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四.
 返答はなかった。出かけているのだろうか。
 ふとなんとなく、ドアノブに触れてみる。さすがに鍵を壊すわけにはいかないが、もしかしたら、とでも思ったのかもしれない。ともかく、なんとなくだったことに変わりはない。
 期待しなかったぶん驚かなかった。たぶんそう言えるだろう。「なんとなく」で行動を起こして得た結果というものは、案外達成感がなかったりする。
 要するにドアの鍵は開いていた。
 無用心ってやつか。こいつもこいつでガードが低い。……誰も攻めたりしないけどな。
「おーい。美鬨ー」
 家の中を覗き込んで、そう声を反響させる。中は明るかった。
「は。こちら第三部隊副隊長、家菜美鬨であります」
「隊長はどうした!」
「きっと我々を空から見守っていらっしゃることでしょー」
 いるじゃないか。部屋の奥から声が響く。
「えーっと……入るぞ?」
 部屋の奥にいるであろう美鬨との間には、室内扉が一枚閉ざされている。
「うーん。今入られると困るんだけど。貞操的な意味で」
「どういう意味だよ」
 扉を挟んで会話する。十数日振りの美鬨の声は、全く懐かしみなどない。
 ――下手なんだよなぁ。
「この春休み、なにしてたんだ? 一度も学校来なかったが」
「え? 春休みに学校って行くの?」
「…………」
 まあ確かに、俺や神谷先輩のほうが奇異なんだろう。それでも春休み、大学の友達とつるんで遊ぶものだろう。なぜ俺になんの連絡もしない。
「あーそうか。そういえば私がその馬鹿じゃん。アキが春休みになるまでは、私も学校にいたんだし」
「あれ? お前って俺より早く春休みになってたのか?」
「うーん。実はそうかも。……というかアキ、試験終わってからも授業があるとか、それっておかしくない?」
 玄関は明るい。小さなランプが点灯しているからだ。だがそれは、人が入るとそれを察知して点くタイプのもののようだ。数秒したら消えてしまった。
 まわりが暗くなる。扉の向こうから光が漏れる。
「ああ、そうかもな。実際、最後の授業は雑談ばかりで、なんのために来てるのか分からなかった。まあそういう方針なんだろう。……」
 まるでここは洞窟だ。俺は洞窟の奥にいて、外から漏れる光を欲している。光に体を包まれたいと望んでいる。
「アキがいるなら学校も『良いところ』だからね」
 いつか俺が考えていたことと、同じことを言う。
「……なあ」
「うーん?」
「図書室が『図書兼ビデオ視聴室』になるのって、いつごろになるんだろうな」
 そういえば最近、図書室へは行っていない。行く必要がそもそもないということもある。だがそこに並べられている本はとても豊富で、欲しい本があるとき、書店へ行く前に図書室へまず寄るほどだ。
「ならないんじゃないの? 名前はそう簡単に変わらないよ。変える意味もないし」
 そう答えるのが当然。そんな返事になるだろうと、俺は既に予測していた。前々から考えていた台詞を、俺は発する。
「星下先生っているだろ」
「……他の女の話っすか」
「他の女の話っすよ」
 彼女は、星下先生が女性だと知っていた。……つまり、月下美人の本名を知っているということだ。友達のいないやつに限って、人の名前をちゃんと覚えているとか、そういうわけではないだろう。
「あの人の愛称……『月下美人』。ある先輩が、その愛称を広めたのは星下先生本人だって言い張っていたが、たぶんそれは誤解だと思うんだ」
「へえ、それはなんで?」
「だって……自分のことを『美人』って言う女性なんて、いないだろ。いくらそれがサボテンの名称でも」
 いや、実際にはいるかもしれない。だが星下先生が、自分のことを美人だと公言するだろうか。あの人が? 理想像なのかもしれないが、そんな人ではなかったと思いたい。
「そうだね。たぶん心の裏側では考えてたかもしれないけど、それを口にすることはないね。普通の女なら」
「……それも嫌だな」
「現実見なさい」
 神谷先輩自体は、おそらく嘘をついたわけではないのだろう。あの人はあの人で、情報を聞いてから、それを確かめる術が少なかったりするからな。俺の本名を知らなかったのも、どうせ今まで他の人から確認できなかったんだろう。あの子って名前なんていうんだ? みんな「アキ」って呼んでるからそう呼んでるけど……本名を聞くタイミングを逃してしまったんだ――と言える人でもないだろう。あの人も友達が少ないのだ。
 星下先生には、「月下美人」の他にも「うっちゃん」という愛称があった。むしろ広めるなら、そちらのほうが妥当ではなかっただろうか。いや、それも自らの過去が絡んでくるから、そうともいえないのか。
 ……ともかく、自分で自分の愛称を広めるというのは、正直考えにくいということだ。
