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五.
 春休みだというのに、俺は大学の門をくぐった。
 昨日、年度最後の授業があった日、帰り際に月下美人に言われたのだ。
『レポートがぐしゃぐしゃしてて読みにくかったから、罰として春休み没収だねー』と。
 おいちょっと待て。紙束がぐしゃぐしゃになったのは、月下美人がポケットに無理矢理突っ込んだからだろう!
 即座にそれを伝えたが、そうしたら『あ、そうなの。んじゃー内容がダメダメだったからだねー』とか言ってきた。
「んじゃー」ってなんだ。「んじゃー」って。
 ともかくなぜか、俺は貴重な春休みを返上することになってしまったのである。
 まあもともと、することはなかったのだが。
 ……実験の手伝いをしろとのこと。
 正門のところで、ンタンさんが掃除をしていた。箒で地面を掃いている。
「あ、おはようございます」
 ンタンさんが、にこやかな笑顔をこちらに向ける。アイボリーのショートパーマが、細やかに揺れる。
「おはようございます、ンタンさん」
 つい俺も、笑顔をして返事をした。ンタンさんがいる空間は、とても和やかで、なにもしなくとも笑顔が零れてしまう。
「あ、もしかして」
 ンタンさんが一層笑顔を強める。ああ、眩しい。純白だ。
「もしかしてアキさんも、うっちゃんのご指名で来たんですか?」
 うっちゃん。月下美人のことだ。ンタンさんだけが、月下美人をそう呼んでいる。
「ご、ご指名?」
「うっちゃんなら、グラウンドで待ってますよ」
 ご指名……というと、春休み返上者のことか。
「あの、前々から疑問に思っていたのですが、なぜ『うっちゃん』なんですか?」
「え……? あ、あ~それはですね、うっちゃんのデリケートな過去と関わってくるので、訊かないでほしいかな、と」
「え、そうなんですか。……すいません」
「それはともかく、うっちゃん今頃怒ってますよ。遅刻はいけないことで――」
「おーい! アキー。遅いー!」
 ンタンさんの語尾を遮るようにして、月下美人の声が響いた。スピーカーでも使っているのか、とても大きく、少し割れている。
 ンタンさんが、少しだけ笑い声を漏らした。
 この人は月下美人が去年引き寄せた職員だ。ここに来る前は、その幸せそうな体躯とは相反して、世界各国の紛争地へ訪れる戦場カメラマンだったと聞いている。
 今は事務処理と月下美人のアシストを専らにしているはずだが、そのンタンさんがなぜ掃き掃除を。
 まあ……月下美人のことだから、この掃除もアシストだとか言うのかもしれない。
 そう思いを巡らせながら、俺はグラウンドへ走った。
 コンクリートの地面に、こつこつとした駆け音が広がる。
 グラウンドには、俺の他にも数人の生徒がいた。なるほどご指名か……。
 神谷先輩もいた。
 グラウンドの中央に、明らかにこれから使うのだろうと予想できるものがあった。
 それは中高の理科でよくやりそうなものだった。ふいに中高の思い出が蘇ってくる。ああ……あのときは日常というものに束縛されていた。今の自由の多さとは程遠い……って、いや、ともかく。
 口は斜め下を向いていた。中高の理科でしたときとは違って、それは小難しそうな機器に支えられている。
 要するに、それはペットボトルロケットだった。
「先生……これはどういった実験なんですか」
 俺は月下美人にそう訊いた。おそらく、今この場にいる生徒全員が、そう疑問を持っていることだろう。
「これはねぇ、全国お馴染み! ペットボトルロケットだよ!」
「いや、それは見たら分かるんですが……大学のこの広いグラウンドで、ペットボトルを飛ばしてなにをするんですか?」
 月下美人が、俺の質問は予想外だと言わんばかりに首を傾ぐ。カールボブが朝の静けさのように揺れる。空気のその些細な振動が、俺の疑問を一層強めた。
「え……それだけなんだけど」
「……な、なんのために?」
「楽しそうだから」
 …………。
 遊びだったのか。俺の春休みは、教授の遊びによって無残に朽ち果てるというのか!
 なんだなんだ。ちょっと期待した自分が馬鹿みたいだぞ?
「んじゃー面子も揃ったことだし、発射用意!」
 数十回、いや百回は優に超える発射が、これからのペットボトルを待ち構えていた。

 俺は自転車を押して帰宅路を歩いていた。
 とてもではないが、足がくたくたでペダルを漕ぐことはできそうにない。何度も何度も、飛んでいったペットボトルを取りに走らされた。
 だが助かったことに、これは月下美人のほんの冗談のつもりだったようだ。春休み返上というのは嘘で、ただ久々に体を動かしたかったからで、今日だけなのだそうだ。
 お詫びに、「科学祭」の入場券を貰った。来週、隣町の大学で開かれるらしい。科学の最先端を目の当たりにすることができるそうで、まあ楽しみだ。
 帰宅路には、分かれ道になっているところがある。真っ直ぐ行けばいつもの道、曲がれば路地裏で近道だ。
 俺は近道ではないほうを選ぶ。
 ――昨日。
 昨日あったような、なかったような情景を思い出す。今思い出しても、まるでテレビを観ているようで、なんのリアリティもない。
 きっとあれは白昼夢だったのではないだろうか。そう思う。あまりにあれは、非現実的だった。俺は帰宅路を行く。
 道の端っこで、小さな女の子が座り込んでいた。手の甲で目を隠している。泣いているのだろうか。
 辺りに大人はいない。迷子だろうか。
 そう思った俺は、当然のことながら女の子に声をかける。
「どうしたの? 迷子かい?」
 俺はそう畳み掛けて言う。少々、初対面の、それも小さな子に対する言い方ではなかったかもしれない。
 だがそんな反省も、結局は意味を為さなかった。
 女の子が、こちらを向いた。
 まるで鉛筆で塗りつぶしたような瞳。まるで鉛筆で何度も線を引いたかのような髪。まるで鉛筆で何度も刺され殴られたような――粗い顔。
 女の子が、俺に手をのばす。
 気付いたときには、俺はもう首を絞められていた。
 訳が分からず、俺はどうすることもできずにもがく。
 あっという間に視界が朦朧としていた。息が吸えないことによるものではなく、圧倒的な握力と腕力で首を絞められたショック――。
 まさか、これは昨日のテレビの続きか?
