ばれることに慣れたみたいだ。だんだん治っていっているのかもしれない。
「お母さんが、明後日から出張だって」
「そう……」
 その顔を、ぼくは見逃さなかった。安堵の表情。未来訪れる災厄を、とりあえず延期させることのできたような顔。ぼくは兄貴が兄貴でないことに、この瞬間ようやく気付いた。兄貴はまるで悪魔に取り憑かれたみたい。兄貴は階段から落ちたときに死んでしまっていて、たとえば雨の妖精なんかが、兄貴の体を乱暴していたのなら。
 そんなことを思ってしまうくらいには、兄貴の様子はおかしかった。母親は大丈夫だというけれど、どうしても、これは普段と違う。ただ怪我の多い少年という枠組みを、壊してしまった窓のようだ。先の見えない窓。
「学校、行くの?」
 ぼくは訊いた。
「……行くよ」
 意外な答えが返ってきた。
「寺本くんに会わないといけないし」
「……え?」
「な、なんでもない!」
 兄貴の口から唾が飛んで、次いで「あ!」と兄貴は口元を抑えた。

 八時。ぼくらは一緒に家を出た。いつもなら、ぼくは兄貴より先に出発するのだけど、怪我をしているのだから、一緒にいたほうがいい。それに兄貴は、学校までの道順を忘れてしまっていた。ショックだ。一年以上歩いてきた道を、ただ頭を打つだけで失くしてしまうなんて……。恐ろしい。素直にそう思う。
 その日は突き抜けるように晴れていた。雲ひとつない。昨日一昨日の雨が嘘のようだ。……実際、その二日間は嘘のように降っていたのだけど。夏の暑さが嘘みたいに。
 学校まではだいたい、十分くらいかかる。細道を通って、大通りに出たら、あとは真っ直ぐだ。複雑でもなんでもない。だけど兄貴は、必死に道を覚えようとしていた。
「あの……由美、ちゃん」
「…………」
 さすがに、兄貴の奇行にも慣れてきた。
「普通の兄貴は、妹に『ちゃん』を付けません」
「由美!」
「なんで語尾を強めるのさ」
 空は青い。夏が既に始まっていることを、嫌でも思い出させる。
 大通りは静かだ。夏の暑さに疲れてしまっているのかもしれない。二日間の清涼の後のこれだから、無理もない。だけどぼくたちは、学校へ赴く。兄貴はいつも腕時計をする習慣があったけれど、今日はつけていなかった。ぼくはスカートのポケットから携帯電話を取り出す。そこに表示されていることを信じるには、八時十分になっていた。まだ学校まで、半分も歩いていない。
 ひとえに、兄貴がのろいからだ。道を忘れてしまったから、ぼくの動きを逐一見ていないと動けないんだ。それはイライラする。夏の暑さと共に、ぼくに疲弊を強いていた。
 足が重たい。ブリキ人形みたいにぼくの足はぎこちない。だけど兄貴は後ろから、スムーズな足取りでついてくる。だけど遅い。ぼくは頭を掻き毟りたくなって、だけど通行人に見られたくないから我慢した。
 ようやく学校に着くと、兄貴の動きは素早かった。ぼくを通り越して(途中『ありがとう』って言ってきた)、さっさと自分の教室へ行く。ぼくはあっけにとられながらも、とりあえず、学校の内容は記憶したままだということを学んだ。
 ぼくも、高一Aの教室に入る。早々に窓は開け放たれているけれど、決して、涼しい風が舞い込んでくるわけではない。頭が熱せられて、シュウマイのようにでもなってしまいそうだった。
 兄貴に事故があっても、誰もぼくには声をかけない。……いや、まだ事故があった事実が広まっていないだけなのかもしれない。
 どちらにしたって、それはぼくじゃなくて兄貴だ。
 人並みに友達の多い、兄貴のことだ。


     4

 英語の授業は苦痛でしかない。担当の教師はクソ真面目だし、そもそも英語が苦手だ。日本人に生まれたことが運の尽きだ。こんな話を聞いたことがある。海外から出張で帰ってきた母親が、たしか一年ほど前に、言っていたことだ。……日本人は真面目に文法ばかり学んで、結局実用的な英語を教えない。
 まさしくその通りだと思った。海外の映画を観ていても、海外の漫画を流し読みしてみても、たまに外人さんに道を尋ねられても、綺麗な文法を耳にしない。「あなたがやったの?」という文があって、これを英訳するなら「でぃどぅゆーどぅー?」って訊くのが文法上正しいことだとしても、日常なら「ゆーでぃどぅ?」でこと足りる。……と思う。確信は皆無だけど。
 ともかく真面目な日本人教師は、黒板の隅に「関係副詞」って書いた。意味はまだ知らない。
 説明を聞く。関係代名詞なら、中学のときに習った。あれは簡単だけど、それは日常会話で使わないことが前提だ。あれだけ修飾語を後ろにまわされたんじゃあ、理解できる内容も意味不明になってしまう。きっとそうだ。それとも英語を扱う国の人は、脳の構造からして日本人と異なるのかもしれない。宇宙人は実は近くにいました、みたいな。
 そんなこと考えたらだめだぞ、そんな言葉が脳内で踊った。外人を宇宙人だと揶揄するだなんて、そんな考えはだめだ。なんで、自分の思考に自分の思考でツッコミしているのだろう。
 なんと、関係代名詞の前にコンマがあるかないかで、まったく意味が変わってくるらしい。そんなの聞いたことない。でも、これでひとつ情報を得ることができた。やっぱり、日常会話で関係代名詞は使わない。コンマのあるなしなんて、どうやって言葉で表すというんだろう。しないんだ。日本人は遅れてる。ずっと昔に決められた頭の堅い文法を、今になっても遵守してこれは違う、こうなんだと教え込んでいるんだ。きっとそうに違いない。なんて迷惑な話だろう。それじゃあ海外へ行くとき、ぼくはどうやってコミュニケーションをとればいいんだ。意思疎通ができなかったら、外人も宇宙人となんの変わりもないことになってしまうじゃないか。
 滅茶苦茶だ。日本の教育は壊滅状態だ。こんなところで勉強しても、むしろバカになってしまうだけだ。ここは牢獄のようなところだ。いるだけでステータスが減って、社会に出るときの障害としていつまでも残ってしまう。鎖のようなものだ。
 ……でも、化学の授業だけは真剣に聞く。二時間目の化学では、背の低めの先生がご教示になっている。化学が好きだからこの先生も好きだ。先生も、真剣に授業を聞いてくれる生徒には優しい。その優しさは邪魔だけれど、別に深刻な支障になるわけでもないから無視をしている。
 あっという間に化学の授業は終わった。夏休み前最後の化学の授業だった。授業の終わり際、先生はみんなにテキストを配った。夏休みの宿題だ。十数ページの、簡単な問題集。これなら今日中にでもできるんじゃないだろうか。
 やっぱり自由研究の宿題は出なかった。まあ、いいや。宿題でなくとも研究はできる。探せばもしかしたら、高校生向けの化学コンクールでもあるかもしれない。帰ったら探してみよう。そう思いながら、配られた冊子に名前と出席番号を記す。
 三時間目は国語だ。これまた憂鬱な授業だ。国語は夏休み前まで毎日あるのだから、陰鬱な感情が込み上げてこないわけがない。窓際といっても前のほうの席だから、化学の宿題を開く勇気もなかった。この教師は、よく生徒たちの動向を観察している。この前携帯電話をいじっていた生徒が歯牙にかかった。この教師は危険人物として、わりと警戒をしている。
 高校一年生の段階では、「国語総合」という授業となっている。二年になったら「古典」と「現代文」に分かれるらしい。
 最近は、文法の授業をやっている。
 そこでふと思いついた。日本人が日本語の文法を勉強しなければならないように、イギリスやアメリカだって、英語の文法を学ばなくてはならないんだ。つまり勉強しなければ分からないのはどの国だって当然のこと。……それでも、日常会話に支障はない。やっぱり、関係副詞なんてものは日常会話では使用されないんだ。少なくとも学ぶまでは、決して使いやしない。
 それに気付けただけで満足だった。ぼくは悦に浸って、チャイムが鳴っても板書するのを放棄してしまっていた。まあ、ノートを提出することはないからどうでもいい。
 その日の休憩時間は、回を重ねるごとに騒がしくなっているのが分かった。実際に耳に届くのは、さほどいつもと変わらない。だけど教室を取り巻く雰囲気が、学校を取り囲む空気が異変を伝えていた。それがなんなのかは分からないけど、それがぼくに関することであるのはだいたい理解できた。たまに、数人がぼくを見遣るんだ。ちらちらと。ぼくは視線に敏感だ。
 四時間目。午前最後の授業だ。数学Ⅰ。
 ぼくは強い少女じゃない。それは自覚している。だから逃げることができない。目を逸らすこともできない。ぼくはとっても弱いから。生徒たちの視線から逃れることもできないまま、ぼくは問二を解いていた。
 兄貴に変化が訪れても、ぼくに変化は訪れない。この閉塞した謎を教えてくれる人は、この教室にはいない。教室の外にだっていないに違いない。
 なにがぼくに目を向かわせるのか、まったく思い浮かばなかった。ぼくがなにをしたというんだ。この前、遅くまで学校に残っていたから? 教室の掃除当番をサボったから? 傘が水色だから? 美術の時間に彫刻刀で怪我したから?……ぼくがなにをしたというの?
 疑問が渦を巻いていく。ぼくの頭が飲み込まれた。そのまま螺旋状に、ぼくの体が吸い込まれていく。奈落の向こうへ、もう帰ってこれなくなってしまうくらい、宇宙に投げ出された宇宙飛行士みたいに。
 教師がぼくを指名した。問二の答えはなにかと訊く。ぼくは3x-2だと答えた。正解だった。
 感謝するには値しなかった。教師は確かに、ぼくを渦から救い出してくれたのかもしれない。だけれどそれをいちいち感謝していては、ぼくは今まで、どれほど感謝したのか分からない。助けられても感謝しない。それがぼくのスタンスだ。感謝はされてするものではなくて、向こうが意図的にしてきたときに告げてあげるものだ。先生はぼくを救うために指名したのではないのだから、むしろ、この状況で感謝するほうが奇異な状態になってしまう。
 人の価値観なんて知らない。倫理観もついでに知らない。どう違うのか知らないけれど道徳も知らない。小学生のとき、道徳の授業が嫌いだったことを思い出す。数学の授業となんの関係もない。
 限界が訪れる前に授業終了のチャイムが鳴り響いた。それは本当に「鳴り響いた」で、頭の中をがんがんと叩いてくる。起立、礼。副会長が適当に言う。
 昼食の時間だ。ぼくは鞄から弁当を取り出した。ぼくの席は窓側の前だから、他の子のためにどく必要はない。
「ねー」
 肩を掴まれた。来た。朝から増長していた嫌な感じだ。肩が痛い。決して力を入れてきているわけではないはずなのに、鉄筋を載せられたみたいに痛い。重い。
「その弁当、手作りなんでしょ?」
 肩を掴んでいた手は放して、その生徒は軽々しくそう話しかけてくる。
 その顔には見覚えがあった。いや、ぼくは教室の生徒全員の顔を覚えている。その中でも彼女は特に、クラスメイトの中でも印象が強い。
 よく視界に入っていた、あの五人組の一人だ。雨がひどい日(一日目)に、ぼくと同じく遅くまで粘った五人組の、そのうちの一人だ。その彼女が、いったいどうしたというのだろう。
「ここ、座っていい?」
「いい……よ」
 感謝を求めたわけではない。数学の教師と同じだ。ぼくは許可を施したのではなく、彼女の目的を探るという、確固とした目的があった。だから感謝はいらない。感謝をするのは場違いだ。……そんなことを彼女も考えたのだろうか。彼女はうし、とだけ発して、ぼくの隣の席を失敬した。
 彼女は片手に弁当箱を携えていた。一緒に昼食を摂ろうというのだろう。手馴れた動きで机をくっつけてくる。弁当の包みをほどいた。
「暑いね今日も。夏は汗かいちゃうからキライ」
 彼女がそう話しかけてくる。ぼくは卵焼きを摘まんだ。
「なんの用なの」
 いきなりこんなことを言うのは不躾だったかもしれない。「しれない」じゃなくて、実際にそうだ。それでも彼女は眉をしかめなかった。
「寺本さん。ケーキはいちごを先に食べちゃうタイプ?」
「…………」
 箸を口に運びながら、彼女は頬を持ち上げた。楽しんでいるのか。それともぼくを嘲笑っているのか。
「まあ、普通そう思うよね。いきなり話しかけてきたらそりゃあ、警戒するのも無理ないか。……一応、クラスメイトなんだけどね」
 クラスメイトだったら、気軽に話しかけることができるのか。ぼくには分からない。
「ねえ寺本さん、あなたのお兄さん、なにかあったの?」
 彼女はぼくの要望通り、さっそく本題を持ちかけてきた。それと同時に、ぼくの頭を悩ませていたものが、綺麗に片付けられていく。……そうだ、この視線の原因は、兄貴にあったんだ。兄貴になにかあったのにぼくに視線が向かっているのではなくて、兄貴になにかったからこそぼくに注目が寄っている。
「正直言うと、あなたのお兄さん、雄吾先輩、変なんだけど」
 その率直な意見に、少しだけ胸が痛んだ。それと反比例しているのか、それとも比例しているのか、頭の痛みは消え失せていく。彼女が対等にぼくを見ているのが分かった。
「……たとえば?」
 ぼくは訊いた。たとえば、どんなところが具体的に変なのだろう。兄貴が変になったのは既に知っているけれど、でも、他人から見た今の兄貴が、どういった評価を得ているのか気になった。
「えっと……。たとえば、女子トイレに入ってきたり」
「え……」
「たとえば、女子更衣室の前をうろうろしたり」
「え、え」
「たとえば、男子生徒に肩を掴まれると、異常なくらいに反応したり」
「…………」
「たとえば――」
「もういい」
 ご飯を口に運んだ。流し込むみたいに噛み砕く。弁当のご飯はおにぎりみたいに固められている。このほうが食べやすいと思った、ぼくの工夫のひとつだ。兄貴の弁当も、当然そういう仕様になっている。
「それで、雄吾先輩になにがあったのかなって」
「ねえ」
「なに?」
 あまり今まで会話をしたことはなかったけれど、彼女の、クラスメイトには気軽に接するという思想に従って、タメ語を用いて会話することにした。たぶん、彼女は怒らない。
「その、雄吾先輩っていうのやだ」
「……じゃあ、寺本先輩」
「うん、それがいい」
「寺本さんって細かいんだね」
 彼女はそう言って、弁当の中身を口に運んだ。
「それに、絢先輩もそうっぽいんだよね」
「え……?」
「知ってる? |社《やしろ》絢先輩。寺本先輩のクラスメイト」
 彼女がぼくの目を覗きこむ。きっとぼくは、驚いていたに違いない。それを瞳に映し出していたに違いない。
「なにか知ってるの?」
 彼女が、興味本位なのかそう畳み掛けてくる。ぼくは汗が首筋を通るのを感じた。暑いせいなのか、肌寒いせいなのかよく分からない。爬虫類みたいに体温調整ができなくなっていた。まるでぼくは変温生物。だけれど温度変化は周りではなくて中側から起こっているのだから滑稽だ。
 兄貴に異常が現れたように、社先輩にも異常が出ていたんだ。二人とも、雨の激しい日に、足を滑らせて階段を転がり落ちている。
 そのときに頭をぶつけたのか、それとも。
「なにか知ってるんでしょ」
 彼女が畳み掛けるようにそう言ってくる。ぼくは彼女の目を見た。彼女は楽しそうに、ぼくの顔を眺めこんでいる。窺っている。ふと教室を見渡すと、ほとんどの生徒がぼくを見ているのが分かった。そんなに、兄が奇行を繰り出したということだ。顔を覆いたくなってきたけど、顔が赤くなる感覚は、不思議と訪れなかった。
「知ってるよ。知らないけど」
「……どっちよ」
 彼女が眉に皺を寄せる。もう食べ終えていて、端を弁当箱の床につき立てていた。ぼくはまだ食べきっていない。ぼくは顎を動かすのがのんびりしている。
「なにがあったかは知っているけど、なぜそうなったのか知らない」
 ぼくは前置きをした。この調子じゃあ、話したほうが、兄貴のためにもいいだろう。ただの変態にされてもらったら困る。頭をぶつけての、仕方のないことだと、身内であるぼくが説明してあげないと。
「やっぱり知らない」
 だけど言えなかった。わざと言わなかったのかもしれない。
 ほら、彼女はあからさまに不可解そうな顔をしている。ついさっきまで、現に、ぼくも話すつもりでいた。だけどそれじゃあ、兄貴が精神に障害をきたしていると認めてしまうようなものじゃないか。確かに類を見ない異常事態ではあるけれど、兄貴のことだから、きっと治る。放っとけばきっと治る。むしろ大騒ぎして治療沙汰にでもなれば、兄貴はその状況に順応してしまう。今まで兄貴は、ほとんど病院に行ったことがないんだ。怪我は無数にあるけれど。
「ふーん。知らないんだ」
 詮索するように、彼女はぼくの顔を下から眺め回した。くすぐったい視線だ。いっそのこと、本当にくすぐってくれたほうが我慢できるだろう。ぼくはぎゅっと目を瞑って、すぐに後悔して瞼を持ち上げた。視界に入るのはやっぱり彼女。
「し、知らないよ!」
 つい声が大きくなってしまった。だけれど誰も、ぼくのほうを改めて見たりしない。自分が思っているよりもその声は小さかったのかもしれない。
 今更、後戻りはできない気分だ。雨は降っていないけれど、ぼくの額は湿っていた。彼女はもう、弁当箱を布製の包みにくるんでいる。それをぽつんと机の上に置いて、まるで、主人の帰りを待っている番犬のようだ。ただの箱にも見える。
「わたし、絢先輩の友達なんだけどさ」
 ぼくは弁当箱を鞄に直した。ちゃんと全部食べた。
「友達……」
「そう、友達。だから心配でさ、寺本さんがなにか知ってないかなって思ったんだけど」
 ふいに彼女の声が静かになった。絹みたいに柔らかく、だけど肌に馴染みそうにない。彼女はぼくのほうを向いているけれど、ぼくを見ているわけでないことは理解できた。そんなに疎くない。ぼくは、迷った。
「ねえ、あの、|坂松《さかまつ》さん」
 ぼくはとりあえず、彼女を呼びかけた。向かい合っているけれどぼくを見ていない彼女を、ぼくは呼び起こす。
「あ、名前」
「うん?」
「名前、覚えててくれたんだね」
 そう言って、坂松|菊恵《きくえ》は小さなえくぼを見せた。
「あ、うん……」
 ぼくだってちゃんと、クラス全員の名前を覚えている。もう半年ぐらい経つことになるんだ。授業中に先生に指名されたり、ともかくいくらだって名前と顔を知る機会はある。ぼくにはそれが絶対的に少ないけれど、ないというわけではもちろんない。
「昨日、雨ひどかったね」
 ぼくは言った。彼女は突然の話題転換に戸惑ったが、すぐに適応して頷いた。対人能力がぼくの比じゃない。だけど悪い気はしないから、ぼくは先を続ける。
「それで昨日、階段が濡れていたんだけど……」
「あ、そうだったそうだった。美術が終わってから、そこを通って転びそうになったんだよ」
 彼女が同調する。そう。転びそうになるぐらい、階段の踊り場は雨に濡れていた。階段は教室なんかと同じく、建物に完全に包まれているから、普通なら濡れることはない。だけれど、小窓が開いていた。誰の仕業かは知らないけど、今は、知る必要もないのだろうけど。
「そこで、昨日、兄貴と社さんが転んだんだ」
「転んだ……?」
「踊り場のところで、足を滑らせて……」
「二人、一緒に?」
「うん」
 いつの間にかひそひそ話になっていた。他の子にはたぶん、話は聞かれていない。ぼくが意図的におこなったことではない。いや、たぶん、坂松さんが意図的に施したことだ。ぼくが彼女に話すことを躊躇ったのと同じように、彼女も、それなりのことと察してくれたに違いない。ありがたい話なのかもしれない。
「それで、二人とも意識はあるのにぼーっとしちゃって、保健室に運ばれたんだけど」
「ふむふむ」
 坂松さんが、考え込むように腕を組んだ。
「それを見たのは、寺本さんの他に誰がいる?」
「高二文Cの人みんな」
 高一の時点ではA・B・Cの三つのクラスがあるけれど、高二からは、特進を除けばAとBの二つに減る。その分特進科ができるのだけど、いちいち「文系特進科」「理系特進科」と呼ぶのは億劫だから、たいてい「文C」「理C」と呼んでいる。この学校にいつの間にか流れているしきたりみたいなものだ。
「そっか。じゃあ、その人たちにも話聞いてみるよ」
 そう言って、坂松さんは席を立った。くっつけていた机を、元の位置に直す。坂松さんはそういう礼儀がきちんとしている子のようだ。普通の子なら、机なんてそのままにしているのに。
「ありがと」
 坂松さんは最後にそれだけ言って、自分の席に戻った。机の傍に置いてある鞄に弁当箱をおさめて、机の上に置いてあった教科書類を持って、そのまま教室を出て行く。だけど出てから、「寺本さんも、急いだほうがいいよ」と言ってきた。
 そうだ。五時間目はコンピュータ室だ。
 時計を見ると、チャイムの鳴る十秒前だった。


