トップへ戻る目次へ戻る


第四章

一.
 その家屋の扉には、当然のようにノブが付けられていた。少年はそれを呼吸するほど当たり前の動作で掴み、手前に引く。褐色味がかかった扉はいともたやすく開き、少年――印は家屋の中へと入っていった。
「……? どうぞ」
 俺が玄関先で足場に迷っていると、廊下を数歩進んでいた印は振り返った。不思議そうな顔で、俺の様子を窺っている。
 俺は言われるがまま、家屋の中へと踏み出した。
 短い廊下。その先に引き戸がある。奥の部屋へと続いているようだ。
 印は軽々しくその扉を引く。
 ……どうやら本当に、この家は印のもののようだ。少し疑っていたのだが、見当違いだったらしい。
 なにせこの大きさの家で、見た目高校生の男子がひとりで住んでいるなど、考えにくい。金はどう繕っているのだろう。確かに高校生なのは見た目だけかもしれない。実際は魔法使いだ。……魔法使いであるのなら家などいらないのではないかと思いもした。ともかくその容姿に反していたのだ。この家は。
 ンタンさんの遺体は、印が処理をしたようだ。俺もその場に立ち会ったが、どうしても「ようだ」と語尾を濁らせるしかない。おそらく印が処理をしたのだと思う。確信はない。
 撫でただけだった。
 体に手を置いて、すうっと滑らせる。それだけでンタンさんの肉体は、まるで砂でできたお城のように崩れ去っていってしまった。風に乗って、跡形もない。
 引き戸の先にあるのは、六畳ほどの小さな部屋だった。
 つい感嘆らしい声を漏らす。
 外観として、この家は二階建てで、もっとたくさん部屋があるものだと思っていた。だが、玄関からは階段など見えなかった。そして引き戸の先には、六畳間がたったひとつあるだけである。他の部屋へと続くような扉はない。キッチンもない。生活臭がしない。
 そこにオウギはいた。
 包帯は巻いていない。崩れてしまった顔も、もう綺麗に元通りになっていた。
 印の顔を見遣る。この少年が、魔法を使って治したのだろうか。
 六畳間には、小さめのベッドと、円机と、背の低い本棚があるのみだ。
 オウギは下半身をベッドに伸ばして、上半身を起こして俺たちを眺めていた。どことなく、瞳に力がない。白い顔は、やつれて黄色みが出てきていた。赤い髪だけは深く我が色を保っている。
「あれ?」
 印がオウギの姿を見て、ふとそうこぼした。それを耳にしてオウギは、慌てたように口の前で指を突き立てた。
 印はなにを理解したのか、浅く頷く。疑問に思ったが、言及するのはやめておいた。それよりもまず、これからどうするか、だ。
「三叉路のところで、――あの、オウギさんが倒れていたんです」
 そう印は言う。耳に馴染みやすい声だった。敬語なのもあまり気にならない。
「それでここまで運んで、休ませたってことか」
 俺の言葉に、印は首肯する。オウギも伏せ目がちに頷いた。
 魔法で治したからなのか、包帯などは使われていない。服からはみ出ている腕や顔は、だんだん白さを取り戻しているようだ。黄色みも抜けてきている。切り落とされたはずの手も、義手なのかなんなのか、元に戻っている。――ただ、首には布が巻かれていた。
 紅い生地。その上を、まるで池を広がる波紋のような模様が重なっている。……その布には見覚えがあった。
「首……」
 俺は言う。
「首には傷が残ったのか?」
 オウギはふと目を見開いて自分の首元を見た。視界には、紅い布が映っただろう。手に触れてみて、また一層驚いたような顔をする。
「なんで……」
 オウギが肩を崩す。そのまま力なく上半身を倒した。服が乱れる。
「あ、その布は……失礼ながら、オウギさんのポケットにあったものを借りました。包帯がなかったので。首の怪我だけ取り除くのが困難でしたので」
 下半身まで覆っていた布団を、オウギは肩まで引っ張った。紅い布は布団に隠れるも、ちらりと覗いている。
「まさか、な」
 首元を見ながら俺は、自分の疑惑を検討していた。
「なにが『まさか』なんです?」
 印が臆面もなくそう訊いてくる。
「いや、なんでもない」
 確信に変わるまでは、まだなんとも言えない。
「オウギ。体はもう動かせるのか?」
 オウギは俺の顔を見て、顔まで布団をずり上げた。それから布団の下で左右に顔を振る。布団がもぞもぞと動いた。
「俺、思ったんだ。星下たちが消えたときにな」
 布団はじっと動かない。俺に耳を傾けているのか。
「――俺はなぜ、こんな非現実的なことに巻き込まれたんだ。それが曖昧だ。なぜ俺はオウギに目をつけられ、何人もの人間――いや、人形を壊す現場に立ち合わせられたのか」
「それは……家菜美鬨を」
 布団に篭っていているが、別に聞き取りにくい声というわけではない。
「美鬨の件、それが一番曖昧だ。美鬨が学校に来ないのは、春休みだから当然だ。美鬨が本当に死んだのか、実際に合わないと確かめたことにはならない」
「――いえ」
 オウギが布団から顔を出す。赤毛に白い肌が目に映る。
「厳密には、まだ死んでいませんわ。この説明はもう致したはずですけど……。家菜美鬨は死ぬ『真実』にあるだけで、まだ『事実』にはなってませんわ。でもその『真実』は、人形が捻じ曲げてしまった『真実』なのです。私の目的は、その『真実』が『事実』になってしまう前に、『真実』を本来あるべき姿に戻すことなのですわ」
