5
ビルに挟まれどこか閉塞感のあるような歩道橋を渡り、最近建てられた日本で最も高いというビルに入る。この七階の本屋に、ぼくは惚れ込んでいた。SFの本が豊富に置いてあるのだ。SFを贔屓している店だというわけでもなくて、とにかく欲しい本が揃っている。某社の学術文庫も揃っているというのだから驚きだ。手元に置いておきたかった古典SFをここで大人買いしたら、レジの女性店員さんにじっと見つめられて気恥ずかしかった覚えがある。エスカレーターで七階に着き、書棚を眺める。特に買いたい本があって来たわけではなかったのだが、用もなく入ってしまうのが本屋というものだ。相変わらず豊富に揃っているSFの棚を見て、気分を良くする。古典SFばかりではなくつい最近発売されたSFも取り揃えているのだから感心だ。他にもいろいろな棚を見て楽しむことができる。眺めているとふと、海外小説の棚で蒼い表紙が目についた。海のイラストだ。目に吸い込んでくるような、引きこんでくるような海。リチャード・バックの小説だった。「かもめのジョナサン」で有名なリチャード・バックといえば空や飛行機を題材にすることが多い、というよりもそればかり書いている作家だが、やはりこの海のイラストも、空のお話なのだろうか。ぼくは本を手に取り、立ち読みを開始した。たちまちぼくは異世界へ飛ばされてしまった。
そこには数人のぼくがいた。どのぼくもきっと、ぼくと同じように異世界から飛ばされてきたぼくなのだろう。数えてみると四人いた。ぼくを合わせると五人だ。ぼくが五人もいる。ぼくたちがぼくの目の前に集合することで、ぼくは複数の鏡を合わせたような迷宮の入り口を覗いているような感覚にとらわれてくらくらした。これからなにが起こるのだろう。と思う余裕もないままに飛行機が地面に突っ込もうとしていた。でも時が止まったみたいに、飛行機は地面に突っ込みながらも空気のクッションに受け止められてぴくりとも動かない。時が止まったみたいに、というか、実際に時が止まっているのだ。景色はすべて沈黙していた。粒子さえも活動することを休止している。それならこの世界に光がなくなってしまうようなものだけれど、そういうこともなくて、ただいろいろな条件を無視しながらこの世界の時は止まっている。あるいは、そうだ、この世界にはもともと時なんてものは存在しないのかもしれない。もとからないんだから、光は時を必要としない形で存在できているのだろうし、ぼくたちもこうやって、動くことができているのだろう。ぼくは腕を動かしてみる。きちんと動いた。だったらあの飛行機もやっぱり動くはずなのに、動かないということは、もしかしたら他の理由があるのかもしれない。ぼくは一度、仔細に四人のぼくを眺めてみた。他の世界から来たというのだからなにか違いがあるのだろうけど、どこにも違いは見受けられない。でもやっぱり、どこか違いがあるような気もする。その非常に曖昧なニュアンスはぼく以外のぼくも感じ取っているみたいで、みんな目玉をきょろきょろさせている。ぼくたちは同じでありながら異なり、また異なっていながらも同じなのだ。それがよくわかった。
ぼくはぼくに話しかけてみることにした。でもはたして言葉は通じるのだろうか。という不安は、実はさほど感じてはいなかった。なぜならばぼくは日本語しか使えないからだ。あ、でももしかしたらこのぼくは英語も達者かもしれない。それは羨ましいことだが、でもぼくのことだから日本語を使ってもらわないと困る。ぼくはぼくのことを信用していたから、あまり不安を感じなかったのだ。ぼくは空を見上げる。飛行機が地面に衝突しそうでぼくは驚いてわっと声を上げた。でも時が止まっているのか飛行機が地面に実際に突っ込むことはない。まあ突っ込んでいたならここにいるぼくたちも巻き添えをくらうだろうから、時は永遠に止まっていてくれていいのだけれど、でも考えてみるに、時が止まっているのなら永遠というものはもはや存在せず、だというのに時が永遠に止まることができるというのは、いったいどういうことなのだろう。ああ、そういえばぼくはぼくに話しかけようと思っていたんだった。なんだか面倒なことが起こる予感がした。飛行機を背にしてぼくはぼくに話しかける。「やあおはよう」でも確かさっき、書店に寄る前にオムライスを食べたのだった。