第三章 [目次]


  五
 八月三十日。午後二時。夏休みもあと一日と十時間程度だ。
 みんなは突然の連絡にもかかわらず、集まってくれた。映画館が付近にあるN**駅で、今日は全員が集合。宇治くんが一番遅れてやってきた。ぼくはまた一番乗り。
 百貨店に入って「みーてーるーだーけー」をやる。声に出してはないけれど心の中で繰り返していた。実際なにも買わなかったのだし。
 ウィンドウショッピングにも飽きて、みんな飽きて、ちょうど良いタイミングで関澤さんが「喫茶店行こう」って言った。
 テーブルをくっつけて集まって座る。ぼくはオレンジジュースを注文した。みんなそれぞれ飲み物を頼むなか、なぜか加藤くんはスパゲティーを注文していた。店員が微妙に笑っているのが分かる。みんなが笑ったからぼくも笑った。加藤くんも笑う。
 周囲にいた老人がぼくたちに目を向けていたけれど、それが嫌な顔なのかどうなのか、ぼくには分かりかねた。若者には分からない表情というものを、年をとると獲得するのかもしれない。ぼくはストローをくわえながら、みんなの会話をBGMにする。
「それでさ、宇宙スーツがコールサック人に捕まっちゃうんだけどさ、コールサック人は気体だからさ、宇宙スーツを着ることができないんだよ」
 関澤さんは「さ」のところを強く発音して、昨夜ぼくの家で読んだ漫画の感想を述べる。ぼくも起きてすぐに、残りの分を読み終えた。不思議な終わり方だった……。
 ぼくが読み終えたから、関澤さんは遠慮もなにもなしに、がんがんと思ったことを口から吐き出している。
 それにしても、眠い。昨日眠ったのはすっかり夜も更けた頃だった。睡眠不足だ。関澤さんの感想も、頭に留まることもなく霧散している。かき集めるほどの気力は残っていなくて、眠ってしまわないように頑張ることしかできない。
 そのせい、というわけでもないだろうけど、ぼくはなかなか会話に参加できずにいた。ただ聞くだけ。BGMにしてストローからオレンジジュースを吸い込むだけ。たまに頬杖をついて、みんなの会話を聞いて。
「ねえ、由美、由美ってば」
 だから反応が遅れた。
「な、なに?」
 慌てて口を開くと、ストローが踊りだす。コップが倒れそうになって寸でのところで支えた。それを誰かが苦笑していて、ぼくもつられて苦笑して、それからもう一度「なに?」と発言した。
「もう、由美ってば人の話聞かなさすぎ」
 関澤さんがまた「さ」のところに力を込める。だけれど、「聞かなさすぎ」の「さ」は、いらないじゃないか。「聞かなすぎ」が正しいんじゃないか。そんな気がして、でも実際どうなのか分からなくなって、こんがらがってきて、ぼくはストローをまたくわえた。
「んで、寺本はどこ住んでるの?」
 加藤くんが話をつなぐ。住んでるところの話をしていたらしい。ぼくは家の最寄り駅を教えた。そのへん、とつけ加える。
「へぇ、そのあたり、ぼくも昔住んでたよ」
 そう言ったのは宇治くんだった。少しどきんとなって、関澤さんの顔を眺める。関澤さんはくすくす笑ってて。その笑顔はいつものことだけど、その顔はあのときの、宿にとまって隣の部屋を盗み聞きしていたときの表情ととてもよく似ていた。
「いつから住んでたの?」
 矢倉さんが質問する。
「わりと昔。小学校に入る前から」
「へえ。僕は小学校に入る少し前のときぐらいに、そこから引っ越したんだ」
 ぼくも宇治くんも質問に答える形になっていた。
「じゃあ、ちょうど入れ違いって感じかな」
「たぶんそうだろうね」
 ぼくは宇治くんにはどうやら興味がないらしい。自分のことにどうやらとつけるのもおかしなことだけれど、ぼくは、本当にどうやら、彼に気がない。それを自覚したうえで、ぼくは饒舌な宇治くんを余所目に、関澤さんに興味をいだいている。
 関澤さんは、宇治くんに興味がある。かもしれない。関澤さんが電車で言っていたこと、公園で言っていたことを、噛み締めながら思い出していく。
 ぼくはもしたら宇治くんと会っていたのかもしれない。
 ふと思って、掻き消す。
「そういえば、先輩たちはどうなの?」
 頃合を見計らって坂松さんが話題を提供する。ぼくは内心ほっとして、でも有耶無耶なまま終わった疑問がやりきれなくて、複雑な顔をつくって坂松さんを見つめた。
「な、なに」
 と坂松さんはたじろくけれど、それだけで。ぼくも特に意味をもって行動しているわけではなくて。
