文戯5メモ

tyuuwomaufjoao
qQEhghこんにちは。in the room,
定点カメラ小説。
室内、テレビの画面を須藤が見ている。須藤がテレビを見ている間、テレビの画面もまた、須藤を見ている。画面に意思はないので、「見る」という表現は不自然で、実際のところ、須藤が「見られている」と感じているからこそ、画面は須藤を見ているのだった。
と、いう主観的な側面は抜きにしても、画面は室内を「見ている」。映し出しているという意味において。


アナログテレビ。地デジ化されたのは2012年3月。本編は2011年12月。クリスマスが近付こうとしていた。
テレビが映らなくなるまでもうわずかな時間しか残っていないが、わざわざ新しいテレビに買い替えてまで、このうんざりする報道の波を見たいとはどうしても思えない。

玄関とつながったキッチンと、6畳ほどの部屋があるのみの一人暮らし。居間と台所とを隔てるふすまはいつも開けたままにしている。閉じる必要がないから。
テレビは居間の奥に置かれていて、ちょうど、シンク台と向かい合う形になっていた。その済には玄関のドアが見えるくらいの。つまりほとんど部屋の全容を見ることができた、居間からの方向から見える範囲内であれば。

テレビを見ている須藤は風景であり、風景である須藤はテレビ画面に映し出された風景を見ている。ニュースキャスターが何か言っている。

※設定が2011年だったとしても、2011年だとは書かずに、ぼかしてはどうか。無言のときのように。
※「テレビ」にこそあどを付けないように。「私」にこそあどを付けることがめったにないのと同じように。


テレビの画面は須藤と向かい合っている。須藤がテレビを見ているからだ。画面から発せられた光が須藤の顔を彩る。深夜一時に放送が始まった映画はモンスターパニック映画だった。ブラウン管テレビは一人暮らしの須藤の部屋で、ただ箱に徹したまま、獣と人間の雄叫びを映す。
玄関のすぐ横に台所があり、その空間と(ドアの溝のやつ)をまたいでひとつの部屋がある。須藤の住む家はそれだけの小さなアパートのひと部屋だった。玄関兼台所の空間と、奥の部屋とは、一応()があり戸を閉められるようにはなっているが、須藤は常に開けっ放しにしていた。そのほうが広く感じられるからだろう。部屋の奥、それも中央に位置しているテレビは、玄関口や台所の済を除けば、ほとんど室内全体へ光を行き渡らせることができた。


こたつ、テレビ、時代の終わり
3:4, 9:16
妖精が現れるようになったが彼らは映像に映らない。妖精の存在は日常的なものになっているのに、テレビはその存在を映せない。

集団イマジナリーフレンド


なぜ「私」ではなく「あなた」か
→主観があって初めて観測できる世界