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五.
「起きれるか」
 そう言って美鬨に手をのばす。美鬨はそれを握って、苦もなく起き上がった。額に載っていた布きれが落ちる。良かった、怪我はもうほとんと塞がっている。
 雄叫びは男のものだった。そしてこの町で動けるのは四人だけ。そのうち男は俺と印だけだ。つまり、この雄叫びのような声を発したのは、印だということになる。
 なんというか、わざわざ声のしたほうへ行く必要性が感じられない。
 端唄も「勝手にしなよ」と言った。たった一人であんな大声で行動を起こすのも考えにくいから、これは、印と端唄の問題なのではないか。
 ほとんど、俺は傍観者のような立ち位置だったが、わざわざそれを遵守する必要もない。俺たちは俺たちの歩むべき道を行くさ。
「さっきの声、なんだろう」
 美鬨がそう言う。
「知らん。知る必要もないだろう」
 少しぞんざいだったかもしれない。だが、それくらいで丁度良いのかもしれない。俺たちはこれから、町を出る。
「とりあえず、大学を出よう」
 そう言って、もう一度美鬨の手を掴んだ。なんだかさっきから握りすぎだ。馴染んでしまって、離したくなくなる。
 と、思って、俺は気付いた。町を出るには大学を出ないといけない。そして雄叫びは大学の外で起きている。
 まあ、知る必要がないと同時に、知らない必要もないということか。
 廊下を歩く。神谷先輩の死体はもうなくなっていた。この前印がやったように、端唄がさらっと撫でて処分したのだろう。それは別に魔法の効果というわけではなく、死後の肉体のあるべき最後なのだ。
 大学の外に、二人はいた。端唄の上に印が馬乗りになっている。印は両腕を突き出していて、それらは端唄の首元を捕らえていた。両の手が端唄の首を絞めつける。端唄は目や口を紡いでもがいている。
 先ほどの雄叫びは、印が端唄に襲い掛かる声だったのだ。
 頬の血痕が引きのびていく。
「この! この!」
 印はまた涙を目に溜めている。とことん地面を湿らせたいようだ。
 端唄は必死に抵抗しているようだが、首を絞められていては、力が出ないようだ。所詮は女子高生の体だ。男子に馬乗りにされたら、もがくことしかできない。
 じきに端唄は三度目の死を経験することになるのだろう。
 だが――。
 気付けば俺の手はなにも握ってはいなかった。美鬨は二人のところへ走り寄る。そして思い切り印の頭を蹴った。あっけなく端唄の首は解放される。
 頭を蹴られて体勢を崩しても、馬乗りを崩すことは難しい。端唄は未だに印から逃げることはできない。赤く染まった目の印は、美鬨のことなど気に留めず、また両手を首にかけた。美鬨が印の背中を叩く。印は痛みに声を漏らすが、手を緩めることはしない。
 振られて逆ギレか。
 馬鹿か。
「おい」
 俺は歩いて、印に近寄った。その間にも、端唄は苦しそうに足をのばしている。
 印に俺の声は届かない。
 正直、端唄が死んで地獄に行こうがどうなろうが、どうでもいい。俺が出した答えはそうだ。だがそれ以前に、俺は印を殴りたかった。
 から、殴った。
 首から手が離れる。それがまた戻る前に、俺はその手を踏みつけた。端唄を跨いでいる形になっているが、そんなことはどうでもいい。
 印が俺を睨みつける。俺はまたその顔を殴った。
 端唄が途切れ途切れの咳をする。
 拳が印の鼻に当たった。拳が痛い。
「お前、自分のやっていること分かってんのか」
「……この端唄は、僕が創り上げた! だから僕のものだ! 僕が――ッ!」
「だからお前が殺すのか?」
 駐輪場となった駐車場。ビデオもたくさん並んだ図書室。なかなか広いグラウンド。白い食堂。いつも掃除されていた正門付近……。その大学で、高校生が一体なにやってんだか。
