あむの憧憬


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第三部



 過去の話をします、わたしの父親と母親の出会いは、薄暗い路地裏でした、そこはじめじめとした、まるで名のない猫がニャーニャーと泣いていそうなところで、そのために父親は、そこに座り込んでいた母親を、猫のようなものに感じたのです、父親は母親に、どこの家のものであるかを訊ねました、しかし母親は父親の言葉がどうやら理解できなかったらしく、なにも答えなかったため、父親は母親を、言葉の分からぬ無学のものだと判断しました、猫のようだという第一印象が、そのような早計な判断を引き出したのでしょうが、実際、母親はなにも考えていませんでしたので、父親に導かれるがまま、手をひかれるままに歩きました、歩くという動物的な行動には支障のない様子でした、父親は自分の家に母親を招きいれ、汚いから風呂を使うといい、と話しかけました、しかし母親は父親の言葉には興味がなかったらしく、その親切な言葉に気付かなかったため、玄関から動こうとしませんでした、父親はひとつ溜息をついて、また手をひいて、風呂場までつれていき、その頃合に女中を呼びました、家の奥から女中がやってくると、父親は、この娘を風呂にいれてやれ、と命じました、女中はその質問の内容にいくらか眉をしかめましたが、宙のどこかを眺めているらしい母親の姿を見て、少々の合点がいき、その言いつけにそのまま従うことにしました、父親が風呂場から出て行くと、女中は母親の服を脱がし、手をひいて、浴槽のなかへ促しました、女中は母親のその育ちの悪そうな体を見て、ろくに食べていないのだな、と思いました、母親は女中の促しに応じずに、ただ浴槽のそばで突っ立っているので、女中は仕方なく、自分も服を脱ぎ、浴槽のなかに入ってみせました、風呂からあがって、いま自分がしたことをするように、手振りで伝えます、母親はしかし、女中の行動など視界に入っていなかったらしく、意味を成しませんでした、女中は気分を害して、母親をそのままにして、さっさと服を着て風呂場を出てしまいます、リビングで父親は新聞を読んでいたのですが、女中を見て、母親はどうしたのか訊きました、とても扱いきれません、女中は弱弱しく答えます、父親は自分の顎を撫ぜて、はてどうしたものか、いっそのことこの手で洗ってやろうか、などと卑猥な方向に思考を重ねますも、布ごしに見受けられるあの貧相な体つきを思い浮かべて、どうにも性的な感情が湧き上がってこない自分に気付き、父親は舌打ちをし、その様子を眺めながら、女中はなかば仕事を放棄したように、ではご自身でお洗いになってはいかがですか、とても女中めの手にはおえません、と、そう言うものですから、父親にとっても特にその申し出を断る条件はなく、いえ、だからあの成長の遅れた様子に、どうにも父親は、なにも考えていないような母親を女として捉えきれなかった節があります、父親は風呂場へ軽くもなく重くもない足取りで、向かいました、女中はひと仕事終えたといわんばかりに、ひとつ溜息をついていました、父親が風呂場に入ったところ、しかし、母親はきちんと浴槽に浸かっておりました、父親は首をかしげ、母親のそのぼやけた顔を一瞥しながら、失礼、とだけ言い残して風呂場を出ました、すぐに出てきた父親を見て、また女中は眉をしかめます、その表情を見て父親も眉をしかめ、互いにその表情で向かい合っていましたが、しばらくしないうちに父親が首を振り、なにも言わず書斎に入っていきました、女中はまたひとつ溜息をつき、食事の準備に取り掛かりました、この女中は当時一九歳、高校、という、当時呼称されていた教育機関の第四段階を卒業し、それからすることもなく、できることもなく、彷徨い歩いていたところを、この家の主、わたしの父親に拾われて、それ以来、独り身である父親の身辺を整える仕事をしています、その呼称は文献によると女中、家政婦、お手伝いさん、メイド、召使いなどさまざまですが、この文章においては一番文字数の少ない、女中、を採用しています、というのはともかく、彼女は食事を机に並べて、それからやっと、母親がまだ風呂から上がっていないことに気付きました、まさか溺れているのでは、と心配して、すぐさま風呂場に向かうと、母親は既に浴槽から上がっており、それどころか風呂場に姿がなく、いなくなった、と女中は呟き慌て、主のいる書斎に駆け行くためにさきほどの机のあるところを横切りましたところ、なんと、母親はそこの椅子にちょこんと座って、じっと皿の上のものを眺めておりました、女中は絶句して、後ずさりして、母親は眼球が乾いてしまうほどに目を開き続けて、食べ物を、眺め、て眺めていて、違う違う違う、と、女中はなにがなんだか分からないままに否定し続けていて叫び続けていて、女中の肩に誰かの手が触れて、そこで気を失ったそうです、以上のことを、鉤括弧、過去の話をします、鉤括弧閉じる、という言葉から始まったこの話は、わたしには衝撃で、だって今まで、わたしの母親は、なにも考えていない、ただそれだけの人間だと信じていたというのに、なにも考えていない、ということの真意のようなものが、彼女の話の端々から滲み出ているのは、恐ろしいこと、でした、雨の音とにおいが、わたしの肌を刺激します、テラスには屋根が備え付けられているため、濡れることはありませんが、わたしは、強い雨脚を眺めて、なにか言おうとしました、けれど元女中の彼女は、わたしがなにか言う前に、話の続きを始めたのです、女中が目覚めたのは、その日の夜中でした、女中は自分の部屋の布団に寝かされていました、周りには誰もいません、部屋のドアも、閉じられているようです、女中は起き上がって、窓の外を見遣りました、月の光が差し込んできています、額が寝汗で湿っていました、女中は手でグーを作って、叩くように額を拭います、そのまま親指の付け根のあたりで目元をこすって、体を起き上がらせます、部屋から出ました、この家屋は二階建てで、女中の部屋は二階の隅っこです、二階には部屋がみっつあって、うちひとつがわたしの父親の寝室、うちひとつが空き部屋です、自由に使っていい、と女中は初日から言われていますが、その部屋はただ掃除をしているだけで、なにも置かれていない、いわば実に整頓された部屋になっています、ちなみに一階は、トイレと風呂、書斎、少し大きめの台所とリビング、という間取りになっています、なぜ独り身の暮らしている家が、こんなにも広いのか、女中は知りません、部屋を出て女中は、主人の部屋のドアを確かめました、ドアが開いているときは女中が入ってもいいとき、閉まっているときは入ってはいけないとき、ドアは閉まっていました、父親がなかで眠っているのか、定かではありませんが、女中は踵を返して、今度は階段を下りました、ぎしぎしと一段下りるごとに音がなります、もし主人がお眠りになっているのなら、音を立てるのは悪いな、と考えながらも、いくら工夫しても音を消すことはできず、その試行錯誤をしている間に一階に着いてしまいました、そして女中の案じていたことが、杞憂だったことを確認しました、主人は眠ってはおらず、リビングで酒を飲んでいたのです、女中は少し驚いて、変な声を出してしまいました、その様子を見て、父親は、力なく笑います、女中は、彼がさほど酒を好まないことを承知していました、どうされたんですか、唐突に質問します、父親はその質問には答えずに、どこでもないどこかを眺めて、今日は月が大きいな、と言いました、リビングから月は見えません、女中は首を傾げて、それから少し考えて、主人の向かいに座りました、ほのかに赤くなっている主人の顔が、見ていておかしくて、自然と口元が緩みます、主人はそれを咎めることもせずに、やはりどこでもないどこかを眺めているのです、リビングには小さな橙色の光が灯っているだけで、女中はこの薄暗い空間に、妙な心地良さを感じます、この家に住み込んでからの数ヶ月間が、ふいに頭のなかを流れてゆき、女中は主人の見つめているどこかを探って、ぼんやりと視線を持ち上げます、そこに母親はいました、悲鳴を出すこともできずに体が強張り、視線も刺さったように動けなくなりました、視線の先の彼女は、まるで妖精のように、いいえ、まるで首を吊った死体のように、実体を写し落とすことなく影を飲み込んで、リビングの床を見下ろしていました、その表情は、最初に見たときと同じく、なにも考えていない無学の顔で、なぜか女中はそのとき、安心したそうです、鉤括弧、母親は天井に吊るされていたということですか、鉤括弧閉じる、わたしは彼女の話の途中で、質問を挟みました、鉤括弧、いいえあの人は、浮かんでいたのです、鉤括弧閉じる、暗かったから、もしかしたら、糸が見えなかったのかもしれない、けれどこの目で見た限りでは、あの人は浮かんでいた、三点リーダ、元女中の彼女は顔を伏せました、彼女の着ている真っ黒い服は、新調したものらしく、畳み皺が目立っています、わたしは、続きをお願いします、と顔を伏せたままの彼女