第二章 [目次]


  一
 太陽はぎらぎらさんさんと、ぼくたちの頭上を締め上げた。だけどそれは苦しくなんかない。痛くなんかない。確かに光は強いのだけど、ちゃんと日焼け止めクリームは塗ったのだから。
 海にやってきた。限りなく白に近い肌色。砂浜はそんな色をしている。点々とビーチパラソルが立っていた。加藤くんの情報によると人は少ないということだったけれど、見る限りそれはデマだったようだ。向こうでは海がきらめいている。波と共に、太陽の光が海を跳ねているんだ。ぴょんぴょんと、楽しそうに。
「海だー!」
 誰か叫んでいた。加藤くんと宇治くんが海へ飛び込む。重たい水しぶきが上がって、それがまた新しいしぶきを作り出した。波紋のようにしぶきが連なっていくのはおかしくて綺麗だ。横を見ると関澤さんがけらけらと笑っていて、坂松さんはもうビーチパラソルを立てる準備にとりかかっていた。ぼくはそれを手伝うことにした。
「ありがとう」
 いちいち感謝してくる。パラソルを広げてやわらかい地面に刺す。深く刺さないと倒れてしまう。これは力が必要だから、兄貴に頼むことにした。兄貴は戸惑ったけれど、力を入れてビーチパラソルを深々と刺してくれた。こういうときは腕の筋肉が隆起して、男っぽい姿になる。後で知ったのだけど、兄貴は水着を身につけるのにとても多くの時間を費やしたらしい。たぶんこの前の、風呂に入るのに時間をかけたみたいなことなんだろう。どういう現象なのかは、まだ不明なのだけど。
 夏休みになってすぐ、ぼくらは電車に揺られてこの町にやってきた。宿にサインを済ませ、荷物を部屋に置いてから早速の海なのだった。ここまでの費用をすべて一人が担っているのだから、申し訳なさよりもまず呆れが出てきてしまう。準備の完了したパラソルを眺めながら、横目にぼくは関澤さんの姿をとらえた。
 隅のほうで、兄貴と社先輩がなにやらこそこそと話をしている。
 そういえば社先輩は、ぼくにビキニの着方を訊いてきた。社先輩はどうやらそれができなくなっているらしい。坂松さんが嘆いていたから、以前はきっとできていたのだと思う。
 兄貴が社先輩の胸元を指差す。なにか指示しているような顔をしている気がするけど、ここからじゃなにを言っているのか分からない。ともかく、なにか相談してるのだろう。
 二人はぼくの視線を感じないのか、どんどん口を動かしていく。もしかしてぼくって、気配を薄めて盗み聞きする素質があるのかな。ふとそう思って、すぐに否定した。結局、ぼくはなにも聞けていないからだ。……二人が視線を感じないのに対して、ぼくは強い視線を嫌でも感じ取ってしまった。
 視線の元手を手繰り寄せる。案外簡単にその正体が分かった。坂松さんだ。坂松菊恵。ぼくをこの宿泊に誘った張本人だ。
「寺本さん、あなたって……」
「う、うん? なにかしたかな?」
 口調が片言になっているのが自覚できた。坂松さんの恨み顔が背中をさする。嫌でも姿勢がよくなった。
「あなたって……」
 その続きの言葉が恐ろしかった。いったいどんなことを言われるのだろう。せっかく仲良くなってきた気がしたのに、まさか……。
「着痩せするタイプなんだね……」
 坂松さんがぼくの胸を指差した。
「へ……まあ、うん?」
 なにが言いたいのかはよく分かった。よく分かったけど……こういうとき、どう反応したらいいのか、ぼくのマニュアルにはまだ存在しない。早急に新たな記事を書くべきか。そういっても。
「わたしより大きいなんて、なんで、なんで」
 坂松さんがなにかとぶつぶつ言っている。
「えと、別にぼく、普通だから!」
「え、じゃあなに!? わたしが普通じゃないって言いたいの!? 貧――」
「海行こ! 海!」
 坂松さんの腕を引っ張った。向かうは青く光る海。砂浜と海が、せわしなく攻防を繰り広げている。境目がよく動く。海水はとても冷たかった。この暑いのに、海水は熱せられることを知らないのかな。
「こんのぉ!」
 とっていた腕を、坂松さんがとり返してきた。ひどい力でぼくの体が地面を離れる。
「はう!」
 海に突っ伏された。頭から海水をかぶってしまう。辛うじて水を飲むのは免れた。
「この! 死ねえ!」
「違う! それ違うから! 殺、人!」
 水が口に入ってきて、それ以上なにか言うのは中止せざるを得なかった。坂松さんはぼくの頭を鷲づかみにしてる。拷問みたいにぼくを海に入れては出して、出しては入れて……。
「ちょ……ほんと……苦っ……し!」
 声を出さないと本当に息ができそうになかった。うわ、坂松さん我を忘れたみたいに怒ってる……。
「助け――」
 後ろに手をまわした。がむしゃらに手を振り回す。本気で命の危険を感じた。まわりがどうなっているのか、なんでまわりの人が駆けつけてくれないのかも分からない。ぼくは一生懸命、手に掴んだものを引っ張りまわしていた。とにかく坂松さんから離れないと。そう思って。
「ひゃ!?
