第二章 [目次]


  三
 傾斜を進む。腰に圧力がかかっている感覚が重い。だけど緑色のにおいが心地いい。先頭を兄貴と社先輩が並んで歩いている。手はつないでいない。その後ろに宇治くんと加藤くん。そこから少し離れた後ろに、ぼくはいた。ぼくとちょっと離れた後ろに、三人の女子がのろのろ歩いている。遅い。
 早くー。そう言うつもりはない。今は一人で考えたかった。
 今朝、五時前にぼくは目覚めた。こういう宿泊関係ではつい、早起きをしてしまう。
 他の三人は、まだ寝ていた。ぼくは眠気眼のまま、ベランダに出た。霧のかかった木々は、これまた独特の感性が光っている。この場所が好きだ。ぼくはそう思った。
 嗚咽が聞こえたのはだいたいそんな瞬間だった。
 それが誰だかは分からなかったけれど、隣の部屋からであることはよく分かった。隣の部屋は、兄貴と社先輩の部屋だ。
 ぼくは兄貴が泣いているのを見たことがない。小さいころにあったかもしれないが、記憶にない。そのせいもあって、嗚咽の主が兄貴なのか、社先輩なのか、判別をつけることができなかった。だけれど、隣の部屋で誰かが泣いているのは明確だった。
 傾斜を進む。山の背は低い。山というよりも、ここは丘なのかもしれない。本格的に登山する用意はしていないから、あまり高い山は登りたくない気もあった。それはみんな同じのようで、あの関澤さんも、登山用のものについては金は払わないと言ったほどだ。だけどせっかく山があるのだし、その山の形状から、どうやら小さな丘のようなところもあるから、そこだけ登ろうという話になったんだ。その話がついたのが、確か、朝の八時くらいだ。
 蝉の音がする。蝉の知識はないから、それがどの種類なのかは分からなかった。
 腰が重い。山は苦手だ。それがたとえ低い山でも。……そもそも、低いというのは相対的なことであって、現に人よりはずっと高い。基準のない、相対的な形容詞に惑わされては、あまりいい結果は出ない。たぶん化学はそういうものだと思う。……いつの間にか思考が化学にシフトしていた。ここに来ていなかったら今頃、自分の口内の皮膚を切り取って、適当に酢酸オルセイン溶液でも垂らしているだろうに。でもこれって化学というよりも生物なのかな。いややることによっては化学だろうな。まあ、帰ってからでも、いくらでも時間はあるのだけど。
 やっと丘の上についた。広くはないけれど丸っこくて居心地がよさそうな土地だ。芝がならしてある。宿の所有地なのかと疑ってしまうくらい、ここは平坦に整っていた。木も真っ直ぐだ。
「うーん、あまり綺麗といえないね」
 宇治くんがそう感想を述べる。ぼくも心内で同意する。規則的な自然は美しくない。ここまで来るまでの道は、自然ぽくて気に入っていたのに。なんというか、頂上についてしまって幻滅してしまった。以降、ぼくはベランダからの景色を楽しめるだろうか。
 それでも、もし景色が気持ちのいいものでなくなったとしても、ぼくはベランダに出るだろうな。兄貴と社先輩を見て、ぼくはそう思った。二人の目元を眺める。視力はあまりよくないから、泣いた痕があるのかどうか分からない。もうちょっと、近づいてみないといけない。
 そうしているうちに、後ろの三人も丘の天辺に到着した。
「あれ? なにこれ人工的ー」
 坂松さんが開口一番。矢倉さんも、景色に向かって小声で毒づいた。ただ関澤さんだけは、顔色を変えずにあたりを見渡している。
「ねえ、もっと上に行ってみようよ」
 そう提案してきたのは、関澤さんだ。その途端、兄貴が肩をびくつかせた。
「兄貴、どうしたの?」
 目元を見られるチャンスだ。その変化を口実にして、ぼくは兄貴に近づいた。
「いやいや、なんでもないよ」
 女々しい。そして、兄貴の眼球は赤くなっていた。ああそうか、早朝に泣いていたのは兄貴だったのか。
 でも、なぜなんだろう。社先輩に振られでもしたのかな。そうふと思って、だけど丘を登るときずっと隣り合っていたことを思い出して却下する。
「上に行こー」
 関澤さんのしぶとい意見を聞き入れることにして(スポンサーの要望は基本的に聞いておかないと後々面倒なことになる)、ぼくらはもう少し上のほうまで登ることにした。一旦丘を下りて、登山コースの道を歩くのだ。でも、頂上まで行くつもりはない。それは関澤さんも同じのようだ。それなのになぜ登りたいのか、関澤さんは教えてくれない。まあ、丘の様子が不満だったからなんだろう。
