第三章 [目次]


  三
 電話の相手は関澤さんだった。ぼくは画面から目を離して、それを耳に押し当てる。そこには、ドアに押し当てたときとは違った種類の緊張が含まれていた。
「もしもし……?」
「もしもし。由美? 私、今あなたの後ろにいるの」
「へ……?」
 ぼくは咄嗟に振り返った。もし本当にそういう状況だった場合、ぼくはすかさずあの世に送られていただろう……。そういうことだから、背後に誰もいなかったときはほっとした。振り返ってから、危機感を覚えて、そのあとに安堵した。なんて平和ボケした人間なんだろう。最近の日本人は戦争ともわりと無縁な生活を送っているようだから、危機感というものが、危機自体は近づいているようなのにまったく持ち合わせていない。それだと大きな問題が起きたときに大変だ。……しかもその人間というのは、ぼく自身のことであるのだから、少しげんなりする。
「もしもしぃ?」
 ぼくは、語尾に少し力を込めてそう言った。電話先の相手は、なにがおかしいのかくすくすと笑っている。ぼくは眉をひそめて、そのまま背後を見たままだった。
 だから驚いた。わりと大袈裟に飛び上がった。うわあって声を出した。
 ぼくの体の正面には、関澤さんがいた。
「やほー」
 楽しそうに関澤さんが笑う。当然といえば当然だけれど、つい数時間前と同じ服装だった。
「……なにやってんの?」
 おそらく、ぼくが後ろを向いている間に近づいてきたのだろう。たまたまこの公園を通りかかって、ぼくを見かけたのか。あれ、でも、関澤さんはこのあたりに住んでいるのだろうか。こんなところを通り過ぎるなんて。
「由美の家って、このへんなの?」
 ぼくの質問には無視をして、関澤さんがそう言ってきた。ぼくが考えていたことと似ている。
「そう、だけど……」
「あーやっぱそうなんだー。たまたま由美を見かけたんだけど、こんなところで見かけるなんておかしいと思ったから」
 質問に至った経緯も、ぼくとほとんど同じらしい。ということは……。
「え、じゃあ……関澤さんって近所なの?」
「うん。ここからすぐそこの、右に曲がったトコ」
 ぼくは携帯電話の通信を切っていなかったことに気付いて、通話終了ボタンを押した。それを眺めて、彼女も自身の携帯電話を操作する。
 ここは家の近所の公園だ。兄貴に盗み聞きを気付かれて、居住まいが悪くなって家を出てきた。この公園はわりかし広いところで、子ども向けの遊具がたくさん設けられている。公園は市販のプリンやゼリーなどの容器みたいに、窪んだ地形をしている。ぼくはそのうちのひとつの階段に腰掛けていた。どうやら関澤さんは他の階段から公園の中に入ってきて、そこからぼくのほうの階段を上ってきたらしい。
「あれ? じゃあ、なんで帰りのとき、一緒の駅で降りなかったの?」
 ぼくはふと沸いてきた疑問を投げかけた。関澤さんは嫌な顔ひとつせずに、それに回答した。今日の四時過ぎあたり、映画からの帰りの電車。線は同じだったのけど、関澤さんはぼくの降りる駅では降りなかった。
「ああ、ちょっと寄るところがあったからね」
 関澤さんはそう言って、少しわざとらしい咳払いをした。
「もう七時になるけど、ここでなにしてるの」
 今度は関澤さんがそう訊いてきた。それは関澤さんにそのまま返してもよさそうな質問だった。
「ぼくは、えっと……ちょっと兄貴と気まずくて」
「兄貴って……寺本、雄吾先輩のこと?」
「他に誰がいるっていうの……」
 関澤さんは豊かそうに笑った。なにをそう、のんきにしているのだろう……。
「今日、帰り際、こんな話をしたよね。私が、宇治くんと河川を転がったって話」
「うん……」
 急に、関澤さんは話題を変えてきた。自分がなぜ家を出ているのかは言うつもりないらしい。まぁ、夏休みだし、どうせ近所だし、心配することはないのだけど。ちなみに、ぼくの家には今のところ母親はいないし。
「あれってさ――ほんとは、嘘だから」
「あ、そう」
 ぼくはあまり驚かなかった。今の彼女の軽薄な言い方は、どうしても真面目な話をするには軽すぎて薄すぎるように感じられた。もし今愛の告白を受けたとしても、ぼくはそれを軽く受け流すだろう。……女子同士だからそんなことないけどっ。
「私はただ、宇治くんから聞いた話を、ちょっと改変して作り話にしただけだよ」
