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第三章

一.
 月はまだ沈まない。月だって光を注いでいるが、それは太陽のようなものではない。光であるのに暗いのだ。
 光だからといって、明るくなければならないということはない。
 明るい闇があってもいいように――。
 端的に見て星下端唄の笑顔は、明るいものだった。月を背景にして、暗い光を何倍にも強めている。決して白いという意味ではない。端唄の顔は、健康的な色をしていた。闇でもよく分かる、元気な姿ではあった。
 対して月下美人――星下小唄は、蒼白な顔をしていた。その顔色もまた明るかった。端唄が明るい闇なのに対し、小唄は暗い光だった。月と対峙して、鏡のように光を跳ね返していた。
 星の煌きに沿って、血のにおいが漂う。
 端唄は笑う。小唄は泣く。俺は――。
「ねえアキ。なんでそんな顔をしているの?」
 端唄がそう言う。星たちが嗤う。月は表情を変えることなく光を注ぐ。空に広がる闇はただ、その様子を黙止していた。
 夜の空は、明るくて暗い。だがそれらが諍いを起こすことはない。諍いを起こすとしたら、夜の花。コンクリートの道路の脇で、微弱な風に揺られている。先ほどの乱闘で踏みつけられたり焦げたりしたものもある。揺られながら、なにかを唄っているようだった。静寂に馴染んでいく唄を。
「なにか言ってよ」
 頬を膨らませて、端唄が言う。長めのスカートに、三つのボタン全てが外されたブレザー、ブレザーの左ポケットからイヤホンがのびている。それは端唄の髪に隠された耳へと続く。
 スカートの端、つまり端唄の足元では、ンタンさんの遺体が眠っていた。
 ――人形。ンタンさんは、本当に人形だったのだろうか。
 ふとそう疑問が浮かび上がる。
 こんなに生臭くて、気持ち悪くて、安らかで。大学の掃除を手伝うくらい優しくて。笑顔が素敵で。こんな――こんなンタンさんが人形だと?
 オウギの話を思い出す。
 ――人形とは、心を失ったにも関わらず、霊体が入り込むことによって意思を持ったままの肉体。
 死んでいるのに生きている――矛盾したもの。
 物事には、必ず対極がある。表には裏が。光には闇が。太陽には月が。有機物には無機物が。肉体には霊体が――生には死が。……対極は共に存在するが、共に作用することはできない。太陽と月を同時間に観測することはできるが、太陽と月が同時に同位置に光を注ぐことができないように。
 人形とはつまり、生と死が混在したものとも捉えることができる。「生」きているとは、肉体が主観となっていることであって、「死」ぬということは、霊体が主観となることだからだ。
 だから……ンタンさんは人形ではないのではないか、とか、そんな疑問を持つのはそもそもの間違いだ。普通の人間と同じく、死んだのは肉体なのだから、生臭くなるのも、血が出るのも、当然のことなのだ。ただ、心がないというだけで。ただ、霊体が主導権を持っているだけで。
「なにか言ってってば!」
 俺は最初、勘違いをしていた。人形は魔法を扱えたりするものだと思っていた。
 二宮寛治も、名も知らぬ少女も、そしてンタンさんも――人間離れした強さを有していた。だがそれは、妖精が力を与えたわけではない。みんな、自分から強くなったのだ。常人となんら変わりのない体で、自ら鍛え上げたのだ。それはきっと、自分が人形であるという自覚があったから。いつか壊されることを知っていたから……。
 俺が出会った三つの人形――彼らは全員、物理的な攻撃しかしていない。
 物理的な攻撃しかできないのだ。もとから、人形は魔法なんてできなかったのだ。
「うーん……」
 俺がずっと黙っているから、端唄は諦めたように腕を組んだ。怪訝そうな顔を見せる。
 俺の横で小唄が唾を飲み込む音がした。
「んじゃあいいや。ぼくはアキとお喋りしたかったんだけど……」
 そう言って、端唄は少しだけ顔の正面角度を変える。その先にいるのは、星下小唄だった。次第に、小唄の呼吸が荒くなる。
 眼球が小刻みに揺れる。それでも瞳は、ずっと一点を捉える。
 月は表情を変えない。星たちはけらけら嗤う。闇に包まれながら。
「小唄お姉ちゃん」
「……はう、た」
 端唄はイヤホンを外さない。音漏れはしない。
「ほら見て、お姉ちゃん。ガサガサだった髪が、今はこんなに綺麗になったんだよ」
 右手で自分の黒髪を払う。砂時計の砂のように滑らかに靡く。耳が一瞬だけ姿を現す。滑らかな形の耳が。
「死ぬことができて、ぼくはとっても幸せだよ」
 鈍い音がした。
 小唄が、自分の膝を地面に打ち付けていた。正座するような形で座り込む。力なく両の革手袋が、だらんと地面につく。それでも瞳は端唄にを向いていた。
「なんで」
 小唄が口を開く。瞳は動かない。
「なんでッ!――なんで私を責めないの」
 男には到底出せそうもない、痛烈なキーの高い声。対して端唄は、それを聞いて不可解そうな顔をしていた。
「なんでって……。別に、責めることがないし」