「……こ、殺すんじゃない! 壊すんだ! これは僕の作り物だ! 人間じゃない、殺すんじゃない。壊すんだ」
「それ、この前、美鬨がそういうこと言ってたよな。お前はそのとき、それを堂々と否定した。そのくせして自分のときは肯定するのか」
「……クッ」
 俺は全能ではない。それは理解しているつもりだ。どこかの哲学者も、「無知の知」だとかいう言葉を残している。俺は無知だ。それを知っている。それを俺は、誇らしく思う。単なる堂々巡り。無知を知った気になっている。無知を知っている人間は、自信を抱かない。
 だから俺はどうでもいい。それでもそんな頭でも、俺は考えることができる。俺は疑問を抱くことができる。俺は考えることができる。俺は知ることができる。
「殺すなら殺せ。だが、それは破壊行動ではない。ただの殺人だ」
 俺は言う。
「端唄はそれを理解している。だから地獄に落ちた」
 それに。
「なぜ自販機のコードはあんなにも多いのか――」
 端唄がかすかに笑った。俺の推論が正しいのかもしれない。
「この町は、お前が創ったものではない。――もしかしてこの町は、他の何者かが作ったんじゃないか?」
 食堂の自動販売機には、先ほど見たとおりコーラがあった。だが数日前、春休みに入る直前、俺がコーラを買おうとしたときにはコーラはなかった。そのせいで俺は外に出て、美鬨にジュースを奢ることになった。……ではなぜ、今、この春休みにコーラがあるのか。春休みになってから品を替えたとは考えにくい。春休みになってからあの食堂は営業を休止していた。
 春休み前のとき、あの自動販売機は、俺に偽りの情景を見せたのではないか。コーラがあった自動販売機は、電源が入っていなかった。俺がコーラを買おうと思ったときは、電源が入っていた。俺はコーラが欲しいと考えていたのだ。見間違えるというのも考えにくい。つまり――あの自動販売機は、まわりに、本来と違った情報をばら撒く機械なのではないか。
 コードの量は、そのせいではないのか。飲料水を売る以外のことに、たくさんのエネルギーを必要としたのではないか。
「そう、正解。あの自販機がこの町の中心だった」
 端唄が、嘲るような顔で言った。
「なにもかも間違い。ぼくたち町の住人がこれまで見てきたものは、なにもかも、自販機にプログラミングされた架空の現実。この町の形状も、この大学も、食べたご飯の味も、ぼくたちの体も――全部、偽物」
 端唄が嗤う。
「ぼくたちは誘拐されたんだ。修学旅行の帰りの日、ぼくたちは眠らされて、この町につれてこられた。誰か、どこかの人間に。いや……修学旅行で事故にあったという記憶さえ、設計されたものなのかもしれない」
 それは絶望の嗤いか。希望の嗤いか。
「その『誰か』を、ぼくは探していた。でも見つからなかった。怪しい人は片っ端から殺していった。イヤホンをつければ勝手に死んでいってくれた。でも、どうせその『誰か』は町の外でお菓子でも食べながら観察してるんだ。それを確かめる方法はない。ぼくはどうにか町を抜け出ようとした。だけど無駄だった。町を出たと思っても、その景色はただの偽物でしかなかった。それに、ぼくが『誰か』を探そうとするのも、結局『誰か』のシナリオによるものなんだ」
 絶望しても希望を見出しても、結局それは偽物なのだと。
 なにもかも――根本から間違っていた。
 全て偽り。全てが嘘。俺たちの人生は、記憶は、ただのシナリオでしかなかった。
 端唄は自分たちが誘拐されたといったが、それも怪しい。俺たちはもともと、その「誰か」によって作られた「人形」なのかもしれない。
 だが。
「端唄。なぜお前は、それに気付いたんだ」
 俺は訊いた。数ある疑問のうちのひとつを。
 だが端唄は、首を振って言う。
「知らない。最初っから気付いていたのかも。きっとぼくはそういう役どころだったんだよ。『誰か』に作られたキャラクター。町の秘密に気付く役」