     5

 次の日も快晴だった。白い太陽は容赦もなく照りつけて、弱い影はとにかく薄くなっている。その分だけ強い影はもっと濃くなっているけれど、それはただ、それだけ太陽が明るいからそう見えるだけだ。太陽無双っていうやつだった。
 暑い。一昨日までの涼しさはどこかへ旅に出て行ってしまった。自分探しの旅にでも。
 まだ、兄貴の容態は回復していない。普段ならもうそろそろ治るころなのだろうけど、嫌な思いの通り、これは長くかかるのかもしれない。今はそう思う。母親はあんなに気軽そうに話していたけれど、それがむしろ不安を助長させている。
 ぼくと兄貴が家を出るときでもまだ、母親は睡眠の最中にあった。明日の準備とかのために、今日は職場に行かなくてもいいらしい。今のうちに寝溜めする魂胆らしい。一ヶ月のハードスケジュールを目前にして暇を出されたのなら、誰しもそうなるのかもしれない。明日、ぼくが夢から飛び出た頃にはもういない。
 学校に着いた途端に、いろんな人に声をかけられた。兄貴が横にいるからなのか、それともぼくが兄貴の妹だからなのか判別がつかなかった。大丈夫? 誰かがそう訊いてきて、んなわけないじゃん、って思いながら適当に会釈した。知らない顔だったから、たぶん、兄貴のほうの知り合い。なぜぼくが代弁しなければならないのだろう。現に、兄貴も現状に戸惑っているふうだった。意思を持って、みんなに声をかけられることを気煩わせている。
 昨晩、兄貴は風呂に入りたがらなかった。その前の晩、兄貴が転んだ日も眠ってしまって入浴できていなかったから、無理矢理にでも風呂場に押し入れてやった。水の音が聞こえるまで、ずいぶん長い時間がかかったように思う。おかげで汗臭くなることは免れたけれど。風呂から上がった兄貴はぼくと顔を合わせようとしないし。そのまま自分の部屋に直行していくし。歯磨きもサボろうとしていたし。
 今朝、朝食を摂りながら兄貴が要求してきたのがそれだった。歯ブラシを新しいものにしてくれって、そんなこと。予備の歯ブラシが洗面台傍の棚にあることも、忘れてしまっていたようだ。
 廊下で別れて、ぼくは高一Aの教室に入った。それと同時に、いくつかの視点。さすがに戸惑った。いつもならこんなことありえない。少し嬉しくもあった。それと同時に、兄貴が悪い状態にあることを嫌でも思い知った。重篤だ。命の危険なのかは知らないけれど、これは、まずいんじゃないか。まわりの視線を感じて、ぼくはそう思い直さないわけにはいかなかった。
 席につくと同時に、「おはよう」という聞き覚えの有り余る声。……坂松さんだ。
「……おはよう」
「寺本さん、人気者だね」
「……そう、だね」
 まわりを見渡す。ぼくのほうを向いている人が多い。それほど兄貴が人気者だったのか、いや、そうじゃないだろう。それほど兄貴の蛮行が過ぎるんだ。それと社先輩。二人もそうなってしまったのなら、これはもう、そういう話にしかならない。そのうち、教師に呼び出されたりするんじゃないだろうか。
 夏休みまでもうすぐだ。計画はまだ煮詰まっていない。煮詰めるつもりもない。母親は長期の出張だし、兄貴はこんなだし、それで遊べというほうが不思議だ。
「ねえ、寺本さん」
 まだ近くにいた坂松さんが、そう話しかけてきた。
「……なに」
「わたし、前も言ったとおり、絢先輩の友達なんだよねー」
 友達なのに「先輩」って律儀につける。
「だから」
「だから?」
 彼女はぼくの顔をやわらかく覗きこんだ。こんなに暑い天気なのに涼しい顔をしている。顎に手の甲をあてている。
「家に引きこもってても、体に悪いじゃん? だから絢先輩を、海にでもつれていこうと思って」
「海……」
「良い宿を知ってるんだよ。人もあまり多くなくて、すぐ山とも繋がってて」
 お、いいなそれー。五人組のひとりがそう言う。いつの間にか、ぼくは五人組に包囲されている。
「……それで、寺本さんも、先輩――お兄さんと一緒に来たらいいなって。共同の療養旅行というか。そんなカンジ」
 チャイムが鳴った。

 ぼくは高二文Cの教室を訪ねた。兄貴と、社先輩に用があるからだ。
 ぼくはもう授業をすべて終えたけど、兄貴たち特進科の人たちにはまだ授業がある。今はそれを臨む休憩時間だ。
 教室に二人はいた。他の生徒と言葉を交わそうとも、顔を合わせようともしない。他の先輩たちも、気を遣ってか二人には声をかけない。二人はそれぞれ目の遣りどころを探しているみたいに机に突っ伏せていた。
「兄貴……それと、社さんも」
 ぼくは勇気を振り絞ってそう言った。クラスと違って、ここはぼくのことをよく知る人が少ないだろうから思ったよりも発声がラクだ。良かった。そう思うのは一瞬だけ。兄貴と社さんの他に、教室にいたすべての先輩がぼくを向いている。さすがにマズイと思った。動悸がする。どくんどくん。ぼくは声を出す術を忘れて、それでも兄貴に視線を送った。途切れた回線のように届きにくい。だけれど社さんが席を立って、ぼくのほうに近づいた。
「由美」
 社さんがそう言う。その馴れ馴れしい口調に、ぼくは驚いて肩をひくつかせた。それに気付いたのか、社さんが慌てて「ごめん」と言う。
 その間に、兄貴もぼくのほうへやってきていた。「どうしたの?」と、まるで女の子のような言い方をして、すぐさまぶんぶんと首を振る。「どうしたんだ?」そう言い直してきた。
「ちょっと」
 ぼくはそう言って、二人を自分の教室につれていった。文Cの人たちはきっと、ぼくの話に興味を示してしまうだろうから、わざと場所を替えたんだ。
 教室にはもう、ほとんどの机が空になっている。だけど一部分だけ、海上の珊瑚みたいに黒くなっているところがあった。
「あ、こっちこっち」
 店でもなんでもなく教室だというのに、そんな軽口を坂松さんは言う。ぼくは二人と共に五人組の集まっている席に行った。十秒もかからない。兄貴も社さんも、困惑したような心配したような顔をしている。特に社さんは、しきりにぼくの顔を見てくるのだから、つい照れてしまう。
「先輩、夏休みの計画ってもうできてます?」
 早々、坂松さんがそう訊いた。訊かれた社さんは、え……、と言葉を濁すだけだ。そうしながら兄貴のほうをちらちら見遣る。兄貴のほうは、困ったように顔を背けていた。
「ない、よ」
「わ、俺もない」
 社さんが言ってすぐ、兄貴もそう言う。兄貴は訊かれていないのだけど。坂松さんも、不思議そうに兄貴の顔を見た。それだけで、すぐ目を逸らす。
「はい。寺本先輩も一緒に行きましょうね」
「……どこに?」
 兄貴が訊いた。今度は社さんのほうが顔を下げている。変わってる。
「**町のほうに、いい宿があるんすよ。ちょうど、海と山に囲まれとって、人も少なくていいところなんすよ。そこにみんなで行きたいと思いましてっすね」
 五人組のひとりが言った。どうやら、坂松さんが話していたことは、この人の受け売りだったようだ。
「金はあるっすから、心配しなくても大丈夫っすよ」
 そう言いながら、その人は他の子を指差す。その子が五人組でどういう立ち位置なのかは分からないけれど、前からその子が金持ちの子であることは知っていた。よく遊びに行くし、よく持ち物を替える。
「えっと……つまり、この八人で海に行こうってこと?」
 兄貴が確認を求めた。金持ちの子が、こくんと頷いた。それにしても、八人分の宿泊料を一人で払うだなんて、いったいどれだけの財産があるのだろう。どれだけ小遣いを貰っているのだろう。
「でも、この子にそんな、金を払わせるなんて」
 社さんがぶしつけにそう言った。
「あ、私、|関澤《せきざわ》です」
 この子呼ばわりが気にかかったんだろう。金持ちの女子高生は、そう名乗った。それに乗じて、どんどん他の三人も名前を称える。
 五人組は男子二人、女子三人で構成されている。男子は、どこにいくか先ほど説明していたのが|加藤《かとう》くんで、もう片方が|宇治《うじ》くんという。社さんは知っていたのか、その自己紹介を適当に流していた。逆に、兄貴のほうはちゃんと聞いている。後で名を呼ぶとき、名前を忘れていては不便だと考えたのかもしれない。
 女子のほうは、坂松さんと、関澤さん。それともう一人、微妙に髪の色が違う、|矢倉《やぐら》さん。今度は、兄貴のほうが知っていたみたいで、社さんのほうが熱心に聞き入れていた。なんだろうこの二人。同性にしか興味ないんだろうか。それか、異性の名前しか今まで覚えていなかったのだろうか。あるいは、異性の名前は階段で転んでも残しておけたのだろうか。
 他の五人も、二人の異常性を目の当たりにして口を噤んでいた。いつの間にか静かになった教室で、ただどこからも暑さが立ち込めてきている。
「……ぶっちゃけた話、俺ら、先輩に早く治ってもらいたいんすよね」
 加藤くんがそう言った。ぶっちゃけすぎかも。そう思ったけれど、今更遅い。兄貴がまた顔を伏せてしまった。社さんも、固まったように加藤くんの顔を見ている。社さんのほうが兄貴よりも凛々しく見えるのが不甲斐ない。
「それで、療養に……」
 空気が澱んできていることにさすがに気付いて、加藤くんはそれ以上言わなかった。だけれど、それだけ言えばもう続きは必要ない。兄貴はまだ顔を伏せているけれど、社さんは気丈に、大きくこくりと頷いた。
「それじゃ、つれていってくれるんだね。私は金、払わないよ」
 兄貴が顔を上げて、そう言い放った社さんのほうを見た。尊敬した眼差し。ぼくの目にはそう映った。カメラを映すカメラみたいだ。
「具体的には、日程はどうなってるの」
「それは、先輩の都合に合わせようと……」
 坂松さんが言う。少し声が弱い。やはり普段と違う様子らしい社さんに狼狽しているのだろう。
「それじゃあ、夏休みが始まった次の日からにしよう」
「へ?」
「そうしましょ、そうしよう」
 兄貴が同調した。途中つっかえる言い方は、最近はよくあることだからもう慣れてしまった。慣れてしまう自分が悔しい。窓の外はやはり快晴で、湿ることも潤うことも知らない。
「ぼくもそれでいい」
 ぼくも乗じた。正直、家にいると料理が大変だ。母親ほどのレパートリーは持ち合わせていないし、夏に残り物をどう保存していくのかの心得もよく知らない。そしてなにより、海に行きたい。早く、冷たい水に浸りたい。塩辛い水を蹴飛ばしたい。
「それじゃあ、それで決定ってことで」
 関澤さんが締めくくるように言った。

 家に帰ると、母親がせわしそうに荷造りをしていた。ぼくたちは邪魔にならないように、自室に直行する。ぼくはベッドに転がりこんで、漫画の続きを読んでいた。積読が多すぎて、さっさと消化してしまいたいのだけどなかなか山は削れていかない。
「あの……」
 ノックの音と共に、そんなか弱そうな声が聞こえた。か弱いといっても言い方の問題で、実際には低い男らしい声が届くだけなのだけど。
「なに?」
 ドアの向こうの兄貴に向けて、ぼくは視線を向かわせることもせずに返事した。漫画のページをめくる。ドアはまだ閉まったままだ。
「いや……なんでもない」
 それだけ述べて、兄貴は自室に戻るつもりなのか立ち退く。そんな足音がする。
「ねえ、ちょっと兄貴」
 ドアは開けないけれど、僕は少し大きめの声を出して兄貴を呼び止めた。
「……なに」
 兄貴の姿を見ないで兄貴と会話すると、どうしても、それが兄貴だとは思えない。話し方がまるで別人だ。兄貴がなんの用でここへ来たのか、そしてなにが原因で中止したのかは分からない。だけれどぼくには、兄貴が悩んでいるようには見えなかった。ただ現実を突きつけられて、これからどう対処していくのかを検討している子のようだ。
「なんでもないよ」
 そう言った。しばらくして、隣の部屋のドアが閉まる音がした。
 もうすぐ夏休みだ。


.第2章(27)
第2章

     1

 太陽はぎらぎらさんさんと、ぼくたちの頭上を締め上げた。だけどそれは苦しくなんかない。痛くなんかない。特に光は強いのだけど、ちゃんと日焼け止めクリームは塗ったのだから。
 海にやってきた。限りなく白に近い肌色。砂浜はそんな色をしている。点々とビーチパラソルが立っていた。加藤くんの情報によると人は少ないということだったけれど、見る限りそれはデマだったようだ。向こうでは海がきらめいている。波と共に、太陽の光が海を跳ねているんだ。ぴょんぴょんと、楽しそうに。
「海だー!」
 誰か叫んでいた。加藤くんと宇治くんが海へ飛び込む。重たい水しぶきが上がって、それがまた新しいしぶきを作り出した。波紋のようにしぶきが連なっていくのはおかしくて綺麗だ。横を見ると関澤さんがけらけらと笑っていて、坂松さんはもうビーチパラソルを立てる準備にとりかかっていた。ぼくはそれを手伝うことにした。
「ありがとう」
 いちいち感謝してくる。パラソルを広げてやわらかい地面に刺す。深く刺さないと倒れてしまう。これは力が必要だから、兄貴に頼むことにした。兄貴は戸惑ったけれど、力を入れてビーチパラソルを深々と差してくれた。こういうときは腕の筋肉が隆起して、男っぽい姿になる。後で知ったのだけど、兄貴は水着を見につけるのにとても多くの時間を費やしたらしい。たぶんこの前の、風呂に入るのに時間をかけたみたいなことなんだろう。どういう現象なのかは、まだ不明なのだけど。
 夏休みになってすぐ、ぼくらは電車に揺られてこの町にやってきた。宿にサインを済ませ、荷物を部屋に置いてから早速の海なのだった。ここまでの費用をすべて一人が担っているのだから、申し訳なさよりもまず呆れが出てきてしまう。準備の完了したパラソルを眺めながら、横目にぼくは関澤さんの姿をとらえた。
 隅のほうで、兄貴と社さんがなにやらこそこそと話をしている。
 そういえば社さんは、ぼくにビキニの着方を訊いてきた。社さんはどうやらそれができなくなっているらしい。坂松さんが嘆いていたから、以前はきっとできていたのだと思う。
 兄貴が社さんの胸元を指差す。なにか指示しているような顔をしている気がするけど、ここからじゃなにを言っているのか分からない。ともかく、なにか相談してるのだろう。
 二人はぼくの視線を感じないのか、どんどん口を動かしていく。もしかしてぼくって、気配を薄めて盗み聞きする素質があるのかな。ふとそう思って、すぐに否定した。結局、ぼくはなにも聞けていないからだ。……二人が視線を感じないのに対して、ぼくは強い視線を嫌でも感じ取ってしまった。
 視線の元手を手繰り寄せる、案外簡単にその正体が分かった。坂松さんだ。坂松菊恵。ぼくをこの宿泊に誘った張本人だ。
「寺本さん、あなたって……」
「う、うん? なにかしたかな?」
 口調が片言になっているのが自覚できた。坂松さんの恨み顔が背中をさする。嫌でも姿勢がよくなった。
「あなたって……」
 その続きの言葉が恐ろしかった。いったいどんなことを言われるのだろう。せっかく仲良くなってきた気がしたのに、まさか……。
「着痩せするタイプなんだね……」
 坂松さんがぼくの胸を指差した。
「へ……まあ、うん?」
 なにが言いたいのかはよく分かった。よく分かったけど……こういうとき、どう反応したらいいのか、ぼくのマニュアルにはまだ存在しない。早急に新たな記事を書くべきか。そういっても。
「わたしより大きいなんて、なんで、なんで」
 坂松さんがなにかとぶつぶつ言っている。
「えと、別にぼく、普通だから!」
「え、じゃあなに!? わたしが普通じゃないって言いたいの!? 貧――」
「海行こ! 海!」
 坂松さんの腕を引っ張った。向かうは青く光る海。砂浜と海が、せわしなく攻防を繰り広げている。境目がよく動く。海水はとても冷たかった。この暑いのに、海水は熱せられることを知らないのかな。
「こんのぉ!」
 とっていた腕を、坂松さんがとり返してきた。ひどい力でぼくの体が地面を離れる。
「はう!」
 海に突っ伏された。頭から海水をかぶってしまう。辛うじて水を飲むのは免れた。
「この! 死ねえ!」
「違う! それ違うから! 殺、人!」
 水が口に入ってきて、それ以上口を言うのは中止せざるを得なかった。坂松さんはぼくの頭を鷲づかみにしてる。拷問みたいにぼくを海に入れては出して、出しては入れて……。
「ちょ……まじで……苦っ……し!」
 声を出さないと本当に息ができそうになかった。ちょ、坂松さん我を忘れたみたいに怒ってる……。
「助け――」
 後ろに手をまわした。がむしゃらに手を振り回す。本気で命の危険を感じた。まわりがどうなっているのか、なんでまわりの人が駆けつけてくれないのかも分からない。ぼくは一生懸命、手に掴んだものを引っ張りまわしていた。とにかく坂松さんから離れないと。そう思って。
「ひゃ!?」
 途端、ぼくを縛り付けていた力が消えた。ぼくは咄嗟に坂松さんから距離をとる。砂浜から遠ざかった。まだまだ足はつくところだ。
 ぼくは坂松さんの様子をやっと確認した。座り込んでいる。顔が真っ赤だ。それもそのはず。ぼくが掴んだものは、坂松さんの水着だったんだ。ぼくはそれを引っ張ってしまった。
 坂松さんは、自分の腕をクロスして胸元を隠している。背中を丸くして、絶対に見られたりしないよう緊張しているのが見て分かる。とれた水着を直そうにも、直すには手が必要だから、手は胸元を隠すのに必死だから、するにできない。そのまま動けずにいる。
 だんだんまわりの視線が集まってきているのが分かる。坂松さんの|操《みさお》が雨に晒されていた。雨降ってないけど。「操」って言葉の使い方合っているのか分からないけど!
 ぼくはすかさず彼女に駆け寄った。海の中だから走りにくい。ぼくは彼女のビキニの、首にかけるほうの紐を手に取った。それを軽く結ぶ。その次に背中のほうの紐をきつく縛った。縛られた復讐のつもりにでも、慈悲をかけてあげるつもりでも。案の定彼女はきついのを嫌がらなかった。その間にも、加藤くんや宇治くんはぼーっとその過程を眺めている。この変態。そう毒づくのはやめておいた。まだちゃんと話したこともない。
「ごめん……」
 水着が元に戻ったところで、坂松さんはやっと謝ってきた。ぼくは「ほんとだよ」と小さく呟いた。彼女はその声よりも小さくなっている。肩をすぼめたその姿は、本当に小さい……。小さい。
「今、小さいって思った?」
「思った」
「死――」
「脱がすよ?」
「ごめんなさい」

