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三.
 大学にやってきた。春休みだというのに。
「え? 『あたり』? そんなの作ったっけ」
 神谷先輩から紙切れを受け取りながら、月下美人はそんなことを言った。
「うーん。これは私の作ったものじゃないよ。覚えてない」
 月下美人の記憶力は、俺のを遙かに超える。俺の記憶力がそれほど悪いという意味ではない。全人類の平均記憶力を五十とするのなら、月下美人は優に百を超えるだろう。いや、本当に。
 その超人が「覚えてない」と言うのだから、実際に作っていないのだろう。
「では、この『あたり』は先生が作ったものではない、と」
 確認するように、先輩が言う。
「うん、そうなるね。誰の悪戯だろう。悪戯に悪戯を重ねるなんて、なかなかやるなー」
 そして、自分の行いを悪戯だとあっさり認めてしまう月下美人である。
「そうですか。……賞品は無しですか」
 神谷先輩が、少々ズレたところを残念がっている。いや、別にズレているわけではないのか。宝くじで当たったのに、それがなにかの手違いだったようなものだ。それは残念だ。
 先輩の眼鏡が、部屋の闇でも吸収するように翳っている。硝子が厚くなったのか。どこかの文学作品のように、それが先輩の心情を表している……だなんてことはないだろうが、よく出来た眼鏡だ。
 それに比べ、月下美人の眼鏡はどこまでも透き通っている。どこまでもといっても、その先にはまた奥深い瞳があるのだが。シャギーの入ったカールボブも、光を通しているように綺麗だ。美しい。
「では、失礼します。お邪魔しました」
 先輩は、賞品がないなら美人なんて、とでも言いたげなふうにノブに手をかける。まあ、人それぞれ好みはあるだろうから、異論は出せない。俺も先輩と共に、月下美人の個室を出ようとした。
 が、ふいに月下美人に呼び止められた。
「あ、そういえばアキくん。ンタンちゃん知らない? あの子、今日は実験の手伝いさせるつもりだったのに……今日に限って来ないんだから」
「ンタンさんなら、一時間くらい前にバス停で会いましたよ」
「バス停って、三叉路のところの?」
「ええ、そうです」
 考え込むように月下美人は腕を組む。いつも通り、月下美人の両手には白い革手袋がはめられていた。
「なにしにいくのかとか、聞いてない?」
「えっと……隣町の大学に行くとかなんとか」
「――そっか」
 組んだ腕を解き、白い革製の指を、絡め合わせてひとつにする。
「アキくん。神様っていると思う?」
 春休み前の最後の授業――そのときの質問を、また繰り返す。空気が一変していた。翳が流れ込む。
「……分かりません」
「私は、きっといると思うよ」
 月下美人の個室は、まるで子供部屋だ。おもちゃがあるわけではないが、装飾が子供っぽい。フラスコや試験管の並ぶ棚は、まるでおもちゃ箱。壁に貼られた資料はまるで、昔に浸る写真のようだ。
 そういえばここには、写真がない。職場とはいえ、ひとつもない。過去に浸りながら、過去を拒絶している。
「神様に会えるならきっと……死んだ人にも会えるだろうから」
「……?」
「さあて。ほら、用が済んだら帰った帰った。春休みぐらい大学の外で遊びな」
 半ば無理矢理、月下美人が俺を押した。そのまま扉の外へ、俺はされるがまま移動する。
「ちょ、先生どうしたんです」
 閉められそうになった扉を、俺は掴んでそう言った。そして部屋の中を覗きこむ。
 部屋の中で月下美人がノブを握っている。下を向いていた。
 どことなく、小さく見えた。
「先生?」
 俺は下を向く月下美人の顔を覗きこみ――。
 その涙に気付いた。

