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三.
「夜。ぼくはなかなか寝付けなかった。ここのところ夜更かしばかりしているからなのかもしれなかった。でも実は他の子達も同じのようで、息遣いとかそういうので、みんな起きてることは分かっていた。
「十二時を過ぎてから、カレシ持ちの子が起き上がった。とても静かになっていたから、もうみんな寝たものだと判断したんだろうな。トイレかなって思ったけど、その子は部屋を出ていこうとしていた。トイレは部屋の中に設けられているのに。
「『どこ行くの?』って小声で言った。その子は驚いたような素振りをして、人差し指を自分の口と交差させた。静かにって意味なんだろう。『アキモトくんと密会』ってその子は囁いた。夜中に密会って……。
「その子はそれだけ言って、静かに部屋を出ていった。扉が閉まった途端、寝てるわけもないみんなが起き上がる。
「『今の聞いた!?』って一人が囁く。『密会だってさー』ともう一人。暗闇の中、ぼくらは想像を膨らませた。
「数分してから、一人が『様子見に行こうか』って提案した。即可決。どこに行ったのかは分からないけど、とりあえず宿の中にはいるだろうと推測して歩いた。暗い廊下をただ歩く。みんな固まって歩いた。
「『幽霊とか出ないかなー』って誰かが呟いた。突然奇怪な音が聞こえた。みんなで怖がって、慌てて、もう一度聞いてみたら虫の音だったことに気付いた。安堵の声を漏らす。その日も月が綺麗に顔を出していた。この四日間、いつも晴天だった。運が良いんだろうなって思った。
「かすかに話し声がした。そのほうへ向かうと、あっけなくその子は見つかった。ぼくたちはその子とそのカレシに見つからないように、物陰に潜んでその様子を窺った。いやらしいことはしてなかった。ただ単になにか、お喋りをしているようだった。
「月の光がよく届く、宿の中庭だった。その縁で、二人は隣り合っていた。なにこのロマンチックカップル。耳を澄ませばたぶん聞こえるだろうけど、盗み聞きは野暮だと思った。まあ、他の子達は必死に耳の後ろに手の平を添えて、話を拾い取ろうとしていたけど。
「月光はとても綺麗だった。やわらかい布のような、居心地の良さを感じる光だった。ぼくは月の空気に当たりたいと思った。修学旅行の最後の夜、バスに揺られて何時間もかけてやってきた、最後の夜。宿をこっそり忍び出て、ここにしかない雰囲気を感じ取ろうと思った。
「『どこ行くの?』背中にそんな声が当たった。『ちょっと外へ』ぼくはそう言った。『もしかして、端唄も密会ー?』って一人が言った。いつの間にか下の名の呼び捨てになっていた。『わたしたち、見たんだよ。端唄が他のクラスの男子と歩いてるとこ』
「『見られてたか』ぼくはついそう言った。自分でも呆れるほどの棒読みだった。部屋の子達はくすくす笑って、『ほら、早くしないとカレが待ち侘びちゃうよ』って背中を押された。ともかくぼくは宿の外へ出た。
「とても気持ちがよかった。今頃になって、ぼくには友達がいるんだってことを実感した。お姉ちゃんだけじゃない。それにこの友達は、お姉ちゃんと違って――。月をずっと見上げていた。星はよく見えなかった。田舎のくせに生意気だなーと思ったけど、そういえばここよりも学校のほうが田舎なんだってことを思い出した。
「あっという間の四日間、だけど、もう何年もここにいたような久しさがあった。修学旅行っていいなぁって今頃になって分かった。来年も留年して行っちゃおうかなとも考えた。でも今度は行かせてもらえないかもしれない。
「煙草は持ってきていたけど、そういえば一本も吸ってなかった。思い出してみると、吸いたくなってどうしようもなかった。部屋に戻って、自分の鞄を漁る。部屋で吸ったらにおいが残るから、やっぱり外で吸うことにした。
「火をつける。だけどすぐに消えてしまった。……わけではなくて、煙草自体を取り上げられてしまったようだ。うわ、教師に見つかった。最初はそう思った。