 加藤くんが用意していたビーチボールを打つ。力強く打ったつもりだったのだけど、海に付着したボールは跳ねることなく浮かんだ。だけれどこれで一点取った。勝利は目前だ。
 寺本兄妹チーム対宇治&矢倉ペア。ちなみに一回戦、もとい準決勝だ。二人ずつペアになって、トーナメント戦をおこなっている。さっき、社&関澤ペア対加藤&坂松ペアの試合で、社&関澤ペアが勝った。
 こちらのサーブ。兄貴がまるでテニスのファーストサーブみたいに腰を唸らせた。手首の付け根のあたりでぶつける。ネットにはかからなかった。ネットないけど。
 宇治くんがボールを受け止めて、高くのし上げた。来る。そう直感した。矢倉さんが腕を大きく振りかぶって、スマッシュを決めようとする。
 ……タイミングが合わなくて空振りした。ボールがこつんと矢倉さんの頭を突いて、水の上に音もなく落ち込んだ。寺本兄妹の勝利が決まった瞬間だった。
 さっそく二回戦、もとい決勝戦が開かれた。相手は社&関澤ペア。ちょうど目的通りの決勝戦になった。
 ぼくらは考えあぐんでいた。兄貴と社さんの療養をするといっても、具体的になにをしたらいいのか分からなかったからだ。なにをしたら脳に良い影響が出るのか、そんな知識は持ち合わせていない。それで結局、楽しく適当に時間を過ごしていたらいいんじゃないかという話になった。せっかく海にまで遠出してきたのだから、家にこもっていたらできもしないことをしよう、という話になったんだ。それが療養につながるかどうかはともかく、ここに来たのだから。遊ばないと。
 十点取ったほうが勝ち。お互い九点同士になったときからはデュースとして、二点連続で取ったほうが勝ちになる。じゃんけんでサーブは向こうからとなった。なんだかやけに真面目くさいルールだ。
 社さんのサーブ。ゆるやかな波を描いてちょうどぼくのところへやってきた。それを受け止める。コートの境界線は、浜辺に立っている坂松さんが基準となる。坂松さんが立っている位置が、テニスでいうちょうど審判のいる位置になるのだ。つまり、坂松さんの立っている延長線がコートの境界。
 ぼくが受け止めただけで、ボールはその境界を踏み越えてしまった。特に攻撃もできないで向こうに渡してしまった。ボールが向かったほうへ、関澤さんが駆ける。海では走りにくいけれど、届かない距離ではなさそうだ。案の定関澤さんはそれをキャッチし、上に真っ直ぐのし上げた。風に飛ばされて、だけどちゃんと紐に繋がっている凧みたいに宙を舞う。それを素早く社さんが押した。それはあまり波を描かずに、境界付近にちょいと落としてしまう。取ろうとしたけれど体が前のめりになった。相手の先取。
 気張ってもいられない。今度は関澤さんのサーブだ。一回戦の試合を見た限り、関澤さんのサーブは弱いから気にすることはない。
 頭よりも少し高い位置にボールを掲げて、軽く打ってきた。やっぱり弱い。これなら簡単に――? 
 ボールは弱弱しくて、回転もしていなかった。今までの関澤さんのサーブの中でも、特に弱く打ったサーブだ。だけどボールは、回転していないせいですとんと軌道を変えて。
 〇対二。二点も先に取られてしまった。もう。
 次はこちらのサーブだ。まずは兄貴。兄貴は運動はできなくもないほうのはずだけど、最近はそうでもないから心配だ。それでもちゃんと、向こう側にまでボールは届く。簡単に社さんに受け止められて、こちらに返ってきた。ぼくがそれを返す。それを今度は関澤さんが返す。テニスみたいに、一回触るだけで向こうに届いてしまう。バレーとしてどうだろうとは思ったけど、これも戦略のうちだ。格好つけて言えば。
 〇対三。〇対四……? どんどん点差が離れていく。なぜだかこっちの攻撃が利かない。関澤さんのペースが取りづらいんだ。マイペースな調子が難しい。なかなか取れない。〇対五、〇対六……。加藤くんが囃し立てた。宇治くんがわざとらしい溜息を吐く。
「ぷっはー!」
 加藤くんが、炭酸のジュースを飲みきってそう言った。言ったというよりも、声を発したというべきかもしれない。
 結果として、完敗に終わった。
 ビーチパラソルの下で、缶ジュースをみんなで飲む。これも、関澤さんのおごりだ。いったいこの人は、どれだけおごるつもりなのだろう。さすがに申し訳ないけれど、金をちらつかせられるとつい受け取ってしまう。人間の|性《さが》というか。なんというか。
 海のにおいがジュースと混ざる。はっきりと混ざる。
 兄貴と社さんは、なにも言わずに隣り合っている。相談するでもなし、語り合うでもなし。ただ砂浜に消える線をなぞりながら、二人はまるで恋人のように隣り合っている。頭打ってから親密になったのか。それとも元から、人数の少ないクラスだからなのか、無言で空間を共有できるくらい仲が良かったのかもしれない。
 でもまさか、付き合ってたりはしないよね?
 そりゃそうか。
 今日のぼくは、まだそう考えていた。


     2

 暗くなってきたから宿に戻ってきた。部屋はみっつ借りた。本当は男女の二部屋にするつもりだったのだけど、兄貴と社さんがどうしても一緒の部屋にしてほしいと、金は払うからと、そう懇願したのだった。いったいこの二人はなにを考えているのか分からないけれど、関澤さんも強く同調したから許諾された。さらに関澤さんが金を支払うというのだから、なおかつ怪しい。関澤さんは、二人にいやらしいことをさせたいのだろうか。そもそも二人はなんの目的で同室にしてもらおうとしたのだろうか。やっぱりいやらしいことしたいのだろうか。ちょっと待っていつの間にそんな仲になったんだ。と、ぼくの頭は一時期、混雑した環状線の電車内みたいになっていた。
 三つの扉が並んでいる。一番左側が宇治くんと加藤くんの部屋。一番右側がぼく含める女子四人の部屋(ちなみに他の部屋よりも少し大きい)。真ん中が兄貴と社さんの部屋だ。
 夫婦気取りかよ。一緒に部屋に入る二人を見て、ついそう思った。だけれど二人とも、顔は笑っていない。逃げ場を求める小動物みたいに、部屋に入っていく。
「ねえ、寺本先輩と社先輩って、付き合ってたのかな」
 案の定というべきか、部屋に入った途端に坂松さんがそう発言した。矢倉さんもそれに同調して、ぼくに意見を求める。
「知らない」
 ぼくはそれだけ言って、布団を敷き始めた。
「え、もう寝るの?」
 そう指摘されて、恥ずかしくなって途中でやめた。まだ温泉にも入ってないのに、夕ご飯も食べてないのに、眠るわけがない。眠らない。眠らないのだから布団はまだ敷かない。いつも家ではベッドだから考えが及ばなかったけど、布団は普通、寝る直前に敷くものだ。
 ほどなくして夕食がやってきた。豪華だ。魚の身が開いている。頭がおまけになっている。これがもし人に置き換わったらなんてグロテスクに映えるだろう。お茶が急須に入っている。なんてお洒落なんだろう。とにかく上品で、綺麗で、美味しそうで、実際に美味しい。
 漫画本は持ってきているけれど、読む暇がない。暇そのものはあるのだけど、それを読むだけの葛藤に打ち勝つ心というか、なんというか、部屋の子たちの会話から抜け出せる気がしない。ああ、あの宇宙スーツどうなったんだろう。まさか主人公が、あの男の人ではなくて宇宙スーツのほうだったなんて。続きは鞄の中に。
 部屋には広く開いたベランダがある。山のほうを向いている。ぼくはベランダに出てみた。漫画を読む暇がなくても景色を見る暇はあるのだから、宿泊というものは不思議だ。
 もう暗い。闇を照らすような灯しが、ほとんどないせいだ。まるで引き込まれていくみたいに、ぼくの目は暗闇に馴染んでいった。他の子たちもそうらしい。唾を飲み込むことも忘れて、しんしんと繁っている木を眺めている。眺めているのは木のほうかもしれない。向こうになにかがいる錯覚に陥った。そんな、ある種では神秘的な景色だ。
 女中が、なにも載っていない皿を取りにきた。夕食の残骸だけが、隅のほうで肩を縮めている。ぼくはそれに目をくれてやらなかった。残滓は燃やされればいい。暗くない。決して、暗くなんかない。
 横を見ると、そこに兄貴がいるのが分かった。顔は見えない。この宿は、ベランダが繋がっているらしい。だけれどそれだと迷惑な客がいたら困るから、人が通れないように少しでっぱった仕切りができている。そんな状況で兄貴の姿を目視することができたのは、向こうが体を前のめりにしているからだ。
「……大丈夫か」
 そんな声がした。社さんの声だ。たぶん兄貴の後方にいるのだろう。
 兄貴の顔が引っ込んだ。ベランダに前のめりにするのをやめたのだ。
「もうすぐ温泉だよ」
 兄貴がそう言う。やはり声が女々しい。
「どうするの? 私、そんなに強くないよ。雄吾のだけでもう、死にたくなったのに」
 兄貴が自分を下の名前で呼ぶのには、とてつもない違和感があった。はっきり言って気味が悪い。
「あ、そういえば菊恵、それと瞳」
 関澤さんが、坂松さんと矢倉さんを小声で呼びかけた。この三人は、まだ隣の部屋の様子に気付いていないんだろうか。
「なに?」
 関澤が小声をするものだから、坂松さんも小声で返した。眉を曲げているから、たぶんまだ兄貴たちの声に気付いていない。
「言い忘れてたんだけど、加藤がなにか、用があるってさ。それと、瞳は宇治くんに」
「え……」
「菊恵はたしか、この宿のお土産店のほうかな。それで、瞳は宿の外の、あの大きな木が立っていたところ」
 告白?
 なんだか分からないけれど、関澤さんに言われるまま、二人は部屋を出て行くことになった。二人とも不可解な顔をしているが、男子に呼び出されたことに興味を持ったのか、特に抵抗を示すことなく部屋を出て行く。
 ベランダにはぼくと関澤さんだけになった。
「…………」
「…………」
 ぼくらはなにも話さない。とりあえずぼくは、その間も繰り広げられていた、隣の会話に耳を潜めた。
「女って、実際はそうなのか。俺のイメージでは、男のそういう部分を見ても特になにも思わないと思っていたんだが。……それとも、社、おまえが特別なのか」
 社さんがそう言った。
「知らないよ。人を女で纏めないで。私は私だけなんだよ。女だからこうだ、なんてあるわけない」
 兄貴がそう言った。そこまで聞いて、関澤さんが声を押し殺して肩を震わせた。笑っている。
「たとえば、雄吾はどうなの? 私の裸、当然もう見たんでしょう? じゃないとお風呂にも入れないんだもの。それで、どう思ったの?」
「そりゃあ、おまえ……」
「……サイテー」
 こんがらがってきた。「男のそういう部分」とか、「裸」とか、なにやら不穏な会話をしている。だけどそれが会話として成り立っているのか、まったく分からない。兄貴は兄貴自身を雄吾と呼んで、自身に向けて言葉を発している。女々しい口調で。そして社さんも、まるで男のような言葉遣いで話している。どうなっているんだ。
「男はみんな同じなんだよ。女は違うのかもしれないが、男は同じだ。女の裸が見られるのなら、見るのが当然だ」
「分かったから、それ以上言わないで」
「それで、これからの風呂をどうするか、だな」
 社さんが話題を元に戻す。いちいち男口調なのが紛らわしい。なんだか頭を打つ前の兄貴みたいだ。仲がいいと言葉遣いも似てくるのだろうか。
「私は、入らない。水着に着替えるところに、個別のシャワールームがあったでしょ。そこを借りる」
「……まあ、それなら俺以外の裸は見なくて済むな」
「雄吾は、どうするの? 一緒に行く?」
「一緒に行くって……誘っているのか」
「なんでそういう思考になるのよ!」
 兄貴がヒステリックに声を荒げて、それから数秒だけ沈黙が流れた。また兄貴の頭がベランダからはみ出て、ぼくの視界に入ってきた。それと同時に、傍にいた関澤さんがぼくの体を強引に引っ張る。
「へ?」
「し、静かに」
 関澤さんが、ぼくが声を出さないように口を手で押さえた。ぼくは引き倒されてしまって、横になっている。
「よし……気付かれなかったみたい」
 関澤さんがそう呟いて、ごめんね、大丈夫、とぼくに訊いてきた。口を押さえられているから返事ができない。関澤さんは、声を出さないでね、とだけ言って口を解放した。ぼくは彼女に抗議の発言をしようとしたけれど、しっ、と唇に指を立てられる。
「誰もいない、よな」
「大丈夫みたい。ごめん。大きな声出して」
 兄貴が社さんに女々しい声で謝った。
「俺は、正直言うと女の裸が見たい」
「うっ」
「だけど大丈夫。俺はおまえの体にイタズラとかちょっとしかしねえよ」
「ちょっとはするの!?」
「じゃあ……おまえに許可貰ってからやるよ」
「ぜったい許可とかしないんだけど!」
 二人の応酬らしき話は先の見えないまま進んでいく。
「分かった。そんな顔するなって。普通の俺はそんな顔しないって」
「…………」
「俺もシャワールームに行くよ。それでいいんだろう」
「……うん」
「一緒にシャワーするのか」
「しない」
 沈黙が流れて、ドアが開く音がした。兄貴たちがシャワーに向かったのか、最初はそう思ったけど、さすがに隣の部屋のドアの音が聞こえてくるわけはない。そんなに安っぽい宿ではないのだから。
 振り向いたら、不機嫌そうな女子が二人、ぼくと関澤さんを睨んでいた。
「なによもう! ただの嘘だったなんて」
 帰りに買ってきたらしいスナック菓子を口に投げ入れながら、坂松さんはそう怒鳴った。顔が赤いのは、潮風に当たったからだろうか。夏なのに。
「ごめんごめん。すぐ訂正しようとしたんだけど、思ったより二人とも乗り気だったから」
 関澤さんが取り繕う。笑う。
 ……この人はいったい。
「さあ、それじゃあ温泉行こ! 温泉!」
 坂松さんがそう言って、ぼくと関澤さんは顔を向かい合わせた。目の表情だけで、これからどうするか相談してくる。だけどぼくは、目だけじゃ意思を伝えられない。そんなコミュニティ能力は持っていない。
「温泉行こうか」
 だからぼくは、実際に声に出して意思表示をした。そうそう、行こう! って坂松さんが手を上げる。
 温泉。湯気が体の内側から込みあがってきて、ほかほかした空気に侵されている。試しに頭にタオルを置いてみたら、割と落ちないようにバランスを取る必要がないことに気付いた。安定している。温泉は室内と室外のものがあって、透明のドアで隔てられている。ぼくら四人は室外の熱いお湯に浸かっていた。お湯の中は本当に熱いのに、頭のほうは風が冷たい。夏なのにお湯の熱さで寒く感じる。特にお湯と外気の境界は、不思議な感覚に包まれていた。
「あれ? そういえば社さんは?」
 矢倉さんがそう言う。ぼくは首を振った。それを早合点してしまったらしく、矢倉さんは「ああ、そうか……」と神妙に頷いた。
「ねえ寺本さん、普通、初体験ってどれくらいの年でするものなんだろう」
「は?」
「いや、だから。社さんと、寺本さんのお兄さんって、今頃ずっこば――」
「は?」
「いや、だから」
「坂松さんちょっと黙って」
「二人で部屋にこもって」
「黙れ」
「はい」
 でも、その可能性もないことはなかった。ベランダでの会話を聞いていると、こんがらかってどうしようもない頭をさすっていると、どうしてもその可能性も考えないといけない。二人でシャワールームに行って、いったいなにをしようと。せっかくの温泉に入らずに、わざわざシャワールームに行く意味。
 温泉とシャワールームの違いがなにかというと、それは、個別で使用できるかどうかということだ。温泉の場合、この広い温泉を一人で占領するころはできない。だけれどシャワールームの場合、水着に着替えるためのあの場所は、狭いけれど一人だけの空間を作り出すことができる。そこに、二人で一緒にいたら。
 寒い感覚のほうが勝ってきた。うええ。
「でも、そう考えるとこの宿って、カップルにとっては不便だよね」
「……なんで?」
 矢倉さんの発言に、ぼくは反応を示す。心内では、兄貴たちがカップルなわけないじゃん、とツッコミたかったのだけど、断言できないというか、もうあの二人が付き合っているのは本当のことのように思えてきてしまった。
「だって、部屋にはトイレしかないじゃん。お風呂に入るには、温泉を使わないといけないでしょ? それって、部屋で行為したら、洗うには温泉行かないといけないってことだよね?」
「あー確かに」
 矢倉さんの意見に、坂松さんが同意する。なんでこういう話で盛り上がれるんだろう。
「たぶん、あの二人はなにもしないと思う」
 突然、さっきまで黙っていた関澤さんが言葉を発した。
「……どうして?」
「たぶん、あの二人がやるのは夏休み最終日だね」
 そう予言する。
「ねえ関澤さん」
 ぼくは、今日感じた疑問をそのまま口に出そうと、彼女の名を呼んだ。
「でもやっぱり、由美っておっぱい大きいねー」
 だけど関澤さんは、強引に話を捻じ曲げてきた。まだ質問もしていないというのに。まるで見透かされたみたいに。しかも下の名前で呼び捨てだし。
「いやいや、大きくないって」
「大きいって!」
 坂松さんが興奮した調子で食いついてきた。なんだこの人、胸の話になると元気になって。海に入るときそれで死にかけたから、坂松さんのこの様子は気が気でならないのだけど。
「というか由美って、背が小さいわりにってところあるよね」
 矢倉さんも話に便乗してくる。ついでにこの人も「由美」呼ばわりだ。
「そうだよ! 寺本さん、その背でそれは大きいんだって!」
 興奮してて流れが掴めていないのか、坂松さんはまだ苗字で呼んでくる。そっちのほうがまだ気がラクなのだけど。
「というか、背が低くて悪かったね」
「悪いよホントだよもっと背伸ばしなよ!」
 坂松さんのマシンガンのような発言に、さすがに熱が逃げていった。のぼせることはなさそうだ。むしろ坂松さんがのぼせたりしないか心配。
「由美ってなんセンチ? 一五〇くらい?」
「……一四七」
「ぷっ」
「笑ったなあ!」
 相手の首元を締めにかかった。遠くでおばさんたちがおかしそうに笑っているのが見える。でもそんなこと気にしない。これが高校生だ。これが。
 温泉から覗く空は、もう真っ暗で星が散りばめられている。白い星。砂粒のような星。ただ月だけが異様に大きい。魂を吸い取ってしまいそうなぐらい大きい。
 身長の低いのは気にしていたけれど、それを言ってくれる友達はいままで、高校に入ってからいなかった。たまに兄貴が嘲笑ってくるけれど、それだけだった。だからこれは、ぼくにとってはとても大きな進展でもあった。兄貴と社さんが変になってくれたおかげで、ある意味、ぼくはだんだん幸せの階段を上れているんだった。
 それはつまり、兄貴が対価を払ったみたいに、もう取り返しのつかないことのようだった。

 浴衣というものを経験しながら、自分たちの部屋へ戻ろうと廊下を歩くと、加藤くんと宇治くんに遭遇した。
「お」
「あ」
 宇治くんは飲料水を飲んでいて、加藤くんはアイスクリームを舐めていた。売店の前の、簡易的に設置されたベンチで。
 この宿、質素なようでいろんな施設があるなぁ。そう思いながら、ぼくは部屋に戻ろうとしたのだけど、宇治くんのほうがぼくを呼び止めた。
「なあ、寺本」と言って。
「……なに?」
「おまえの兄貴、さっき外で見たんだけど」
「……あ、そう」
 だからなんだというんだろう。
「もしかして、社さんとおまえの兄貴って……恋人同士なのか?」
「むむ?」
 坂松さんが話に興味を示す。
「知らない」
 ぼくは正直に答えた。
「なにがあったの」
 坂松さんがぼくの疑問を代弁した。
「いや……手つないで歩いてたから」
「やっぱり、あの二人……」
 坂松さんが呟く。
「だけど私、初体験は大学生になってからのほうがいいと思う」
 なぜかズレた発言をする矢倉さん。
「行こう、由美」
 男子たちの発言には耳も向けないで、立ち止まったぼくの手を関澤さんがとった。ぼくもそれに同じて、関澤さんと手をつないで部屋に戻る。
 廊下は綺麗に清掃されていて、埃はまったく見えやしない。ちょうどいい加減のランプが灯っていて、それが遠慮がちに関澤さんの顔を照らした。なにがおかしいのか、にやにやとした表情をしている。
「ねえ、関澤さん」
「なに、由美」
 ぼくは言う。
「なんで温泉のとき、夏休み最終日にその……あれだって言ったの?」
「ただの勘だよ」
 関澤さんは、迷うことなくそう言った。