 途端、ぼくを縛り付けていた力が消えた。ぼくは咄嗟に坂松さんから距離をとる。砂浜から遠ざかった。まだまだ足はつくところだ。
 ぼくは坂松さんの様子をやっと確認した。座り込んでいる。顔が真っ赤だ。それもそのはず。ぼくが掴んだものは、坂松さんの水着だったんだ。ぼくはそれを引っ張ってしまった。
 坂松さんは、自分の腕をクロスして胸元を隠している。背中を丸くして、絶対に見られたりしないよう緊張しているのが見て分かる。とれた水着を直そうにも、直すには手が必要だから、手は胸元を隠すのに必死だから、するにできない。そのまま動けずにいる。
 だんだんまわりの視線が集まってきているのが分かる。坂松さんの操が雨に晒されていた。雨降ってないけど。「操」って言葉の使い方合っているのか分からないけど!
 ぼくはすかさず彼女に駆け寄った。海の中だから走りにくい。ぼくは彼女の水着の、首にかけるほうの紐を手に取った。それを軽く結ぶ。その次に背中のほうの紐をきつく縛った。縛られた復讐のつもりにでも、慈悲をかけてあげるつもりでも。案の定彼女はきついのを嫌がらなかった。その間にも、加藤くんや宇治くんはぼーっとその過程を眺めている。この変態。そう毒づくのはやめておいた。まだちゃんと話したこともない。
「ごめん……」
 水着が元に戻ったところで、坂松さんはやっと謝ってきた。ぼくは、ほんとだよ、と小さく呟いた。彼女はその声よりも小さくなっている。肩をすぼめたその姿は、本当に小さい……。小さい。
「今、小さいって思った?」
「思った」
「死――」
「脱がすよ?」
「ごめんなさい」

 加藤くんが用意していたビーチボールを打つ。力強く打ったつもりだったのだけど、海に付着したボールは跳ねることなく浮かんだ。だけれどこれで一点取った。勝利は目前だ。
 寺本兄妹チーム対宇治&矢倉ペア。ちなみに一回戦、もとい準決勝だ。二人ずつペアになって、トーナメント戦をおこなっている。さっき、社&関澤ペア対加藤&坂松ペアの試合で、社&関澤ペアが勝った。
 こちらのサーブ。兄貴がまるでテニスのファーストサーブみたいに腰を唸らせた。手首の付け根のあたりでぶつける。ネットにはかからなかった。ネットないけど。
 宇治くんがボールを受け止めて、高くのし上げた。来る。そう直感した。矢倉さんが腕を大きく振りかぶって、スマッシュを決めようとする。
 ……タイミングが合わなくて空振りした。ボールがこつんと矢倉さんの頭を突いて、水の上に音もなく落ち込んだ。寺本兄妹の勝利が決まった瞬間だった。
 さっそく二回戦、もとい決勝戦が開かれた。相手は社&関澤ペア。ちょうど目的通りの決勝戦になった。
 ぼくらは考えあぐんでいた。兄貴と社先輩の療養をするといっても、具体的になにをしたらいいのか分からなかったからだ。なにをしたら脳に良い影響が出るのか、そんな知識は持ち合わせていない。それで結局、楽しく適当に時間を過ごしていたらいいんじゃないかという話になった。せっかく海にまで遠出してきたのだから、家にこもっていたらできもしないことをしよう、という話になったんだ。それが療養につながるかどうかはともかく、ここに来たのだから。遊ばないと。