 月下美人には、一歳年下の妹がいた。だがそれは、あくまでも「いた」のであって、「いる」のではない。もう妹は生きていないのだ。
 月下美人は、学校での成績は最上位を勝ち取ったこともある、将来有望な優等生だった。その反面、妹は不良仲間とつるみ、いつも両親を悩ませていた。高校一年の時点で煙草を吸い始め、酒も親のものを盗み飲んでいた。髪を赤く染めたこともあった。万引きもした。両親が何度頭を下げにいったことか。
 月下美人は、そんな妹を恥に思っていた。人生設計の邪魔者だと考えていた。
 実際、月下美人の家庭を良く思う人はいなかった。いくら月下美人が優秀であっても、妹の存在が足を引っ張っていた。成績が良くても、教師たちからの反応は冷たかった。徐々に成績は落ち込んでいった。友達も少なかった。道を行けば、主婦の噂の糧にされた。「ああ、あの子の妹、また補導されたんだってね」「いやねぇ」「気味悪いねぇ」……。どれも露骨に聞こえるように話しているようだった。聞こえないふりをして歩く毎日だった。
 あるとき、月下美人は恋をした。いつの間にか恋をしていた。クラスの、あまり明るくはない男子だった。月下美人はひっそりとその男子を観察し、好みを調べ上げた。眼鏡の子がタイプであることを知って、目は悪くないのに眼鏡を掛け始めた。そうしたら本当に目が悪くなった。そしてついに、告白をした。だけど結果は駄目だった。妹のせいだった。その男子は、妹にいじめを受けていた。そんな人の家族のことなんて、到底好きにはなれない――男子は月下美人から去っていった。月下美人がいじめられっこの男子に無理矢理迫ったという噂が、次の日には走り回っていた。だけど聞こえないふりをした。
 月下美人は受験生になった。受験勉強に精を出した。だが家では到底勉強なんてできなかった。妹が邪魔だった。うるさかった。父親もうるさかった。酒に溺れていた。母親の嗚咽が煩わしかった。そんな日々が続いた。
 秋になって、五日間だけ家庭に平穏が戻ることになった。妹が修学旅行へ行くのだ。
 しかし、修学旅行から帰ってきた妹は、変わり果てた姿になっていた。体中に包帯を巻いていた。人工呼吸器がないと息ができなくなっていた。
 交通事故が原因だった。大事故だった。修学旅行に行った生徒の半数以上が病院に着く前に死亡した。無傷で済んだ人なんて一人もいなかった。
 両親は今までの態度が嘘のように、妹を献身的に看病した。その甲斐あってか、どうにか一命は取り留めることができた。それでも瞼を上げることはなかった。植物状態が続いた。
 月下美人の受験勉強は困難だった。どこへ行っても邪魔者がいた。みんなうるさかった。月下美人はそれを全部突っ撥ねた。そうしたら独りぼっちになっていた。みんな月下美人を避けていた。
 こいつさえ――妹さえいなければ。月下美人は酷く妹を憎んだ。
 そして人工呼吸器を外した。月下美人は知っていた。人工呼吸器は長期治療には向いていない。そんなことを自分に言い聞かせて、月下美人は人工呼吸器を外した。
 あっけなく妹は死んだ。
 事故として処理された。人工呼吸器が不手際かなにかで外れたと、そう判断が下された。月下美人が罰せられることはなかった。
 両親は泣き喚いた。大事な娘を亡くして、取り乱した。
 月下美人は受験勉強をするのをやめた。もう人生を諦めた。一週間なにも食べずに、ただ部屋の一点だけを眺めた。そうしたら肌が荒れた。自分で見ても、自分の体が気味悪かった。気持ち悪かった。
 こんな体いらないと思った。特に手が鬱陶しかった。人工呼吸器を外した手が、この世のものとは思えないほど醜かった。
 だから燃やした。
 鼻をつくにおいがした。そのにおいのせいなのか、すぐに両親に気付かれた。治療をしたら、手は動かせるようになった。ただ、月下美人の心を表すように、とても醜くなっていた。両親が月下美人に手袋をあげた。久しぶりのプレゼントだった。白い革手袋だった。
 月下美人は一人暮らしをすることにした。家にいると妹に見られている気がして、遠くに逃げていきたかったからだ。
 志望校を急遽変更した。レベルの高い都内の大学を諦めて、田舎の小さな大学に進学することにした。
 大学に入って一年目の成績は良くなかった。それでも留年することはなかった。春休みになって、月下美人は海外へ旅に出た。
 日本の空港からは直接行けないような国へ行った。そこは紛争地帯だった。ここで死んでしまおうかと思った。
 男たちに囲まれた。なにをされるのかは目に見えていた。だけど月下美人には抵抗する気力などなかった。どうせ死ぬつもりなのだから、どんな扱いを受けてもいいと思っていた。
 だけど男たちは、月下美人に手を出さなかった。出せなかった。
 白人女性が現れたからだ。いや、月下美人よりも白人女性のほうが魅力的であったとか、そういう意味ではなく。男たちは白人女性に手を出すこともできなかった。その女性は、とても強かったのだ。
 桁違いに強かった。たくさんいた男たちが、次々と薙ぎ倒されていった。蹴って殴って締め上げて。
 白人女性は月下美人に、「大丈夫?」と日本語で話しかけた。そのときになってようやく、自分が助けられたことを月下美人は理解した。彼女はンタン・ヨルと名乗った。
 だけど月下美人は怒った。なぜ助けたのかと怒った。ンタンは困惑した。落ち着かせるような優しい声で、月下美人から事情を汲み取った。ンタンは月下美人の人生を、こと細やかに聞き出していた。興味深げに聞いていた。
 月下美人の下の名前を聞いて、ンタンは彼女を「うっちゃん」と呼んだ。妹の名前と月下美人の名前の共通項、それは二文字目が「う」であるということだったからだ。
「あなたは妹が死んで、嬉しいと思ってるの?」と、ンタンは流暢な日本語で訊いた。月下美人にとって、その答えは難しいものだった。嬉しいのか悲しいのか、どう思っているのか自分でも分からなかった。
 月下美人が「分からない」と答えると、ンタンは臆面もなく、「じゃあ、わたしが決めてあげる」と言った。ンタンが決めた答えは、「嬉しい」だった。邪魔者が消えて、月下美人は喜んでいる。そう結論が付けられた。それを否定する力は、もう月下美人には残っていなかった。
 春休みが終わった。月下美人は大学で死ぬほど勉強した。分からないことは教授に質問攻めにした。もともと記憶力は良かったので、成績が上がるのは早かった。
 妹が死んだから、今の自分は勉強に集中できる――それはとても嬉しかった。

「――ごめんね。重いよねー。あはは」
 俺はどんな顔をすればいいのだろう。
 分からない。
「なんでこんな話になったんだっけ。あ、ンタンちゃんが隣町に行くとかアキくんが言ったからかー。あの子、私になにも言わずに行動すると、いつもろくでもないことになるんだから」
 心配だな、そう月下美人は言う。
 なにか言うべきだろうか。なにも思いつかない。
「ありがとうね」
「…………」
「この話をしたの、ンタンちゃんのとき以来だから。あれだよね、たまには誰かに鬱憤とか晴らしたくなるからさー。今回たまたま、アキくんにぶつけちゃったけど」
「いえ、その」
「んじゃ、充実した春休みを過ごしてね」
 ……最後まで、俺はなにも言えなかった。
 なぜか悔しさが込みあがる。
 俺は廊下を一歩一歩確かめるように歩いた。
 その先に、赤い髪のオウギがいた。



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