「二人とも、治ったみたいだよ」
 ぼくの言葉に、坂松さんは素直に喜んでいた。
「どうやって治ったの?」と矢倉さんが訊いてきたので、「なんか、よく分からないけど……。学校に行って、そこであのときみたいに、今度はわざと、転がったみたい」と答えた。
「なるほど。原因だと思われることを、まとめて一気にやりなおしたのか。もし二人のあの症状が、電源のオン・オフのような二極性のものだったのなら、起こったきっかけをもう一度作れば元に戻るんだからね」
 宇治くんが言ったように聞こえたけど、誰が言ったのか明確にはわからなかった。もしかしたら関澤さんなのかもしれない。と思って、彼女を眺めても、彼女はただ笑っているだけ。
 まあ、発言なんて、どれもそんなものだけど。
「転がるといえば」
 宇治くんが言う。
「話が戻るけど、僕も、引っ越す少し前ぐらいに、転がったことがあるんだよね」
 どくん。
「ええそうなの?」
 坂松さんがありきたりなリアクションをした。
「そうなんだ。窪んだ形の公園が近くにあってね、そこの階段から、ごろごろと」
「へぇ」
「そのとき、誰か知らない子と一緒に転がったみたいでさ。昔のことだからあまり覚えていないんだけどね」
「へ、へぇ」
 それは、今回の兄貴たちの件ととても似ている。
 坂松さんが、ぼくの顔を見つめる。ぼくは「なに」と言葉で返したが、彼女は「別に」と答えるだけで、それだけだった。
「もしかしたらその子って、由美なのかもしれないね」
 突然関澤さんが口に出した。
「ぼくは知らないよ」
 ぼくは言う。ぼくは知らない。分からない。
 夕刻には解散ということになった。ぼくは家にそのまま帰ることにした。みんなも、今日はなるべく早めに帰りたがっているようだった。なにかすることでもあるのか、よく分からないけれど。
 帰ると、母親がいた。久々に見る母親は、どことなく痩せている感じがした。だけれど久しい感覚はあまり込み上げてこない。それが親というものなのだろうと思った。
「ああ、いたいた、宇治くんでしょ」
 テーブルに座って、肴もなしに談笑する。
「由美が小学校入る前に、引っ越しちゃったんだけどねぇ。由美はどうだったか知らないけど、雄吾がよく遊んであげてたわよ。短い間だったけどね」
「……へぇ」
 関わりがあったんだ。ぼくは驚く。母親が覚えているということにも驚く。
「あ、そうそう。ちょうどその頃ね」
「なにが」
「宇治くんが引っ越すくらいの時期からだよ、由美、あんたが『ぼく女』になったのは」
「え……」
「あ、ごめんなさいね。我が家のタブーよね。……でもね、由美、もう高校生なんだから、そろそろ治さないと。困るよ」
「……はい」
 ともかくこうして、ぼくの高校生活最初の夏休みは、残すところ一日となった。兄貴はぼくよりも遅く帰ってきて、なんだか知らんが泊まってきた、ってしれっと言った。女の子の家に泊まるってどうなのって母親に訊いてみて、母親もそれについては眉をひそめていたけど、兄貴曰く「なんか知らんが、すっげー歓迎されたぞ」とのこと。
 科学コンクールにはどうしても間に合いそうにないことが判明した。夏休みを侮っていたらしい。時間がある時間があると引き伸ばしに怠惰を貪っていたら、目標はついえてしまう。
 また来年があるさ。今年中にプランを練ってしっかりと取り組もう。と決意する。
「ああ暇だなぁ」と呟いてみる。夏休み最後の日は、なんだか静かで、ぽかぽかだ。暇にかこつけて坂松さんにメールしてみると、『ごめん忙しいからまたあとでね』とあしらわれた。そうか忙しいのか……と思いながら、今度は矢倉さんに送信してみる。矢倉さんも似たような反応だった。『時間がないんだよ!』って、必死になっている表情が文面から滲み出ていて、少し笑った。今度は懲りずに、関澤さんにメール送信。
 坂松さんも矢倉さんもなにが忙しいのだろう。いやいや青春に忙しいのですよ。部屋にノックもせずに入ってきた兄貴を尻目に、そう思う。みんな青春。忙しい忙しい。はいはい忙しい。
「兄貴、どうしたの」
「辞書、貸してくれ。英和辞書」
「ん? うん……」
 なんだろう。胸騒ぎがする。
 棚から辞書を取ろうとしたとき、携帯電話が振動した。メールが届いたらしい。送信者は関澤さんだった。文面を読んで、ぼくは、ぼくは……。
『由美は宿題終わったの?』
 ぼくは修羅場へ転がり落ちた。

  ――了