に頼みました、この機会を逃したら、もう永遠に父母の話は聞けないかもしれないと思ったための催促でもありました、彼女が顔を上げます、なんともいえない顔でわたしを見ます、わたしの黒い服も、もしかしたら皺が目立っていたのかもしれません、わたしは泣きそうになったけれどぐっとこらえました、それが顔に出ていたのか、分かりませんが、彼女は顔をわたしから逸らして、話を続けます、天井から見下ろしていた母親は、けれどなにも考えていないようで、なにも言わず、ただ見下ろしているだけで、女中は体が動けなくて、ただ彼女の姿しか視界に入らない、恐ろしい、という感情をふつふつと感じながら、なにもできず、長い長い時間が経った、ような錯覚、実際にはほんの数秒だったのでしょうが、一夜を徹したときの高揚感と疲労感、見えない縄に縛られた体に、どっと押し寄せて、その衝撃で女中は動けるようになりました、はっと母親から目を逸らして、机の上に女中が用意した食事がそのまま置かれていることに今更気付いて、主人は未だぼんやりしていて、顔がほのかに赤くて、触ったらきっと熱くて、女中は起き上がって、やっとのことで甲高い悲鳴を上げました、そうしたら涙が出てきました、喉がひっくと鳴りました、気付けばそこはリビングではありませんでした、主人が女中の肩を揺り動かして、大丈夫か、おい、大丈夫か、声を荒げています、そんな主人を見るのは、初めてのことでした、女中は口元を緩めて、寝返りをうちます、腕がなにか気持ち悪いものに当たりました、目を開けます、それは屍でした、見知らぬ男のシカバネでした、目がえぐれてる、自分の思考がまるで自分のように感じられませんでした、女中は主人の手を借りて起き上がります、ここは、どこ、ですか、主人に訊くも、主人はただ首を振るばかりです、その空間はあたり一面真っ白で、しかし雪や紙切れが積もっているわけではなくて、本当になにもない、無、だからもしかしたら真っ白という形容は不適切かもしれなくて、無、という未知の存在を、女中は既知である白という色に代替したのかもしれません、比喩のように代替したのかもしれません、これは、と、主人が呟きます、主人の顔からはもう酒の気は抜けていて、いつもの冷静な、それでいてどこかおどけたような、飄々としたあの顔でした、主人がなにに対して呟いたのか、女中にもすぐに察しがつきます、女中の視界にも嫌でも入ってくる、あの、人、人、人、真っ白くなにもない空間に散らばっているのは、砂でも塵でもゴミでもなくて、人、そこに広がるは人、人がたくさん、それは、それはそれはそれは、女中は頭を抱えます、座り込みました、主人も女中の横に腰を下ろしました、散らばっている人は、それぞれ数人で寄り固まって、落ち着かない様子です、女中たちと同じく、気付けば突然ここにいたようです、死体もちらほらと窺えます、女中は吐き気を覚えて、口ではなく目をぎゅっと閉じました、喧騒が耳に届きます、ざわざわと、うるさく声が、して、る、そのときでした、騒々しい声のなかに、人間の声のなかに、なにか、神々しい声、光を帯びた声が、女中の頭を撫で付けました、人間たちよ、地球を占める生き残りのホモサピエンスたちよ、我らの話を、あなたたちは聞かなければならない、女中は目を開けました、恐る恐る、首の痛みを感じながら、顔を上げます、声のしたほうがどちらなのか、分かりかねましたが、それを確かめるまでもなく、顔を上げたその先に、それはいました、悪魔、悪魔、悪魔、わたしが常々、悪魔悪魔と呼称しているあの存在、女中は無意識に唾を飲み込みました、一体、二体、三体、白い空間のある部分にいた悪魔は、三体でした、悪魔という呼称は便宜的なものであり、実状と比較してみて妥当な呼称というわけでもありませんし、彼らを一体二体と数えるべきなのかも定かではありませんでしたが、確かにそこに、白い布を纏ったみっつの個体が存在していたことは確かです、そして、その三体のうち一体が、母親であることも、父親が、ぐっ、と喉を鳴らせました、その音が白い空間に響きます、他の人々は呆然と立ち尽くしているだけでした、座り込んでいる女中はまるでお人形さんのようです、三体はヒトとまったく同じ姿かたちをしておりましたが、ただ異なることに、地に足をつけておらず、浮遊していました、違いはそれだけだったというのに、ただそれだけの違いで、彼らが人間でないということを、女中も他の人々も、心から認めたのです、彼らの声が、また響きます、彼らは口を動かしていませんでした、だというのに、言葉が溢れ出てきます、人間たちよ、生き残りのホモサピエンスたちよ、我らはここに君臨する新たなる支配者である、地球の主導者である、初めこの惑星は灼熱の光に支配されており、次に植物たちに支配され、さらにその次に爬虫類たちの時代がきた、そして、現在においてこの地球の支配者はあなたたちホモサピエンスである、あなたたちはこの地球の全動植物において、肉体的に劣った存在であるが、同時に知能的には最高峰に位置する存在でもあった、否、厳密に言及するならば、あなたたち人類は、知能的にも、最高レベルにあるだけであって、最高そのものではなかった、されど人類は炎を我が物にし、夜を昼に変え、岩を削るすべを獲得した、それら過去の栄光により、あなたたち人類はこの地球の支配者となったのだ、文明、と呼ばれるあなたたちの特性は、もはや生命体として欠かせない体の一部となり、人類の発展とともにあった、あなたたちは文明的なものと非文明的なものを区別し、非文明的であるものを、自然、という言葉の発明によって規定した、すなわち自然とは、人間の文明が生まれたからこそ生じた概念なのである、が、あなたたちは自然を軽視した、文明を自然を、優劣の関係においたのだ、その点においてあなたたちは失敗を犯したといえよう、肉体的に劣っており、知能的にも最高というわけではない人類が、みずからをより優れた存在であると看做し、傲慢に振舞った点において、あなたたちは地球の顰蹙を買ったのだ、分からぬのか、地球は支配され続けている存在であるが、同時に、この地球上において最も優れ、最も強く、最も賢い個体であることを、あなたたち人類は、最近になるまで気付かなかったのだ、気付いたときには、既に人口は肥大し、気温が上昇し、海水は汚濁された、しかしそれは、動物にとって、ということに過ぎず、むしろ植物にとってその気温と二酸化炭素濃度は、生活サイクルにおいて妥当な値に近づいたことになるのだが、あなたたち人類は自分たちにとって不都合であるからして植物の減少を憂い、そしてまた、地球を守ろう、というどこか論点のずれた標題を掲げ、あくびを抑制した、その先になにが見えるか、あなたたちになにが見えるか、我らに見えるは人類の歴史の途絶に他ならない、化石として発掘されることさえなく、散り散りに割れて消えてしまうだろう、跡形もなくみずからを破壊しつくしあなたたちは滅びゆく運命にあるだろう、そこで、我らは、あなたたちに提案を与える、次の段階に移らないか、この地球の歴史において支配者の権利を、人類から我らに、譲り渡してはいかがだろうか、決して悪い話ではないはずだ、この提案において刮眼すべきは、支配者の交代が、剥奪ではなく譲渡にあるところである、このようなことは、この地球においてただの一度さえありはしなかった、どうか、地球の階梯をひとつ上ってみないか、あなたたちの慣用句に見立てるならば、手を取り合って、我らの支配下に入らないか、無論、これは強制ではない、我らはあなたたちの轍を踏みはしないのだから、決して同意なしに強制することはないだろう、イエスか、ノーか、という、二者択一的な、動物的な判断でよろしい、あなたたち人類は、このまま滅亡の道を辿るか、それとも我らに地球の支配を託すか、どちらか、ここに集まっていただいた人間の代表として、よく話し合って、総意を我らに伝えて欲しい、好意的な答えを待っている、三点リーダ、三点リーダ、それからいくばくかの沈黙があり、白い空間にいた人々は、一箇所に、あの三体から少し離れた一箇所に、集まりました、いろんな国の人が無作為に集まっているらしく、年齢もまばらです、性別はざっと見回したところ綺麗に半分になっているようでした、どうなるんでしょうか、と、女中は父親に言いますが、父親は深刻な顔をして、女中の言葉に気付かなかったようでした、人々が一箇所に集まったために、ヒトが発散している熱で生温かくなります、なかには泣き喚いている子どももいました、なかにはじっとして動かない、生きているのか死んでいるのかも定かではない老人もいました、無作為といえど、全体的にみてつぼ型である人口ピラミッドの影響か、二十代から五十代ほどの大人が一番多いように見えました、女中はふと、幼いころにみたニュース番組を思い出します、世界からついに戦争がなくなった日、ひとつもなくなった日、しかし番組内では、キャスターや専門家は、怖い顔をしていました、それが不気味で、情景が胸に残っていたのです、顔を伏せていた女中は、ふと我にかえって、横の父親を見遣ろうとします、