美味しいオムライスだったし、オムライスを食べたということはつまり昼食であるはずだった。だからおはようと言うべきではなくこんにちはと言うべきだったんだ。でもそう気づいたからといって、相手のぼくが住んでいた世界にとってオムライスがイコールで昼食なのかといわれるともしかしたらそうではないかもしれないし、そもそも考えてみればぼくの世界でもオムライスを昼以外に食べてはいけないだなんて法律はない。ああでもだとしたらぼくは、さっき昼食を食べたのだろうか。それとも朝食を食べたのだろうか。そうやって悩んでいるばかりのままそうして悩み続けていると目の前のぼくは問題なく「おはよう」と返事してきた。ああ良かった本当に言葉は通じるらしい。ぼくは安心してオムライスの味を忘れることができた。それから残りの三人も「おはよう」あるいは「こんにちは」もしかしたら「こんばんは」と返してきたような気がする。一件落着だ。一件落着だから、ぼくはぼくたちから離れて走って、それで走ると崖のようなものが見えたからそこまで息を弾ませて、それで飛び降りて自殺した。
さっきぼくがぼくに向かって「おはよう」と言ってきたものだからぼくは咄嗟に「おはよう」と返すことにしたのだけれど、「おはよう」とはどういう意味だったのだろう。そうしたらぼくとそのぼく以外のぼくが「おはよう」とか「こんにちは」とか「こんばんは」とか難しい言葉を話すものだからぼくはこんがらがってしまってああそういえばこの世界には時がないのだったなと思いついた。なぜ思いついたのかは分からないけれど、発想とはそういうものだと思っている。発想とは常に躍動的なものだ。ではその失われた時を求めるためにはぼくはなにをしたらいいのだろう。と考えると、なぜそんなことを考えているのだろうとぼくはぼくを考えることもできるようになる。でもきっとぼくは良い奴なのだろうなと思った。自画自賛した。そうだ、でもこうして自画自賛するのは不思議なことではない。それというのも、ぼくは今日書店に寄る前に、少し離れたところのビルの最上階付近にあるオムライス専門店でオムライスを食べたのだけれど、そのときも自分を褒めてやりたくなるようなことがあったのだ。ぼくはオムライスを食べている間、手が滑ってスプーンを落としてしまい、ウェイターがすぐさま新しいスプーンを持ってきてくれたのだけれど、ぼくは良い奴なのだから洗う手間を省くために落としたスプーンをそのまま使うことにしたのだ。と、威張っている自分を諌めることができたのだからぼくは良い奴なのだ。ところでさっき、ぼくが自殺してしまったらしい。それは一大事だしぼくは死にたくないなぁと漠然とだけど思っているものだから死にたくないのになんでぼくは死なないといけないんだろうと気分を落としていると、でもぼくはぼくが死んでいないことに気付いた。ぼくは生きている。でもぼくは自殺している。ああそうか分かったぞ、生きているぼくと、自殺したぼくは同一人物ではなかったのだ。そうだと分かるとぼくは嬉しくなって、安心して生き続けることができた。それはまた嬉しいことだ。ぼくはぼくが死んだというのにるんるんの気分でぼくが生きていることを喜んでいた。やったぁぼくは生きている。けれどもぼくは死んでいる。やったぁぼくは生きている。けれどもぼくは死んでいる。それでもぼくは生きている。
まったくここはどこなのだろう。ぼくは辺りを見渡した。するとなんと、ぼくがぼくの他に四人もいる。つまりぼくを合わせて五人のぼくがいるのだ。ぼくは走って逃げてしまいたい衝動に駆られた。人間ならば誰しもそう思うだろう。しかしこういうときに走ってしまうと、ぼくはマラソンランナーになって金メダルを獲得してしまうから、どうしても、ぼくは走ることが許されないのだ。少しは遠慮というものを覚えるべきだとぼくはいつかぼく以外の誰かに言われた覚えがあるから、その教えを忠実に守って、今回ぼくは走らないでおくことにしたのだ。それで走ることはぐっとこらえて、ぼくはぼくのことを観察してみることにした。それぞれどこか、微妙に違うようで微妙に同じだ。つまり言葉で言い表すことはできないぐらいには似ていて、そして言葉で言い表すことはできないほどには違っていた。どこがどう違うのか、説明することができない。