「たぶんこの愛称は、誰か原点となった人がいるはずだ。星下先生が大学生だったころからこの町にいたような人がね。ンタンさんかもしれない」
「そうだね」
「……それで、ここからが言いたいことと関わるんだが、人ってのは、内面と外面があるんだろうね」
 内面と外面。例えば印の家屋は、内面は狭いが、外面としては広いように見える。見栄でも張っているのか、その辺の事情は建築士に聞かないと分からない。
「例えば、『星下小唄』という内面には、『月下美人』とかいった外面があった」
「本名とあだ名ってこと?」
「そう言ったほうが分かりやすいかもな」
 これは、オウギが言っていた人間の構造にも言えることだと思う。肉体と霊体。人間は肉体という外面と、霊体という内面がある。どちらも人間を表しているものであって、決して偽っているものではない。どちらも本物だ。
「俺には『穐本智明』っていう本名と『アキ』っていうあだ名がある」
「穐本って漢字難しいからねー。書くの面倒」
「ああ。だからみんな、昔っから俺の名を書くときはカタカナだった」
 ポケットに手を入れる。A4の紙を取り出す。反対側のポケットに入れ直す。
「それで――お前はどうなんだ?」
 ポケットに手を入れる。紙の入っていないほうのポケットだ。
「私?」
 扉の向こうが、少しだけ翳った気がした。気がしただけなのだろうが。
「ああ、お前だ」
「私は『家菜美鬨』だよ。住む家に菜っ葉の菜。下の名前は、美しいって字に、勝ち鬨をあげるの鬨」
「今頃だが、どっかの武将にいそうな名前だな」
「そうだね」
 ところで、外面と内面の話を出した場合、端唄と小唄はどんな関係だといえるのだろう。端唄は霊体で、小唄は肉体が生み出した幻想だ。どちらも霊体という扱いでいいのだろうか。だが、肉体の名前――本名を受け継いでいるのは端唄のほうだ。だからといって、小唄があだ名だというわけでもない。全く……自分で考えておいてなんだが、この二人においては、本当に例外としか言いようがない。
「おい美鬨」
「はい! なんでありましょーか少尉」
「少尉か。なんか微妙だな」
 さっきから話が盛り上がらない。それは俺が、もう諦めてしまっているから。
 冷めてしまったのかなぁ。……俺ってこれまで、ちゃんと熱されていたんだなぁ。
 今頃になって、もうちょっと深い関係になっていればよかったとか思う。
 ほんと、今頃なんだろうけどな。
「まだよく分かんねぇんだ。お前……どっちが本名なんだ?」
「……どういう意味っすか」
 手をポケットから出す。手は広げた状態ではなく、握りこぶしの形になっている。広げた状態で物を持つのは難しいだろう。
「とぼけるなよ。どっちが本名なんだ? 『家菜美鬨』と――『オウギ』のどっちが」
 無断で悪いが、扉を開ける。
 一気に光が目になだれ込んでくる。眩しい。つい目を手で隠す。片方の手は拳になっていて、少々滑稽に見えるかもしれないが。
「……『オウギ』は母親の旧姓だよ。この名前は私の、忘れ形見だ」
 光に慣らせながら、両の手を視界からどける。
 そこにいるのは――赤い髪と、雪よりも白い肌。
 首元には紅いハンカチが巻かれている。
「名前が忘れ形見って……なんだか空しいな」
「うーん。全焼だったからね。私も生き延びるのに必死だったし、物を持ち出す余裕なんてなかった」
「……そうか」
 そういえばいつだったか、オウギの口から、両親が殺されたと聞いた覚えがある。怪奇なことが起こった直後だったか。
「なんで分かったの?」
 美鬨は、未だにオウギの姿のままそう俺に訊く。変身する魔法でもしているものだと思っていたが。
「まず、美鬨の姿が見たい」
「なにそれ」
 そう言って笑いながらも、一向に姿を戻そうとしない。
「……うーんと。今戻ると確実に死ねます」
 苦笑を漏らしながら、美鬨は言い訳をするのだった。
「いやーその。この前の戦いの怪我とかがね、魔法の力でこうやって治癒してるけど……元の、魔法の使えない姿になったら治癒できてないから怪我がぶり返るといいますか。……完治するまでお待ちください」
 美鬨の姿になったら、ンタンさんとの争いで負った怪我が露になるということか。
「それで、どうやって分かったの」
「確証はないんだがな。口調で騙されていたが、よく聞くと声がそっくりだし、それにそのハンカチ巻いてたらな」
「あー、このハンカチ。あの印って子が勝手に……」
「それと、これ」
 俺は握り拳を美鬨に向ける。指が天井を向くようにした。そのまま……手を広げる。
「あれ? それ落としちゃってたの?」
「バス停に落ちてたぞ。ンタンさんとの戦闘のときにでも飛び出たんだろう。お守りだかなんだか知らんが、こういうもんは財布に入れとけよ」
 俺の手の平に載っているのは、五百円玉だった。
 昭和六二年に発行された五百円玉だ。



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