「今日一日、一緒に行動した男子だった。真剣な顔をしてて、なんだかおかしくて笑ってしまった。『なにがおかしいんですか!』って、その男子はちょっと怒ったように言った。怒ったように、ではなくて、実際に怒っていた。なんでそんなに怒っているのか分からなかった。教師に告発とかされんのかなって身構えた。ぼくが殴っても蹴っても、男子の連中はびくともしない。おかしそうに笑うだけだ。それが悔しかった。だけど今はそんなことどうでもよくて、ただ煙草が吸いたかった。
「『なんで……?』ぼくはそう問わずにはいられなかった。いらいらしてくる。
「男子は眉を吊り上げて言った。『煙草は健康に悪いんですよ!』
「酷く怒っておきながら、理由はそんなものだった。煙草は健康に悪い……つい笑ってしまった。この際、愛の告白でもしてくれたらよかったのに。男子はムッとした顔で『なにがおかしいんですか!』って叫んだ。夜なのにうるさい。みんな起こしたらどうするの。それこそ本当に退学になっちゃうじゃん。
「『つーか、なんでここにいるの』
「『なんでって……星下さんの友達が部屋に来て、〈端唄が呼んでるよ。伝えたいことがあるって〉って言ってたから』
「それを聞いて、ふいに怒りが湧き上がってきた。『……なにのこのこやってきてんの? ばっかみたい。なに勘違いしてんの? キモいんですけど! ぼくはどうせ不良だって、もうどーせ卒業する前にいなくなると思ってんでしょ! どうせどうせどうせ! 誰もぼくを分かっちゃいないんだ! なにが〈いいんじゃない?〉だよ! 結局全部嘘じゃんか! 煙草吸うのは悪いよ! 体に悪いよ。だからなに? どーせ。どーせぼくには――』
「『か、可愛いですね』
「『――?』
「『最初は、気味悪いと思ったんです。女子が〈ぼく〉だなんて。でもこうやって怒られちゃうと、なんか、別に悪いもんじゃないなぁって。……いやそんな、口説いてるわけじゃないんですよ? ただこれ以上煙草を吸って、その肌を荒らしてほしくないなって』
「『……ばっかみたい』

「五日目。朝食をとって、すぐにバスに乗り込んだ。半日ほどバスに揺られて、学校へ帰る。
「イヤホンを両耳につけて、窓の景色を眺めた。バスの中がどれだけ騒がしくても、イヤホンから流れる音楽が優先される。窓の景色が流れていく。印象的な形の車が駐車されてあって、だけど速くてよく確認できなかった。
「昨晩のことを、じっと思い出したりもした。『ぼく』を使うのが一時でも気味悪いと思われていただなんて……ちょっとショックだ。そんなに変わったものなんだろうか。ちょうど流れている音楽は、女性アーティストが『ぼく』の心情を歌い上げているものだった。
「バスは山沿いに走っていく。ふと車内を見渡すと、ほとんどの子が目を閉じていた。みんな疲れちゃったんだなぁ。また窓に目を戻す。
「――ぼくはつい『うわっ』って叫んでしまった。後ろの席にいた友達が、『どうしたの?』って訊いてくる。ぼくは『ううん、なんでもない』って笑ってごまかした。
「実際、窓の外になにか見えたわけではなかった。なにかに驚いてしまったけれど、別に不思議なものが見えたわけじゃなかった。……なにも見えなかったのに、ふいにぼくは驚いてしまったってこと。それもまた不思議だった。
「バスはだけど安定して進む。だんだん心音が大きくなっていくのが分かった。身が引き締まっていく。喉の渇きを感じた。
「バスがトンネルに入る。すーっと流れていく共鳴音が、イヤホンの音と混じる。オレンジのかかった色が過ぎて、またやってくる。
「バスが休憩所に入った。みんな眠りから覚めて、トイレや売店へ行く。ぼくもバスを降りた。まだ変な感覚が背中に残っていた。誰かに背筋をなぞられたような気持ち悪さがある。外の空気も、あまり気持ちのいいものではなかった。まるで水槽に閉じ込められた魚のようだった。息苦しくはないのに、窒息しそうな気配が漂う。
「その瞬間、不快な音が耳を貫いた。目の前に広がる惨事――。
「女の子が車に轢かれた。小学校に入る前くらいの、小さな子だった。小さな体から、割れた水風船のように血が流れる。悲鳴がした。叫び声がした。すこし遅れて、嗚咽が鳴り響く。
「『あ、あの子――』四日目に一緒に行動した男子が、女の子の体を指差して言った。青ざめた顔に反して、その声ははっきりと聞こえた。だけど男子は続きを言わなかった。代わりにきょろきょろまわりを見渡して、ぼくを見つけると、顔を見つめてきた。なんだか分からないまま顔を逸らして、すぐに気付いて残骸に目を遣る。
