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四.
「気付いたときには、もうぼくに心はなかった。ぼくの体の傍でお母さんとお父さんがすすり泣いていた。『ただいま』って言おうと思ったけど口が動かなかった。そもそも、この体にとって意識は戻っていないようだった。
「ぼくは割と早く、自分が幽霊になったことを理解した。だけどまだ、ぼくは体から抜け出ていないということも分かった。幽霊になったのに体に住み着いたままなんだ。おかしいなとは思ったけど、自分で抜け出ようと思ってもうまくいかないから、仕方なくそのまま体に居座っていた。
「お医者さんが来て、『一命は取りとめました』って両親に言ってた。慰めたつもりなのかもしれない。けど、ぼくにはもう心がないんだ。そう声を張り上げようとしても、お医者さんの耳にはどうしても届かなかった。もちろん両親の耳にも。
「体は固まったみたいに動かなくて、とてもいらいらした。なにかしたくてもなにもできなかった。なにかしたいという気持ちだけが募っていった。それは酷でしかなかった。
「そんなとき……小唄お姉ちゃんがぼくの前に現れた。――驚いた。なぜお姉ちゃんがそこにいるのか、まるで見当がつかなかった。お姉ちゃんはぼくになにか毒づいて、すぐに病室を出ていってしまった。病室を出て行った――まさかお姉ちゃんがそんなことをするとは思ってもいなかった。
「ぼくはふと思った。体は動かない、つまり、ぼくの目は機能していない。だけどぼくはお母さんの顔も、お父さんの腫らした目元もよく見えていた。それはなぜなんだろう。考える時間だけは有り余るくらいあったから、ぼくはそれを長く考えた。
「ぼくはひとつの仮説を立てた。もしかしたら、体が持つ目と、また他の目があるのかもしれない。例えば幽霊の目。ぼくは体から抜け出せてはいないけど、幽霊の目で、幽霊の器官で感覚を受け取っているのかもしれない。
「お母さんもお父さんも、毎日毎日欠かさず病室に訪れていた。お父さん、そんなに来ちゃって、会社は大丈夫なの? お母さん、洗濯はもう済ませたの? 来るたびにぼくはそう訊いた。だけど二人とも、その質問に答えなかった。代わりに涙混じりの笑顔を見せて、『大丈夫、きっと大丈夫』って言うんだ。
「これが親なんだなって分かった。考えてみれば、両親はぼくを見捨てたことなんて一度もなかった。警察に連行されたときは、ちゃんと警察署に来て頭を下げていた。学校にも頭を下げに行っていた。ぼくが髪を赤く染めたときは、お父さんに無理矢理黒く染め直された。風呂場に連れられて……服が台無しになったのを覚えている。ぼくが夜遅くに帰ってきたときも、大抵の場合どちらかが起きて待っていた。そうでないときでもラップに包まれたご飯が机に置いてあった。ご飯はもう他のところで済ませているのに……。ぼくはそれを、毎回のようにゴミ箱に放り込んでいた。それでもご飯は置かれ続けた。お父さんの缶ビールを飲んでいるところを見られたときは、『俺が酒を飲むのが悪いんだな』って、お父さんがお酒をやめちゃったときがあった。あのときは本当に困った。そりゃあ酒なんて他のところで手に入れることはできるけど、家の冷蔵庫が一番安全で、簡単だったんだ。
「だけど朝は静かだった。お父さんもお母さんも、一言も交わさないのが当たり前だった。ただニュース番組だけが、騒がしく喚いているんだった。ぼくが『いってきます』なんて言うわけなく、ぼくよりもお父さんのほうが早く家を出るときも、お父さんも『いってきます』は言わなかった。朝はみんな無言だった。
「お父さんが不良グループに集られたことがあった。財布の中身を抜き取られて、とても苛立たしげだった。その様子を見てぼくは、格好悪い人だなと感想を抱いていた。
「修学旅行に行く日、お姉ちゃんならどうするだろうと想像してみて、ぼくは『行ってきます』って言った。そのときの、不思議な温かさをぼくはまだ覚えている。お父さんの顔が綻んでいた。相変わらずニュースはうるさかったけど。
「――情けなくなってきた。お父さんもお母さんも、夜は交代で泊まりで傍にいてくれる。ぼくはやるせなくなった。心はもうないんだ。もう戻れないんだって。
「昼のことだった。お父さんもお母さんもお医者さんもいないときに、またお姉ちゃんがやってきた。ぼくは『お姉ちゃん、小唄お姉ちゃん』って叫び続けた。お姉ちゃんは『うるさい』って返した。それだけ言って、お姉ちゃんはまたどこかへ行ってしまった。
「その入れ替わりに、知ってる子が現れた。その子は自分のことを『印』って名乗った。やっと名前が聞けた。ぼくは死ぬ前に、その子の名前を訊こうとしていたんだ。だけど、その子は言った。『これは、死んでから貰った名前なんです』って。『生きてるときの名前は、忘れてしまいました』って。
「印が言うには、ぼくたちが心を失ったのは、妖精のせいなんだって。妖精は人間の肉体が持っている心を主食にしているって。ぼくたちは集団で襲われたんだって。
「『それをどうやって知ったの?』って訊いたら、印は『僕は魔法使いになったんです』って答えた。『僕の場合、ちょっと特殊だったんです。心を食べられたのはみんなと同じだけど、僕の心は食べ残されちゃったみたいで。中途半端なことになって……気付けば僕は、魔法使いになっていました』って。よく分かんない。
「『魔法使いになったのは、僕のほかにもう一人いるみたいです。それが誰だかは分からないけど。それと……星下さん、星下さんも、魔法使いではないんですが、ちょっと例外みたいです』