 十点取ったほうが勝ち。お互い九点同士になったときからはデュースとして、二点連続で取ったほうが勝ちになる。じゃんけんでサーブは向こうからとなった。なんだかやけに真面目くさいルールだ。
 社先輩のサーブ。ゆるやかな弧を描いてちょうどぼくのところへやってきた。それを受ける。コートの境界線は、浜辺に立っている坂松さんが基準となる。坂松さんが立っている位置が、テニスでいうちょうど主審のいる位置になるのだ。つまり、坂松さんの立っている延長線がコートの境界。
 ぼくが受け止めただけで、ボールはその境界を踏み越えてしまった。特に攻撃もできないで向こうに渡してしまった。ボールが向かったほうへ、関澤さんが駆ける。海では走りにくいけれど、届かない距離ではなさそうだ。案の定関澤さんはそれをキャッチし、上に真っ直ぐのし上げた。風に飛ばされて、だけどちゃんと紐に繋がっている凧みたいに宙を舞う。それを素早く社先輩が押した。それはあまり波を描かずに、境界付近にちょいと落としてしまう。取ろうとしたけれど体が前のめりになった。相手の先取。
 気張ってもいられない。今度は関澤さんのサーブだ。一回戦の試合を見た限り、関澤さんのサーブは弱いから気にすることはない。
 頭よりも少し高い位置にボールを掲げて、軽く打ってきた。やっぱり弱い。これなら簡単に――? 
 ボールは弱弱しくて、回転さえしていなかった。今までの関澤さんのサーブの中でも、特に弱く打ったサーブだ。だけどボールは、回転していないせいですとんと軌道を変えて。
 〇対二。二点も先に取られてしまった。もう。
 次はこちらのサーブだ。まずは兄貴。兄貴は運動はできなくもないほうのはずだけど、最近はそうでもないから心配だ。それでもちゃんと、向こう側にまでボールは届く。簡単に社先輩に受け止められて、こちらに返ってきた。ぼくがそれを返す。それを今度は関澤さんが返す。テニスみたいに、一回触るだけで向こうに届いてしまう。バレーとしてどうだろうとは思ったけど、これも戦略のうちだ。格好つけて言えば。
 〇対三。〇対四……? どんどん点差が離れていく。なぜだかこっちの攻撃が利かない。関澤さんのペースが取りづらいんだ。マイペースな調子が難しい。なかなか取れない。〇対五、〇対六……。加藤くんが囃し立てた。宇治くんがわざとらしい溜息を吐く。
「ぷっはー!」
 加藤くんが、炭酸のジュースを飲みきってそう言った。言ったというよりも、声を発したというべきかもしれない。
 結果として、完敗に終わった。
 ビーチパラソルの下で、缶ジュースをみんなで飲む。これも、関澤さんのおごりだ。いったいこの人は、どれだけおごるつもりなのだろう。さすがに申し訳ないけれど、金をちらつかせられるとつい受け取ってしまう。人間の性というか。なんというか。
 海のにおいがジュースと混ざる。はっきりと混ざる。
 兄貴と社先輩は、なにも言わずに隣り合っている。相談するでもなし、語り合うでもなし。ただ砂浜に消える線をなぞりながら、二人はまるで恋人のように隣り合っている。頭打ってから親密になったのか。それとも元から、人数の少ないクラスだからなのか、無言で空間を共有できるくらい仲が良かったのかもしれない。
 でもまさか、付き合ってたりはしないよね?
 そりゃそうか。
 今日のぼくは、まだそう考えていた。