「私は端唄を殺したんだよ! 誰も気付かなくても、私が殺したの!」
「うーん」
 端唄が困ったような顔をする。
 星が嗤う。
 ンタンさんの肉体はもう動かない。それでも俺の視界にはちらちらと入ってきていた。もしかしたら動き出してくれるのではないかと、そんな淡い期待を抱いていた。
 ンタンさんは、オウギの棘が刺さったとき、毒でも回ったように倒れた。
 だが起き上がった。俺はそれを、毒が回ったふりをしたんだろうと思った。ではなぜ、オウギは安易にンタンさんに近づいたか。
 オウギがンタンさんにとどめをさそうとしたのには、ちゃんとした、勝利の確信があったからのはずだ。でないとあんなに大振りな動きにはならない。
 要するに、オウギはンタンさんが倒れ込むことを予想していた。……予想する材料があった。
 つまり棘には、毒のようななにかがあったはずである。そのなにかが作用して、ンタンさんは倒れた。だからオウギは、安心してンタンさんに近づいた。
 ……それがなんなのかは分からない。だがンタンはそのなにかに打ち勝って、また起き上がった。
 ならば今回も、もしかしたら起き上がってくれるのではないだろうか。そう期待するのは筋違いだろうか。
「お姉ちゃん、誤解してる」
 俺の思考とは関係なく、姉妹の会話は進展していく。
 月は嗤わない。
 端唄は諭すように、優しげに言う。それでいてぞんざいな態度でもあった。そっけないとも思った。とにかく端唄にとっては、些細なことだったのだろう。
「ぼく、お姉ちゃんに殺されたんじゃないよ」
「……え」
 小唄が眼鏡を外す。曇った硝子を拭いた。また掛け直して、もう一度端唄を見つめる。
「ぼくは妖精に殺されたんだよ」
 なんの抵抗もなくそう言ってのける。すらりと言ってしまう。
「なにを言ってるの」
 力が入らないのか、小唄は立ち上がろうとしない。座り込んだまま、瞳だけを端唄に向けて言葉を交わす。
「修学旅行の帰りのバスの中、ぼくたちは妖精に襲われたんだ」
「嘘。嘘嘘嘘」
 体を左右に揺らして、それよりも大きく頭を振って、小唄はそう否定する。だだをこねる幼稚園児のようだ。恐怖や驚愕や月光が、彼女を幼児化させてでもいるかのようだった。
「だから家に戻ったぼくの体には、もう既に心がなくなっていた」
 力なく垂れていた腕が、ふいに蘇って小唄の頭を抱えていた。
 話に飽きたのか、星は暗闇をくるむ。
 月は未だに俺たちを照らす。……なぜ俺も照らされているのだろう。俺は今、結局なにもしてはいない。ただ二人の応酬を眺めているだけだ。これではテレビを観るのとなんら変わりがない。
 俺はなぜ、今この場にいる?
 ――星下小唄が俺に頼んだからだ。道案内という名目の、ボディガードを。
 俺は今、星下小唄を守れているか?
 ――いいや。むしろ逃げている。ンタンさんが復活するだのなんだの思考を巡らせて、目前の厄介事から目を逸らしている。
 その厄介事とはなにか?
 ――まず一つ目に、星下端唄という女子高生の霊が、その姉である星下小唄の前に現れたこと。二つ目に、端唄と小唄の持つ情報に食い違いがあること。
 その食い違いとはなにか?
 ――端唄によると、自分の死因は妖精であるというが、小唄によると、死因は小唄自身であるという違いだ。
 俺に、その問題と向き合えるだけの勇気はあるか?
 ――たぶんない。
 なぜない?
 ――俺は全くの部外者だからだ。
 なぜそう言える?
 ――現にそうだからだ。ことの発端は何年も前だ。俺がまだ星下小唄の存在を知らなかったときだ。
 発端が関係ないからといって、現在の状況に自分が関与していないとなぜ言える?
 ――確かに、断言することはできない。だが実際に、おせっかいでも関与するとして、俺になにをしろと言うんだ。
 小唄は「嘘、嘘」と繰り返す。ついには端唄を視界から追い出して、地面を向いて自分の世界に浸っていく。
 その様子を、端唄は困ったように眺めるだけだ。無理強いをしようとしない。
 俺ができること――。
「なあ、おい。星下端唄」
 俺はそう言う。おそらく初めてその名前を口にした。
「なあに?」
 端唄は小唄へ向けていた視線を、俺へと移す。表情は笑顔に変わっていた。嫌悪感が胸を掻き毟る。それを無理矢理に押し込めた。俺は別に、星下端唄を嫌ってなんかいない。可愛い女子高生じゃないか。そう自分に言い聞かせる。
 小唄もまた、地面から俺へと視界をシフトさせていた。
「それじゃあ説明不足だ。聞かせてくれ。修学旅行のときに、どんなことがあったのか。なぜ月下美人……星下小唄が殺したというのは間違いなのか。そして、なぜお前がこうして現れたのか」
「そうだね。ちゃんと説明しないと、混乱するだけだよね」
 臆面もなく、端唄はそう言う。満面の笑みを作って。
 そうして端唄は語り始めた。
 修学旅行のときから、今日までの経緯を。



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