が、そこに父親はいませんでした、え、と思ってきょろきょろ見渡すと、父親は人々の中心に立って、まるで司会のように、いえ、主導者のように、リーダーのように、みんなに語りかけていました、女中はなぜだか顔が赤くなるのを感じます、彼は三体が言っていた内容を、要点にまとめて整理して聞かせているようでした、要するに、彼らの推測では人類はいずれ滅亡するしかない、それは人類が地球を支配しているからだ、滅びないためにも、人類は支配を譲渡しないか、という話でした、あれこれと意見が飛び交い、意味のない喚き嘆きが横行し、最終的に、三体の話に賛成する派と、反対する派で、対立が出来上がりました、反対派のほうが多いようでした、父親と女中も反対派です、滅ぶといわれても、そんなことを具体的根拠もなく信じこむ者はそう多くありません、父親の言によれば、そもそも永遠に続くものなどなく、人類もその例外ではないので、滅亡するのは当たり前のことだ、それはたとえば、怪談をしているときに、あの幽霊を見たものは必ず死ぬ、という話をしたときに、そもそもヒトは必ず死ぬものではないか、と反論しているような幼さを感じましたが、確かにその通りでもあるのでした、滅びぬものなどないのです、このまま文明の発展を歩み続けたのちに滅亡する可能性があったとしても、そもそも彼らの支配下に入ったところで滅亡するときは必ず来るはずなのです、それが遅いか早いか、という話であり、それについては分かりませんが、信用することはできません、まるで利得となることがないのです、そう考えるだけの勇敢さは、みな持ち合わせているようでした、女中は怖くて、ただ父親の腕にすがり付くか座り込んでいるばかりでしたが、反対派の人たちは、たとえ自分たちが死ぬとしても、人類すべてをあの未知の生物に明け渡さない覚悟があるようでした、賛成派の連中は、もしかしたらもとから人類の存続に危惧を感じていたりした方々なのかもしれません、賛成派の人たちは時代の流れを説きました、爬虫類が滅び、哺乳類が台頭した、この歴史を見れば、この後人類が滅び、新たな支配者が台頭するのは必然的なことであり、そしてそれが今この瞬間なのだと、そう主張するのです、言っている根拠はあの三体とさほど変わりはありませんでした、根っからの賛成ということなのでしょう、三点リーダ、実は賛成派と反対派のほかに、中立派、というか、意見をもたずに考えを破棄している人もいました、たった一人のその人は、死体に腰掛けて、ただ女中たちの論争を眺めています、中学生か高校生くらいの少年です、彼にならって考えを破棄する人は、不思議なことに他に一人もいませんでした、いえ、それもそうかもしれません、なんだかその子は不気味な雰囲気を纏っていて、あの子に近づきたくない、というよりも、あの子と同類だと思われたくない、という、なんとも差別的な感情が芽生えるのです、しかし、と女中は思います、彼の気持ちも、分からないわけではありませんでした、もしかしたらこの白い空間は、夢の中なのかもしれないのです、各地で同時多発的に、集団で夢を見ているかもしれないのです、まるで水槽の脳ですが、その可能性も捨て切れません、なんとも虚無的で考えにくい可能性ですが、きっとあの少年は、その邪道な論を支持している、孤独な中立派のようでした、反対派のうちの一人が、対立してばかりでは埒があかないから、ここはひとつ多数決にしよう、と声を張り上げました、この状況において多数決にするということは、すなわち反対派の勝ちということになります、無論のこと賛成派の人たちは抵抗しました、そんな莫迦な話があるか、と喚きたてます、父親は、まあまあ、と両者をなだめて、ちらと中立派の少年を見遣りつつ、みなさん、ここはひとつ、私に演説をさせてください、もちろん私は反対派の人間ですので、賛成派のみなさまを説得する旨の演説なのですが、これもひとつの主張として、静かに、反対派のみなさんも静かに、聞いていただきたいのです、父親の突然のその冷静な言葉に、みなが口を引き締めました、女中は彼がなにをするのだろうと、心臓が鐘を打っているのを自覚します、まず、そもそも、ここはどこでしょうか、父親がそう言います、女中は周囲を今一度見渡しました、白い地平線が広がっています、有限なのか無限なのか分かりません、どこもかしこも真っ白ですが、下と上の区別は容易でした、重力が働いていて、なにもなくとも、宇宙のようなことにはならないようです、ぽつりぽつりと死体が転がっており、離れたところに、あの三体が留まっています、それだけです、女中のように見渡した人は多かったようで、女中が感じたままのことを、声に出している人もいます、父親は、そうですね、と穏やかに頷きました、ここにはなにもありません、ここにはなにもありません、ここにはなにもありません、女中の頭のなかで言葉がリフレインしてきます、女中は頭を抱えて座り込みました、人ごみのせいで父親からは女中の様子が見えません、女中の両目からぼろぼろと涙が零れ落ちました、先ほど押さえ込めた吐き気が戻ってきます、今度はおさまらず透明な粘つきのある液体を吐き出しました、喉が焼けるように傷みます、おいあんた、大丈夫か、そう言って背中をさすってくれる人がいました、ここはどこでしょうか、みなさん、いったいここは、地球のどこなのでしょうか、父親が言います、地球のどこなのでしょうか、その言葉に、人々はたじろぎました、地球の、地球の、ここはどこ、ここは地球のどこなのか、背中をさすってくれたのは、中立派のあの少年でした、すみません、と女中は話しかけます、自分でも分かるくらい臭いにおいがしています、服も汚れました、そう、ここがどこであるかなど、ここにいる私たちは、誰も知らないのです、気付けば見知らぬ場所にいた、というのは、そしてその原因があの浮かんでいる人のような生き物にあるというのなら、これは拉致ということになりませんか、父親の言葉に、ぽつりぽつりと、確かに、と納得の声が聞こえます、彼らは確かに言いました、同意なしに、強制的なことはしないと、みなさんも、聞きましたよね、だから彼らは私たち人間に、決定の猶予を与えた、父親はまた、ちらと少年のいたところを見遣りました、しかしそこには、既に少年はいません、父親は少し驚いて、周囲を見渡しましが、集団のなかに、少年の姿は見受けられませんでした、女中は自分に情けなくなって、顔を手で覆いながら地面に頭を押し付けました、吐瀉物が髪についてしまって、自分の行動に後悔します、大丈夫ですか、と少年はなおも声をかけてくれます、女中は申し訳なくなって、その体勢のまますみません、と繰り返しましたが、妙に自分の声がよく通ることに気付いて、あれ、と思いました、父親は少年のことはとりあえず頭の片隅に追いやって、演説を続けます、矛盾していませんか、彼らは強制的なことをしないと言っているのに、私たちをここに、強制的に連れてきている、おかしいと思いませんか、ほんとだ、なるほど、と賛成派の人のなかでも数人の人が頷きます、そんな矛盾している者たちの話を、信じて賛同し、すごすごと支配下に置かれるのですか、それでいいのですか、女中はさすがに不気味に思って、顔を上げました、そこに人はいませんでした、真っ白な空間に、いるのは女中と、あの少年だけ、他の人たちはどこへ行ったのだろう、女中は突然のことに、胸にぽっかり穴が開いてしまったような気分に陥ります、その穴に恐怖が入り込んできました、吐瀉物で汚れた服を、体を、抱きしめます、自分の肩は痩せていて、決してふくよかではありませんでした、大丈夫ですか、と、そばに突っ立っている少年がまた言います、すみません、反射的に女中はそれをまた言って、少年の顔を見上げました、父親の指摘の効果があり、反対として全員の意見が一致しました、父親は女中のところに戻ろうとしましたが、女中は場所を移したらしく、それまでいたところにいませんでした、父親は妙な焦燥感に駆られながら、女中の名を叫びます、どこだ、どこだ、あの、私と一緒にいた女の子を知りませんか、いえ、見ていませんが、三点リーダ、三点リーダ、や、やだ、やめて、顔を真っ青にした女中が、後ろ手に体を引いて、地面を蹴って体を押して、抜け腰のまま少年から離れようとしました、来ないで、やめて、助けて、とめどなく流れる弱音は、むなしく一人だけの空間に漂うだけです、少年の姿は、涙で視界がぼやけて、もうあまり分かりませんでした、そのことがかろうじて、女中に意識を保たせていました、もしあれ以上少年の姿を見ていたら、三点リーダ、三点リーダ、代表を数人決めて、人々は三体に、反対する旨を伝えに行きました、父親も代表として向かいます、三体は人々の姿を視認すると、人間よ、生き残りのホモサピエンスよ、と、言葉を放ちます、答えを述べよ、代表のうちの一人が、慎重に、反対することを口述しました、人々は張り詰めた雰囲気でその様子を眺めます、父親の予想では、彼らはきっと人類の反対を容認しないだろうと思っていました、そしてそれは案の定でした、反対する旨を述べた人めがけて、ふいに三体のうち一体が飛び掛ってきました、首に手をかけます、それはまさしく戦闘の合図でした、父親は大きな舌打ちをひとつして、飛び掛ってきた相手の頭部を殴ります、他の人たちも一斉に三体に殴りかかって、首を絞められている人を助けました、人々は、三体がさほど肉体的に強くないことを悟り、容赦なく蹴り上げ殴りしめてゆきます、三体はどれも女形をしていました、殴って蹴って、人間のように血を流してあざを作ります、ひととおり痛めつけると、父親が、捕虜にできるかもしれない、殺しておくのはもったいない、と言ったので、人々はそれに賛同し、攻撃をやめました、しかし三体のうち二体は、すでに息絶えているようでした、生き残った一体、父親が家につれてきたあの女、も、苦しそうに気を失っています、ぱちぴて、とちぴて、ぱぱぱぱ、ぴてりて、りぴりて、た、父親は眩暈を感じます、足元がぶらつきます、殴った拳がじんじんと痛みました、ついに倒れこんでしまいます、それを女中が抱きとめました、女中は主人を見つけて安心したのか、号泣して、人目も憚らず泣き喚いて、父親を抱きしめ抱きしめました、周りの人間は、いつの間に女中がそこにいたのか分からず、困惑します、しかしその次の瞬間には、顔を青ざめました、女中の背中には、三点リーダ、三点リーダ、三点リーダ、三点リーダ、鉤括弧、えっと、あなたの背中が、どうだったんです、鉤括弧閉じ、わたしは元女中の長い話に、やっとのことで割り込みました、割り込む必要はないのかもしれませんが、ふいに黙り込んだ彼女に、ちょっとした疑念が浮かんだのは嘘ではありません、しかし元女中の彼女は、いえ、なんでもありません、言葉の綾ですよ、と言うので、わたしは訝しげに思いながらも、話の続きのほうが気になったので、背中については、後回しということにしました、彼女は言います、しかしあの三体は、未知の生命体でもなんでもなかったのです、彼らは人間だったのです、三点リーダ、三点リーダ、どこでもないどこかから、白い空間の人々に向かって、声のようなものが降りかかってきました、曰く、これは人類の生命体としての階梯を測定するための実験であり、あの三体は実際のところ操られた人間に過ぎず、三体が言い放った提案は、単なる飾りに過ぎない、と、その声はそう言ったのです、人々は座り込みました、声は、今度こそ現れた未知の生物でした、すべて声の手の平の上だったのです、父親は意識を取り戻して、女中を抱きしめ返しました、手に違和感があり、父親は眉をひそめますが、女中の端麗な顔を見て、なにも言わずに、天上を仰ぎました、下心で雇ってやったのに、結局触れることもなく一年経っていたことを、思い出して、同時に、この子は私の娘のようなものなのだ、という自覚が湧き上がってきます、背中に触れる手に違和感、声が降ります、その声は、その声のままに文章化することは不可能で、脳の奥底に直接植え込まれて、それから各自自分の言葉に置き換えられているような、そんな感覚が常にひそんでいます、ユートピア宣言、声はそう言いました、いえ、声によって父親の頭のなかに生まれた言葉が、ユートピア宣言、だったのです、声が落とした言葉は、ただそれだけだったのに、父親の頭のなかでは、その言葉がどこへでもどこまでも拡散して、大きくなっていって、巨木になって、どしりと脳内に居を構えました、父親は、女中を抱きしめていた腕に、力を込めます、歯を、ぎり、と鳴らせ、その音に自分で苛立ちました、そして次の瞬間には、父親と女中は、もとの家に、椅子に向かい合って、座っているのでした、拉致は終わり、解放されたのです、またもやの突然の転換に、二人は顔を見合わせて狼狽しましたが、どさっ、という鈍い音がそれを遮ります、床に母親が倒れていました、あの音は、天井から落ちた音だったのでしょう、殴られ蹴られた母親は、満身創痍でした、彼女が人間であったこと、悪魔ではなかったということ、本当に、本当に彼女はなにも考えていなかったということ、それらを承知した父親は、母親の面倒を生涯みていくことを、決心しました、女中はいまだに机のうえに並べられている料理を、ゴミ箱に捨てて、皿を洗い、二階へと上がっていきました、寝るつもりなのでしょう、父親も、女中の姿が見えなくなるとふいに疲れが押し寄せてくるのを感じました、残りわずかな体力で母親を担ぎ、階段を上ります、二階にあるみっつの部屋のうち、空いている部屋に入ります、女中がやってくれたのか既に布団が敷かれていました、ありがとう、と父親は呟きましたが、それは細い声で、女中に届くほどのものではありません、布団に母親を横たえて、父親も部屋を出て、睡眠をとることになりました、長い静寂、なぜだかとても久しぶりのことのように女中には思えました、女中は夜のなかを、階段をくだります、今度は音を立てませんでした、まとめた荷物は、鞄ひとつの量でした、机に座って、紙を広げてペンを握ります、そこにはただ、暇をいただきます、いままでありがとうございました、とだけ書きました、それが精一杯でした、女中は天井のシミを眺めて、しばらくしてから、窓を開けました、三点リーダ、三点リーダ、鉤括弧、それ以降、あの人とは会っていません、話せることは、これくらいです、鉤括弧閉じる、雨が降り続いているなか、テラスで飲むコーヒーは、ほのかに苦く、舌をさすりました、わたしは元女中の服の畳み皺を眺めていました、元女中は、それ以降のことは、あなたが知っているはずです、どうか、それを話してはくれませんか、と言いました、それもそうでしょう、かつて仕えていた主人の娘に出会ったのですから、父親について、話を聞きたがるのは、互いに同じことなのです、わたしは、はい、と返事して、それから、でもわたしは、教育機関に入ってからは、父親と縁を切っていることを、彼女に告白しました、彼女は少し驚いた様子でしたが、わたしの黒い服を見て、納得がいったのか、頷くのでした、ですから、わたしが話せることは、わたしが物心ついてから、教育機関に入学するまでの、数年のことだけなのです、それでもいいのなら、三点リーダ、三点リーダ、母親は、戸籍的に、父親の妻となったようでした、どんな経緯でそうなったのかは、分かりませんが、わたしの憶測では、おそらく父親の独断だったのだと思います、わたしは、母親がなにか考えて行動するところを、見たことがありませんので、そんな憶測になるしかないのでしょうが、えてして、わたしは父親と母親の間に生まれました、そのときには既に、父親は、あの宗教、に入信していました、あの宗教、です、先ほど彼女から聞いた話と照らし合わせてみると、どうにも矛盾しているようで、気味が悪いものですが、父親は確かに、ユートピア宣言を信仰するあの宗教の会員となったのです、ユートピア宣言、ええ、その事件以降、遺伝子のように人々に伝わって残っていった強力な思想、ユートピア宣言は具体的な文書を介することもなく、絶対的な存在として人類の頭のなかに宿りました、寄生しているような存在です、あの宗教の教典によると、会員の子は、ユートピア宣言の理念に基づき、新たなる人類、として神秘の力を持ち、アダムとイブの犯した罪、原罪とよばれる人類の根源的な罪から解放された新生児とされました、不思議と正式な呼び方はありませんでしたが、前述のとおりの新たなる人類、や、メシア族、救世主たち、神の子ら、ユートピアチルドレンなどと一般的に呼んでいるようでした、他にも否定的な呼び方に、悪魔の子ら、デビルズ、哀れな子ら、ビクティムなどとも呼ばれているようでしたし、実際のところこちらのほうがわたしには馴染みがあったようが気がします、原罪がない、ということは、つまり人間に備わっている負の特性が欠けているということです、その最たるものが、差別、です、優越感とか、劣等感とか、偏見とか、人間が発展するうえで必要不可欠で、なおかつたびたび問題提起される感覚、それは原罪なのです、いまの人類のベクトルが決まってから、その方向に進んでいくうえで要る、無駄なもの、つまり差別、それは原罪の一部なのです、が、が、わたしは、わたしはでも、三点リーダ、三点リーダ、わたしが物心ついたときには、父親は、その支部の牧師になっていました、そのリーダーシップが買われたのでしょう、父親は、なかなかの好成績を繰り出したそうですが、宗教における成績というものが、要するに献金などの数字によるものであることは、あまり知られていません、人が集まるところには金貨紙幣が発生します、当然のことでしょう、わたしは曜日に関係なく頻繁に教会に足を運びました、父親が仕事をしているあいだに、同じくユートピアチルドレンである友達と遊んだりしていました、遊びの内容は、一般の子どもたちとなんの変わりもありません、でも週に一度の礼拝は、つまらないもので、わたしは嫌いでした、礼拝は大人と子どもで分けておこなわれており、当然ながらわたしは子どもの礼拝に参加させられていました、今思うと、わたしは教えを説いている大人の話を、ちゃんと聞いていたのか記憶が定かではありません、でも、確かにそこにいたこと、そしてみんないたこと、それは記憶に残っている確かなことでした、そしてわたしにとって、なによりもイヤだったのが、礼拝の最後にある、祈祷の時間でした、説教を聞いていた子どもたちのうちのひとりが、指名されて、その日の礼拝のことを祈祷と称して纏めるのです、天上の声、万軍の神様、という定型句から始まる祈祷を、今日は誰がするのか大人が決めようとしているたびに、わたしは顔を伏せました、どうかわたしを当てないで、当てられてもなにもいえないの、と、心臓が嫌な音を立てているのが分かって、その瞬間はとてもイヤな気分になるのでした、そして他の子に当たるのを確認すると、ああ、良かった、と安心するのです、これが毎週あるのです、そしてついに指名されてしまったときには、まず、できません、とおどけた素振りで言って苦笑いされてから、子ども用に作成された祈祷の言葉のテンプレートを目で追うのです、そのテンプレートには、一部が丸記号で空けられており、その空欄にその日ごとのことを入れて口に出すのでしょうが、わたしにはその空白も入れることは困難でした、牧師の子でありながら、わたしはこの教会において、劣等生だったのです、だからわたしは、だから、だから、劣等感、を終始抱いていたのです、ね、おかしいことですよね、原罪がないとされるユートピアチルドレン、けれど実際のところは、わたしたちは、普通の人間となんの違いもなかったのです、単に環境が違うだけ、境遇が違うだけ、価値観が違うだけ、それってただの人間の違いじゃないですか、宗教もなにも含めてなにもかも人間のことじゃないですか、なにが原罪ですか、なにがユートピアですか、そこには悪魔も、高次生物も、なにも関係なかったのです、単なる人間の営みにすぎない、歴史の繰り返しだったのです、わたしは日々を重ねるごとに、この宗教に懐疑的になっていきました、そして父親を恨むようになりました、わたしは教会に行くことが礼拝を受けることが次第にストレスになっていき、そしてそれは大きく育っていきました、わたしは耐えることができませんでした、けれど力もありませんでした、抗う気持ちがいくらあっても、表面的には父親に従うことしかできませんでした、大人たちの支配下にあることしかできませんでした、三点リーダ、三点リーダ、けれどその苦痛に、ついに終わりがやってきました、わたしは、教育機関に入学することになったのです、年齢がそうなったのでした、その機会を、わたしは絶好のチャンスだと感じました、これを逃しては一生この束縛から逃れることはできないと、そういう使命感のようなものに駆られていました、そしてわたしは実行しました、退会届、を書いたのです、人生で初めて筆を執った瞬間でした、父親から、許可を得ることなく、こっそりと、無断で書いたのです、現在の教会は人間の自由意志を踏みにじることはできません、それを守ることによって信頼を保っている節もあります、提出は間接的なものでしたので、つまり手渡しするようなものではありませんでしたので、それを見て、牧師である父親がどんな顔をしたのか、わたしは確認していません、わたしは家を出ました、教育機関には寮があり、特別な理由のない限り、生徒はそこで暮らすことになります、家出、ではなく、独立、の瞬間なのでした、わたしは逃避することによって自由を勝ち取ったのです、その後の父親を、わたしは知りません、風の噂で、あの支部から離れ、どこかへ行ったということだけ聞きましたが、その真偽も確かめてはいません、わたしの話は以上です、元女中は、じっと動かずに、わたしの話に耳を傾けていました、しばしの沈黙ののち、お母さんのことについては、なにも、お話しにならないのですね、と言いました、え、え、わたしはその言葉に耳を疑い、そして自分の言ったことを思い出して、え、え、わたしが無意識に、え、え、母親のことを除外して話をしていたことに気付きました、え、え、いや、違います、教会で友達と遊んでいたとき、母親はどこにいたのかしら、そばにいたっけ、え、え、わたしは、母親についての記憶を、綺麗に失っていたのです、わたしは思わず立ち上がりました、椅子ががたっと音をたてます、わたしが混乱に陥っている間に、元女中である彼女は、ずいぶん話し込んでしまいましたね、ではこれで、と、締めくくるように言って、静かに椅子から腰を持ち上げました、彼女はユートピア宣言が始まった当時、十九歳とのことでしたが、それからまったく年を取っていないように見えました、わたしと同じくらいか、ともすればわたしの年下に見えます、わたしは、待って、と混ざり合った頭のまま背を向けた彼女を呼び止めました、失礼ですが、もうひとつだけ、教えてください、これまでの話と、関係ないのかもしれないけれど、なぜ、三点リーダ、三点リーダ、元女中はわたしの疑問を聞いて、頬を綻ばせました、微笑んだまま、いつかあなたにも、ええ、あと一文ほど書いたころに、分かるときが来ると思いますよ、と答えました、それからわたしは、寮に戻って、荷物の整理をしました、今になって思うと、わたしは質素な人間だったのだな、と感じます、服もあまり多くありません、わたしはその少ない荷のなかから、捨てるものを選んで、床に放りました、必要最低限のものを、ベッドのうえで広げている鞄に、詰め込んでいきます、それからわたしは、ふと思い出して、塩を取り出して自身にふりかけました、今更、というような感じがありますが、三点リーダ、三点リーダ、三点リーダ、三点リーダ、三点リーダ、三点リーダ、わたしは、自分の目元が今更ながら濡れてきていることを実感して、捨てるつもりのものの山に、崩れこみました、親愛なるわたしのルームメイトは、わたしが、わたしが、あ、あ、わたしは他の人に聞かれることも憚らずに、大声で泣きました、葬式の間は流すこともできなかった涙が、とめどなく、とめどなく、気付けば風呂を共有しているグループの面々たちが、わたしのまわりにいてくれて、いつも莫迦なことばっかりしているあの変態娘が、やさしく、上品に抱きしめてくれて、さよなら、さようなら、みんな、ばいばい、わたしは恥ずかしさをどこかに置いてきてしまったようで、自分でも調整が利かない声量を、垂れ流して、他のグループの寮の子たちも、ドアからちょんと、顔出して、さよなら、さよなら、楽しかった、いままでとっても、楽しかったよ、ありがとう、あ、がとう、わたしは鞄を持って、一階に下りて、カードの認証で通路を渡って、カードを受付係の人に返して、ガラス製のドアを押して、顔をくしゃくしゃにして寮を出ました、さすがに教育機関も、人を殺した者の面倒までは見きれません、当然の結果でした、故意であってもそうでなくとも、ルームメイトのあの子はもう帰ってこないのです、雨はいつの間にかやんでいて、けれど空は包むように暗くて、また悲しくなって、わたしは鼻をすすりながら歩いて、交通券を購入して、長い長い時間をかけて、わたしは、かつて通っていた教会に辿り着きました、移動時間が退屈なほど長かったおかげで、涙はすっかり乾いてくれて、わたしは堂々と、その敷地に入ることができました、以前は緑豊かだったような気がするのですが、無機質な、幾何学的な様式に変わっており、自分が年を取ったのだということを実感します、あの、すみません、牧師さんはいらっしゃいますか、ええ、ここの代表の牧師さん、やってきた牧師は、父親ではありませんでした、あの噂は、どうやら本当のことだったようです、牧師さんに訊いてみると、どうやら父親は、ずっと前にこの教会を出て行ったようで、牧師さんは父親のことをそもそも知らないそうでした、わたしは牧師さんから許可をいただいて、昔と変わった教会の内装を、見学しました、父親のことについては、これでいいかな、と思います、会いたいわけではなくて、することがなくなったから、あの元女中の効果もあって、興味が出てきただけですし、父親に会いたいなどとは、わたしは思わないのです、そこへ、おい、あんた、もしかして、と、わたしに近づいてくる女の人がいました、わたしと同い年か、少し年上か、といったぐらいの女の人です、赤毛でポニーテール、いまどき古風な髪をしています、どこかで見たような気がしました、ああ、やっぱり、感嘆符、女の人が、わたしの手をとって、ぶんぶんと振り回します、ひーさーしーぶーりー、快活な笑顔で、そう言うのです、彼女は、小さいころよく一緒に遊んだ、同期のユートピアチルドレンでした、わたしはあまりよく覚えていませんが、彼女は記憶力が良いようです、どうして来たの、と訊いてくるので、いえ、なんとなく、とだけ答えましたが、わたしの目が泳いでいたのか、それとも勘の鋭い人なのか、あんたのお父さんなら、数年前に、ここを出て行ったよ、と言いました、わたしが彼女に顔を向けると、彼女は首を傾げて、いや、厳密には、出て行ったというより、追い出された、って感じかな、うーん、と呟くのでした、詳しく聞かせて、わたしは気付けば彼女にそう頼んでいました、三点リーダ、三点リーダ、窓から日差しが入ってくるカウンター席で、並んでココアを飲