     3

 傾斜を進む。腰に圧力がかかっている感覚が重い。だけど緑色のにおいが心地いい。先頭を兄貴と社さんが並んで歩いている。手はつないでいない。その後ろに宇治くんと加藤くん。そこから少し離れた後ろに、ぼくはいた。ぼくとちょっと離れた後ろに、三人の女子がのろのろ歩いている。遅い。
 早くー。そう言うつもりはない。今は一人で考えたかった。
 今朝、六時ぐらいにぼくは目覚めた。こういう宿泊関係ではつい、早起きをしてしまう。
 他の三人は、まだ寝ていた。ぼくは眠気眼のまま、ベランダに出た。霧のかかった木々は、これまた独特の感性が光っている。この場所が好きだ。ぼくはそう思った。
 嗚咽が聞こえたのはだいたいそんな瞬間だった。
 それが誰だかは分からなかったけれど、隣の部屋からであることはよく分かった。隣の部屋は、兄貴と社さんの部屋だ。
 ぼくは兄貴が泣いているのを見たことがない。小さいころにあったかもしれないが、記憶にない。そのせいもあって、嗚咽の主が兄貴なのか、社さんなのか、判別をつけることができなかった。だけれど、隣の部屋で誰かが泣いているのは明確だった。
 傾斜を進む。山の背は低い。山というよりも、ここは丘なのかもしれない。本格的に登山する用意はしていないから、あまり高い山は登りたくない気もあった。それはみんな同じのようで、あの関澤さんも、登山用のものについては金は払わないと言ったほどだ。だけどせっかく山があるのだし、その山の形状から、どうやら小さな丘のようなところもあるから、そこだけ登ろうという話になったんだ。その話がついたのが、確か、朝の八時くらいだ。
 蝉の|音《ね》がする。蝉の知識はないから、それがどの種類なのかは分からなかった。
 腰が重い。山は苦手だ。それがたとえ低い山でも。……そもそも、低いというのは相対的なことであって、現に人よりはずっと高い。基準のない、相対的な形容詞に惑わされては、あまりいい結果は出ない。たぶん化学はそういうものだと思う。……いつの間にか思考が化学にシフトしていた。ここに来ていなかったら今頃、自分の口内の皮膚を切り取って、適当に酢酸オルセイン溶液でも垂らしているだろうに。まあ、帰ってからでも、いくらでも時間はあるのだけど。
 やっと丘の上についた。広くはないけれど丸っこくて居心地がよさそうな土地だ。芝がならしてある。宿の所有地なのかと疑ってしまうくらい、ここは綺麗に整っていた。木も真っ直ぐだ。
「うーん、あまり綺麗といえないね」
 宇治くんがそう感想を述べる。ぼくも心内で同意する。規則的な自然は美しくない。ここまで来るまでの道は、自然ぽくて気に入っていたのに。なんというか、頂上についてしまって幻滅してしまった。以降、ぼくはベランダからの景色を楽しめるだろうか。
 それでも、もし景色が気持ちのいいものでなくなったとしても、ぼくはベランダに出るだろうな。兄貴と社さんを見て、ぼくはそう思った。二人の目元を眺める。目はあまりよくないから、泣いた痕があるのかどうか分からない。もうちょっと、近づいてみないといけない。
 そうしているうちに、後ろの三人も丘の天辺に到着した。
「あれ? なにこれ人工的ー」
 坂松さんが開口一番。矢倉さんも、景色に向かって小声で毒づいた。ただ関澤さんだけは、顔色変えないであたりを見渡している。
「ねえ、もっと上に行ってみようよ」
 そう提案してきたのは、関澤さんだ。その途端、兄貴が肩をびくつかせた。
「兄貴、どうしたの?」
 目元を見られるチャンスだ。その変化を口実にして、ぼくは兄貴に近づいた。
「いやいや、なんでもないよ」
 女々しい。そして、兄貴の眼球は赤くなっていた。ああそうか、早朝に泣いていたのは兄貴だったのか。
 でも、なぜなんだろう。社さんに振られでもしたのかな。そうふと思って、だけど丘を登るときずっと隣り合っていたことを思い出して却下する。
「上に行こー」
 関澤さんのしぶとい意見を聞き入れることにして(スポンサーの要望は基本的に聞いておかないと後々面倒なことになる)、ぼくらはもう少し上のほうまで登ることにした。一旦丘を下りて、登山コースの道を歩くのだ。でも、頂上まで行くつもりはない。それは関澤さんも同じのようだ。それなのになぜ登りたいのか、関澤さんは教えてくれない。まあ、丘の様子が不満だったからなんだろう。
 ぼくはちゃんとした、兄貴の妹だ。泣いていたのを知ったなら、場合にもよるけど、それを聞いてあげるべきなんじゃないだろうか。そう思う。特にこの状況、兄貴は階段で転んでから、いろいろとなにもかも変わってしまっている。夏休みになってから知ったことだけれど、兄貴と社さんは、夏休みの遊びの計画をすべて破棄したらしい。この異常事態で、いつも仲良く遊んでいる子と遊ぶのがつらくて仕方ないんだ。
「兄貴」
 ぼくは歩きながら、加藤くんと宇治くんを通り越して、兄貴の隣にぴったりくっついた。
「……なに」
「なんで泣いてたの」
「…………」
 は、と社さんが息を詰まらせた。
「朝、聞こえてたよ」
「この!」
 社さんが拳を作った。それを振りかざす。ぼくは硬直してしまった。だけれど、兄貴が潤んだ瞳で社さんを制したから、ぼくは殴られずに済んだ。
「……悪い」
 社さんが腰を曲げる。ぼくはそのまま、動くこともできず彼女の背中を眺めた。すらりとした背中は、さっきの傾斜みたいに美しい。それなのに。
「由美ちゃん」
「…………」
 兄貴に「ちゃん」付けされるのは、まだ慣れない。
「どうかもう、盗み聞きはしないでね」
 ――これは二人の問題だから。
「おーい、どうしたんすかー?」
 加藤くんの声に気付かされて、兄貴はなんでもないと言った。そして歩を再開する。後ろのほうで、関澤さんがくすくす笑っているのが見えた。彼女の行動だけは、目の悪いぼくでもまるで切り離されたみたいによく見える。
 そのまま登っていった。途中、急な、泥んこの坂があった。まず加藤くんが、進めるかどうか渡ってみせた。加藤くんがちゃんと坂を上りきると、それに続いて、兄貴と社さんが上りだす。足元がおぼつかないからなのか、二人は手を握り合いだした。それを見てか、関澤さんが真っ先に坂に向かう。そして二人を追い越して、坂を上り始めた。一気に三人も一緒に上ると、転んだときに危ないのに――。
 上りきるというところで、関澤さんの足が泥に滑った。そのまま、兄貴と社さんのところへ転がっていく。二人に大袈裟にぶつかった。二人が体勢を崩す。二人は抱き合うような形で坂を転がり下ってしまった。ところどころにある鋭い石が、二人に傷をつけてしまう。関澤さんは加藤くんに保護されたから、転ばずに済んだ。
 社さんが唸る。腕が痛々しく赤くなっている。
 ぼくはそれを見てすぐに思いついた。これは、階段のときと似ている。絡まるように上から下へ、真っ直ぐごろごろ転がっていく。それはまさしく、あの雨の日の二人と同じだった。
 だけど、それで二人が治ることはなかったみたいだ。一瞬だけ期待してしまったのだけれど、そう簡単に治るわけないか。
 治っていないことが分かると、今度は関澤さんへの怒りが、ふつふつと湧き上がってきた。あれはわざとだ。ぼくはそう確信した。
「大丈夫っすか!」
 上のほうから、加藤くんが叫ぶ。その近くで、関澤さんがしたり顔をしている。ぼくは関澤さんのその顔を睨みつけた。さっとその表情が内に隠れた。
 ……ぼくだけがなにかに気付こうとしていた気がする。関澤さんのなにか。とんでもないことに。
 それはだけど、やっぱりぼくだけだ。みんな、二人に大きな怪我がないことを確認すると、またゆっくりと登りはじめた。ぼくはその間、ずっと上のほうの関澤さんを睨みつけていた。矢倉さんが、なにそんな怖い顔しているの、と訊いてきたけど、仕方ない。ぼくは一番最後に坂を上った。
 だけれど途端に、関澤さんが言ったのだった。
「帰ろう」って。
 はぁ? そう声を漏らしたのは加藤くんだ。坂松さんもぶーぶー言っている。こんなことだろうと思った。関澤さんが山を登ろうと言い出したのは、きっと、兄貴と社さんを転ばせることが目的だったに違いない。それを済ませたのだから、もうむさ苦しい登山をする必要もない。そういうことなんだろう。
「帰ろうか」
 ぼくは皮肉を込めて、そう言った。坂松さんはまだなにかと愚痴を垂らしているけれど、宇治くんがそれに同調してくれた。兄貴と社さんの腕を見ながら。大きな怪我でないにしても、確かに、絆創膏を貼ったほうがよさそうな怪我ではある。宇治くんは、ぼくがそのつもりで言ったと判断したのかもしれない。
 ぼくらは傾斜を下りていった。登った意味がなくなってしまったが、それでもぼくは、だんだん「謎」の存在を掴めてきている。
 こうしている間にも、ぼくの知らないところで、いや、今ここで知らない内に、なにかとんでもないことが起きている気がしてならない。だけどそれは気がするだけだ。まだ、関澤さんがおかしな子であることしか根拠がない。そんなもの根拠とはいえない。
 緑色の木々といっても、それはそんな、はっきりとした緑色ではない。むしろ強調しすぎて、濃く、暗くなっている。黒に混ざっていく緑色。そのにおいはいつかの雨よりもずっと重たい。だけどなぜか、このほうが安らぎがあった。
 宿に戻った。坂松さんと矢倉さんは温泉に向かった。汗をかいたのだし、温泉自体は無料なのだから、適切な判断と行動だと思う。それでもぼくがそれに準じなかったのは、関澤さんがあとでいくと発言したからだ。ぼくは咄嗟にぼくも後で行くと口走っていた。これは突発的な、ぼくからの宣戦布告だ。
 それなのに、関澤さんはぼくの相手をしないで、ひきつけられていくみたいにベランダに出て行く。まさか、疑問に思ったけど、そのまさかだった。
 横の部屋の人も、二人揃ってベランダに出ているらしい。
「妹たちは温泉に行ったみたいだぞ」
 社さんがそう言う。
「男の子たちも、行ったみたい」
 兄貴が返事した。
「あの、さあ」
 社さんが、躊躇いがちな声で言う。
「……なに?」
 兄貴の声は、あまり元気とはいえなかった。兄貴も温泉に浸かりたいのかもしれない。昨日兄貴は、シャワーで済ませたらしいのだし。
「昨日は、ごめんな」
「……いいよ。もともと、誘ったのは私なんだし」
 今頃思ったけれど、兄貴はいつもなら、自分のことを「俺」と呼ぶ。一般的な男子だ。……だけれど兄貴は、階段で転んでから、よく「私」を使う。「わ」と発言してから、慌てて「俺」に言い換えることもよくある。
「やっぱり、そんなにストレスになるものなのか」
 社さんが兄貴にそう言った。言い方から、それが質問であることが理解できた。
「そりゃそうだよ。近くで自分の体が、男子の手によって洗われてるって思ったら……」
「それはおまえも同じなんだけどな」
「わ、私はっ、そんな、洗……」
 しばらく沈黙が続く。
「……ねえ」
 沈黙を破ったのは兄貴だ。
「なんだ」
「なんで雄吾は、そんなに冷静でいられるの?」
「今の雄吾はおまえだけどな」
「私は絢だよ!」
「分かったから大声出すな」
 興味深いことを言ったように思った。だけれど、ぼんやりしていて、今の会話の真意が見えてこない。兄貴が社さんで、社さんが兄貴……? どういった暗号だろう。暗号というか、隠語というか。二人が交わったとでもいいたいのだろうか。いやいや。思考をそういった方面に持っていく必要はない、はず……。
「……俺だって、死にたい気分だよ」
「死なないでよね。それ、私の体なんだから!」
「……分かってるって。俺だって死にたくねえよ」
「どっちなの!」
 ぼくの横で、関澤さんが笑みを零しているのが分かった。だけれど関澤さんは、それをかろうじて押し殺していて、兄貴たちにその音は届かない。
「ねえ、いつ私たちは元に戻るの?」
 やっぱり色恋沙汰なのか。兄貴の発言を聞いて、ふとそう思う。
「あの坂で転がったとき、もしかして、と思ったよ。だが戻れなかった」
 社さんがそう言って、それから、また言葉を付け加えた。
「でも、俺今日気付いたんだよ。待っていても戻れない。俺たちがどうにか、元に戻る方法を見つけ出さないといけないんじゃないかって。腕を擦り剥きながら、そんなことを思っていた」
 がばっと物音がした。
「おいおい」
「押し潰されそうだよ。私は、雄吾と違って強くない。雄吾は今まで、たくさんの傷を負ってきたけれど、私はそんなことないんだ。今は不安で押し潰されてしまいそう」
「…………」
 緩やかな沈黙と、闇に包まれた緑色の静寂。ぼくはその中で、二人の盗み聞きをしている自分を責めたい欲望に駆られていた。
「だからって、恋人でもないクラスメイトを抱きしめるのか?」
「……私が今抱きしめているのは、雄吾じゃなくて自分の体なんだから。社絢の体なんだから」
「なあ、社」
「…………」
 抱きしめているのか。さっきの物音は、兄貴が社さんに抱きつく音だったんだ。なんて肉食的な行動をするのだろう。しかも、社さんのほうは「恋人でもない」と言い出すし。
「不公平だ」
「不公平って……」
「おまえが俺を雄吾と呼ぶんなら、俺にもおまえを絢と呼ばせろ」
「…………」
 部屋のドアが開いた。坂松さんと矢倉さんが戻ってきた。
 隣のベランダで、慌てふためく音がした。


     4

 やっぱり海のほうがいい。総意だ。山は登るにしても、なんの用意もしていない。準備がないとつらい節がある。だけれど海は、水着さえあれば、他になにもいらない。|人気《ひとけ》のないところなら水着さえいらないかもしれない。いるけど。
 怠惰を貪っているのか、健全に夏休みを満喫しているのか曖昧な日々が続いた。八月に到達し、あともう数日すれば家に帰ろうと思案している頃合だ。ぼくは浮き輪の力を頼りにして、わりと足の届かないところまで泳いできていた。一人では危ないかもしれないということで、関澤さんと宇治くんが一緒だ。
 水は、慣れてしまえば冷たくもなんともない。涼しい気分も通り越して、むしろ、感覚としては温かいというほうが近い。感覚器官が麻痺しているわけではない。本来、海水は温かいものなんだ。太陽は熱いし。
「おい、どこまで行くんだー?」
 少し後ろのほうにいた宇治くんが、ぼくと関澤さんに声を投げかけた。たしかに、結構遠くにまでやってきた。もうあと数メートル泳げば、本当に危険な領域に達するかもしれない。
 あ、監視員さんが怒鳴り声を上げてきた。さすがに泳ぎすぎたみたいだ。ぼくの浮き輪は水色だから、もしかしたら、なんの助けもなしに泳いだように見えるかもしれない。もしかしたら、波のあるときはそのほうが安全なのかもしれないけれど。
 隣で、関澤さんがくすくす笑っていた。
「帰ろう、関澤さん」
 ぼくは言う。関澤さんは、さして否定することなく向きを百八十度変えた。ぼくもそれに倣う。
「え……?」
 そしてぼくは目撃した。関澤さんも、ぼくの見る方向を向いている。宇治くんは不思議そうにぼくたちの様子を眺めているけれど、まだ、気付いていない。ぼくはなんだか、宇治くんに気付かれるべきではないと思った。
「関澤さん、まずは戻ろう」
 だからそう言った。関澤さんも、それには同意を示した。
 宇治くんは最後まで気付かなかった。

 砂浜に戻ると、まず先に監視員の説教をくらうことになった。それもそうだ。ぼくたちの身になにかあれば、監視員さんはきっと、クビになるかもしれない。管理不足だとかなんとかで、損害を支払うことになる決まりになっているかもしれない。ともかくぼくは監視員の具体的な事情について知らないけれど、それでも、必死に海水浴場を監視するような条件が転がっていることは理解できる。だから申し訳ない。かもしれない。
 ひとしきり説教が終わると、他の子たちが近寄ってきた。近寄るというのは物理的なことで、要するに、からかいにきた。坂松さんと矢倉さんと加藤くん。そこに、あの二人の姿はない。きっとさっきの場所にまだいるのだろう。
 ぼくと関澤さんは、その子たちを適当にあしらってあの場所に向かった。
 岩場の隅っこ。人は滅多に来たりしない。そもそも、こんな岩場、もとい穴場があることさえ、ほとんどの人が知らないだろう。ぼくも関澤さんも、偶然見かけるまでは、まさかこんな隅っこに足場があるなんてしならなかった。
 砂浜の端に、大きく出っ張った岩がある。顔にできたニキビみたいに、それは海水を侵食して、もう先に岩しかないように見せている。だけどいざ、その岩を伝って泳いでいけば、隔離されたような砂浜がある。沖のほうからでないと、そこを確認することはできない。
 ぼくたちはさっき、浮き輪に揺られながら見たのだった。
 ……兄貴と社さんが、二人っきりでその穴場にいるところを。
 さっき見たときは、別にいかがわしいことをしていたわけではなくて、座って、なにやら話し込んでいる様子だった。たまに砂を手で持ち上げて、さらさらと落として。二人っきりで、誰も来ない秘密の砂浜で会話。そんなの、いかがわしい行為でなかったとしてもいかがわしかった。
 ぼくたちは、砂浜の二人に気付かれない程度に、その場所に近づいた。上陸はしない。その途端に自分たちの存在が気付かれてしまう。海水に浸かったまま、大きな岩の隙間に隠れて、兄貴と社さんの様子を観察した。
 岩は細やかに隙間ができている。そのうちの、絶妙な大きさの穴から、二人の様子を目視することができた。関澤さんも、そういうところを見つけたらしく、岩の隅に隠れて、声を押し殺して笑っている。
 二人は今は座っていなかった。立って、至近距離で向かい合っている。
 ちょうど会話が一区切りしたところらしい。社さんは少しだけ目を伏せていて、兄貴も社さんを見つめながら口を塞いでいる。
「ねえ……」
 新たな話題を持ち出したのは兄貴のほうだ。
「関澤さん、あの人が、朝言っていたこと、覚えてる?」
「ああ、覚えてる……」

 ――今朝のことだ。今朝はみんな集まって朝ごはんを食べることにした。これは宿のほうからの手厚いサービスで、庭の一部をぼくらのために開放してくれたのだ。そこでご飯を炊いて、汁物を煮込んだ。
 関澤さんはスポンサーだから、あまり働かないようにしてもらっている。関澤さんは申し訳なさそうに、自分も手伝うよ、などと言ってくるのだけど、さすがにそんなことさせるわけにはいかない。今回の宿泊費用は、その九割以上を関澤さんが払っているんだ。そんな人を働かせるなんて、罰が当たる。当たらなくとも、自分たちで自分たちに刑を処してしまいそうだ。
 だから関澤さんは、仕方なく本を読んでいた。家からいくつか持ってきたらしい。ぼくの漫画本の場合と同じく、あまり読む時間を設けられなかったらしい。
 社さんが、器具を運びながら、なに読んでるんだい、と訊いた。
 関澤さんは本のタイトルを言わなかった。だけれど内容を教えてきた。
 男の子と女の子がいて、二人の人格が入れ替わってしまう話――。
「ね、ねえ! その話では、最後どうやって解決していたの!?」
 兄貴が食いついた。社さんも、目を輝かせて関澤さんを見つめている。
 関澤さんは兄貴の態度に少し面食らったようだけれど、二人にその本の結末を話した。……のはきっと嘘なんだろう。関澤さんはまだ、最後まで本を読みきっていなかった。それなのに結末をすらすらと二人に教えたのだから、やっぱり、それは仕組んだことだったに違いない。
 関澤さんのネタバレを聞いて、二人はなぜか赤面した。これはまさか、と思いはしたけれど、さすがにその場でそれを実行することはなかった。していたらぼくが殴っていた。まあ、切羽詰ってしなければならないことではないのだし。本の主人公たちとは違って。