「そ、それをどう信じろというんだ。根拠も、確かめる術もないじゃないか!」
 印の声は震えている。
「うん。分からない。もしかしたらどこかに証拠はあるのかもしれないし、どうにか確かめられるかもしれない。でも、ぼくはその役じゃない」
 そんな――。
 妖精は存在しない。ならば、存在しないものは妖精なのか。対象のすり替えでしかない。だが、いや……存在していないわけではないのだ。俺たちに見えないだけで、その存在は、確かめることなどできない。それを妖精というのなら。
 この町、ここの建物、ここの人間――全て、妖精が創った人形。
 存在など確認できない。そんな「誰か」が創った人形。
 端唄が嗤う。印は立ち上がって端唄から距離をとった。
「嘘だ!」
 印が叫ぶ。
 それも合っているのかもしれない。今の端唄の話が、ただの命拾いのための嘘なのかもしれない。だがそれを確かめることはできない。「真実」などない。俺たちは誰も分からない。
 無知であるかどうかも分からない。
 ただ、それが正しいと仮定したなら。
「自動販売機は、電源が切れていた」
 俺は言う。
「もし自販機が中心なら、今、この町はどうなってるんだ?」
「そっか。……じゃあ、自販機も偽物なんだね」
 端唄はいともたやすく、不確かな希望を壊してみせた。
 ――――。

 バス停のベンチに腰掛ける。ここに咲く花は、いつ見ても曖昧な色合いだ。
 俺たちはあの後、そのまま大学を後にした。その後、端唄と印がどうなったのかは分からない。取り乱したまま印が今度こそ端唄に手をかけたかもしれない。あるいは端唄のほうが、自分の気持ちを印に打ち明けたかもしれない。どっちに転んだかは分からない。
 最初からあの告白を受け入れても良かったのではないか――他人事だから、そう思う。端唄は過去を語りかけたあのときや、ベンチで「ぼく」を使うことを気にしていたとき、確かに印への好意を顕わにしていた。端唄の女心なんて分からないが、オリジナルでない自分に告白した印のことが、許せなかったのだろうか。
 まあ、こんな曖昧な世界では、恋愛したくなる気持ちも失せるものなのかもしれない。
「待った?」
 しばらくすると、リュックを背負った美鬨が、元気な声でそう駆け寄ってきた。
「ああ、一時間くらい待ったね」
「マジっすか料理長!」
「軍隊辞めちゃったのね」
 美鬨に手を差し出す。美鬨はその手を不思議そうに見つめていたが、少しすると意味が分かったようで、リュックをおろした。
「やっぱ荷物は男が持たないとな」
「別にいいのに」
 リュックの中には、水やパンや缶詰がぎっしり詰め込まれている。
 これだけあれば、二人だけなら一週間はもつだろう。それだけあれば最悪の場合でも、来た道を引き返すくらいの時間的余裕は持てるはずだ。
 今度こそ、町を出る。
 もしこの世界が偽物だったとしても、こうしてベンチに座ることができるように、物体をすり抜けることはできない。
 だから、俺たちが町を出るには、進めるところを進まないといけない。穴でも空けない限り、壁をすり抜けたりはできない。
 偽物の世界を踏み越えて、本物に――。
「ねえ、私思うんだけど」
 軽くなった肩をほぐしながら、美鬨は言った。
「うん、なんだ?」
「もし本当に『誰か』がいたとして、この町全てがその『誰か』さんのシナリオなんだったらさ……このシナリオには、きっとたくさんの穴があるんだろうなって」
 だって試験の後に授業があるとか、やっぱりおかしいじゃん――。そう美鬨は言う。
「……そうだな。そうかもな」
 ベンチから腰を持ち上げる。どちらにしても、俺たちがこれからすることは変わらない。――町を出る。
 バスには乗らない。
 歩いて行こう。
 どこへ着くかは、お楽しみ。




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