●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 重大な事実に気付きました。まず言及したのは、仮面の男です。みなが海上の遺体を眺めている間、その雰囲気を打ち破るように言ったのです。
「食料がないんじゃないですかね」
 ヨットの隅には、食料を管理する箱が設えてありました。それは舟から落ちないように、紐で縛ってあったはずです。が、先ほどの荒波のせいで、紐もろとも食料箱は消え去っていました。あたりを見まわしても、それらしきものは見えません。海上には草木やプラスチック製品が漂っているだけです。舞の圧力操作で来たはずなのに見えないということは、食料箱に水が入って、沈んでいるのかもしれません。しかし今更それを探し当てたとしても、それらが海水を吸ってしまっているのは明白でしょう。ビニール袋に保管してあったとしても、浮かんでいないのなら水が入っていると考えて間違いではありません。
 舞は試しに、海水に手を入れて圧力を小さくしてみました。ヨットを引き込まないようにするため、今度のそれは小さなものでしたが、漂流物が少しずつ舞たちに近寄ってきています。しかし、いくら経っても食料らしきものはやってきません。やはり、沈んだと考えたほうがいいようです。
 そしてさらに、もうひとつ考慮すべきことがありました。方向が分からない、という事実です。方位磁針はありません。男が持っていたはずですが、それも流れてしまったというのです。地図は残っていますが、現時点がどこなのか分からなければ意味がありません。
 ひとまずは、遺体を舟に上げることにしました。遺体の周囲は、暗い海水が特に黒くなっています。兄と男が泳いでつれてきます。
 舟に上げたはいいですが、それからすべきことが誰も分かりません。弔うにも、どうすればいいか分からないようです。ヨットの中央で横たわる遺体は、海水が染みて不快なにおいにまみれています。舞は鼻をつまみました。
 ヨットは遺体を乗せたまま、どこが正解かも分からないまま進んでいきます。太陽の位置からおぼろげに進む方向を推測して、オールを漕いでいきました。
 二日が経ちました。二日間なにも食べていません。筋肉からグルコースが生成され、脂肪から脂肪酸が作られます。食べるだけでなく、飲む水もありません。海水を飲むことはできません。飲んだ場合、塩分を排出するためにより多くの水分を失ってしまうからです。
 遺体は依然として横たわったままです。死後硬直はピークを通り過ぎ、段々とやわらかくなっているようでした。静脈に沿って変色していて、ヘモグロビンが、腐敗ガスが、皮膚の上で水泡を作っています。青い水泡です。背中のあたりに血液が沈下したようで、まるで痣のような様子になっています。
 それを捨てる元気も、船員たちにはありません。
 兄はぐったりとしています。自分の体を、自分の脚にうずめています。他のふたりの男も、似たような姿勢です。エネルギーを温存しているのでしょう。
 仮面の男と舞は、その中では元気な部類でした。能力者は一般の人間よりも体力があります。そのために他の人間よりも比較的余裕があるのでしょう。
 仮面の男が、仮面の下で微笑しました。それを見て舞も笑います。仮面の男はそれを見て気をよくしたのか、沈黙の中、舞に話しかけました。
「わたしは、ポン・シェパードといいます」
「変わった名前」
 空腹で判断力が疲れているのか、舞は屈託なく笑いました。声のない笑顔。声がなくとも沈黙を刺激します。
「どうぞシェパードと呼んでください」
「普通ポンのほうを呼ぶんじゃないの。外国人って、みんなギブンネームで呼ぶんだと思ってた」
「わたしは、グッド・シェパードを目指していますので」
「なにそれ」
 舞がまた笑います。シェパードも声を切るように笑いました。朗らかな、余裕ある笑い声です。
「私は、荻本舞」
「舞さん。ははー、いい名前ですね」
 波は穏やかなままです。ヨットの進行を妨害しているのでしょうか。ヨットはなかなか進みません。天候もいやにいい日が続いています。恵みの雨はいつになったら降るのでしょう。太陽が船員たちをいじります。
 この二日間、船員たちは魚を捕まえようと奮起していました。食料を失ったのなら、食料を調達すればいいのです。原始的な考えですが、今のところそれしか思いつく方法はありませんでした。
 しかし、魚は一匹たりとも捕まえられませんでした。それどころか、その姿を見ることさえできなかったのです。
 これは異常なことでした。舞が舟からはぐれて圧力操作で舟を引き寄せたとき、そのときも魚は一匹も見受けられませんでした。ヨットや漂流物が流れてきているというのに、魚だけ流れてこないということはありえません。圧力変化によって動くのは海水のほうですから、水中と水上の違いは考慮することではないのです。
 その後も、舞が海に入って圧力を操ってみましたが、やってくるのは無生物だけでした。
 波の穏やかさも、考えてみればおかしなことでした。ずっと沖合いにまで進んできたというのに、海は平坦なままなのです。この二日間、最初の突風と舞の作為によるものを除けば、波といえる波はまったくありません。
 男が、ふいに顔を上げました。舞とシェパードの会話を鬱陶しく思ったのか、いえ、顔は舞たちを向いてはいませんでした。
「これ、食えるんじゃないか」
 そう言って、手を伸ばします。その言葉に反応して、他の男と兄も顔を上げました。三人の視線が、横たわる遺体に向けられます。
 舞が目を背けました。また自分の鼻をつまみます。
「そういえば、兄貴の怪我、治してくれてありがとう」
 気を紛らすためか、舞はシェパードとの会話を続けました。鼻をつまんだままです。
「ああ、あれがわたしの能力なのです。怪我を移し変える」
「……移し変える? 治す、じゃなくて?」
 シェパードは笑って、自分の肩を指し示しました。服が隠していて、なにを指しているのかよく分かりません。
 舞が不可解そうな顔をしていると、シェパードは笑って、服を肩のほうまでずり下げました。片方の肩が露わになります。
「――あ」
 シェパードの肩に、しっかりと銃創が刻印されていました。


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