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三.
 とりあえずということで、俺たちは大学にやってきた。どんな状況であっても、大学は解放的に門戸を開けてくれていた。
 門付近を掃除する人は、もうここにはいない。この大学で研究に励んでいる生物学教授も、もうここにはいない。
 なんだか、無人になってしまったような感覚にさえ陥ってしまう。
 空っぽの水槽だ。……まだここにいる人はたくさんいるだろうが、俺にはそうとしか思えない。
「やあ、アキくん」
 後ろから、ふいにそう声が振りかかってきた。俺は振り返る。
 神谷数史先輩が、気楽そうに手をあげてこちらに歩いてきていた。
「おや、誰かと思えば。確か家菜さんだったかな」
「あ、はい」
 美鬨が軽く礼をする。
「……今日も大学になんの用なんですか」
 俺は恐る恐る訊いた。春休みに学校来すぎだろうこの人は。
「なにって、月下美人にお礼を言うためさ。しっかりと届いたからね。賞品」
「ああ、そういうことですか」
 チケットの「あたり」で贈られた賞品、小唄がいなくなるその日に、彼女がおもちゃ屋で選んだものだ。
「アキくんは、知っていたのかい?」
 俺の反応がそう見えたのだろう。先輩の質問が、妙に胸を刺す。
「……ええ、サプライズでしたから」
「ふぅむ。嬉しいねぇ」
 嬉しがっても、小唄は帰ってはこない。だがそれ以前に、誰も、小唄がいなくなったことに気付いていない。なにかがを俺の胸をスプーンで掻き混ぜる。
「でも今、月下美人はいませんよ」
 美鬨がそう言った。
「ふーん……む? なんでそんなことが分かるんだい? 君たちも、これから大学内に入っていくところだったじゃないか」
 失敗をやらかした。小唄の消失はじきに分かる。だが俺たちは、その発見以前にまるで知っているようなことになってしまう。
「いや、その……」
「ふぅむ。まあいいや。とりあえず確認に行ってくるよ。君たちも一緒にどうだい? コーラの一本くらいなら奢ってあげるけど」
 俺たちは仕方なく神谷先輩についていくことになった。ここで断って逃げたら、一層怪しまれる。小唄がいないのは本当だが、その理由はうまくはぶらかせばどうにかなるだろう。小唄がいなければ神谷先輩も大学にいる意味をなくし、今日のところは帰っていってくれるはずだ。なんの問題もないはずだ。
 先輩が先頭になって、俺と美鬨は横になって歩く。建物に入る。廊下を歩く。歪んでいない、直線状の廊下。
「ここだね……あれ?」
 小唄の私室に着いた。もう何度もここには訪れたことがある。
「鍵が……」
 また失敗をやらかした。鍵のことを忘れていた。鍵は依然として壊れたままだ。俺がこの前壊したのだ。俺が……この前必死に隠していたことだ。
「アキくん」
 ドアノブを掴んで、それが本当に壊れていることを確認する。そうしながら、神谷先輩は俺を向いて言った。
「この前きみは、必死にドアノブを隠していたねぇ。不思議には思っていたが」
 バレた。
 神谷先輩が俺たちに歩み寄ってくる。先輩はなにも知らない。だから俺たちを疑う。仕方のないことだ。仕方のないこと?