「『……例外?』ぼくは首を傾げようとした。すぐに諦めたけど。
「『今回の事件で、被害に遭った人たちは、〈幽霊〉〈魔法使い〉〈人形〉のどれかになりました。だけど星下さんは……このうちのどれでもない』
「『人形?』ぼくは、聞き慣れない単語を反芻する。
「『〈人形〉っていうのは、今の星下さんみたいな、肉体の心はないのに、霊体が肉体から出られない状態のことです。だけど星下さん……あなたはちょっと違う』
「なんとなく分かる気がした。事故ですぐに死んじゃった人は幽霊に、妖精に心を食べられた人は人形に、完全に心を食べられたわけではない人は魔法使いに。
「『あ、誰かが来る! ごめんなさい星下さん、話の続きはまた後で』と言って、印は急いで病室を出て行った。
「病室に来たのは、お医者さんだった。深刻そうにぼくの体を見つめて、『植物状態か……』って呟いていた。深刻そうな顔は崩さないまま、お医者さんはすぐに病室を出て行く。
「その後、一人だけの時間が続いた。ぼくは印の話を自分なりに考えていた。今回の事故は、とても大きなものだった。妖精が心を食べてしまったから、運転手さんを含む全ての人間が動けなくなってしまった。あの一帯を走っていた車はきっと、ぜんぶカーブに突っ込んでしまって。
「お父さんとお母さんが病室にやってきた。いつもよりも目元の腫れが大きかった。
「それから何日か経った。印はなかなか現れない。ぼくの体は一向に動く兆しがなかった。特別なことがぼくにあるというのなら、きっと体が動いてくれるんじゃないのかなと思ったけど、そういうわけではなさそうだ。
「そう考えていると、お姉ちゃんがやってきた。お姉ちゃんの目は怖かった。人工呼吸器を外された。そんなことしても意味がない。ぼくの体は、ただ生命活動をしているだけで、生きていないのだから。お姉ちゃんはぼくを殺したと思ったようだけど、これはまるで、死体にナイフを突き刺すようなものだった。
「ぼくの体が、死んだ。あまり死んだような感覚はなかった。もうとっくに関係のないものになっていたから、当然といえば当然のことだった。
「そしてなるほど、ぼくは特別な存在になった。ぼくの髪は、ガサガサだったものがサラサラになった。肌はすっごく綺麗になった。胸も大きくなるかなーって期待してみたけど、こればかりはそうはならなかった。別に小さくても悪い状態ではないという証になったから、まあいいんだけど。
「つまり、ぼくの体はとても良好になった。体といっても、それは幽霊のことなのだけど。
「ところでこれは後になって聞いたことなのだけど、幽霊の外見って、肉体が罪を犯せば犯すほど醜くなるんだって。
「だから普通なら、ぼくの幽霊は、とても醜い姿になるはずだった。でも、ぼくにはその仲立ちがなかったんだって。
「肉体の罪を幽霊に反映させる……その仲立ちがあるんだ。ぼくにはそれがなかった。――それは、幽霊の心だったんだ。人は二重の構造になっている。見える体と見えない体。その両方がそれぞれ心を持っているんだけど……ぼくは両方失ってしまった。
「――お姉ちゃんがぼくから離れてしまったから。
「肉体の心だけでなくて、幽霊の心も失ってしまった。だから罪を伝達するものがなくて、実質、ぼくは罪を全く犯さなかった、純潔の幽霊ということになったんだ。
「『人形』っていうのは肉体の心の部分に幽霊が入ることみたいだけど、ぼくの場合、その幽霊にさえ心がなかった。だからぼくは『人形』にはなれなかった。もちろん『幽霊』としても不完全。なんとも曖昧で、特別な存在になったんだ。
「それからぼくは、自由な体になってこの町に住んでいる」

 星下小唄は、既に立ち上がって星下端唄と対峙していた。
 俺はまた、自分の居心地の悪さを感じざるを得ない。分かったような分からなかったような冗長な説明。小唄が完全に理解できればそれでいいのだろうが、果たして小唄は、この説明で一から十まで理解できたのだろうか。
 そして――印。
 俺の記憶が正しければ、星下小唄のもとへ届いた、ンタン・ヨル宛の手紙。その手紙には確か、「印」とだけ書かれていたはずだ。
 端唄の話によると、印は端唄と同級生の魔法使い――オウギと同種の者であるらしい。
 月はまだ休まない。端唄が事故に遭ったのが何年前なのかはよく分からないが、その頃からもずっと、毎日休むことなく皆勤賞なのだろう。
 星はまばらに散らばっている。月と違って気分屋だ。たまに夜の闇を毛布にしてサボりやがる。
 鼻が慣れてしまったのか……あまり生臭さは感じなくなった。血を見慣れてしまったというのもあるのかもしれない。
 家菜美鬨を救うだかなんだかで、曖昧なまま非現実的な世界に足を踏み入れてしまって、もう一週間以上経つ。春休みだから美鬨が本当に死の淵にいるのかどうか分からない。
 もしこれまでの話が全て嘘っぱちだったとしても、俺はもう後戻りできないのだろう。
 依然として、俺の居場所は狭そうだが。
 風に流れていく静寂。髪を靡かす沈黙。
 小唄が足を前に踏み出した。
 一歩、一歩、端唄に近づいていく。
 静寂を、沈黙を、小唄は崩すことなく近づく。されど大胆に。月光はその強弱を雲に任せているようだが、辺りがしんと暗くなった気がした。
 そして小唄は止まる。まさに目と鼻の先で止まる。
 また沈黙が続く。月は少しずつ、低いところへと移動していった。夜明けが近い。
 小唄は端唄の頬を叩いた。



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