どこがどう似ているのかさえ説明ができない。だというのにあの四人のぼくが、ぼくではないことがとてもよく分かったのだ。あるいはそれは、ぼくがぼくという実感を認識しているからかもしれないが、それを抜きにしてもぼくよく分かったのだ。ところでぼくは、言葉で表現できないものなんてこの世には存在しないものだと思っている。言葉を信仰している。それはたぶんそんな良い小説作品たちと触れあってきたからだろう。でもぼくは浦島太郎の存在を失念していた。絵にも描けないくせに言葉には表せるのか、と聞かれると、ぼくはきっと答えに窮したに違いない。でもぼくは浦島太郎なんて忘れていたからそんなことはどうでもよかった。ああそうだ、言葉で言い表すことができないのなら、言葉の代わりに映像や絵や音楽を使えばいいのだ。竜宮城だって映像で撮ればばっちり説明することができる。ぼくはとても冴えていた。でもそれを実行する元気はなかったのでそのままにした。とにかく曖昧な、よく分からない差異がぼくとぼくとぼくとぼくとぼくにはあったのだ。それはたぶん、異なる世界に住んでいたから、環境がぼくに違いを与えたとか、そんな分かりやすいものではない。ところでそんなことを考えているうちにぼくのうちの誰かが「おはよう」と言ってくる。そしてまたぼくのうちの他の誰かが、「おはよう」と言うのだ。ぼくは戸惑ってしまった。そしてまたもう一人が、「おはよう」と言う。つまりいまここで「おはよう」と言えば許されるのだなとぼくは理解して、ぼくは「こんにちは」と発言した。それは自分の感覚に忠実に従った発言だった。最近は言葉狩りが激しいからもしかしたらこの発言も検閲にかかるかもしれない。ぼくは発言した後に戦慄した。でももはや一度口に出した言葉は取り消すことは不可能なのだ。ぼくは走り出したい欲求に駆られた。そうしている間に、ぼくではないぼくが、急に走り出した。ぼくの欲求を奪い取ったみたいにそれは良い走りだった。きっとぼくと同じ理由で走りたいと思いながらも、走るのをこらえていたのだろう。あの世界のぼくは、ぼくよりも忍耐強くないらしい。そう思うとぼくはぼくに勝った気がして誇らしくなったが、実に危ないところだった。ああ、忍耐強い、そして忍耐強くない。このふたつの表現によって今ぼくはぼくとの差異を言葉で説明することができたみたいだ。これはすごい進歩だった。それはともかく走っていったぼくが崖から飛び降りて死んでしまった。ぼくが死ぬ場面を見るというのはやっぱりぼくとしては悲しいものだから、ぼくは涙を流した。するとふいに空が明るくなってくる。なにがあったのだろうと思い目の下を拭うと、あの飛行機のなかに乗っていたらしい男女が、ふいに消しゴムで消されたように消えていったのが見えた。あの男女はどうやら夫婦のようだった。その二人が消えると、ぼくたちもまた、他の世界へ飛ばされるのだった。
4
さてさてどうやらぼくたちのうちの一人が死んだことによりぼくたち生き残りの四人は他の世界に飛ばされたらしい。そう推理するのは容易だった。なぜならばぼくは天才だからだ。あるいはぼくがぼくを客観的に見ることに成功しているからだ。人間は自身を客観的に見ることで、自己プロデュースを比較的能率的におこなうことができる。それは天才と同義だった。つまりぼくたちは今、ぼくが複数いるために本当の意味でぼくを客観的に見ることができるので、こうして鏡なしでも目で見ることができているので、ぼくを客観視することに成功していたのだ。だからどんなに慌てたとしてもぼくは冷静に物事をとらえることができた。そんなことはどうでもいいからぼくはサッカーがしたかった。ここは競技場なのだ。いや、競技場そのものではない。世界が競技場の形をしていたのだ。楕円の形をして競技場くらいの広さしかない世界だった。それでどうやって世界が成り立っているんだろうと思ったけれど、ああそうか、つまりここは空間が不足している世界なんだ。さっきの世界は時が完全に失われていたけど、ここは少しではあれど空間が確保されているのだなと思うと、なんだか空間を贔屓目に見て時を差別しているような不快感をいだいた。でもそういえばあの世界でぼくたちは動くことができたのだし、もしかしたら完全に時がなかったわけではなかったのかもしれない。