「四日目に、公園で風船を取ってあげた子だった。塗りつぶしたような瞳は、今はもっと深くなっている。きっとこの子も、ぼくたちみたいに旅行であの公園に来てたんだ――。
「風船が空の遠くで見えた。水槽を抜け出していくみたいだった。みんな顔色を変えていた。吐いちゃう子もいた。座り込んで起き上がろうとしない子もいる。だけどぼくは、ただみんなを眺めているだけだった。たぶん顔色ひとつ変えなかったと思う。
「――背中の違和感がなくなっていた。トンネルの光のレースが、ふいに脳裏に蘇る。
「あのときの驚きは、きっとこのことだったんだ。虫の知らせの、他人バージョン。担任が気丈にも携帯電話を取り出していた。警察かどこかに連絡しているようだった。何度も言い間違えていた。それでも大きな声を出して、電話の相手に状況を伝えていた。
「死んだのは女の子だけではなかった。轢いた車に乗っていた人――禿頭で体の大きな男の人もガラスに頭を打って血を流していた。それだけではなくて、その衝撃で首が折れているようだった。男の人が乗っていた車は、ぼくがバスの窓から見た、印象的な車だった。どこが印象的なのかというと、窓から骨董品のような剣が覗いていたところ。ぼくたちはバスを発車させるのを遅らせざるを得なかった。
「予定よりもずっと時間が経ってから、バスは休憩所を出た。バスの中は鉛のように重たい。ぼくはイヤホンを両耳につけて、窓の景色を眺めた。ちょっと曇ってきていた。
「トンネルを何本か抜ける。
「自分で思っている以上に、精神的に疲れが溜まっていたようで、ぼくはいつの間にか眠ってしまっていた。ううん、眠ってしまったといっても、ほんの数分だけだった。イヤホンからはもう音楽は流れていなかった。いつの間にかこの修学旅行の間に、最後まで流れきったみたい。
「横を、死体を乗せた車が走っていた。休憩所で生まれたふたつの死体――カーテンを閉じようかとも思ったけど、失礼になりそうだからやめた。怨みを買うのは御免だ。
「『うわっ』って声が響いた。聞き覚えのある声だと思って、声のしたほうを向いたら、ちょうど目が合った。昨日から何度も目が合っている。
「ほとんどの子は眠っていた。ぼくはその男子に『どうしたの?』って訊いた。
「『……いいや、なんでもないです』と、青い顔をして男子は言った。嫌な予感がした。背筋をなぞるものはもういなかったけど、自然と背中に汗が流れていた。
「『本当に、なんでもないの?』と、ぼくにしては真剣な顔で詰め寄った。男子は『なんか、なにも見てないはずなんだけどなにか驚きのものに出会ったような……』と分かりづらいことを言った。予感は確信に変わりつつあった。
「『せんせい!』ぼくは叫んでいた。なにか行動を起こすべきだと体が感じとっていた。そうしないとなにか大変なことになると。
「だけど教師は返事をしなかった。眠っているようだ。……眠っている? あんな、あんな惨事を前にして、なんでみんな眠れるの?
「……だけどそういえば、僕も数分とはいえど眠っていたのだった。そう思うと、むしろこんなことがあったからこそ、人は眠ってしまうのかもしれないと納得してしまった。男子が心配そうにぼくを見ているけど、ぼくはそれを無視した。
「ふと、ぼくはその男子の名前を聞いていないことに気付いた。同じクラスではないみたいだし、たぶん今回初めて会話をしたと思う。相手の名前も知らずに、今まで接していたのだ。
「今は場違いかもしれないと思いつつも、ぼくは彼へ振り返った。――彼は既に眠っていた。
「急にバスの速度が上がった。隣を走っていた車を、ぐんぐんと追い抜く。ぼくは身を乗り出して運転手の様子を見た。
「――眠っていた。
「眠ったことで、アクセルペダルに体重がかかっているらしい。ぼくは叫んだ。起きて、起きて! 窓の外を見ると、後ろにいた車も急加速し出していた。カーブに差し掛かっても、どの車も速度を落とそうとしない。曲がろうとしない――。
「なにかが近寄ってくるような気がした。だけど目前の恐怖でそんなことに構っていられなかった。ぼくは眠った。



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