「キ、キス」
 兄貴がそれを発言する。隣の関澤さんが、かすかに肩を震わせた。
 それと同じに、なにか硬いものがぶつかり合う音。それが歯と歯の重なる音だと気付くのに、ぼくは結構時間をかけた。
 ぼくは目を瞑った。
 隣で、関澤さんの震えが大きくなっているのが分かった。
「ん………」
「…………」
 ぼくがほどなくして目を開けたときには、二人は無言で向かい合っていた。兄貴の手が、社さんの腰にまわっている。
 二人とも無言だ。なにも語らない。語らないように、聞こえないように意識しているんだ。ぼくや関澤さんに聞こえることではない。相手、つまり見つめている相手に。
 二人は赤面もしてはいなかった。ただ見つめ合っていた。その色をなんというのか、ぼくの語彙ではとうてい思いつきもしなかった。二人は見つめ合った。それがどれほどの時間なのか、ぼくは手に取るように分かった。もどかしい時間の進み具合に憤りを感じた。だけどそう思うのはきっとぼくだけだ。関澤さんは笑っていなくて、ただ、二人の顔を観察していうようだった。彼女の真面目な顔というものを、ぼくは初めて見たかもしれない。
 二人の空間は終わらない。ぼくは、この後二人がどんな行動を起こすのか気が気でなからなかった。すると、二人は抱き合いだした。今度は赤面していた。関澤さんも、はっと息を飲んでいた。
「おまえが抱きしめてんのは、俺なのか、それともおまえなのか」
 社さんが、軽口そうにそう言った。だけれど喉が震えているのは明白だった。今にも泣き出してしまうんじゃないだろうかと、ぼくは思った。だけれど社さんは、気丈にも涙を流さない。少し瞳を潤ませるだけで、決して、涙を流さないように自分を言い聞かせているように見えた。
 兄貴のほうは、臆面もなくいちいち泣いていた。それが普通だった。頭を打ってから兄貴は、よく泣く。この前の登山のときもそうだし、その前も。
 階段で転ぶよりも前のころの兄貴は、ちょうど、今の社さんのような人だった。
 ぼくは自分に嫌悪感を抱き始めた。兄貴と社さんのこの様子を、覗き見る権利がぼくにあるだろうか。関澤さんにあるだろうか。
「ね、ねえ関澤さん」
 ぼくは関澤さんの傍に寄って、彼女の肩に触れた。ぼくと劣らず小さな肩だ。
 彼女はだけれど、ぼくのほうを向かなかった。無視された。哀愁とともに、ぼくは一瞬だけ自己愛憎に苛まれた。だけれどそれが無視ではないことに気付くと、ぼくはまた、兄貴たちの様子を眺めないことにはいかなかった。関澤さんが、少し大袈裟に唾を飲み込んだ。うなじが小刻みに居座っている。
 兄貴と社さんは、抱きしめあったまま倒れこんでいた。またキスをした。兄貴は泣いていた。社さんは涙を堪えるのに必死そうだった。
 ただ抱きしめて、唇を合わせているだけだ。それなのにものすごく艶かしく感じた。ぼくの体の奥底を、冷たいものがすぅっとなぞっていく感覚がした。視界の向こうで、高校二年生の男女が絡み合っている。どう見てもいやらしい光景にしか見えなかった。だけれど実際には、ただキスしているだけの(だけの?)、健全な青春からによる行為だ。艶かしい点もなければ、法を逆撫でするようなことでもない。
 ……実を言うと、口付けを直に見るのは人生で初めてだ。初キス。ぼくがしたわけではないのだけど。
 今更になって海水が冷たく感じられてきた。もう陸に上がってしまいたい。だけれど兄貴たちの動向から目を逸らすことができなかった。目を逸らしたら負けだ。なにに対して負けるのかはまったく分からないのだけど、それでもぼくは、目を逸らしてはいけないと思った。ぼくからの監視が途切れた途端に、二人はついに違法なことに手を染めてしまうような、そんな気がしてならないんだ。
 二人はもう、抱き合うことをやめていた。
「……たぶん、そのどっちでもないんだと思うよ」
 兄貴が声を出す。
「私は雄吾を抱きしめたわけでも、私を抱きしめたわけでもない。物理的には、私を抱きしめたことになるんだろうけど……。私が抱きしめたのは、この真実だよ。真実」
「真実……」
「こうなってしまった真実。それを抱きしめて、なんなのかも分からないのに抱きしめて」
 二人は、もとからいやらしい行為に染まるつもりは毛頭なかったみたいだ。ぼくの情けない勘違い。兄貴も社さんも純情だ。なんなのか知らないけれど、兄貴たちは問題に直面している。それならぼくに相談してくれてもいいのに、二人だけで塞ぎこんで。たぶんベランダでの会話は、そういったことへの会話だったんだろう。それがいったいどんな問題なのか、ぼくはまったく知らないのだけど。
「帰るか」
 社さんが言った。
 そのすぐ後に、ぐいとぼくを引っ張る力。関澤さんだ。そうだ。いそいでここを立ち去らないと。兄貴たちは、もう海水に入ろうとしている。砂場から離脱しようとしている。もうすぐ近くだ。
 ぼくは関澤さんの機転に従って、水に潜って岩場を伝った。
 なんとか、兄貴たちに発見されることなく宿に戻ることができた。部屋には既に、坂松さんと矢倉さんがいる、二人はなにやら談笑していたようだ。
「あ、おかえりー」
 矢倉さんがそう言ってくる。
「た、ただいま……」
 なぜか塞ぎこんだ声になってしまった。もうすっかりこの人たちには慣れたはずなのに……。
 そうだ。兄貴のせいだ。ぼくはどうやら、動揺しているらしい。それもそうだといえるけれど、一緒にいた関澤さんのほうは顔色一つ変えていないのだから、やはり、ぼくがまだ友達というものに馴染めていないからなのかもしれない。
「聞いた? 明日のこと」
「明日?」
 坂松さんの声かけに、関澤さんが反応を示す。知らないらしい。
「宿泊は明後日までだよね……」
 会話の脈にそっているのか分からないけれど、ぼくはそう口を差し入れた。
「そう。だからちょうどグッドタイミングなのよ」
 そう言って、坂松さんがその辺に広げられている紙を指差した。紙。関澤さんと一緒にそれを覗きこむ。広告だ。
〈**花火大会〉
 明日が開催日だ。


     5

 しんねりとした木々は、暗闇になると一層生い茂ったように見える。特に今日は尚更だ。暗闇がそう見せているのではなくて、つまり、闇によって浮き彫りにされた光が、木々を陰湿に置き換えてしまっているんだ。
 限りなく花火は華やかだけれど、ぼくはそんな木々の姿を眺めていた。花火と、ちょうど反対方向に並んでいる、少しだらしのない木たち。たまに上がる花火の光で、ほんのりと枝葉が照りつく。その一瞬の間だけ、より一層、木々は暗く見えた。
 もちろん、花火も綺麗だ。肌をつく静けさを、花火がふっと払ってくれる。熱くはない。むしろ涼しくも感じられていた。
 丘の上のあの、人工的に均された土地。そこから見上げる花火たちは、咲いては枯れて、消えてしまう。
 花火が咲き乱れるその瞬間も好きだけれど、なにもない、ほの明るく真っ暗な空を見るのも好きだ。白い粉を零したみたいにまばらで、星ともいえない薄明かりが散らばっている。それがなにからくるのかはだいたい想像がついた。
 蚊が羽ばたくような音がして、そして一気に花開く。今度は三輪一緒にだ。
 ぼくは団扇を片手に、木々に囲まれて突っ立っていた。みんなは虫が嫌だと言って、自然味のない平地でもてあそんでいる。ぼくはちょうど、花火とともに、そこにいる他の人たちの様子も眺めることができた。……関澤さんを除いて。
 関澤さんが、ぼくには特別に浴衣を用意してくれた。思えばこの宿泊期間中、関澤さんとともに行動することが多かった。一番好感が持てるのは依然として坂松さんなのだけれど、仲良く遊んだ子というのは、案外、関澤さんなんだろう。ぼくは関澤さんとともに、変な関澤さんとともに、おかしな兄貴と社絢先輩を、これでもかと観察ばかりしてきたのだから。
 その関澤さんと、今は空を眺めている。たまに空は鮮やかに彩られて、それでもすぐについえてしまう。……だというのに、余韻は執拗に纏ってきている。心にぽっかりと開いた穴のように、花が埋め尽くしては消失していく。ぼくはその感覚が好きになって、それで、いつまでも空を眺めていた。
 ずっとここにいたい気持ちは、だけど居座ることもできなくて、花火は数十分もすれば終わる。そんなこと、いわれなくても知っていた。
「ねえ、関澤さん」
 ぼくは空を眺めたまま。関澤さんもそうだ。お互い顔を見合わせることもせずに、ぼくたちは会話を始めることにした。
「なに、寺本さん」
 空に見惚れていたからなのか、関澤さんはぼくのことを「由美」とは呼ばなかった。「寺本さん」と呼んだ。でも考えてみれば、ぼくも彼女のことは「関澤さん」と、上の名前でしか呼んでいないのだった。だけれどそれが妙に心地よくて、ぼくは言葉をしばし失って、言葉をふと取り戻したときには既に、空は静かになっていた。
「もうみんな、帰ったよ」
 関澤さんがそう話しかけてくる。あれからどれほどの時間が過ぎたのだろう。
 今日で宿泊が終わる。

 関澤さんと一緒にいると、なんだか、なにか懐かしい感覚に襲われる。昔どこかで会った、とか、そう質問できるほどの確信ではない。それにたぶん、彼女と会ったのは高校になってからが最初のはずだ。そういう意味ではなくて、なんだろう、彼女は誰かに似ているのかもしれない。誰か、というか、ぼくに? 
 関澤さんは、ぼくと同じにおいがするんだ。
 それにたった今、気付いた。
 関澤さんに会ったことはない。それは確かだ。ぼくはそう思う。だってこんな変わった子なら、きっと会っていたなら記憶していたはずだ。

「あ、ここにいたのか」
 社さんが、木の葉を鬱陶しそうに払いながら、ぼくたちの領域、もとい木々林に入ってきた。
「うわ、なんだここ。虫多いな」
「多くないよ。ほら、どこも噛まれてない」
 ぼくは反論するけれど、腕にひとつ、小さな赤い点ができていた。おかしい。虫除けはたっぷり塗って、たっぷりばらまいたのに。……それを凌駕するくらい、ここは虫が多かったんだろうか。
「ほら、戻るぞ」
 社さんが、ぼくの腕にできたものに構わず、ぼくの腕を取った。強引な人だ。宿泊の間に、だいたいこの人の性格が分かってきた。坂松さんとかが言うには、以前とはまったく異なるらしいのだけど。とりあえず、頭を打った後の社さんは、強く、勇敢で、たくましい。
 昔の兄貴のようでもあった。
 似てる? ぼくは先ほど自分が思考した中に含まれていた単語を思い起こす。関澤さんと、ぼくが似てる? そうだろうか。ぼくはまだ、あまり関澤さんのことを知らない。ただ、変な子であるということしか分かっていない。なぜか兄貴たちに興味を異常に示しているようだけど、それだけだ。普通に可愛いし、体格は平均よりも少し小さいし(要するにぼくより大きいし!)。
 共通点は、どこにある? ぼくと関澤さんの共通点。
 それが分からないのに、ぼくは似ていると判断した。においがどうのこうの言って。だけれど、それはただの錯覚かもしれない。
 社さんに手を引かれながら、ぼくはそう考える。
 あれ? そういえばぼくは、なぜ社さんに手を引かれているのだろう。ぼくと社さんは、隣り合っていたとしても部屋は違うというのに。
 ……?
 それにそもそも、社さんの足は宿のほうへ向かっていない。そんなことにいままで気付かなかったなんて……。
「おう、待たせた」
 兄貴がいた。社さんの声に反応してぼくのほうを見て、そして目を逸らす。
「寺……由美。おまえに話しておくことがあって」
 兄貴が、改まったようにそう切り出した。
 その瞬間、ぼくは兄貴がなにを言おうとするのか分かった。二人のことだ。
 二人はもう唇を合わせるくらいの仲になっている。それを、ぼくにやっと打ち明けようというのだろう。
「わた、俺は階段で転んで、そこの……社と一緒に転がった」
 なるほど。それがきっかけだったんだ。
「そのときに……俺たちは……」
「やっぱり、だめだ」
 社さんが口を挟んだ。
「だめだ。まだ……」
「まだ……」
 二人がぼくを置いて、少し離れたところに行って相談を始めた。もうとっくに気付いているのに、なにをそう隠し通そうとするのだろう。二人が付き合っていることを、隠す意味。それはなんなのだろう。
 ……あれ? ぼく、なにか間違えてる? ふとそう思う。
 兄貴たちが、ぼくを真剣な顔持ちで眺めた。とても悩んでいるらしかった。
「ねえ、兄貴……?」
「やっぱり、まだ言わない方がいい」
 そういう結論に至ったらしい。ぼくは気分を害したふうを装って、宿に戻っていった。夜ももう深いけれど、まだ明日宿を出る準備を終えていない。明日やっても別にいいのだけど。
 ぼくは関澤さんと似ている。ふと、そう思った。根拠はない。だけど思った。花火を一緒に見られてるのだから似ている。同じ人間じゃないか。わけわからないけれど、ぼくはそう思いながら、自分の部屋に戻るのだった。
 ぼくは……。

.第3章(30)
第3章

     1

 人々が行き交っている。今はちょうどお盆の時期にあたるから、嬉々とした表情の人が大勢いた。町に並ぶ背の高い会社や、大きな商店。それらがにぎやかに騒ぎ立てていて、同じに通行人の顔も騒がしくて、ぼくだけが切り取られたみたいになっていた。それと時を同じくして、彼らと自分が同じである錯覚にも陥る。ぼくもさわがしい内の一人だという錯覚だ。ぼくは待ち合わせ時間に早く来すぎてしまって、こんなにもつまらなそうな表情をしているというのに。
 実は、こんな中央部にまで出てきて友達と待ち合わせをするのは初めてだ。中学のときは、地元ではよく遊んだかもしれないけれど、電車で遠出するようなことはなかった。高校に入ってからも友達がいない状態だったし……だから、それなりに緊張もしていた。集合場所がここで合っているのか真剣に悩んだ。ここで合っているのは明白なのに悩んだ。
 行き交う人には、親子連れが多い。お盆の関係で、いわば子どもの日のようなことになっているのだろう。お盆といえば先祖への供養を最優先して考える、といった世帯は、そろそろ少なくなってきたのかもしれない。子連れの親は、だいたいが若々しい人たちだ。たまにものものしい、年を積み重ねてきた人も見かけるから、一概にはやっぱりいえない。
 わざとらしく、建物の壁に取り付けられた大型のモニターがはしゃいでいた。モニターに目を遣る人は、今のところぼくしかいない。斜め上を見ていると、日光が巧みに目に入ってきて鬱陶しかった。帽子をしている意味がなくなってしまう。ちょっとおしゃれして、肩からかけたポーチと似合いそうな、ベレー帽だ。
 携帯電話を取り出して、現在の時刻を確認する。待ち合わせ時間まで、あと二十分ほどある。早い子なら、そろそろ来るかもしれない。そう期待を抱きながら、ぼくはずっとそうしているように壁に背中を預ける。駅の出口を抜けて、横に避けたところの壁だ。**駅の五番出口。そこが待ち合わせ場所だ。決めたのは坂松さんだ。そういう取り決めは、いつも彼女が上手にこなしてくれるらしい。海の宿泊のときは、関澤さんにたじたじの様子だったけれど。
 モニターはなにかのアニメキャラクターの画面にいつの間にか切り替わっていた。可愛らしいイラストがコミカルに動いて、秋から始まるらしいアニメの宣伝をしている。モニターに目を遣っているのは、依然としてぼくだけだ。
 通行人は楽しげに道路を渡り、人混みをまるで物怖じしないで通り抜ける。その術はぼくにもある。たぶん。通学路を歩いているときとか、人が多いときにその人たちとぶつからずに歩くなんて、当然といえば当然だ。だけれどぼくは、それを無自覚で達成できている自分のことが不思議だと思う。日本人の脳はどういった構造になって、どういった原理で人混みを進んでいるのだろう。
 夏休みが始まる前の自分のことを、ふと考えてみる。だいたい一ヶ月ほど前になる。ぼくは窓の外を眺めて、それでもクラスの様子に耳を傾けていた。
 ――やっぱりまずは無難に映画行こうよ、そういえばあのホラー映画って来月公開だったね、えーホラーとかやだよ……。
 クラスで五人組が繰り広げていた会話。それをまだ覚えている。正確にいうと、つい最近思い出すことができた。当時(といっても、時期としては最近というくくりになるのだろうけど)ぼくには、友達がいなかった。今でも、なぜぼくに友達ができたのか分からない。そんな心地がしない。浮かれてはいない。狐にほっぺたをつままれて、だけど痛みを感じることがなくて。ぼくは友達を持とうとしなかった。いなくてもいいと思っていた。悲しくて寂しかったけれど、決して友達に必死になるべきではないと心に決めていた。……だから、今の状況が不思議であることに、ぼくは一片の迷いも示さない。こうして、ホラー映画を観に待ち合わせをしている今でも。
 関澤さんは、無二のホラー好きらしい。ラヴクラフトが好きだと言っていたけれど、残念ながらぼくはその横文字がなにを指しているのか理解できない。どんな作品なのだろう……。ラヴってあるから、メルヘンチックなお話? ホラーなのに? 読んだことないから分からない。……それとも、作品の名前ではなかったりして。
 対称的に坂松さんはホラーが苦手のようで、今回、彼女は来ないことになっている。みんなズルイ……と、昨日ハンカチを噛み締めていた。
「おーい!」
 至近距離でそんな声。ふと横を見ると、改札を抜けたばかりの矢倉さんが手を上げていた。ちなみに、ぼくとの距離は一メートルもない。声を上げてついでに手もあげる必要、なかったんじゃないんだろうか。
「おはよう……」
 ぼくは気圧されないように胸を心中で噛み締めながら、そう返事をする。
「おはようって、もう二時じゃん!」
 今日の矢倉さんはテンションが高い。たぶんこの人、緊張している。ホラー観ることに緊張して高揚している。その気持ち、少しだけだけど分かる。気がする。
「関澤さんは?」
「まだ」
 今日、一緒に映画を観るのは僕を含めずに二人だ。矢倉さんと、関澤さん。
 坂松さんはホラーが苦手のようだし、加藤くんはお盆で親の実家のほうに行っているらしい。宇治くんの事情は知らないけれど、まあ、加藤くんと似たようなものじゃないかな。
 兄貴と社さんは、今ぼくの家にいる。宿泊から戻って、二日経った日。その日に、社さんがぼくの家に舞い込んできた。夏休みが終わるまで泊めてほしいって……なんてことだろう。兄貴もまるで示し合わせたみたいに快諾していた。
 それが原因で映画に来ない、だなんてことではないのだけど、ともかく二人は来ないと言った。いろいろと、試してみたいことがあるらしい。どんなプレイを試すつもりだろう。そういう思考にしか至らない自分が恥ずかしい。
 モニターの画面は切り替わっていて、汗のにおいをやわらげて心地いいものにしてしまうという商品の宣伝になっていた。いい顔している俳優が、爽快そうな背景とともに笑顔を晒している。そこに商品がスライドしてきて、ついでに湧き上がってきた文字が、商品の名称を曝け出していた。
 こういう宣伝映像は、誰がどうやって作るのだろう。芸術性はあるかもしれない。だけれどそれは認められない。まっとうに金のために創作するというものは、いったいどんなことを指すのだろう。そもそもぼくには、金を目的としない創作についても理解はできていないのだけど。国語の試験はいつも散々だし。
 関澤さんはまだ来ない。集合時間を一、二分ほど過ぎていた。ぼくは携帯電話を取り出して、アドレス帳から関澤さんを選び出す。そして通信を開始した。発信音が耳に心地いい。この音は好きだ。その音が、反対側の耳から入る人々の足音と一緒に跳ねている。
 関澤さんは出なかった。おかけになった電話番号は……とかも出ない。ただ単に、関澤さんが出ないだけのようだ。電源を切ってなんていないし、電波の届かない場所にいるわけでもない。
 まだかな……。矢倉さんが呟いた。せわしなく時間を確認している。そう焦らなくても、映画が始まるまではあと一時間もある。誰か遅れることを見通していたのか、それとも映画館に行く前にどこかに寄るつもりだったのか、関澤さんが指定した集合時間は早いものだった。
 ホラー映画。ぼくはあまり観ない。観れないわけではないけれど、好き好んで観るものでもない。たまにミステリーファンと同様に、ホラーマニアがいる。関澤さんがそうだとカミングアウトするまでは、実を言うと、ホラーにそこまで熱中する人を、趣味の悪い人たちだと偏見していた。恥ずかしい。かもしれない。
 空は明るいけれど、すっとした純粋な明るさではない。雲が全部分に張っている。それが空の色に同化して、薄い青色を形成していた。好きな色かもしれない。雨はきっと降らない。降った後のような空模様だ。実際には雨なんて一粒も降っていなかったのだけど。
 そんな空とは関係なしに、通行人が晴れた顔で通り過ぎていく。改札口から定期的に大勢の人が押し出てきて、そのまま四方に散らばっていく。ぼくには人がまるでビー玉かなにかのようにしか見えなくなってきていた。だけどそんなこと、おくびにも出すわけにはいかない。ぼくは矢倉さんと一緒に、ほとんど無言で関澤さんを待っていた。
 隣で矢倉さんは、ひっきりなしに前売り券を読んでいる。何度読んでも書いてある内容は変わらない。それでもずっと何度も読む。ぼくの冷たい視線にも気付かないらしい。緊張している。
 関澤さんがやってきたのは、集合時間を三十分過ぎた頃合だった。矢倉さんが大袈裟に文句を言って、ぼくも「遅かったね」って詰った。
「ごめんごめん」
 関澤さんは軽く謝る。
 とりあえずこれで面子は揃った。ぼくは「行こう」と言って、矢倉さんも「行こう」と言った。映画の上映まで、あと三十分弱。急ぐ必要もないけれどのんびりする必要もない。それに、早めに入場しておかないと、万が一のときに痛い目あうかもしれないだろうから。
「関澤さん、なんで遅れたの?」
 ぶしつけに、矢倉さんがそう訊いた。
「……いやー。それにしてもいい天気だねー」
「なにそれ」
 関澤さんのあからさまな話題転換に、ぼくは正直に感想を口に出した。なにそれ。
「質問に答えてよ」
 矢倉さんがむっとした表情で問い詰める。遅れる理由を訊くのも、あまりいいことではないと思うのだけど。遅れるほうが悪いのかもしれないけれど。
「……じゃあ、私が当ててあげるよ」
 そう言うと矢倉さんは、深く息を吸った。怒っているのか? ぼくにはそう見えなかったけれど、いつの間にか、感情が高ぶってきたのかもしれない。かもしれない?
「関澤さん、宇治くんとデートしてたでしょう」
「……はい?」
 ぼくのリアクションは無視して、矢倉さんが関澤さんを睨みつける。
「そんなことないよー」
 明るい口調で関澤さんが反論した。
「知ってるんだよ。関澤さんが、宇治くんと付き合ってること。隠したって、いつも一緒にいたんじゃあ分かるんだから」
 矢倉さんはそう言いはなって、先々と映画館のほうへ進んでいってしまう。
「……今の話、本当?」
 ぼくは関澤さんに訊いた。なんだか、いろいろ話が捻じ曲がってきている。
「そんなこと、ないよ」
 関澤さんが目を伏せた。
「|棟矢《むねや》は、私に興味ない」
 宇治くんの下の名前が棟矢であることを、たった今証明された気分になった。
 言葉の綾なのかもしれないけれど、その言い方じゃあ、まるで関澤さんが宇治くんに恋をしているみたいだ。私は興味ないと、そう言うことはできなかったんだろうか。
「それに、夏休みに入ってからは、由美と一緒にいるからね」
 関澤さんが顔を上げた。