 ぼくはちゃんとした、兄貴の妹だ。泣いていたのを知ったなら、場合にもよるけど、それを聞いてあげるべきなんじゃないだろうか。そう思う。特にこの状況、兄貴は階段で転んでから、いろいろと変わってしまっている。夏休みになってから知ったことだけれど、兄貴と社先輩は、夏休みの遊びの計画をすべて破棄したらしい。この異常事態で、いつも仲良く遊んでいる子と遊ぶのがつらくて仕方ないんだ。
「兄貴」
 ぼくは歩きながら、加藤くんと宇治くんを通り越して、兄貴の隣にぴったりくっついた。
「……なに」
「なんで泣いてたの」
「…………」
 は、と社先輩が息を詰まらせた。
「朝、聞こえてたよ」
「この!」
 社先輩が拳を作った。それを振りかざす。ぼくは硬直してしまった。だけれど、兄貴が潤んだ瞳で社先輩を制したから、ぼくは殴られずに済んだ。
「……悪い」
 社先輩が腰を曲げる。ぼくはそのまま、動くこともできず彼女の背中を眺めた。すらりとした背中は、さっきの傾斜みたいに美しい。それなのに。
「由美ちゃん」
「…………」
 兄貴に「ちゃん」付けされるのは、まだ慣れない。
「どうかもう、盗み聞きはしないでね」
 ――これは二人の問題だから。
「おーい、どうしたんすかー?」
 加藤くんの声に気付かされて、兄貴はなんでもないと言った。そして歩を再開する。後ろのほうで、関澤さんがくすくす笑っているのが見えた。彼女の行動だけは、目の悪いぼくでもまるで切り離されたみたいによく見える。
 そのまま登っていった。途中、急な、泥んこの坂があった。まず加藤くんが、進めるかどうか渡ってみせた。加藤くんがちゃんと坂を上りきると、それに続いて、兄貴と社先輩が上りだす。足元がおぼつかないからなのか、二人は手を握り合いだした。それを見てか、関澤さんが真っ先に坂に向かう。そして二人を追い越して、坂を上り始めた。一気に三人も一緒に上ると、転んだときに危ないのに――。
 上りきるというところで、関澤さんの足が泥に滑った。そのまま、兄貴と社先輩のところへ転がっていく。二人に大袈裟にぶつかった。二人が体勢を崩す。二人は抱き合うような形で坂を転がり下ってしまった。ところどころにある鋭い石が、二人に傷をつけてしまう。関澤さんは途中で加藤くんに保護されたから、傷つかずに済んだ。
 社先輩が唸る。腕が痛々しく赤くなっている。
 ぼくはそれを見てすぐに思いついた。これは、階段のときと似ている。絡まるように上から下へ、真っ直ぐごろごろ転がって。それはまさしく、あの雨の日の二人と同じだった。
 だけど、それで二人が治ることはなかったみたいだ。一瞬だけ期待してしまったのだけれど、そう簡単に治るわけないか。
 治っていないことが分かると、今度は関澤さんへの怒りが、ふつふつと湧き上がってきた。あれはわざとだ。ぼくはそう確信した。
「大丈夫っすか!」
 上のほうから、加藤くんが叫ぶ。その近くで、関澤さんがしたり顔をしている。ぼくは関澤さんのその顔を睨みつけた。さっとその表情が内に隠れた。
 ……ぼくだけがなにかに気付こうとしていた気がする。関澤さんのなにか。とんでもないことに。
 それはだけど、やっぱりぼくだけだ。みんな、二人に大きな怪我がないことを確認すると、またゆっくりと登りはじめた。ぼくはその間、ずっと上のほうの関澤さんを睨みつけていた。矢倉さんが、なにそんな怖い顔しているの、と訊いてきたけど、仕方ない。ぼくは一番最後に坂を上った。
 だけれど途端に、関澤さんが言ったのだった。
「帰ろう」って。
 はぁ? そう声を漏らしたのは加藤くんだ。坂松さんもぶーぶー言っている。こんなことだろうと思った。関澤さんが山を登ろうと言い出したのは、きっと、兄貴と社先輩を転ばせることが目的だったに違いない。それを済ませたのだから、もうむさ苦しい登山をする必要もない。そういうことなんだろう。
「帰ろうか」
 ぼくは皮肉を込めて、そう言った。坂松さんはまだなにかと愚痴を垂らしているけれど、宇治くんがそれに同調してくれた。兄貴と社先輩の腕を見ながら。大きな怪我でないにしても、確かに、絆創膏を貼ったほうがよさそうな怪我ではある。宇治くんは、ぼくがそのつもりで言ったと判断したのかもしれない。
 ぼくらは傾斜を下りていった。登った意味がなくなってしまったが、それでもぼくは、だんだん「謎」の存在を掴めてきている。ような気がする。