 オウギの顔は、しごく真面目だ。表情がさほど変わらないのは、感情の起伏に乏しいわけではなく、常に真面目に取り組んでいるから、のような。
「要するに、美鬨を救うってことか」
「ええ、そういうことですわ」
「人形を壊せば、それが叶うってことか」
「そうですわ」
 オウギの瞳を覗き込む。
「それで、それを確かめる術はどこにあるんだ? 俺はその話を、どうやって信じればいいというんだ?」
「それは……」
 オウギが瞳を伏せる。布団の皺を見つめて、俺と目を合わそうとしない。
「あ、あの」
 印がそう言って、片手を申し訳なさげに挙げた。
 俺が印に視界を移したのを確認して、印は話し始める。
「今までアキさんは、いくつかの人形を目の当たりにしてるじゃないですか。それが証明にはなりませんか?」
「なるわけないだろう。まあ確かに、人形や――強いて言うなら妖精の存在だって信じる。だがそれは、美鬨となんの関係がある。美鬨が死に瀕していることは、全く確認できてないじゃないか。それに、美鬨がなんの関係があるというんだ」
「そんなの――」
 印はまだなにか言おうとしたが、オウギの顔を一瞥して、口をつぐんだ。
 オウギは泣いていた。涙を流して泣いていた。それなのに顔を歪めることはしていない。ただ白い肌を、液体の粒が滑り落ちる。
 場が悪くなって、俺は引き戸を開けて廊下へ出た。
 暗い一点を見つめる。
 魔法使い。
 オウギは自らをそう言っていた。おそらくそれに偽りはない。炎や棒を手の平から出すのは、今の科学じゃ不可能なことだろう。
 人形を壊すのが、職業だとも言っていた。……いや、俺が言わせたのだっけ。魔法使いにもたくさんの職業がある。とか、そんな話を聞きだした覚えがある。そのときオウギは、ほんの少しだけ怒り気味だった。俺の発言は、失言に値するようなことだったのだ。
 世の中には、俺や神谷先輩のような、普通――科学と呼べるだろうのだろうか、普通の人間がいる。それに相反するように、魔法使いがいる。それぞれ独立した世界に住んでいる。互いに干渉しようとしないのだろう。だから俺は、今まで魔法使いの存在を知らずに生きてきた。
 だがそこに、きっと差別はない。みんな職を持つ。職をもてない人もいる。教育を受けるべき人もいる。そこに、科学と魔法の差異はない。
「あ、あの……アキさん」
 俺の背後で、印が囁きかける。
「ああ。すまない」
 俺は六畳間の中へ戻る。オウギが上半身を起こす。もう拭ったようで、涙は流れていない。だが白い肌を、細い道が通っているのは拭いきれていなかった。
「魔法が使えるからといって、万能だというわけではない。誰にだってできないことや、分からないことがある。――そういうことだな?」
 オウギがこくりと頷く。紅い布がオウギの頬を撫でる。
「すまなかった」
 俺はそう言って、腰を曲げた。上半身を前に傾ける。なんだかやり切れなくて、俺は目を瞑った。
 現にオウギは、ンタンさんに負けている。端唄の介入があったからこそ生き延びることができたが、そうでなかったとしたら。
 誰にだって失敗はある。誰にだって力及ばないものがある。それを無視してはいけない。魔法使いも人間なのだ。
「美鬨の確認は、俺が自分でどうにかするよ」
「……お願いします」
 オウギが前身を傾けて礼をする。これで互いに、分かり合えたということでいいのだろう。
 きっと。
 家屋を出る。オウギはまだ立ち上がれないというので、ベッドを借りたままだ。二人だけの状況が気まずいのだろうか、印は俺について家屋を出た。
「ところで印、お前の職業はなんなんだ?」
「……急にどうしたんですか」
 印は少々喉を鳴らす。答えあぐねているのかもしれない。
 外は割と暖かかった。風は吹いていない。もうすぐ三月か。
「えーっと……無職、です」
「就職難なのか」
「はい……」
 おや、しかし、見た目では高校生に見えるが。見た目と年齢は違うのだろうか。いや、もしかしたら魔法使いの世情では、高校生はもう仕事に就くべき年齢なのか?
 いや、考えてみると、印が高校生だったときは、端唄が生きていたときということだ。容姿は変わらなくとも、もしかしたら、俺よりも年上なのかもしれない。
 ……訊かないでおこう。もう既に侵食してしまった感があるが。
「これからどうするんです?」
 印がそう訊いてきた。気を利いてくれたのだろう。俺の先ほどの質問はなしの方向で。
「大学へ向かう。ちょっと犯罪まがいのことになるんだけどな」
 印はパーカーのフードを被った。顔を隠して、捕まるなよ、とでも言いたいのだろうか。
「それが成功したら、その足で美鬨の家へ向かおうと思う」
「え? でもどうやって?」
「だから犯罪まがいのことを、な」
 印は少しだけ考える素振りをしてから、被ったばかりのフードを外した。
「僕は、オウギさんとここにいることにします。邪魔をしては悪いので」
「ああ、そうだな。そうしてくれ」
 印が家屋へ戻る。それにしても、やはり外観だけは大きな家だ。



トップへ戻る目次へ戻る