 関澤さんの言葉に、ひっかかりがあった。
「つまり、関澤さんについては嘘だけれど、宇治くんは、実際に川を転がったことがあるってこと?」
 そう聞くと、関澤さんはまた愉快そうに笑った。笑い顔は、えくぼがチャームポイントになって見ていて悪い気はしなかった。けれど……。
「実際には、川を転んだわけじゃないんだけどね」
「それじゃあ……どこを転がったっていうの?」
「階段だよ」
「……!」
「それも、ここ、まさに由美がいるこの階段でね」
 ぼくはぽかんと、関澤さんの顔を見つめた。かもしれない。
 関澤さんの目元が濡れていた。
「関澤さん、涙……」
「え?」
 だけれど、関澤さんは泣いている自覚がなかったみたいだ。頬を伝う水滴を、不思議そうになぞり取って、そうして首を傾げる。
 ……関澤さんが本当は泣いていなかったと気付くのは、案外すぐのことだった。ぼくの目元も濡れたから。ぽつぽつぽつぽつ濡れたから。
「関澤さん、まだ家帰らなくていいの?」
「うん。お兄ちゃんが受験生で、私、家にいると邪魔者なんだよね。寄り道したのも、家に早く帰らないためだし」
「お兄ちゃんいたんだ……」
 雨がしだいに酷くなってくる。ぼくは迷うことなく関澤さんの腕を取った。関澤さんはそれを、不思議そうな目で眺める。目元が濡れていた。雨の滴に濡れたからだ。
「ぼくの家に行こうよ。いっそのこと泊まってってもいいよ」
 関澤さんが、水浴びをしている花のような笑顔を見せた。

 野菜を炒める。砂糖を入れるのを忘れない。美味しくなるのかはまだ食べていないから分からない。
 テーブルには関澤さんがいる。ぼくの料理するところが見たいと、そう言って台所までついてきた。ちなみに兄貴たちは、まだ彼らの部屋にいる。なにしてんだろう。そう疑問を挟むことはしない。
 油の音がするたびに――つまりひっきりなしに――関澤さんがおー、だとかうわあ、だとかの歓声を上げている。いちいち可愛かった。菜箸で野菜をあえて、その声に耳を傾けた。いい声してると思う。ふと思う。そう思う。
 雨はまだやまないみたいで、窓の外は眠りから醒めたようにほの暗い。
 そういえばこの夏休み、まったくといっていいほど雨に見舞われなかった。それで町が水不足に陥ったりはしなかったけれど、たぶん、夏休み前のあの大雨の日から、やっと雨らしい雨を体験したように思う……。
 壁にかけられたカレンダーを見る。八月二十七日。夏休みも、あと四日だ。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。ずっとやりたかった化学の自由研究は、特にしていなかった。明日あたり、早速やってみないと。まだなんの構想もないのだけど。
 野菜炒めができあがった。ぼくはそれを皿に盛り付けた。それをでんと、テーブルの中央に置く。うわお! 関澤さんがクールっ気なしにそう言い放った。まったく、この人の性格がいつになっても掴めない。
 関澤さんは、今日から八月三十日まで、この家に泊まることになった。彼女が家に電話してみると、あっさり許諾が下りたらしい。……本当に邪魔者になっているらしい……。
「兄貴ー。社せんぱーい。ご飯だよー」
 ぼくはそれだけ適当に叫んでおいて、箸を取ることにした。既に、関澤さんは取り皿に自分の分を載せてがっついている。お腹を空かせていたのかもしれない。
 窓の外は雨が打ち付ける音で騒がしかった。
 七月末のことを思い出す。それと同時に、兄貴たちがああなってからもう一ヶ月が経っていたことに驚愕する――。
 兄貴たちは、なかなか下りてこなかった。もしかしたら、ぼくの声が届かなかったのかもしれない。部屋の中でなにかに集中していたなら、ありえない話でもない。いちゃいちゃと会話をしていてその声で、ぼくの言葉が掻き消されてしまった可能性がある。聴覚を排他するような行為に入っていた可能性も……多からずある。ぼくは箸を一旦置いて、また呼びかけに行こうと椅子から腰を持ち上げた。
「待って」
 だけれど、関澤さんがそう呼びとめてきた。
「……なに?」
「ごはん食べてからでも、遅くないんじゃないかな。もしかしたら、とても重大な話をしているのかもしれないよ?」
「…………」
「ほら、あーん」
「あーん……ってなに!?