 ホラー映画はやっぱり怖かった。背筋がぞっとなぞられたみたいで、あまり気持ちよくはないけれど観終わった後の腑に落ちる感じは気持ちいいかもしれない。
「関澤さん、怖くなかったの?」
 すまし顔の関澤さんに向かって、ぼくはそう質問した。なんだか眠たそうな顔をしている。つまらなかったのだろうか。怖くなくて。
「怖かったよ。ホラー映画は、怖がらせるために作られているのだから当然だけどね」
「じゃあ、怖いホラー映画は当然過ぎて面白くないってこと?」
「そういうわけでもないよ。だけど、だいたいそう思ってもいいかもね。たまにはメルヘンなホラーも見てみたい」
 関澤さんは活き活きとしていた。なんだかんだいって、ホラー映画を観るのは好きなんだと思う。彼女ははしゃぐようなことをしない。喜びを表現する方法が、控えめに設定されているんだ。
「……うーっ」
 後ろで、頭を抱えた矢倉さんがついてきている。路上ではあんなに怒っていた矢倉さんだけれど、ホラー映画は楽しく観ることができたみたいだ。その証拠に、つらそうに頭を支えている。倒れないか心配だ。つまり滑稽だ。
 ちなみに、この映画は奢りではなくて、ぼくが自腹で払った。高校生は千円だ。関澤さん曰く、ホラーに対してだけは、自己で金を負担するべきなのだそうだ。どういう理由が隠れているのかは知らないし、知るつもりもないけれど、そういうことらしい。ぼくも、いつも彼女に奢らせては悪いから、このとき奢るといわれても断るつもりでいた。そういう面でいえば断る面倒を省くことができたのだから、好都合だったといえるかもしれない。
 映画館を出ると、外はもっと青くなっていた。雲がもっと厚くなっている。空だけでなくて、目の前の風景も青味がかかっていた。もう日も沈む。
 ぼくたちは改札を通って、プラットホームに赴いた。矢倉さんはぼくらと反対方向なので、ここでお別れだ。ばいばいって適当に言って、矢倉さんはつらそうな顔をして電車に乗り込んでいった。
「ねえ、由美」
 電車を待ちながら、関澤さんが話しかけてくる。
「なに?」
 電車が来るまでは、あと二駅分くらいある。三分くらい待たないといけないだろう。
「棟矢のことだけどさ」
「うん……」
 ぼくは関澤さんの顔を眺めた。俯いた顔。ホラー映画を観ているときよりも、その顔は真剣そのものだ……そうなんだろう。
「私、棟矢と特別な仲なんだよね」
「えっ……」
「付き合ってるとか、そういうわけではなくて。ただ、小さい頃から一緒に遊んでて、幼馴染で……」
 関澤さんは言う。
「ある日、ずっと昔のことなんだけどね。確か、私が幼稚園の、年長さんだったときだと思う」
「うん……」
「私は棟矢と、河川のところでよく遊んでいたんだ。ほら、学校の裏のほうの」
「うん……」
「でもある日、私が足を滑らせてしまって、川に落ちてしまって。知ってると思うけど、あの川、流れ早いからさ。あまり近寄らないように言われてたんだけどね」
 関澤さんの声は沈んでいった。ぼくと目を合わせない。それでも、また浮上して話し出す。ぼくは相槌を打つのに精一杯で、彼女がなにをぼくに伝えたいのか、透視することができなかった。透視なんて、ほとんどやったことないけれど。
「でも、落ちる直前に棟矢が手を取ってくれて……だけど、そのせいで棟矢も落ちてしまって」
 関澤さんが、顔を上げた。
「川の中で転がったんだ。波に押されて、私と棟矢はひとつの固まりみたいに転がっていった……」
「…………」
「ちょうど、由美、あなたのお兄さんたちみたいに」
「…………」
 電車がやってきた。
 ぼくは彼女の肝心の言葉を待ったけれど、彼女は、なにも言わずに電車に足を踏み入れてしまう。ぼくもそれに倣ったけれど、まだ、彼女の口元に注意していた。
 それなのに、関澤さんはなにも言おうとしない。
「関澤さん?」
「…………」
「…………」
 電車の中は、人が多い。お盆だからだろう。子連れの人が特に多い。そういう人たちが座席を占領してしまっているから、ぼくたちは手すりを持って、隣り合うしかなかった。
「今度、詳しく教えてあげるね」
 関澤さんがやっと口を開いたかと思えば、結局、話はお預けにするという内容だった。
 ぼくは頷いて、だけど腑に落ちない感覚に苛まれて。
 ホラー映画を観た後の余韻は、もうすっかり消え去ってしまっていた。


     2

 玄関には二つの靴が適当に置かれてあった。兄貴のと、社さんのだ。その他の靴は履物|容《い》れに納められている。普通、靴は一足あれば当分はそれで足りるのだから、使わない靴はしまっておいたほうが効率がいい。ぼくがそう考えた。母親が出張に出て行った次の日に。
 母親は、まだ帰らない。昨日久しぶりに電話があって、それによると、八月三十日には帰ってくるそうだ。夏休み最終日の前の日だ。
 宿泊から戻ってから、やっぱりぼくが家事を担っている。兄貴が手伝うことはほとんどない。兄貴に、手伝ってよ、と言いつけても、兄貴は掃除機の収納場所も知らないから、むしろ邪魔になってしまう。兄貴も申し訳なさそうだが、ぼくがなにも言わなくなると、結局手伝うことなく社さんとともに空間を過ごしてる。
 二人がなにをしているのか、具体的には知らない。たとえばほら、ノーベル化学賞を身近の人がとったとしても、その人が培ってきた研究内容を具体的に理解できる人はほとんどいない。それと同じで、ぼくは兄貴たちがどんな楽しいことをやっていようが、身近の人であっても知る由も、知る術も持ち合わせていないのだった。
 ぼくは靴を脱いだ。玄関に散る靴は、これで三組になった。
 ほぼそれと同時に、トイレの水の流れる音がした。兄貴が入っていたのだろうか。
「ただいまー」
 とりあえずそう言ってみた。
「おかえりー」
 そうレスポンスがあった。けれど、それは兄貴の声ではなかった。いやに、馴れ馴れしい口調だな……。
「映画行ってきたんだっけ?」
 トイレから出てきた社さんがそう言ってくる。やっぱり、いつもよりも妙に親しみを込めてくる。逆に近寄りがたかった。
「あの、社さん……?」
 ぼくは疑問を感じたらその答えを聞かずにはいられない性分だから、この場合でも例外なく社さんに目を向けた。
「あー……、やっぱ、変か?」
「変、です」
 この二人が変なのは、今日に限ったことではないのだけど。
「なんだかなぁ」
 社さんは、自身の腰に手を置いた。腰の部分は女の子らしい体型といえて、少し出っ張っているようにも見える。くびれた腹回りが、それをぼかしていることはいるけれども。
「なんか、どうでもよくなってきてるんだよね。最近」
 社さんが、依然馴れ馴れしい口調でそう言ってくる。
「由美はそう思わない? ずっと苦しい状況に放り込まれて、そのままたくさん時間が過ぎて、それでも状況は良くなっていなくて……」
「社さん……?」
 社さんはさっき、ぼくのことを「由美」と呼んだ。それは、親しい仲の友達か、家族しか使わない呼び名、下の名前だ。
「正直、疲れちゃったんだよな。このまま、俺が社絢になって、あいつが寺本雄吾になって、そのままずっと一緒に監視し合ってもいいんじゃないかって……。監視ももうやめてしまって、お互い、相手の体を支配してしまえばいいんじゃないかって。あのとき、階段で転んだとき、そのことが原因でずっとこのままで、永遠に治らなくて……世間がそういう結論を出すようになるまで、ずっと、支配していればいいんじゃないのかってさ」
 なにを言っているのか分からない。
「どうせ誰も知らないんだしさ……こうやって堂々と話しても、どうせ、由美は理解できたりしていないんだろう? あ? そうだろう?」
 怖かった。トイレのドアは、ちゃんと閉まっているのに、ぼくはトイレの中にまだ誰かいるような想像をした。それはトイレではなかったかもしれない。まるで社さんという個室の中に、兄貴が……。
「そんな目をしても、どうせ、どうにもならねえんだ。由美、俺は……」
「…………」
「なあ由美、もし、もしも俺が、おまえのキョウダイだったとしたらどうする?」
「え……」
「どうもしないよなぁ。実際は、戸籍上はなんの関係もないんだから」
「それってつまり……その……兄貴と結婚して妹になるって……その……」
「楽観的なやつだなぁ。友達ができて、ちょっとは明るくなったか? 中学のときも、一緒に映画を観に行くなんてことなかったもんなぁ。ほんと、おまえは友達の少ないぼっちだったぜ」
「うるさいな……」
「あれ? 血も繋がってない先輩にそんな口きいてもいいのか? あ?」
 ウザい――。ぼくはもう社さんのことは無視して、自分の部屋に戻ることにした。社さんは、ぼくが遠ざかっていってもその場に立ったままだ。階段の上から彼女の様子を眺めてみたけれど、彼女は床を一心に見つめていて、なにを思っているのか想像もできなかった。どうして、頬に水粒が伝ったのかも理解できない。口元が歪んでいた。このときの社さんの顔は、あまり綺麗とはいえなかった……。
 自室に篭って、漫画の続きを読む。まだまだラストまで長い。宇宙スーツは自分を着てくれる生命体を探しに、今度はある銀河系の上のほうの星に訪れていた。だけれど、その星の生命体は既に絶滅していた。……新しい展開だ。いつもの調子なら、星の住人に着てもらって、それによって住人たちの発展に繋がっていく。だけれど今回はそうじゃないみたいだ。どんどん、物語が深みに嵌っていく感覚が心地いい。
 ベッドはふかふかではない。残念ながら、そんな高級なものではない。どちらかといえば安物だ。それでもぼくは、ベッドがあることに感謝している。いきなりなんなんだろう……。自分でも疑問に思いつつ、「次巻に続く!」で締めくくられた最後のページを見終わって、ぼくは漫画本を閉じた。それを近くの本棚に納め直す。次巻を読むのは、もう少し後でいいや。なかなか盛り上がってきたところだったけど。
 ぼくは自分の思考にずっぽりと嵌っていたい気分だった。漫画などの他の思想に侵されないで、今は、じっくり自分と向き合っていたかった。なぜ急にそんな気分になったのかはよく分からない。だけれどその要因のひとつに、社さんのさっきの言動があることは予想された。さっきの社さんはいつも以上に変だった。異常だった。たった一人で、車内でぶつぶつしている人よりも異常だった。障害者を偏見しているのではなくて、ただ単に、脳が正常であるはずの社さんは、障害者よりも異常に見えてしまうくらい普通を凌駕していた。……あれ? もしかしたら、兄貴も社さんも、やっぱり脳に異常があったんじゃ……。そういえばまだ、病院に行っていない。医師に診てもらっていない。兄貴と社さんが断固として拒否したからだ。なぜ拒否したのかは分からないけれど……。そうだ。――兄貴たちが正常であることを証明することもできていなければ――異常であることも診てもらっていないのだからはっきりとは分かっていないじゃないか。それに今まで気付かなかった。やろうと思えば、二人は意図的に狂うこともできたんだ。その可能性も充分にあったんだ。
 つまり、ぼくは兄貴たちについて、もっと深く調べてみないといけない。ぼくは夏休みの長い暇時間を、化学の研究に費やそうと考えていた。だけれどたった今、それを撤回する。もちろん化学もするけれど、それに従事するのは中止した。そうして空き時間を作り上げて、兄貴と社さんの観察を行う。バレないように慎重に……。そのあたりは、動物を観察するのと同じ了見だ。
 ぼくはベッドから起き上がって、ドアをそっと開けた。社さんはもう階下にはいなかった。たぶん兄貴の部屋だろう。
 ぼくは兄貴の部屋のドアの前に立ちはだかった。そしてそっと、耳をドアに押し当てた……。

「つまり、なに? 雄吾は、別にこのままでもいいっていうの!?」
 兄貴の声だ。
「ああ、そう思う……。要するに、慣れの問題だと思うんだ。イメチェンだよ、イメチェン。俺たちはあの雨の日から、まるで別人のように性格が変わってしまった……まわりの見解は、だいたいそんな感じだ。実際のところはそうじゃないが、それでも、端から見ればそうであることに違いはない」
 社さんの長い台詞に、兄貴が反論をする。
「私たちがまるで異常じゃないみたいに、みんながそのうち慣れていくってこと?」
「そういうことだ」
「んなわけないじゃん! 雄吾は、このまま私になってもいいっていうの? このまま私を雄吾にしておいてもいいっていうの? 私は嫌だよ。絶対に嫌。私は夏休みのうちに元に戻って、家に帰って家族と一緒にご飯を食べて、前のような楽しい学校生活を送って、新しい友達を作って、卒業して大学入って……。そんな、そんな私の人生設計はどうなるの。私の人生をそう簡単に片付けないで。これは雄吾一人の問題じゃない。私と一緒に、真剣に考えてよ。諦めないでよ。私の体を返してよ……!」
「……ごめん。俺だって元に戻れるんなら、それこそ最高だよ。……だがな、どうやるんだ?」
「…………」
「方法がなんにも分からねぇ。俺たちのような人がいるのかと思ってネット検索してみても、出てくるのはそんな小説や映画やドラマ――作り物ばかりだ。元に戻す方法以前に、そもそもなぜこんなことになったのかも、分からねえじゃねぇか」
「それは、階段で……」
「それだって、確証はねぇんだ。ただタイミングが重なっただけかもしれない。階段で転んだことで入れ替わったのかもしれねぇ、あの大雨が原因だったのかもしれねぇ、どっかの宇宙人が原因だったのかもしれねぇ、そもそもこれは俺たちの幻覚なのかもしれねぇ、夢なのかもしれねぇ……。可能性はいくらだってある。まるで樹形図だ。俺たちは元に戻ろうにも、その方法が、なんにも分かってないじゃないか」
「…………」
「泣いたって結果は変わんねぇよ。俺だって戻りたい。それは本心だ。だがな、現状からすると、それが失敗に終わる可能性のほうが、成功しない確率のほうが、ずっと高いんだ。それを意識して、もしそうなったときの対処法も考えておかないといけない。違うか?」
「そう、だけど……」
 兄貴の反論は次第に弱くなっていく……。ぼくは、今の会話を吟味しようと試みた。だけれど、どういう意味なのかさっぱり分からない。「入れ替わる」という言葉が使われていたけれど、つまりなにが入れ替わったのだろう……。
「社って、キョウダイいたっけ」
 社さんがそう言う。
「いないよ……」
「そうか。俺にはいるぞ。由美っていう妹がな」
「知ってるよ……」
「いや、知らねぇさ」
「……?」
 ぼくは耳をより強くドアに押し付けた。それはむしろ聞きとりにくことに気付いて、音を立てないよう慎重を期しながら耳を離す。
「我が家には、おかしなタブーがあってな」
「……タブー?」
「ああ、タブーだ。たとえば、机の上に乗るのが大罪だったりしてな」
「なにそれ」
「実際には、母さんが小さい頃、机の上に乗って、机の足が折れちまって、それで大怪我をしたことがあるらしいんだ。それを教訓に、まるで戒律のように俺たち子どもにそれを押し付けてるんだけどな……」
「いい話じゃん」
「まあそんな感じで、俺の家族の中では、いくつかのタブーがあるんだ」
「はっ。まさか、それを私に教え込んでおいて、雄吾は私の家にずらかろうっていうんじゃないでしょうね!?」
「さあな……って、そんな怖い顔するなよ。自分の顔に睨まれるのは割とマジで怖いからやめろおい。……それでな、そのタブーの中に、こんなものがあるんだ」
 息をつく声がした。たぶん兄貴だ。
「由美の『ぼく』発言については、決して触れないこと」
「あ……」
 つい声を漏らしてしまった。それを必死で抑えるけれど、もう出てしまった声は仕方ない。
「おい、由美いるのか!」
 社さんが叫んだ。
 ぼくは一目散に玄関に走って、適当な向きをしていた自分の靴を急いで履いて、慌てて家を出て行った。陸上部なみの速さを出した気がした。