みます、わたしのおごりです、それはともあれ、彼女の話に、わたしは聞き入りました、父親は追放されたのです、しかも、さきほど父親のことを知らないと言っていた、あの牧師に、なぜ、とわたしが訊くよりも先に、彼女はその答えを教えてくれました、父親は、スパイだったのです、教会に潜入してその動向を探る、スパイだったのです、わたしは、自分のなかのなにかが、音を立てて崩れるのを感じました、概念、偏見、概念、誤解、概念、お父さん、わたしは、ココアの入っているカップを、カウンターに置いて、自分でもよく分からないことを呟きました、父親は、スパイ、三点リーダ、三点リーダ、わたしはまた長い長い時間をかけて、遠いところへ来ていました、それは無人エリアと指定されている地域で、法もなにも通用しない、危険な場所です、わたしの父親がここにいると聞かなければ、そしてわたしが教育機関を追放にならなければ、一生来ることのなかったところでしょう、もしここで暴漢にでも鉢合わせたなら、わたしの人生はそこでゴミ屑と化します、たとえばわたしになにか他の生きる目的があるのなら、こうして命を削って文章を書いてさえいなければ、わたしはすぐさまユーターンするところなのですが、現実のわたしは、ルームメイトを誤って殺してしまい、しかも文章を書いている、そんな人間なのです、そんなわたしなのです、といっても、ここは広く、これからどうすれば父親を探すことができるのか、分かりかねます、友人もそこまでは知りませんでしたし、今更ながら、友人はもしかしたらわたしに怨みを持っていて、わたしを死なせるために、嘘をついてここに行かせた、というか逝かせたのではないか、とか思ったりするのですが、いかん、疑問符、遺憾、わたしは当てもなく歩き、ゆっくり隠れながら歩き歩きしました、だって暴漢に襲われるのはたとえ死んだとしてもごめんですもの、すもも、そこは緑がまったくなくて、瓦礫の林で、隠れるのは比較的容易でしたが、きっと空から眺められていたら隠れることもできない、要するに屋根のない廃墟がたくさんあって、わたしは誰か他の人と鉢合わせにならないように、慎重に慎重に、瓦礫の道を当てもなく進んでいきました、そして、老婆に出会ったのです、いえ、見つかった、というほうが正しいのですが、わたしは運が良かったようで、その老婆こそが、わたしが会うべき人物でした、老婆はわたしが歩んでいるところを、こっそりと近づいてきて、いきなり掴みかかってきました、ああ、殺される、と思ったのはけれどその瞬間だけで、老婆は、わたしの顔を知っていたようでした、なんだか、わたしは知らないのに、わたしの顔を知っているっていう人に、近頃よく会う気がします、老婆は自身を、父親の使いだと称しました、わたしがここに来た目的も承知しているようでした、わたしの目などを見て臨床心理学的にアドリブで話しかけてきたわけでもなさそうです、だってわたし、目をつぶっていたのですから、ともあれわたしは、老婆から手記を受け取ることができました、もう帰りなさい、ここを立ち去れ、いつまでもここにいたら、そのうち玩具になってしまうぞ、と、老婆はそれだけ言い残して、どこかへ行ってしまいました、わたしは老婆の言いつけどおり、またこっそりと、もと来た道を戻り、長い長い時間をかけて、無人エリアを離れました、ところでこの地域、なぜ無人エリアなどと呼ばれているのでしょう、人ならいるにはいるのに、なんだか不愉快です、わたしはホテルにチェックインして、一番安い部屋に入りました、鍵をかけて、ベッドに腰掛けて、そしてやっと、折りたたまれていた手記を広げ、中身を確認します、引用符、おそらく久しぶりということになるのだろう、久しぶり、わたしの可愛い一人娘よ、わたしのなによりも大切な一人娘よ、いま、おまえはどれだけの歳を重ね、どれだけの人と出会い、どれだけのことを学んだだろう、わたしの子だ、きっと優秀に育っているに違いない、けれどそうだな、もしかしたらわたしに似て、なにか危険な決心をして、人生を棒に振っているかもしれない、もしまだその段階に入っていないのなら、忠告しておくよ、なによりも普通であることが、難しいことなのだ、おまえは出来ることなら普通であり続けなさい、いやしかし、わたしの娘のことだから、既に危険な領域に入ってしまっているのだろうがね、その証拠に、おまえは無人エリアに足を踏み入れた、この手記を渡してきた女が、無人エリアへの未練を捨てているのなら話は別だが、どうもわたしの見る限り、あの女は寿命を迎えるまであの地域で暮らしていそうだ、それはいい、少し長いが、どうか父親の話を聞いておくれ、あのとき言えなかったが、おまえが退会届を出してきたとき、わたしは、嬉しかった、理由は聞いているかい、わたしが牧師になったのは、あの宗教を、いや、ユートピア宣言の現在の姿を、そしてあの声の行方を、探るためだったんだ、いわばスパイだ、情報を漏らす相手はいないけれど、わたしはスパイとして、あの教会に潜入した、結果的に新任の者に見破られてしまったがね、あのとき、おまえが決断をして家を出て行ったとき、わたしは無常の喜びを感じたんだ、行ってしまった虚無感はあったが、それは決して、裏切られたという気持ちではなかった、むしろ逆だ、わたしの一人娘は、わたしを裏切らなかった、という栄誉が、誇りが、わたしを占めたのだ、わたしの心を満たしたのだ、おまえは自分で考え、自分で感じ、そして自分で決断した、それは本当に困難なことなのだよ、それをおまえはやってのけた、たった一人で、おそらく誰の力を借りることもなく、そんなおまえに、ここに、ひとつの事実を記す、以降の文章を読むか否かは、これもまた、おまえの決断に依る、これ以降を読むのなら、おまえはわたしの先ほどの忠告を無視し、危険な域に足を踏み入れることになるだろう、親というものは子になにを願うべきなのか、健康や安寧か、それとも富や成功か、と言われると、わたしは上手く答えることができない、けれどこれからわたしが書こうとしていることは、後者を下敷きにしているのだと思う、富や成功には、リスクがつきまとうものだ、子の可能性を、親の一存で摘み取りたくはない、だからわたしは、おまえの命を救うためだとか、それだけのために筆を折ったりはしない、ここで筆を擱いてしまったら、むしろおまえの首を絞めることになるかもしれない、わたしには分からないのだ、おまえの人生なのだから、前置きが長くなったが、わたしは、以降の文章を、おまえの意志によって読むか否かを決めて欲しい、テクストがそこにあったとして、それを観賞するか否かは、受け手の自由のはずだ、それと同じだ、おまえは、よく考えて行動しなければならないよ、これから書くことは、つまり、わたしが調べてきたすべてだ、始めるよ、おまえは母親について、記憶が欠如してしまっているはずだ、おまえの母親は、後述するが、実はユートピア宣言と密接に関係している、おまえのイメージしている母親は、なにも考えていない、莫迦の境地に至ったような女であることだろう、わたしも初めは彼女をそう思った、しかしおまえの母親は、わたしの見ていないところでは、考えて、深く考えて行動しているようだった、確証はないがね、奇妙なことがいくつもあったものだ、いくら促しても風呂に入ろうとしないのに、わたしが目を逸らしたら、いつの間にか自分で体を洗い終えているんだ、食事もそうだった、いつも、ね、おまえへの授乳も、おまえがすくすくと育ったところを鑑みれば、わたしが見ていない間にしてくれていたに違いない、いや、わたしは当時おまえについて疎くて、父親として不充分な人間だったよ、すまなかった、その母親だが、おまえは、母親について、ただ母親がいて、彼女がなにも考えていないような人であった、ということ以外、一切を覚えていないと思うのだが、どうだ、当たっているだろうか、実はわたしも、おまえの母親について、現在となってはほとんど覚えていないのだ、かろうじて残っているのは、後述するあの真っ白な空間でのことや、その前にどのようにして彼女と会ったか、それとおまえが生まれたあとの数ヶ月間、覚えているのはただそれだけで、他のことは、たしかに経験として脳内に残っていたはずなのに、彼女が亡くなると同時に、霧のように消えてしまった、不思議だ、わたしの推測では、おそらくユートピア宣言が関係しているのだと思われる、彼女の行動に、ユートピア宣言のなにか秘密のようなものに関係しているものがあって、その痕跡を消されてしまったのではないか、と、なにを絵空事を、と思うかもしれないが、それぐらいの情報操作、いや記憶操作くらいなら、あいつらはやってのけるだろう、とりあえず、わたしが覚えている限りの彼女を書き記しておこう、彼女と会ったのは、かっこ中略かっこ閉じる、そして気付けば、あの真っ白な空間から、もとの家に戻ってきていた、一瞬のことだったよ、強制的なテレポーテーションか、あるいは、そもそも集団的に夢を見せられていて、体はずっとそこにあったのかもしれない、わたしはおまえの母親を担いで、空き部屋に寝かせてやった、彼女はだから、実際のところ身体的には普通の女性となんら変わりなかったのだ、わたしは彼女を寝かせたあと、自分の寝室に戻って、それから少しだけ仮眠した、そして物音とともに目覚めた、わたしの睨んでいるとおりだったよ、ドアの開く音がして、すーっと、空を静かに破っていく音がした、わたしは少しだけ自室のドアを開けて、様子を窺ったが、なにも見えなかった、もう下へ下りたのだろうと思って、部屋を出て、わたしも下に下りたよ、その階段には、上り下りするとき、どうしても音が出てしまうものだったのだけど、わたしだけが知っている、音を立てないコツがあったんだ、コツ、というよりも、段それぞれに、音の立たないポイントがあって、そこだけを踏めば、軋む音を鳴らさずに上り下りすることができるんだ、そして下りて、女中が、いや、女中の姿をしたなにかが、紙にペンを走らせていた、そいつは、わたしの姿を視認すると、少し驚いた表情をしてから、ペンを置いた、それで紙をわたしに渡してきた、紙には、仕事を辞める旨が書かれてあった、けれど、わたしにはそれをどうしても受理することはできなかった、とても女中の意志には思えなかったからだ、なぜならば、そいつの背中には、翼が、生えていたから、真っ白のあの空間で、わたしが一時倒れたとき、そのとき女中はわたしを抱きとめてくれたのだが、どうも、そのときから入れ替わっていたらしい、抱きしめ返したとき、背中になにか硬いものが当たったからね、もしかしたら本当の女中のあの子は、もう生きていないかもしれない、わたしは今になるまで、とうとうオリジナルのあの子に再会することはできなかった、ほぼ絶望的だろう、悲しいことだ、彼女は大学に落ちて、金銭の都合で浪人もできないらしくて、働きに出るように家からも追い出されたようなのだけれど、職に就くこともできなかったみたいで、途方に暮れていたらしい、家に泣きついたら、どうも、少々気の合わない男との縁談を強要するというのが条件になってしまったようで、いわば窮地に立たされていたわけだ、そこをわたしが、下心満載で、彼女を雇ったわけだったんだが、そんな彼女は、そのユートピア宣言事件において、悲しき犠牲者のひとりとなってしまったわけだ、それで、女中に化けたそいつは、わたしのことは無視して、窓を開けた、飛んでいくんだな、と悟って、捕らえようと手を伸ばしたが、間に合わなかった、そいつは月へ向かって飛んでいって、そのうち見えなくなってしまった、それが最後に見た、なにか、の姿だった、わたしの推測では、そいつは、先ほど書いた、あの真っ白な空間で姿を現さずに現れた、あの声の部類のなにかだと思う、おそらくまだ生きているだろう、結局それ以降そいつに出会うことはできなかったし、そいつを見たという報告もなかったのが残念だ、それから、記憶していないが、おまえと母親とわたしとの間におまえが生まれるなんらかのエピソードがあって、おまえが生まれた、おまえは平均よりも少し大きめで生まれてきた、育つにつれて、しかし小柄に育っていったようだがね、そのころには既に、わたしは教会への潜入に成功していた、最初は信者として、その宗教の会員となった、それから牧師さんに自分を売り込んで、本部への紹介状を書いてもらった、そして本部へ行って、研修を受けて、牧師となったんだ、幸いなことに、洗脳のようなことは、研修のなかに組み込まれてはいなかった、牧師は洗脳される側ではなく、洗脳する側だろうからね、まあそれは当然だったかもしれないけれど、その宗教の幹部が、もしかしたらあの声たちと関係があるかもしれない、とわたしは睨んだ、その真偽は、いまでも明らかになっていない、本部に行く機会というものが、思ったよりも少なくてね、研修中は近づくことすらできなかったし、牧師になった後でも、たびたび開かれる総会の他に、彼らに近づくすべはなかった、それに総会も、全国の支部から牧師が集まってくるわけだから、人が多くて、なかなか近くに寄るのも困難なものだった、チャンスをうかがっているうちに、新任の優秀な牧師にスパイだということが見破られてしまったし、わたしは全体的に、失敗してしまったようだ、次に、わたしの知っている限りの、ユートピア宣言の概要を説明しよう、ユートピア宣言、それはあの声が、わたしたち人類の頭のなかに拡散させた、人類の発展を抑制する理念だ、交通機関は衰退させ、移動時間の効率化を廃止し、むしろ移動に時間がかかるようにした、各地に無人エリアを設置することで、荒廃の毒を生み出した、そして言論、いや、記録されるテクストの創造に重い税がしかれた、その中でも特に、視覚を排し、それぞれの受け手によって比較的容易にクオリアにぶれが生じる、文章、に、重い重い税が課せられた、それはおまえも知っている通りのことだろう、あの声たちは容赦しない、それによって生じた諸々の問題点は、まさしく衰退に直結した、人類の技術のインフレーションは完全に頓挫し、第三次世界技術革新以前の、あの田舎くさい時代に逆戻りしたということだ、強制的に飲み込まれたその原理が、どのようになっているのかは、あまり分からない、ただ、反乱した者には死を、それだけはよく分かった、人類は完全降伏を言い渡されたわけだ、負け、いうなればこれは、宇宙外の生命体に、侵略されたようなもので、いや、そもそも、考えてみればあの声の正体さえまだ掴めていないのだから、あの声が宇宙人であったとしてもなんの不思議もないわけだが、かくもユートピア宣言は人類に浸透し、人類を侵食し、人類を支配した、戦え、戦うんだ、しかし彼らに反乱することなく、抵抗することなく、戦え、これは机上の空論かもしれない、わたしは長い時間をこの戦いの前準備に費やしたつもりだった、というのに、結局は近づくことさえできなかった、机上の人間にすぎない、けれどおまえはどうか、ここまで読んでしまったおまえならどうか、もうひとつだけ、おまえに伝えておきたいことがある、いや、私情抜きにして、おまえに言いたいこと、という意味で、本当のところおまえに言ってやりたいことは山のようにあるのだが、その前に、ただおまえに伝えねばならないもの、先ほどわたしが、これ以降を読んだら後戻りできなくなるなどといったことを書いたが、その証拠を今からここに記す、要するに、おまえに重要な役割を託す、だからもう一度だけ忠告しておくが、これより先を読んだなら、今度こそ本当におまえは危険な領域に、捕らわれの身になることだろう、おまえは、いや、おまえの人生はおまえの自由だ、親がすべきことは、その可能性を摘み取ることなく、おまえをその結果の到着点まで守ってやることなのだろう、わたしは親というものを全うできていただろうか、それはわたしには分からない、分からなくていい、なぜならば親の価値というものは、子が決めるものであるのだから、だから、この先を読むか読まないかは、おまえが決めなくてはいけないよ、引用符終わり、三点リーダ、三点リーダ、三点リーダ、三点リーダ、わたしは紙をもとの形に折りたたんで、鞄のポケットに入れました、文章というものは、リアルタイムでないという面において記録という役割を果たしているのであって、一気に読む必要なんてないのです、あんなにくどくどと忠告や注意書きがあっては、読む気が失せるってものです、わたしはベッドに横たわって、焦げ茶色の壁を眺めました、一番安い部屋ということだけあって、物があまり置かれていないどころか、掃除もきちんとされていない感じがあります、ただデザインとして茶色くしているだけかもしれませんけどね、わたしは荷物を置いたまま、小型の鞄だけ持って、部屋を出ました、ぶらぶらと、目的はありませんが、街を歩こうと思いまして、これからどうやって生きていこうかなーと、考えながら歩く魂胆です、街には食べ物屋や装飾店、よく分からない怪しげな店などが並んでいて、活気があります、たまに友人たちと、こういうところを歩いたものでした、あのルームメイトとは、あまりそういうこともありませんでしたが、もっといろいろできていたらな、と思うのは、わたしの主観的な感想で、彼女がもし生きていたなら、こんな街よりも部屋のなかのほうが楽しいと言うことでしょう、でもあの子って、そこまで白い肌でもなかったな、と思い起こして、涙は出なくて、想いを馳せながら歩きます、ルームメイトを殺しはしたけれど、わたしはその混濁とした精神状態と、脳内をいじくり覗かれた診断結果によって、やるせないことですが免罪となりました、罪に、問われなかったということなのです、おかしいことです、わたしには責任さえ許されることはなく、三点リーダ、三点リーダ、それはあるいは、わたしが文章を書いているためかもしれません、文章を書く、というこの行為によって、法がわたしを守る気になったのかもしれません、法については詳しくないので、それにこれから調べて勉強するつもりもないので、分かりませんけど、この異様な状況を思うにきっとそうなのだろうと思うのです、とか、そうやって想いを馳せながら歩いていると、また怪しげな店が目に入って、そこから顔を出