「それでもちゃんとあーんしてくれる由美ちゃんなのでありました」
「関澤さんもあーん」
 雨の音が響く。雨の音が続く。
 そんな中、ぼくらの声も負けじと響いて、続いていた。兄貴たちのために残しておいた野菜炒めは、ラッピングして放置してある。……もう、夜の十一時になっていた。夕飯をぼくらが食べたのは九時前だ。
 ぼくは関澤さんに言われるがまま、二人がやってくるのを、呼びかけることなく待っていた。いや、待ってはいなかったのかもしれない。関澤さんとの話が妙に面白くて、なんだか、真面目くさくなっている自分が虚しく感じてきたのだ。
 ぼくはなんて、バカな少女なのだろう。笑いながらぼくはそう考えた。
 ぼくはぼくが『ぼく』である理由も分からなければ、兄貴たちがなにに悩んでいるのかも分かっていない。今日、盗み聞きした会話を思い起こす――。それでも、二人がどんな問題に直面しているのかはまったく理解できなかった。それどころか、盗み聞きするまで、二人が悩んでいるということさえあまり知らなかった。二人はただ単に、怪我したことを口実に、切り口に、男女交際を単純に始めたものだとさえ思っていた。実際に二人はそういう関係に昇華したのだろうけど、そこに至るまでの経緯を、ぼくはすっぽり抜かしていた。知らなかったんだ。なにも。知らない。
 ぼくは兄貴を、いままで理解してやろうと思わなかったんだろう。兄貴のことだから、どうせ治ると、高をくくっていたこともある。でもそれだけでなくて、事態が深刻になっていく中でも、ぼくはそれを楽観視していた。そうだ。ぼくは兄貴の本質を見てやれていなかった。兄貴は階段で転んで、体のあちこちを打った。それは事実だ。でもぼくは、その事実しか見ていなかったんじゃないか――? ぼくは、その事実から導き出される問題点を、ずっと無視してきたんじゃないか――? まるで試験中、分からない問題を先々に飛ばして、結局解かないみたいに。そんな状況にぼくはあるんじゃないだろうか。兄貴は、社先輩は、それを解かれるときをずっと待っている。解くのがぼくかどうかは関係ない。ともかく誰かの解答を待っている……。
 それにぼくは気付いてやれなかった。きっと気付かなかった。ぼくは『ぼく』のことしか見ていなかった。ぼくは自分にしか関心がなかったに違いないんだ。ぼくは、自分が友達のいないことばかりを思考して、兄貴のことなんて目視から外して、ずっとそうで……階段での一件がある前からもずっと、ぼくは自分しか見ていなくて、兄貴のことなんか見てなくて。聞いていなくて。
 ただ、漫画の主人公みたいに、ぼくは覆い包める思考を探っていただけなんだ。あの宇宙スーツみたいに、自分を着てくれる思想を探し回っていた……。
 関澤さんは、会話していてそれを察したのだろうか。いつの間にかぼくらは無言になっていて、ただ時計のかちかちいう音と、窓の外の雨音だけが染み渡っていた。
 ――もしかしたら関澤さんは、ぼくと会ってからずっと、ぼくのそんな性質を見抜いていたのかもしれない。関澤さん自身は兄貴たちとなんの関連性もなくて、それゆえに関心などないのだけど、ぼくに関心を向けていてくれたのだったら。そうなんだったら、彼女の奇行にも、いくらかの理由付けができる。かもしれない。関澤さんは、ぼくを、兄貴に目を向けさせるように作用してくれたんじゃないだろうか。まるで過酸化水素を水と酸素に分解するけれど、自身は直接的な式に関与しない、二酸化マンガンみたいに。
 ぼくには、今の関澤さんがどこかの神様のようにでも見えた。だけれど彼女にも、受験生の兄がいて、それで家の中では存在の段階で疎まれている。……疎まれているわけではないのだろうけれど、この一年間ばかりは、どこかで静かにしてほしいと思われている。
 ぼくも、来年になったらそういう待遇になるのだろうか。
 ぼくはふと、自分の過去を振り返ってみたいに気分になった。それは突発的なことで、発作のようなもので、たぶん、直接的にはこれまでの思考と関係ない。だけれど間接的には重要な媒なかだちになっている。そんなものだと思った。
 ……だけれど、ぼくには、思い出といえる思い出が特になかった。それにたった今になって気付いた。ぼくは今まで、気付かなかったことが多すぎた。
 ぼくはあまり過去に頓着していない。それも、思い出を廃棄してしまうくらい――。
 あれ? ねえ?
 河川ではなく――階段で――。転がって……転がって……。
 入れ替わる。『入れ替わる』……?
 短針が十二を指した。
 はっとなって、だけどすぐに闇に消えてしまう――。
 関澤さんがぼくを見て笑っていた。いつの間にか見つめられて笑われていた。ぼくは彼女が、決して兄貴のためにぼくを笑ったわけでないことを直感した。彼女が……でも。
 玄関のドアが開けられたのは、ちょうどその瞬間だった。