 ぼくが『ぼく』を使うようになったのは、いつごろからだっただろう。気付けば『ぼく』を使うようになっていた……。少なくとも、記憶にある限りではずっと昔だ。記憶のあるよりも昔、と、そういえるかもしれない。
『ぼく』を使うのが普通でないことは、小学生の高学年くらいになってやっと知った。そのときには既に、ぼくは孤立していたような気がする。記憶が曖昧だから、どうしても断言はできないのだけど、ぼくはもしかしたら『ぼく』のために、クラスから浮いてしまっていたんじゃないだろうか……。
 なぜぼくは、『ぼく』を使うようになったんだろう。
 ぼくはぼくの他に『ぼく』を使う女の子に、会ったことがない。いたなら……ぼくは……。ぼくはその子のことを軽蔑したと思う。なぜ女の子なのに『ぼく』を使うんだって、その子のことを蔑んだと思う。自分のことは棚上げ――というよりも、ぼくには自覚が足りなかったんだ。
『ぼく』が異様であることにも、ぼくが『ぼく』を無意識に使用していることにも。まるで頓着しなかった。固執しなかったのにまるで癖のように、それも永遠に治らないような、その人の『個性』のように、ぼくは気付かないまま、自覚した上で無意識に『ぼく』を使っていた。
 そんなにおかしいとも思わない。今でも思わない。高校に上がるとクラスメイトとの距離もけっこう広くなって(それとも、ただまわりの子たちが一歩大人に近づいたからのだけかもしれない)、そのおかげで『ぼく』を詰られることはなかった。小学・中学でも少なかった詰りが、高校に入ると皆無になったんだ。ゼロ。まさしくゼロだった。
 ぼくは友達がいなかった。
 視覚をにおいで察知してしまうくらい、ぼくには友達がいなかった。
 その代わり、化学が好きだった。秋に、高校生向けの大会がある。科学の大会だ。化学ではなく科学。ぼくはなにをしようか、まだ考えあぐねている。レポートを書いて提出すればいいらしい。一次選考、二次選考、三次選考(最終選考)があって、大賞が選ばれる。例年行われている、なかなか有名な大会らしい。
 ……なにいってるんだろう。
 ぼくは、空を観賞しながらぼーっとしていた。石でできた階段に座っている。ここは、ある大きめの公園だ。小さな頃はよくここで遊んでいたと、母親がたまに語ってくれた。
 ふいに、恐ろしいほど鮮明に記憶が蘇ってきた。それも、数週間の間隔をあけた、豪華な。ここまでくるともはや白昼夢となんら変わりなかった。
 兄貴と社さんが踊り場から転げ落ちる光景……それよりも前に、どこかで、それと似た景色を見た覚えがある――。
 携帯電話の着信音が耳に届いた。


     3

 電話の相手は関澤さんだった。ぼくは画面から目を離して、それを耳に押し当てる。そこには、ドアに押し当てたときとは違った種類の緊張が含まれていた。
「もしもし……?」
「もしもし。由美? 私、今あなたの後ろにいるの」
「へ……?」
 ぼくは咄嗟に振り返った。もし本当にそういう状況だった場合、ぼくはすかさずあの世に送られていただろう……。そういうことだから、背後に誰もいなかったときはほっとした。振り返ってから、危機感を覚えて、そのあとに安堵した。なんて平和ボケした人間なんだろう。最近の日本人は戦争ともわりと無縁な生活を送っているようだから、危機感というものが、危機自体は近づいているようなのにまったく持ち合わせていない。それだと大きな問題が起きたときに大変だ。……しかもその人間というのは、ぼく自身のことであるのだから、少しげんなりする。
「もしもしぃ?」
 ぼくは、語尾に少し力を込めてそう言った。電話先の相手は、なにがおかしいのかくすくすと笑っている。ぼくは眉をひそめて、そのまま背後を見たままだった。
 だから驚いた。わりと大袈裟に飛び上がった。うわあって声を出した。
 ぼくの体の正面には、関澤さんがいた。
「やほー」
 楽しそうに関澤さんが笑う。当然といえば当然だけれど、つい数時間前と同じ服装だった。
「……なにやってんの?」
 おそらく、ぼくが後ろを向いている間に近づいてきたのだろう。たまたまこの公園を通りかかって、ぼくを見かけたのか。あれ、でも、関澤さんはこのあたりに住んでいるのだろうか。こんなところを通り過ぎるなんて。
「由美の家って、このへんなの?」
 ぼく質問には無視をして、関澤さんがそう言ってきた。ぼくが考えていたことと似ている。
「そう、だけど……」
「あーやっぱそうなんだー。たまたま由美を見かけたけど、こんなところで見かけるなんておかしいと思ったから」
 質問に至った経緯も、ぼくとほとんど同じらしい。ということは……。
「え、じゃあ……関澤さんって近所なの?」
「うん。ここからすぐそこの、右に曲がったトコ」
 ぼくは携帯電話の通信を切っていなかったことに気付いて、通話終了ボタンを押した。それを眺めて、彼女も自身の携帯電話を操作する。
 ここは家の近所の公園だ。兄貴に盗み聞きを気付かれて、居住まいが悪くなって家を出てきた。この公園はわりかし広いところで、子ども向けの遊具がたくさん設けられている。公園は市販のプリンやゼリーなどの容器みたいに、窪んだ地形をしている。ぼくはそのうちのひとつの階段に腰掛けていた。どうやら関澤さんは他の階段から公園の中に入ってきて、そこからぼくのほうの階段を上ってきたらしい。
「あれ? じゃあ、なんで帰りのとき、一緒の駅で降りなかったの?」
 ぼくはふと沸いてきた疑問を投げかけた。関澤さんは嫌な顔ひとつせずに、それに回答した。今日の四時過ぎあたり、映画からの帰りの電車。線は同じだったのけど、関澤さんはぼくの降りる駅では降りなかった。
「ああ、ちょっと寄るところがあったからね」
 関澤さんはそう言って、少しわざとらしい咳払いをした。
「もう七時になるけど、ここでなにしてるの」
 今度は関澤さんがそう訊いてきた。それは関澤さんにそのまま返してもよさそうな質問だった。
「ぼくは、えっと……ちょっと兄貴と気まずくて」
「兄貴って……寺本、雄吾先輩のこと?」
「他に誰がいるっていうの……」
 関澤さんは豊かそうに笑った。なにをそう、のんきにしているのだろう……。
「今日、帰り際、こんな話をしたよね。私が、宇治くんと河川を転がったって話」
「うん……」
 急に、関澤さんは話題を変えてきた。自分がなぜ家を出ているのかは言うつもりないらしい。まぁ、夏休みだし、どうせ近所だし、心配することはないのだけど。ちなみに、ぼくの家には今のところ母親はいないし。
「あれってさ――ほんとは、嘘だから」
「あ、そう」
 ぼくはあまり驚かなかった。今の彼女の軽薄な言い方は、どうしても真面目な話をするには軽すぎて薄すぎるように感じられた。もし今愛の告白を受けたとしても、ぼくはそれを軽く受け流すだろう。……女子同士だからそんなことないけど!
「私はただ、宇治くんから聞いた話を、ちょっと改変して作り話にしただけだよ」
 関澤さんの言葉に、ひっかかりがあった。
「つまり、関澤さんについては嘘だけれど、宇治くんは、実際に川を転がったことがあるってこと?」
 そう聞くと、関澤さんはまた愉快そうに笑った。笑い顔は、えくぼがチャームポイントになって見ていて悪い気はしなかったけれど……。
「実際には、川を転んだわけじゃないんだけどね」
「それじゃあ……どこを転がったっていうの?」
「階段だよ」
「……!」
「それも、ここ、まさに由美がいるこの階段でね」
 ぼくはぽかんと、関澤さんの顔を見つめた。かもしれない。
 関澤さんの目元が濡れていた。
「関澤さん、涙……」
「え?」
 だけれど、関澤さんは泣いている自覚がなかったみたいだ。頬を伝う水滴を、不思議そうになぞり取って、そうして首を傾げる。
 ……関澤さんが本当は泣いていなかったと気付くのは、案外すぐのことだった。ぼくの目元も濡れたから。ぽつぽつぽつぽつ濡れたから。
「関澤さん、まだ家帰らなくていいの?」
「うん。お兄ちゃんが受験生で、私、家にいると邪魔者なんだよねー」
「お兄ちゃんいたんだ……」
 雨がしだいに酷くなってくる。ぼくは迷うことなく関澤さんの腕を取った。関澤さんはそれを、不思議そうな目で眺める。目元が濡れていた。雨の滴に濡れたからだ。
「ぼくの家に行こうよ。いっそのこと泊まってってもいいよ」
 関澤さんが、水浴びをしている花のような笑顔を見せた。

 野菜を炒める。砂糖を入れるのを忘れない。美味しくなるのかはまだ食べていないから分からない。
 テーブルには関澤さんがいる。ぼくの料理するところが見たいと、そう言って台所までついてきた。ちなみに兄貴たちは、まだ彼らの部屋にいる。なにしてんだろう。そう疑問を挟むことはしない。
 油の音がするたびに――つまりひっきりなしに――関澤さんがおー、だとかうわあ、だとかの歓声を上げている。いちいち可愛かった。菜箸で野菜をあえて、その声に耳を傾けた。いい声してると思う。ふと思う。そう思う。
 雨はまだ|止《や》まないみたいで、窓の外は眠りから醒めたようにほの暗い。
 そういえばこの夏休み、まったくといっていいほど雨に見舞われなかった。それで町が水不足に陥ったりはしなかったけれど、たぶん、夏休み前のあの大雨の日から、やっと雨らしい雨を体験したように思う……。
 壁にかけられたカレンダーを見る。八月二十七日。夏休みも、あと四日だ。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。ずっとやりたかった化学の自由研究は、特にしていなかった。明日あたり、早速やってみないと。まだなんの構想もないのだけど。
 野菜炒めができあがった。ぼくはそれを皿に盛り付けた。それをでんと、テーブルの中央に置く。うわお! 関澤さんがクールっ気なしにそう言い放った。まったく、この人の性格がいつになっても掴めない。
 関澤さんは、今日から八月三十日まで、この家に泊まることになった。彼女が家に電話してみると、あっさり許諾が下りたらしい。……本当に邪魔者になっているらしい……。
「兄貴ー。社さーん。ご飯だよー」
 ぼくはそれだけ適当に叫んでおいて、箸を取ることにした。既に、関澤さんは取り皿に自分の分を載せてがっついている。お腹を空かせていたのかもしれない。
 窓の外は雨が打ち付ける音で騒がしかった。
 七月末のことを思い出す。それと同時に、兄貴たちがああなってからもう一ヶ月が経っていたことに驚愕する――。
 兄貴たちは、なかなか下りてこなかった。もしかしたら、ぼくの声が届かなかったのかもしれない。部屋の中でなにかに集中していたなら、ありえない話でもない。いちゃいちゃと会話をしていてその声で、ぼくの言葉が掻き消されてしまった可能性がある。聴覚を排他するような行為に入っていた可能性も……多からずある。ぼくは箸を一旦置いて、また呼びかけに行こうと椅子から腰を持ち上げた。
「待って」
 だけれど、関澤さんがそう呼び止めてきた。
「……なに?」
「ごはん食べてからでも、遅くないんじゃないかな。もしかしたら、とても重大な話をしているのかもしれないよ?」
「…………」
「ほら、あーん」
「あーん……ってなに!?」
「それでもちゃんとあーんしてくれる由美ちゃんなのでありました」
「『ちゃん』付けはやめて!」
 雨の音が響く。雨の音が続く。
 そんな中、ぼくらの声も負けじと響いて、続いていた。兄貴たちのために残しておいた野菜炒めは、ラッピングして放置してある。……もう、夜の十一時になっていた。夕飯をぼくらが食べたのは九時前だ。
 ぼくは関澤さんに言われるがまま、二人がやってくるのを、呼びかけることなく待っていた。いや、待ってはいなかったのかもしれない。関澤さんとの話が妙に面白くて、なんだか、真面目くさくなっている自分が虚しく感じてきたのだ。
 ぼくはなんて、バカな少女なのだろう。笑いながらぼくはそう考えた。
 ぼくはぼくが『ぼく』である理由も分からなければ、兄貴たちがなにに悩んでいるのかも分かっていない。今日、盗み聞きした会話を思い起こす――。それでも、二人がどんな問題に直面しているのかはまったく理解できなかった。それどころか、盗み聞きするまで、二人が悩んでいるということさえ知らなかった。二人はただ単に、怪我したことを口実に、切り口に、男女交際を単純に始めたものだと思っていた。実際に二人はそういう関係に昇華したのだろうけど、そこに至るまでの経緯を、ぼくはすっぽり抜かしていた。知らなかったんだ。なにも。知らない。
 ぼくは兄貴を、あの雨の日から理解してやろうと思わなかったんだろう。兄貴のことだから、どうせ治ると、高をくくっていたこともある。でもそれだけでなくて、事態が深刻になっていく中でも、ぼくはそれを楽観視していた。そうだ。ぼくは兄貴の本質を見てやれていなかった。兄貴は階段で転んで、頭など体の諸所を打った。それは事実だ。でもぼくは、その事実しか見ていなかったんじゃないか――? ぼくは、その事実から導き出される問題点を、ずっと無視してきたんじゃないか――? まるで試験中、分からない問題を先々に飛ばして、結局解かないみたいに。そんな状況にぼくはあるんじゃないだろうか。兄貴たちは、社さんたちは、それを解かれるときをずっと待っている。解くのがぼくかどうかは関係ない。ともかく誰かの解答を待っている……。
 それにぼくは気付いてやれなかった。きっと気付かなかった。ぼくは『ぼく』のことしか見ていなかった。ぼくは自分にしか関心がなかったに違いないんだ。ぼくは、自分が友達のいないことばかりを思考して、兄貴のことなんて目視から外して、ずっとそうで……階段での一件がある前からもずっと、ぼくは自分しか見ていなくて、兄貴のことなんか見てなくて。聞いていなくて。
 ただ、漫画の主人公みたいに、ぼくは覆い包める思考を探っていただけなんだ。あの宇宙スーツみたいに、自分を着てくれる思想を探し回っていた……。
 関澤さんは、会話していてそれを察したのだろうか。いつの間にかぼくらは無言になっていて、ただ時計のかちかちいう音と、窓の外の雨音だけが染み渡っていた。
 ――もしかしたら関澤さんは、ぼくと会ってからずっと、ぼくのそんな性質を見抜いていたのかもしれない。関澤さん自身は兄貴たちとなんの関連性もなくて、それゆえに関心などないのだけど、ぼくに関心を向けていてくれたのだったら。そうなんだったら、彼女の奇行にも、いくらかの理由付けができる。かもしれない。関澤さんは、ぼくを、兄貴に目を向けさせるように作用してくれたんじゃないだろうか。まるで過酸化水素を水と酸素に分解するけれど、自身は直接的な式に関与しない、二酸化マンガンみたいに。
 ぼくには、今の関澤さんがどこかの神様のようにでも見えた。だけれど彼女にも、受験生の兄がいて、それで家の中では存在の段階で疎まれている。……疎まれているわけではないのだろうけれど、この一年間ばかりは、どこかで静かにしてほしいと思われている。
 ぼくも、来年になったらそういう待遇になるのだろうか。
 ぼくはふと、自分の過去を振り返ってみたいに気分になった。それは突発的なことで、発作のようなもので、たぶん、直接的にはこれまでの思考と関係ない。だけれど間接的には重要な|媒《なかだち》になっている。そんなものだと思った。
 ……だけれど、ぼくには、思い出といえる思い出が特になかった。それにたった今になって気付いた。ぼくは今まで、気付かなかったことが多すぎた。
 ぼくはあまり過去に頓着していない。それも、思い出を廃棄してしまうくらい――。
 あれ? ねえ?
 河川ではなく――階段で――。転がって……転がって……。
 入れ替わる。『入れ替わる』……?
 短針が十二を指した。
 はっとなって、だけどすぐに闇に消えてしまう――。
 関澤さんがぼくを見て笑っていた。いつの間にか見つめられていて笑われていた。ぼくは彼女が、決して兄貴のためにぼくを笑ったわけでないことを直感した。彼女が……あっ!
 玄関のドアが開けられたのは、ちょうどその瞬間だった。


     4

(やっと……気付いたんだね)
 関澤さんが、ぼくの脳内に語りかけた。関澤さんの暗い笑顔は、じっとぼくの瞳を捕らえている。ぼくは動けなくなった。
「そんな……きみが……」
 ぼくは、それでもまだ理解できないフリをしていた。実際には全て理解できたというのに。それでも理解したということを、脳を含めるぼくの全細胞がそれを拒絶していた。

 玄関から、兄貴と社さんが入ってくる。そのまま台所へ直行して、ぼくの顔をまじまじと見た。兄貴が、兄貴だ。目つきからして違う。
「よお、なんか、久しぶりだな」
 兄貴が、そう言ってえくぼを作った。すっかり兄貴は状態異常から抜け出していて。そして社さんも……。
 *
 ある事象が起きたと仮定する。それはいわばサイクル、もとい回転する種類の事象だ。予定と決定がひとつの環になっている。いや、原因と結果が巡り廻っているといったほうが適切かもしれない。Aという原因によってBという結果が起こり、また、Bが原因となってAが引き起こされる。そこに変化はなく、四次元世界のように始まりと終わりが接合している。
 兄貴、寺本雄吾と、そのクラスメイトである社絢が、そういった四次元的な問題に直面したとしよう。その問題を解決するには、どうすればよいか。普通ならば、問題が起こった場合、その原因を探るはずである。結果を起こらしめた原因を、だ。二人はその「普通」に漏れることなく、現に、妹であるぼくに気付かれないように、いろいろと模索していた。
 たとえば海辺でキスをした。あれはつまり、階段で転げ落ちたときに、もしかしたら唇が重なっていたのかもしれないと踏んだからである。キスをしたことで事象が起こるという可能性も、なきにしもあらずと判断したのであろう。
 他にはたとえば、これは関澤少女の行動によるのだが、彼らは坂道を転がったことがあった。あれもまた、事象の原因を手探りする行為のひとつである。
 ……そして八月二十八日。大雨が降った。それはまさしく、事象が始まった時点を二人に思い浮かばせた。打ち付ける雨の音やにおいが、当時の状況と酷似していたのである。
 その雨が、彼らに新たな光を差し込めた。つまりそれが、前述の、四次元的事象のことである。結果が原因に帰結するのならば、つまり、等しい原因が生じるごとに、結果の事象が反転するはずである。
 等しい原因――つまり、雨の日に階段で転げ落ちるという事象である。それが二人に結果を作用させていたのならば、その原因をもう一度繰り返せば、そのまま元に戻ることができるのである。なぜならば、原因の反転は結果そのものであり、原因そのものは、結果そのものでありその反転であるからだ。逆の事象を求める場合、むしろ逆の行為ではなく等しい行為を成すことによって、逆の結果が訪れるものなのである。いうなれば、反対の反対は反対ではないが、その反対は反対であるということである。
 かくして二人は、ぼくに気付くことなく家を抜け出すことに成功し、夜の学校に忍び込んだ。そして雨の中、踊り場の窓を開け、濡れた床でわざと踏み外し、ともに抱き合って転んだのだ。まさしく繰り返し――リピートではないか! そして元に戻ったのである。
 ある事象が生じ、それによって問題が発生したのならば、それを解決するには、また同じ事象を起こしてしまえばいいのである。
 *
「そして……関澤さん――きみが、それに加担した」
「そう……」
 笑顔で関澤さんが言う。
「私も、二人の様子は非常に気になった。なにせ、非常に貴重なサンプルだからね。この時代にやってきて、この事象を見るのは二度目だよ。もう十年以上住むのに……。それくらい、これは滅多にないことなんだ」
 関澤さんが揚々と話した。嬉しそうだ。
 未来から来た、未来人――。
「それも、まさかこんなに近くで見られるなんて――いや、これはまだなんでもない」
「ねえ、関澤さん」
 ぼくは彼女に訊いた。確認した、といったほうが正しいのかもしれない。
「ぼくはなにもまだ、信じちゃいないよ。まさか――兄貴と社さんの意識が入れ替わっていたなんて、そんなこと誰が信じられる? ぼくの理解力を遙かに上回っているよ。ぼくは確かに化学が好きで、化学だけでなく科学に内包されているなら普通の高校生よりも詳しい……。だけれど、こんな荒唐無稽な話に、ぼくが理解できると思うのかい? ぼくには全然、きみが未来から来た人だとも、兄貴たちが入れ替わったとも思えない」
「……今はもう戻ってるんだけどな」
 兄貴がそう口を挟んだ。口調は男らしいものに戻っている。その横で、社さんがかくかくと頷いた。小動物のような動きで、今まで見た社さんとはいくぶん違う。これが、本来のあるべき姿だったのだろう。
「それを信じて、それで、なんなの? はいそうですかって、それで終わり? 結局なんだったの? それに気付くこともできないまま、ぼくは、坂松さんは、矢倉さんは、加藤くんは、宇治くんは……これから関澤さんにどう接すればいいの?」
「知らないよ」
 関澤さんはそうぞんざいに言ってのけて、どこでもないどこかを眺めた。