 まさか俺、小さな女の子に絞殺されるのか? この女の子は俺を殺すつもりなのか? なぜ首を絞めているんだ?
 ――それは一瞬のようであり、何年もの歳月が経ったようにも思えた。
 まさか、まさか。
 死にたくない。まさかここで死ねるものか。なにがどうなっているんだ! やはり昨日のあれは、夢ではなかったのか?
 こいつは二宮の同類なのか?
 女の子は、完全に俺に体重を任せている。俺は重力の従うまま、女の子を下敷きに崩れ倒れた。瞬間、絞首の力が弱まる。
 俺は咄嗟に起き上がった。女の子は地面に打ち付けられたままの状態だ。
 ……どうやら、とりあえずは助かったようだ。
 喉に違和感が残る。脳が空気を欲しているが、俺は空気を吐き出すばかりだ。
「あら」
 ふいに、俺の後方から声がした。
 それはつい昨日、この近くで聞いた声だった。
 赤毛の女――オウギが、足音を立てずに、されど背筋を伸ばして歩み寄ってくる。
「またお会いしましたわね。アキさん」
 悠然とした態度で、オウギが言う。
「アキさん、あなたはまるで、磁石のようですわね。鉄を引き付け、離さない」
 オウギは、そう言いながら横たわっている女の子を見遣った。虫を見るように、口を歪めて微笑む。
「まだ始まってから二日しか経っていないのに、もう二つ目だなんて。素晴らしい成果です、アキさん」
 オウギが、右手を大きく広げた。そして微笑んだ表情を保ったまま、それを女の子に向けた。
 手の平から勢いよく鉄の棒が飛び出す。
 鈍い音がして、少し遅れて血液が飛び散った。女の子の血だ。
「お手柄です。さすがはアキさん。私の目も、たまには正解を選ぶようですわ」
 オウギが改めて俺を向く。
 女の子はもう動かない。
「その子は……」
「壊れましたわ。アキさんのおかげで」
 血の池が、どくどくと面積を広げていく。
 その中央にある肉塊は、波に飲まれても動じない。
 滑らかになだらかに、血液が広まってゆく。
 オウギは表情を変えず、俺の顔を窺っている。俺の反応を楽しんでいるようでもあり、どうとも思っていないようにも見える。
 ……ところで今、なにがあったんだ?
 俺の身になにがあって、なにがあって女の子は死んでしまって、なにがあって俺は――。
「――は」
 俺が俺でなくなってゆくのを感じる。そうだ、俺は俺ではないのだ。これはテレビだ。俺はテレビの俺を観ているのだ。なにをそう真剣になっている。これは娯楽だ。エンターテインメントだ。俺は俺ではない。これはテレビだ。
「はは――は」
 肩が揺れる。喉が震える。眼球が乾く。耳が縮む。
「ははは、ははははは!」
 俺はとうとう、腹を抱えて笑い転げてしまった。
「はははははっははは」
 空が青い。なんておかしいんだ。視界の女の髪が赤い。なんておかしいことなんだ。同じ赤のはずなのに、女の髪と、地面に広がるこの液体は全然違う――とてもおかしい。笑ってしまう。
「落ち着いて」
 オウギが、俺の顔を両手で挟む。やわらかく挟む。
 俺は止まった。
 テレビの調子が悪くなったのか、俺から笑い声は聞こえなくなった。
 ただ俺は、オウギの顔を見つめるばかりで。
「……ふぅ。思っていたよりも弱いのですわね、精神というものは」
 オウギは心底安堵したように、指で俺の頬を撫でる。
「狂おうとしても、私がそうはさせません」
 血液の池は依然として面積を広げつつあった。ついに俺の靴が池に侵食されていく。滲んで、染み込んで。
「あなたは、『真実』を受け入れなければなりません。もう後戻りはできない状況です。全てあなたの能力――『真実』が要因ではありますが、もう、引き返すことはできないのです」
 オウギは言う。わずかに赤い血の付着した白い肌で、俺に言う。
「二宮寛次、そしてこの女の子――。こんな、こんな『人形』が、世の中にはいます。私のすべきことは、『人形』を壊すこと。人間に扮した『人形』を壊して、『人形』のせいで生じた捻じ曲がった『事実』を『真実』に戻すのです。……まだなにも、信じられていないかもしれない。だけどあなたがあなたであるように、すぐ傍の『真実』を、あなたは受け入れないといけません。これから少しずつ、信じてゆけばいい――私はもう、あなたの魔法使いなのですから」
 それだけ言ってオウギは……青い空へ飛んでいった。だが池に映った空は、どうしてだか赤かった。



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