していた店主らしき男の人と、目が合ってしまいました、男の人は、にやっと笑って、こっちこっち、と手招きをするものですから、わたしはなんだか妙な好奇心が湧いてきて、促されるまま暖簾を揺らしました、なかはレトロな雰囲気で一杯で、一気に石油臭い空気に包まれます、わたしはこの店が気に入りました、男の人は満足したように口元を歪ませて、目を垂らして、腕を組んでいました、二次元のテレビ、ラジオ、電動の冷蔵庫、分子振動型のレンジ、技術革新以前の利器たちが、ずらり場所を取り合っていて、わたしは純粋に感動を覚えました、ついている値札は現実的なものでしたが、眺める分には充分です、ところが、わたしが店を出るときには、わたしは電波通話機器を抱えていたというのですから、あの男の人の商売上手っぷりが窺えます、わたしは、もう絶対あんなところ行かないんだから、とぷんすか、肝に銘じながら、ホテルに戻りました、電波通話機器をベッドの脇に置いて、寝転がります、やはり壁は焦げ茶色、そりゃまあ変わるわけがないんでしょうけど、わたしは目を閉じて、教育機関の知り合いたち面々の顔を思い浮かべました、それは、あの壁と寮の部屋の壁とを、無意識に比較したことによって連想されたのでしょう、あのルームメイトは、わたしがいないとなにもできない子でした、いつの頃合からなのか、わたしと出会う前でしたので、詳しくは知りませんが、彼女は人間を信じることができなかったのです、人間を十人見かけたら、そのうちの十人は自分を殺してくる可能性があると考えろ、と、そんな自意識過剰な女の子だったのです、といえば可愛く聞こえるものですが、ようするに人間不信、重度の人間不信、幸せが身に降りかかったならばまず喜びよりも恐ろしさを感じてしまうような、そんなひとつの主観、彼女とわたしは、最初こそ住み分けをしながら部屋を共有していたように思います、その間は、わたしは彼女に警戒されながら、住み心地を悪く感じながら自分が敵意ない人間であることを暗に伝えていたのでした、それから基礎課程を終えたあたりのときに、あの変態娘が別の地域から編入してきて、よく分からない方言で、ないすとぅみーちゅー、あの子から逃れるように、ルームメイトはわたしの背中に安住するようになって、それでわたしは彼女の親友になれたのです、三点リーダ、三点リーダ、わたしは目を開けて、電波通話機器を抱えました、ケーブルを選んで、部屋の茶色い壁に備えられてあったコード穴に、取り付けてみます、そういえば、あの変態娘は、小型の電波通話機器を持っていました、あの同人の巣窟において、旧式の連絡手段を用いることで混線を回避したとか、なんとか、そんな自慢話を聞いた覚えがあります、わたしは残念ながらルームメイトが所属していたあの学部が教えているようなことについては、さっぱり知識がありません、そのためにどのようにすればこの電波通話機器が作動するのか、分かりかねている次第でありました、説明書なんてこの時代にあるわけがありませんし、わたしは試行錯誤を繰り返して接続に成功しました、アンティークがアンティークの領域を飛び出して実用化したわけです、わたしは疲れを感じながらも、あの変態娘に電話をかけてみようと思い立ち、三点リーダ、三点リーダ、つーか電話番号知らねっ、意味ねっ、んだもうっ、三点三点、翌朝、目覚めると、なんだか抱きしめられているような、そんな虚無感がありました、たとえばそれは、抱きしめられているわたしが、お人形になってしまっているような、ぽっかりと穴の空いた虚無感でした、わたしは父親の手記を広げました、幾度か触ったためか手に馴染んでいます、わたしは深呼吸もなにもすることなく、人形のように静かに、続きを読み出したのです、引用符、わたしは声の正体は、このわたしだったのではないか、と思うのだ、意味が分からないだろう、それはわたしがきちんと言語化して説明できていないからに他ならないが、しかし、上手くこれを表現できる自信もない、要するにあの声の正体というものは、どこか高次の生物が発していたり、宇宙人が発していたり、そんな可能性のほかに、我々人類の根底に存在したものだったのではないか、と、そう考えることはできないだろうか、ということだ、まさか人類が人類を統治できるはずがあるまいと、わたしの同士たちはこの仮説を取り合わなかった、しかし、わたしはついに、その根拠となりえるものを獲得したのだ、それがなんだと思う、それはおまえだよ、わたしの一人娘、おまえのことだ、ユートピアチルドレンなどと勝手に呼ばれ持て囃されたおまえのことだ、原罪、という言葉を、おまえは知っているだろうか、おまえならきっと知っているだろう、人類の始まりの時点から生じた、全人類の根底に宿っている罪のことだ、樹の実を食べたことによる罪、知ってしまったことによる罪、ユートピアチルドレンには、その原罪がないとされている、メシアの再来、人類の救世主、新たなる人類、その形容は様々だが、それらには確固とした共通点がある、おまえが声の加護を受けているということだ、このあたりで疑問に思うかもしれない、そもそも原罪がないというのはあの宗教の教典によるものにすぎず信頼性のあるものではないと、そう思っていることだろう、ならば聞け、なおも読め、おまえは生後、ある奇蹟を起こした、その奇蹟は秘匿され、今ではおそらく教会の上層部が知っているか知っていないかというところだろうが、おまえは、生まれてすぐに、死んでしまったのだ、どうか驚かないでくれ、そして信じてくれ、おまえの母親の体力不足、栄養不足、その他諸々の要因によるのかもしれない、おまえは生後、死んでしまった、命をあっけなく失くしてしまった、しかしおまえは、今こうしてこの文章を読んでいるとおり、生きている、おまえは死んでから三日後に、生き還ったのだ、突飛なデタラメに聞こえてしまうことだろう、信じる信じないは好きにすればいいが、おまえが生後まもなく息を引き取り、そして三日後に忽然と健康体で現れた、まるでイエスキリストの生涯を逆再生しているようだ、おまえは消失せずに、それからもなお生き続けたというのだから、病院には強い緘口令が敷かれたらしい、もしこの奇蹟が、おまえがユートピアチルドレンであることと関係していたとするなら、いや、その他の可能性にも、もしこの奇跡が、わたしがあの真っ白の空間にいたことによって生じた奇蹟だったなら、もしこの奇跡が、悪魔のように操られた母親から生まれたことによるものだったなら、翼の生えた女中がかつて傍にいたからだったなら、そうだ、可能性はいくつもあるが、それらは確実に、あの声となんらかのつながりを持っている、おまえに託す、どうかこの奇蹟があったという事実を信じてくれ、そしてこの奇蹟の起源を解明してくれ、それがきっと、それこそがきっと、人類に勝ち鬨を授ける鍵となるだろう、おまえは救世主なのだ、ここまで読んでくれて、ありがとう、この文章で、わたしは五文目になる、おまえがこれを読んでいる時分なら、それがなにを意味するのか、分かるはずだ、娘のために、いや人類のために、最後まで命を削った父親を、どうか忘れないで欲しい、そしてもうひとつだけ、おまえに助言しておく、あるいはおまえは、既に気付いているかもしれないが、五文というこの制約は、今わたしが書き終えようとしているこの文章のように、いくらでも引き伸ばすことができる、分かるか、おまえが家を出て、旅立っていったその教育機関、それがある地域で用いられている言語は、文法の自由度が非常に高い、そのつもりになれば、一文の長さをいくらでも延長することができるのだ、そしてそれは、制約違反にはならない、もしおまえが文章を書かねばならない状況にあり、まだユートピア宣言が有効に活きているのであれば、この方法で命を引き伸ばしなさい、ありが引用符終わり、わたしは紙をまた畳んで、ふうっと溜息をひとつつきました、生き還った、とは、またなにを言っているのでしょう、こんなことを書くために父親は命を投げ打ったというのでしょうか、わたしには分かりません、なんにも分かりません、ただ、読んでしまったという虚無感が、やはりわたしを抱きしめるのです、わたしは、テラスで元女中と話した内容を思い起こしました、わたしの過去話を聞いて、元女中のあの人は、わたしが母親についてまったく触れていないことを指摘したのです、わたしは母親について、すっかり忘れてしまっていたのでした、そのことも父親の手記に載っていましたが、けれど、わたしはなんだかそのほかにも、なにか失念していることがあるような気がするのです、このなんともいえない虚無感、いえるのかもしれない虚無感、それはたとえば、記憶のなかの両親が、音もなく静かに沈んでゆくのを、眺めている気分でした、わたしの母親はわたしが生まれて数ヶ月で死に、わたしの父親は、たった今、わたしの心のなかで死んだのです、だって文章を五文書き終えるということは、命を落とすということなんですから。
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