「……なんなんだ。月下美人はなぜこの数日間、大学に一度も来ていないんだ?」
 先輩が問いかける。答えがはっきりしているからこそ、答えるのが難しい。この人はなにも知らない。それが苦しい。俺にとって美鬨にとって。
「答えてくれよ」
 俺はどうしたらいい。
 神谷先輩の眼鏡が、光を折り曲げる。瞳は窺えない。美鬨の部屋と同じだ。不明瞭で、不透明。歪んで傾いている。それは神谷先輩が、幻想の人間だから。
 美鬨が俺の手をとった。はっとして美鬨の顔を見る。
 美鬨は頷いた。逃げようと。
 そうだ。今は逃げるしかない。遅かれ早かれ鍵の破損は気付かれることだった。発見したのが知り合いだというだけ、幸運ではないのか。
 俺は美鬨の手を握り返した。二人で一緒に、先輩に背を向け――。
「――え?」
 声を発したのは美鬨だった。俺は驚きのあまり、声を出すこともできなかった。時間が止まったような感覚が全身を襲う。それは美鬨も同じようだ。握った手があつくなる。
 俺たちの目の前には――星下端唄がいた。
 ブレザーの三つのボタンは全て外されている。だがだらしないという印象ではない。むしろ着慣れているようだ。スカートは長い。膝が完全に隠れている。
 イヤホンをそれぞれ両手で持っている。
「おい!」
 俺たちの後ろで、神谷先輩がそう怒鳴った。先輩はいつもは、温厚な人だ。そういう人ほど、犯罪ごとが絡むと熱血になる。
 先輩が俺の肩を掴んだ。だが今は、それどころではない。
 俺も美鬨も、動けない。いつだったか、俺がオウギに初めて話しかけられたときと似た感じだ。縫い付けられたように足が動かない。体も動かない。
 眼球がただ、端唄の顔を向くばかりである。
「……おや? きみは?」
 先輩もやっと端唄の存在に気付いたようだ。恐れも知らずに、そう声をかける。
 春休みに入る前、俺は孔子についてのレポートを書かされた。そのとき調べ物で知ったのだが、『論語』に、こんな言葉がある。――「子曰由誨女知之乎知之為知之不知為不知是知也」。今思うと、読む人のことを考えて句読点をつけるべきだったのではないかと思う。そういえば訳文も入れなかったかもしれない。俺がペットボトルロケットに誘われたのも、おそらくこの作法がなっていなかったからなのだろう。「ダメダメだった」という小唄の言葉が、今になって染み渡る。
 この孔子の言葉に、今は賛同せざるを得ない。同時に否定せざるを得ない。神谷先輩は、知らないのだ。この言葉は、互いに知らないことを教え合おうといった意味だ。まさしく神谷先輩にとっては、俺たちから答えを教えてもらうべき立場にいる。……それと同時に、俺たちは、絶対に神谷先輩にこの答えを教えてはいけない。それはつまり、神谷先輩の存在を否定することに繋がるからだ。
 神谷先輩が俺たちを押しのけて、端唄の前に出た。
「きみは……?」
 先輩が声を空気に馴染ませる。
「月下美――いや、違う……」
「うふふ。お姉ちゃんはもういないよ」
 端唄の声が廊下を掻っ切る。歪んだ空気が、真っ直ぐにのばされていく。
 両手のイヤホンが、まるで風にのるように自然な動きで、先輩の耳につけられた。先輩はその呼吸のように自然な動きに対応できずに、ただ戸惑った素振りを見せる。
 整った廊下に、震えた共鳴。
 先輩は糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。もう起き上がることはない。
 縫い付けられた足が解放される。
 俺は美鬨の手を強く握った。美鬨は我に返ったように俺を見る。
 走る。
 とにかく走る。
 どこかへ走る。
 歪んだ空気が、俺たちが踏み入るごとに直線になっていく――。存在の否定でもしているのか。この町はまるで――この大学はまるで――体内だ。

 食堂には円テーブルが散らばっている。どれも白い。
 営業はしていないようだった。食堂も春休みを取っているのだろう。
 ここの空気は、なんとなく安全だった。いつもここにいたからなのかもしれない。ここは俺たちの空気で一杯だ。正方形になったりはしない。歪み傾いた食堂だ。
 今思えば、俺にとってこの食堂は大切な場所だった。
 電灯の光はついていない。営業していないのだから当然か。
 ……食堂に入ることは容易だったというのに――。
 施錠などされていなかった。営業していないなら、扉は締め出して当然のはずだ。
 俺は出入り口を見る。廊下へ続く出入り口だ。
 扉が閉まっていた。俺たちは閉めていない。硝子製の扉だ。
 俺は扉のほうへ走る。食堂に入ったからといって、安心してはいけなかったのだ。扉を押す。びくともしない。鎖で施錠されている。
「閉じ込められちゃったね」
 首筋を沿う声。美鬨ではない。
 眼球だけで振り返る。ふふ、と声がする。背後に誰かいる。
 振り返りざまに思い切り背後の人間を薙ぎ払った。腕が相手の喉を打つ。
 背後にいたのは美鬨だった。
 驚きの声を出すこともできない。頭が掻き混ぜられていく。
 美鬨が呻き声をあげる。俺がったからだ。円テーブルに頭を打ったのか。円い形状が倒れている。円テーブルの上にあった箸の束がばら撒かれる。美鬨も倒れている。
「あーあ。恋人を殴るとか、男としてサイテーだね」
 また背後で声がする。俺はすぐさま振り返る。
 誰もいない。
 硝子の扉が、無機質に嗤っている。
「なぜだ……」
 薄暗い食堂の中。そこにいるのは俺と、俺の腕の中で呻いている美鬨だけだった。
 美鬨は苦しそうな顔をしていた。血が出ている。額を流れる。
 俺が殴ったのだ。



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