●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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ム(5)



 彼女は外を散策します。
(――「あいつがいれば」、か)
 歩きながら、施設で男が放った独り言を思い出します。
(あの人にも、大切な人がいたのかな)
 なぜかそう思った途端、モニターで見かけた仮面の男を思い起こしました。そういえば彼の姿が出てきたとき、一緒にモニターを見ていた男が、少しだけ眉を寄せたのでした。
 あいつ。大切な人。
(あーあ)
 あたりを見てみます。ムの町並みに、現実世界ではありえないというようなものはありません。地名が若干揺れていたりしていますが、地形もほぼ同じでしょう。建物ばかりは、おそらく現実世界と異なってくるのでしょうけど。
 彼女は、自分の恋人、虔の姿を思い起こしました。思えばこの世界に飛ばされたのも、彼が死んだという話を電話で聞いたからです。あのときは取り乱してしまい、本人に確認を取るということが思いつきませんでした。
(まるで、『アントニーとクレオパトラ』みたい)
 電話先が嘘をついていたことに、彼女はムにやってきてから気付きました。モニターを見て、分かったのです。だけれど彼女は、元の世界に戻る術を知りませんし、もう戻っても意味ありません。
「あーもう! 舞ったらなんで追いかけてこないの!?」
 そんな声がします。厚顔無恥な声です。あたりに誰もいそうにないから、そんな大声を上げたのでしょうか。いえ、あたりには彼女がいます。
 声を上げた少女は、どうやら向かいの倉庫から出てきたようです。背が低く、なんだかつい声をかけてしまいたくなる、可愛らしい魅力があります。
「ってうわあ! 右手動けてる!」
 と、少女が彼女のほうを向きました。彼女の存在に、たった今気付いたようです。まわりを見ない子なのでしょうか。人混みを歩けば一度はぶつかってしまいそうです。
 思えば彼女は、ムにやってきてから、あの少女のように振舞っていたかもしれません。彼女は自分を省みます。どうせここは異世界なのだからと、行動が横柄になっていたかもしれません。
(そういえば、結局リセットはどうなるんだろう)
 少女に声をかけようとは思いませんでした。それよりも自分なりに、男から聞いたリセットの話を考察していきます。
(時代が変わるごとに、ムではリセットが起きるのよね。それで、ムの該当する地域が、一気に消滅してしまう)
 彼女は腕を組みます。ちょうど、視界に入る少女も腕を組んでいました。誰かを待っているみたいです。
(消滅はするけど、時間が経てば復旧するのよね。リセットが起きたとき、人の「無意識」の部分が飛んでいってしまうけれど、「意識」の部分は消えたりしないから。それで……えっと、「意識」の部分が生きているのなら、「無意識」は勝手に甦ってくる。「意識」が「無意識」のバックアップになってるってこと。ムが復旧するのは、そんなメカニズムね)
 男から教わった話を、復習していきます。
(ムの人間というのは、ムと同じ原理で存在しているから、人ももちろん一緒に復旧する)
 だけれど彼女は思うのです。教えてくれた男も、なんだかあまり理解できていないんじゃないかって。あの文献に書いてあることを、そのまま繰り返しているだけなんじゃないのかって。
(……って、え?)
 そして彼女は気付きました。こんなこと、気付かないほうがおかしい、彼女はすぐさまそんな感想を抱きます。やっぱり施設のあの男は、ただの莫迦者だったのです。
 だって、彼女には、「意識」はないじゃないですか。
 彼女や施設の男は、ムの人間の中ではイレギュラーです。能力者よりも異例です。なにせ、「意識」が「無意識」に負けることで、現実世界から実際に飛ばされたわけですから。彼女にとって、彼女の主導権を握っているのは、「意識」ではなくて「無意識」。「意識」は「意識」の役割をなしません。
 彼女にバックアップはないのです。
 彼女はくるりと向きを変えました。建物がごく平凡に並んでいます。そのうちのひとつがあの施設です。
〈五秒後にこの世界は滅びます――〉
 そんなアナウンスが、どこからともなく響き渡りました。彼女の頭は大混乱。こんな前置きがあるなんて聞いてません。
(死にたくない!)
 彼女は叫びました。叫んだつもりですが、それは声になっていませんでした。彼女の世界の中で、いくどもいくども跳ね返って。その声は混乱を助長させているだけでした。
 彼女は走りました。施設へと走りました。施設もムの一部にすぎないというのに、それでも彼女は走りました。死に物狂いで走りました。わけもわからないのに走りました。
 その姿は、ここに飛ばされたときとは比べ物にならないくらい、生気溢れる輝かしいものでした。
 はい。五秒じゃなにもできません。


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