 ***

 断片の記憶。
 ずたずたに切り裂かれた、『私』の記憶。
 今はもう生きてない。だけれど死んではいない。死ぬ人なんて存在しない。死んだら存在しなくなるのだから。それはそれは当然すぎることだった。
 だけどそれでも、『私』は死んでない。存在しているのだから死んでいない。決して、死んでなんかいないんだ。
 転がる事象。それが生産する結果を、『私』は決して忘れない。なぜならば、その結果こそが、『私』を生と死の狭間に追いやったのだから。そしてまた、『私』をそこから救い出したのもそれ本体だったのだから。
 皮肉にも『私』は、因縁の相手に助けられた。因縁、『私』の怨念の相手であることは間違いない。それなのに、同時に恩寵の対象であることもまた事実だ。避けられようもない、哀しい哀しい事実だ。
 転がる事象。転がることで、精神が交換される。雨と晴れが交代したり、向日葵と雪だるまが入れ替わったり、昼の後に朝が来たり……そんなことが、対象の心の中に宿される。それがこの事象の、二次的な災害だ。災厄だ。
『私』は具体的に述べるのなら……。決して、『私』は未来から来たのではない。この世界に訪れてから「関澤」と便宜的に名乗ってきた『私』ではあるけれど、これは本名ではない。
 ――名を、寺本由美という。

 ***

 ぼくは化学の実験に取り掛かった。といっても、既に先人たちによって、捨てられるほど施された、二番煎じの実験だ。それをレポートに纏めて、近いうちに、高校生を対象にした科学コンクールに提出しようと考えている。
 触媒を使おうか。ぼくが構想に思案していると、ふいに、兄貴が声をかけてきた。
「ラーメン食いに行かないか」って。
 今日は、社さんはいない。久しぶりに家のほうに帰るらしい。……今までずっとぼくの家にいたのだろうから、帰りたいのも当然だろう。
 母親が帰ってくるのは、今日の夜だ。おそらく深夜になるだろうと、電話先で伝えてきていた。おつかれさま、ぼくはそれだけ言って電話を切った。実際にぶった切ったわけではない。通信を閉ざした。
 近所のラーメン屋は、比較的空いていたように思う。
 ぼくは塩ラーメンを、兄貴は味噌ラーメンを注文した。どちらも五〇〇円だ。合計で一〇〇〇円。足し算をすればそういうことになる。
 夏に食べるラーメンは内から込み上げる熱気があって、それも汗臭くなる種類の熱気ではないから、ぼくはラーメンを嫌いにはなれない。
 既に終わった話とは、まだ考えていなかった。
 関澤さん――どうしてるかな……。
 ぼくはそう思って、箸を置いた。
 あの日から、関澤さんに会っていない。

 ***

 ああ、哀しい。
『私』は哀しい。
 だって『私』を取り巻く記憶が、だんだん崩れていっているのが、痛いほど実感できてしまうのだから……。
 宇宙の法則。
 宇宙に潜む、回転の法則。
 反転し、逆転し、入れ替わる。
 そして同じ事象によってひっくり返る。
 覆水、盆に返る。
『私』の記憶が、まるで食いちぎられていく。魚がぱくぱく食べていく。『私』の頭を食べていく……。
 未来から来た人という言葉には、一般的に、二つの意味が取れる。一つは、未来を先駆けているような、オリジナリティのある人という意味。メタファーともいえる。もう一つは、実際に未来――時間を一次元上の線と見た場合、「現在」から、「過去」の反対方向へと続いていく時間のこと――からやってきた人のこと。時間を遡上してきたのか、それとも、未来まで行きすぎて、四次元のように始源に帰結したのか――どういったかの方法で、未来から現在へと移行してきた人たちのことだ。
『私』は、そのどちらでもない。未来ではあるのだろうけれど、それは一次元とはとうてい言いにくい。『私』が来た未来は、この「現在」と同じ系列にないからだ。
 ――パラレルワールド。
 この言葉がたぶん、一番理解が易いだろう。
 あっちこっち。こっちそっち。
『私』はこの世界の人間ではない。他の世界の人間だ。他の世界の、未来に位置するところからやってきた人間だ。
 転がる事象。
 宇宙はパラレルワールドをも内包し、終いにはそれを割烹する。簡単に言えば料理する。
『私』は料理されるしかなかった――。
 なぜなら『私』は、転がる運命に「無かった」寺本由美なのだから。

 ***

 ラーメン屋を出て、兄貴の自転車に乗って公園に出た。公園の傍には自動販売機が設置されている。……いや、他のところにも散見しているのだけど。
 ここには、食後の胃に優しい、甘いコーヒーが売られている。
 兄貴が遅れてやってきた。
 ぼくは、兄貴の分もコーヒーを買っておいてあげた。そのお金が兄貴の財布から由来していることは、絶対的な、国家機密だ。
 守秘義務だ。
 関澤さん、この近所だって言ってたっけ――。
 ぼくは、関澤さんの言っていた言葉言葉を思い起こして、真っ直ぐ歩いて、右に曲がった。
[関澤]
 表札はすぐに見つかった。家のドアに、規則的な字でそう書かれた板が、貼り付けられている。
 下の名前も、丁寧に記されていた――。
 関澤|寛《ひろし》、|安芸《あき》……これは、両親の名前なのだろう。そしてその下段に、|祐司《ゆうじ》という名前。いつか言っていた、お兄ちゃんの名前だと簡単に推測できる。
 ……関澤さんの名前は、書かれていなかった。
 ――あれ?
 関澤さんって、下の名前なんだっけ。

 ***

 死んだ人なんて存在しない。人が死ぬことはない。なぜなら、死んだ人は、存在しなくなってしまうのだから。
 この世界における『私』――「ぼく」は、小学生に入る数年前に、公園の階段で、宇治棟矢という少年と転がった。回転の事象が起きた。
 そして、二人に内在していた意識は、入れ替わった。
 ああ、そうか。
 だからこの世界の『私』は、「ぼく」を用いていたんだ。
 この世界の『私』――「ぼく」は、元に戻っていない。宇治棟矢もそうだ。二人は意識が入れ替わったまま、もう高校生になっている。
 彼らは、事象が起きたときまだ幼かった。稚かった。
 だから、変化に適応する余裕があった。
 シュペーマンの移植実験というものがある。色の異なるふたつのイモリの原腸胚初期を、神経となる予定の部分と、表皮となる予定の部分を、交互に移植する――入れ替える。両生類はどうやら、抵抗反応を示さないらしい。もしこれが哺乳類だった場合、安易に移植すると異常が出てきそうなものだが。
 するとイモリのそれは、成長すると、おのおの、予定でなるはずだったものではなく、入れ替わった先の部分として成長したらしい。入れ替わった後に、それに順応したわけである。
 ところがそれは、原腸胚が初期のものであるからである。
 これが、後期であったならそうはいかない。
 たいがいその場合は、予定に従ってしまうのである。
 要するに、この世界の「ぼく」と宇治くんと入れ替わったときは、彼らが幼かったから順応することができたが、兄貴――『お兄ちゃん』と社絢の場合は、高校生ほどまで育ってからなので、順応できなかったのである。
 しかし、もちろん本来は男と女であるはずだったのが逆になってしまったのだから、名残ともいえる残滓がある。それが、『私』の、この世界の『私』の「ぼく」という呼称だ。さらに、「兄貴」という呼び方もそこに付随している。
 この世界における『私』は、要するに『私』ではない。人格からして違う。「ぼく」は『私』の精神を持ち合わせていない。宇治棟矢の精神を担いでいるのである。『私』の精神を背負っているのは、この世界では、宇治棟矢青年だといえよう。
 ああ、考えていくごとに記憶が崩れていく――。
 その原因はなんだろう。
 考えなくとも、その検討はついた。
 だけれども、『私』は考えずにはいられない。
『私』は宇宙の法則を抜け出したのではないだろうか。
 回転の事象。
 それはもしかすると――宇宙の枠組みから抜けることのできる、唯一の方法なのではないだろうか――。
 ああ。
 未来という概念はひどく曖昧だ。こうして考えているうちも、一次元の時間に存在しているのなら、それは未来に存在しつつあるということだ。しかしその瞬間にはそれは現在といういきにおさまってしまっている。『私』はそれが、どうしても理解できなかった。
 だから、『私』は時の逆行を果たしたのである。
 宇宙との媾合を、『私』は成しえたのかもしれない。
 そんなこと知らない。
 直に『私』は無になろう。
 それが「回転」の対価だ。
 ――踊り場の窓を開けた対価だ。
 形而上の存在は、死ぬことができるのだろうか。


     5

「おーい! こっちこっちー!」
 坂松さんが手を上げて、衆目の恥も知らずにそう叫んできた。その手の平は、明らかにぼくを向いている。ぼくは無視するのも煩わしく感じて、坂松さんに駆け寄った。
「ごめん! 待った?」
「待った!」
 坂松さんのテンポのいい返事に、ぼくはつい、吹き出してしまう。おかしかった。その爛々とした瞳はまるで、お人形さんを前にした少女のようだった。
 八月三十日。明後日で夏休みが終わる。
 ぼくらは町の中心部にやってきていた。広い。だだっ広い。そのくせして、人が多すぎて窮屈なところだ。だけれど、その人たちのうちにぼくも入っているのだから、文句も言うに言えない。
 足音が頭になって、いろんな雑音がぼくの鼻をくすぐっている。くすぐる羽毛は耳に届かない。なぜなら、耳は坂松さんたちの話に集中していて、雑音なんて見向きも……聞き向きもしないからだ。マスキング効果とかいうやつだ。
 特に目的はない。映画を観るわけでも、ショッピングをするわけでも、誰かの家に乗り込むわけでもない。ただ、夏休みの最後を飾ろうと、意味もなく町中にやってきたんだ。
 明日はみんな、忙しいらしい。理由は分からない。けれど、みんな示し合わせていたように見えたのはぼくの錯覚だろうか。ただの、思い込みだろうか。
 また、少しずつぼくは離れている。
 また、友達のいない生活に戻ろうとしている。
 元に戻ろうとしている。
 そう思った。
「……由美?」
 矢倉さんが、ぼくの顔を覗きこむ。背が(ぼくよりも)高いからって、わざわざ腰を曲げて顔を見ないでほしい。いろんな理由が混ざり合って、ひとつの大きな悲しみになってしまう。悲哀。
「ほら、由美、行くよ」
 坂松さんが手を引っ張った。少し前にのめる。つま先が体勢を崩した。
「おっと」
 加藤くんが、逆のほうの腕を掴んでぼくの体を支えた。ぼくはちょうど、前後に左右それぞれの腕を引っ張られた状態になる。捕虜になった人の気持ちが、一瞬だけだけれど分かった気がした。ほんのちょっぴりだけど。
 ははは、と宇治くんが傍で笑っている――。宇治くんは、幼かったころのことを覚えていないのだろうか。
 昨晩遅く、母親が帰ってきた。ぼくは母親に、昔話を持ちかけた。夏休みに起こった不思議な現象、その要因のひとつに、ぼくの過去の体験が関係していると知ったからだ。その話を、母親から聞いてみたかった。現に、ぼくは当時のことを覚えていない。当時のことを知るのは、兄貴か、それとも母親しかいないと思った。
「棟矢くん? そうねぇ、小さいころはよく一緒に遊んだわねぇ」
 宇治くんは、ぼくが小学校のときに引っ越した。遠くへ引っ越したわけではない。確か、名門の中学に合格して、そのために引っ越したんだ。その中学校は、ぼくの家から電車で二時間ほどのところにある。
 ……ぼくが宇治くんと同じ高校に入ることができたのは、ほとんど奇跡のようなものだ。ぼくは中学のころ、化学の実験で賞を貰った。小中学生を対象とした、市が開催する大会で。それが大きく評価されて、偏差値の高い高校に入学することができた。そして、そこに一緒に入学していたのが、宇治棟矢だった。
 ぼくはすぐに気付いたけれど、彼が気付いているかどうかは曖昧だった。ぼくが彼を見ていると、たまにそれに気付いて目を遣ってくるけれど、それがなにを指すのか理解できなかった。
 小学生以来会っていなかったから、覚えていてくれていたのか不安でならなかった。覚えてもらえている自信がなかった。
 ぼくは普通の子と考え方が違う。そう気付いてきたのは、確か中学三年生のことだった。賞を受けたのが二年生のこと、ぼくはそのときから、まわりから、「少し普通じゃない人」という認識を授かることになってしまっていた。ぼくは疎い性格をしているから、それに気付くのに時間を費やした。それも要因のひとつだったと思う。
 ぼくは普通と違う――ぼくから「ぼく」が浮き彫りになったのもそのころだ。ぼくは以前から、知らぬ間に「ぼく」を使用していた。だけれどそこに、「ぼく」が付随したのはそんな時分だった。
 それをぼくは、対価として考えることができなかった。化学に打ち込んで、そのために楽しみを犠牲にする勇気を、残念ながらぼくは持っていなかった。
 だからぼくは、この高校を志望校に入れたのかもしれない。……ぼくと同等、それ以上の人たちの輪に入って、「少し普通じゃない人」から脱しようとしていたんだ。
 それも無駄だったのだけど。
 ぼくは知った。ぼくが「少し普通じゃない人」なのは、化学の興味が普通よりあるせいなのではないって。他に原因があるって。
 ほら、はんぶんこ。
 ショッピングモールに入って、見てるだけー、をやり歩く。ぼくの前方には坂松さんと矢倉さん。その後ろにぼく。その後ろに加藤くんと宇治くん。天井から見れば、Xの文字に見えないでもない、かもしれない。……それはさっきまでのこと。
 今は、ぼくと宇治くんだけだ。
 みんな目が早い……。
 ぼくが宇治くんに目を取られていることに、みんな、いつの間にか気付いていたらしい。ショッピングモール内にあった喫茶店で、レモンの入ったサイダーを飲む。坂松さんも矢倉さんも加藤くんも、ちょっと見てくるものあるからーとか言って、勘定だけテーブルに置いて出て行ってしまった。困る。
 気まずい。ぼくも宇治くんも、トークはあまり上手なほうではないと思う。宇治くんは聞き上手だけれど話し下手だ。ぼくは聞き上手でさえないのはともかく。
 それを打ち破ってくれたのは、宇治くんだった。
 まだ手をつけていなかったらしいビスケット一枚を。
 ほら、はんぶんこ。
 馴れ馴れしい声で、そう言ってきた。
「……へ?」
 つい、そんな莫迦なことを口にしてしまう。
「いらない?」
 宇治くんは、口元を曲げてそう発言した。ぼくは慌てて、ミカヅキのビスケットを手にとって、口に含んだ。かさかさしている。味もよく分からないままに噛み砕いて飲み込んだ。その様子を、宇治くんは楽しそうに眺めてる。
「寺本さん、きみって面白いね」
 宇治くんがふとそう言って、ぼくは自分の顔が赤くなっていく実感を味わった。ビスケットよりもずっと濃い。ぼくは俯いた。グラスにはサイダーが。サイダーにぼんやりとした影が浮かび上がった。
「実はね、僕が三人に、少し席を外すようにお願いしたんだ」
 宇治くんがそう言って、ぼくは顔を上げた。三人は、ぼくに気を遣ったわけではない。宇治くんに気を利かせたんだ。
「……なんで?」
 そう言わずにはいられなかった。心臓が脈打っているのが分かる。相手に心音が聞こえていないか不安になった。
「前々から、きみとちゃんと話してみたいと思っていて」
 宇治くんが、自身のグラスのストローを咥えた。
「僕にはどうしても、きみと昔、どこかで会った気がしてならないんだ」
 ――懐かしいというか、特別な親しみを感じてしまう……。宇治くんが言う。
 宇治くんの顔は楽しそうだ。だけれど、顔の横から汗が出ていた。暑いのか、それとも。
 ぼくは知っている。
 宇治くんとぼくは、「回転の事象」によって、精神が入れ替わったまま育ってきた。ぼくが化学オタクなのも、宇治くんが温厚な性格なのも、その後遺症だ。
 あれ……、どうやってこの事実に気付いたのだっけ。
 誰かが教えてくれたんだっけ?
 でも、誰が?
「ねえ、覚えていないかい? 僕はきみと会ったことがある。なにか、思い当たることはないかい?」
 思い当たることしかなかった。ぼくときみは、幼馴染だったんだよ。そう教えてあげてもよかった。だけれどぼくは愉快な気分になって、恥ずかしい思いとぼくだけが真実を知る優越感に翻弄されて。
「知ってるよ」
「え、ほんと!?」
「だけど、教えない」
 今度はぼくが笑う番だ。いつの間にこんなにキザな男になったのか、ぼくの精神は、宇治くんの体の中で、しっかりと「男の子」として育っている。
 それなら、ぼくだって完全な女の子だ。
 いじわるだってしたくなる。
「えぇ、知ってるんだったら教えてよ」
「また今度ね」
「今度っていつ」
「そうだなー。大学に入ったくらいかなー」
 こうして、夏休み終わりを目前に控えた、八月三十日はあっけなく終わった。

 八月三十一日。この日はみんな忙しい忙しいというものだから、遊ぶ相手がいないので、部屋で漫画を読んでいた。宇宙スーツの話も、ついに最終巻だ。
 読後感に浸りながら、ぼくは自室を出た。トイレに行くためだ。
 用を済ませ、トイレのドアを開け廊下に抜けると、そこには兄貴がいた。兄貴はいつにも増して凛々しい顔をしている。ように見える。
 母親が帰ったときには既に兄貴は元の状態に戻っていた。だから、母親はしたり顔で、「ほら、やっぱりなにもなかったじゃない」と言っていたのだった、ぼくは笑いを堪えるのが大変だった。
「生理か?」
「は?」
 兄貴が突飛なことを言ってくる。生理って……。
「あれってスゲー痛いんだな。やっべえよなあれ。あんなもの毎月食らって生きているとか、おまえの体はどんだけ丈夫なんだよ」
 どうやら、社さんの体であるときに、その痛みを経験したらしい。
「まあ、出産の痛みとか、もし男の人がそれだけの痛みを受けたら確実に死ぬってよく聞くよね。女のほうが丈夫なんじゃないの?」
 精神がどうであっても。
「うへ。マジかー。これからはスポーツのときでも、女子に手加減するのはナシにするぜ」
「それはちょっと違うと思う。あ、あと、別に生理じゃないから!」

 みんな、なぜ忙しいのだろう。それが疑問でならなかった。
 八月三十一日。夏休みの最終日だ。
 毎年この日は、新学期への生活リズムを正すために費やしていた。具体的にいえば、適当に遊んでいたということだ。……だけれど、なんだろう。みんななにが忙しいのだろう。そういえば、中学のときも、小学校のときも、みんなこの日は、遊びの誘いを断られていた気がする。
 まあ、別にいいや。今年の夏休みは、とても充実した夏休みだった。なんだか後ろめたくなってしまうくらい、こんなに幸せでいいんだろうかってくらい。
 ……それなのに、ぼくはなにかを忘れている。
 ぼくに事実を知らせた人。いるはずなのに、その人の記憶がすっぱりなくなっていた。……それとも、そもそもそんな人は存在しなくて、ぼくが自力で解明したのだろうか。
 関澤……?
 ふと、数日前に見た表札を思い出す。ある民家の表札だ。ぼくはなぜだか、その表札に気をとられていた。なぜなのかは分からない。見て、大人二人と、息子が一人いることを知って、それで、それで……。
 それだけか。
 まだ七時だけれど、ぼくはベッドに潜ることにした。今寝たら、いくらいつも夜更かしをしていたとしても、朝の六時ぐらいには起きられるだろう。遅刻は厳禁。
 布団はふかふか、気持ちいい。
 いい夢が見られそうだ。
 でも、ぼくはその瞬間、気付いてしまったのだった。
 いいや、事実を解明した人のことではない。そんなことどうでもいい。今は、どうでもいい。
 ぼくは忘れていたのだ。
 宿題に、まったく手をつけていないということに。