 こうしている間にも、ぼくの知らないところで、いや、今ここで知らない内に、なにかとんでもないことが起きている気がしてならない。だけどそれは気がするだけだ。まだ、関澤さんがおかしな子であることしか根拠がない。そんなもの根拠とはいえない。
 緑色の木々といっても、それはそんな、はっきりとした緑色ではない。むしろ強調しすぎて、濃く、暗くなっている。黒に混ざっていく緑色。そのにおいはいつかの雨よりもずっと重たい。だけどなぜか、このほうが安らぎがあった。
 宿に戻った。坂松さんと矢倉さんは温泉に向かった。汗をかいたのだし、温泉自体は無料なのだから、適切な判断と行動だと思う。それでもぼくがそれに準じなかったのは、関澤さんがあとでいくと発言したからだ。ぼくは咄嗟にぼくもあとで行くと口走っていた。これは突発的な、ぼくからの宣戦布告だ。
 それなのに、関澤さんはぼくの相手をしないで、ひきつけられていくみたいにベランダに出て行く。まさか、疑問に思ったけど、そのまさかだった。
 横の部屋の人も、二人揃ってベランダに出ているらしい。
「妹たちは温泉に行ったみたいだぞ」
 社先輩がそう言う。
「男の子たちも、行ったみたい」
 兄貴が返事した。
「あの、さあ」
 社先輩が、躊躇いがちな声で言う。
「……なに?」
 兄貴の声は、あまり元気とはいえなかった。兄貴も温泉に浸かりたいのかもしれない。昨日兄貴は、シャワーで済ませたらしいのだし。
「昨日は、ごめんな」
「……いいよ。もともと、誘ったのは私なんだし」
 今頃思ったけれど、兄貴はいつもなら、自分のことを「俺」と呼ぶ。一般的な男子だ。……だけれど兄貴は、階段で転んでから、よく「私」を使う。「わ」と発言してから、慌てて「俺」に言い換えることもよくある。
「やっぱり、そんなにストレスになるものなのか」
 社先輩が兄貴にそう言った。言い方から、それが質問であることが理解できた。
「そりゃそうだよ。近くで自分の体が、男子の手によって洗われてるって思ったら……」
「それはおまえも同じなんだけどな」
「わ、私はっ、そんな、洗……」
 しばらく沈黙が続く。
「……ねえ」
 沈黙を破ったのは兄貴だ。
「なんだ」
「なんで雄吾は、そんなに冷静でいられるの?」
「今の雄吾はおまえだけどな」
「私は絢だよ!」
「分かったから大声出すな」
 興味深いことを言ったように思った。だけれど、ぼんやりしていて、今の会話の真意が見えてこない。兄貴が社さんで、社先輩が兄貴……? どういった暗号だろう。暗号というか、隠語というか。二人が交わったとでもいいたいのだろうか。いやいや。思考をそういった方面に持っていく必要はない、はず……。
「……俺だって、死にたい気分だよ」
「死なないでよね。それ、私の体なんだから!」
「……分かってるって。俺だって死にたくねえよ」
「どっちなの!」
 ぼくの横で、関澤さんが笑みを零しているのが分かった。だけれど関澤さんは、それをかろうじて押し殺していて、兄貴たちにその音は届かない。
「ねえ、いつ私たちは元に戻るの?」
 やっぱり色恋沙汰なのか。兄貴の発言を聞いて、ふとそう思う。
「あの坂で転がったとき、もしかして、と思ったよ。だが戻れなかった」
 社先輩がそう言って、それから、また言葉を付け加えた。
「でも、俺今日気付いたんだよ。待っていても戻れない。俺たちがどうにか、元に戻る方法を見つけ出さないといけないんじゃないかって。腕を擦り剥きながら、そんなことを思っていた」
 がばっと物音がした。
「おいおい」
「押し潰されそうだよ。私は、雄吾と違って強くない。雄吾は今まで、たくさんの傷を負ってきたけれど、私はそんなことないんだ。今は不安で押し潰されてしまいそう」
「…………」
 緩やかな沈黙と、闇に包まれた緑色の静寂。ぼくはその中で、二人の盗み聞きをしている自分を責めたい欲望に駆られていた。
「だからって、恋人でもないクラスメイトを抱きしめるのか?」
「……私が今抱きしめているのは、雄吾じゃなくて自分の体なんだから。社絢の体なんだから」
「なあ、社」
「…………」
 抱きしめているのか。さっきの物音は、兄貴が社先輩に抱きつく音だったんだ。なんて肉食的な行動をするのだろう。しかも、社先輩のほうは「恋人でもない」と言い出すし。
「不公平だ」
「不公平って……」
「おまえが俺を雄吾と呼ぶんなら、俺にもおまえを絢と呼ばせろ」
「…………なにそれ」
 兄貴がくすっと笑い声を漏らす。
 部屋のドアが開いた。坂松さんと矢倉さんが戻ってきた。
 隣のベランダで、慌てふためく音がした。