だから光が存在することができたり、あの飛行機が止まったりできたのかもしれない。ぼくはもうなにも文句を言うわけにはいかなかった。でも文句を言う立場にいなくても文句を言うのがクレーマーの役目というものだろうから、ぼくは大声で文句を言おうとしたのだがところでつまり誰かが死ねばまた他の世界に移動できるのだということにぼくは気づいてしまった。すぐに口をつむぐ。世界を移動していけばあの書店にも帰れるかもしれない。そうだだったらぼくを殺していけばいいんだ。これからぼくとぼくとぼくとぼくによるバトルロイヤルが開始される、とでも思ったけどそうではなくて、ぼくたちは平和主義だからこれから話し合って仲良く手を取り合って解決策を見つけようじゃないかと思うはずがないからぼくは殺されてしまった。
どうやらこのように一人が死ぬと景色がリセットされるらしい。いや、つまり景色が変わるということはまた異世界に飛ばされたということか。あまり実感は湧かなかったがそういうことなのだろう。ぼくはようやく自分のほっぺたをつねってみることにした。痛い。痛いからこれは夢ではないらしい。でも考えてみるに、痛いと感じることが、どうして夢でないことの証明になるのだろう。おかしいじゃないか。たとえばぼくの体は実際には存在しなくて存在するのはぼくの脳だけでぼくの脳は水槽に入っていてそれで水槽の脳がぼくの体が存在していると錯覚しているのかもしれない。ぼくの体を認識しているだけでぼくの体があるとは限らない。そしてぼくの体があるくせにあるとは限らないということは、痛いと感じるくせに痛いと感じていないとも限らないということだ。脳だけの肉体であるのならいくら走っても平気なはずなのに、脳が勝手に疲れたと感じたら疲れたと感じてしまう。マラソンしているときだって、極力口は開けないように心がけるのがいいとよく言う。口を開けると酸素をたくさん取り入れる形になるから、体が酸素を求めている体勢になって、脳が勝手に自分は疲れていると錯覚してしまうのだ。現実にもそういうことがあるのだから、脳が実在しない肉体を錯覚するくらい、造作もないことのはずだ。ところでこんなことを考えていると眠たくなってきてしまった。そういえばぼくは難しかったり簡単だったりすることを考えると眠たくなるタチなのだった。これはいかんいますぐにでも難しくも簡単でもないことを考えないとほんとうにぼくは眠ってしまう。そうしたらここらへんのぼくのことだろうからぼくの寝首を掻っ切ってしまうだろう。ぼくはジャンプしてステップしてホップしてみたけれどそうするとなんだかこの狭い競技場が不甲斐なくてでもそれくらいのことをするのには充分な広さがあるはずだった。それにこの競技場にはぼくら四人の他に誰もいないのだ。だとしたらここは、ぼくらが来る前は無人島ならぬ無人世界だったのかもしれないし、そもそもさっきのはホップステップジャンプが正しいのであって逆にやるというのは難しいと思う。でももしかしたらこのほうが楽しいかもしれないと思うのはぼくが運動の得意な奴ではないからなのかもしれない。どちらにせよぼくに実践する元気はなかった。でもさっき死んだぼくに至っては崖から飛び降りるくらいの身体能力はあったみたいだから、やはり、ぼくもそれくらいのことはできるのかもしれないと思ってジャンプステップホップをやってみた。もしここに崖があったならぼくは死んでいただろうけど競技場に崖はない。命拾いをした。それくらいには飛ぶことができて満足した。そうしている間にぼくではないぼくが殺されていた。
ああ驚いたとぼくは独り言を呟いたけれど他の三人はぼくの独り言に気付いていなかったようで寂しい。誰もぼくのほうに顔を向けることをしなかったものだからもしかしたらぼくは無視されているのかもしれないという被害妄想が放出した。ぼくは無視されているのかもしれない。ぼくは無視されているのかもしれない。また独り言をしてみたら、今度もまた誰も反応しなかった。ぼくはもしかしたら無視されているのかもしれないと思いぼくは無視されていると思う。
落としたスプーンを使ったからといって、ウェイターが顔をしかめることはなかった。なぜかというと、ぼくがウェイターに気付かれないように使ったからだ。それは言い換えるなら、実際のところぼくは落としたスプーンを使わなかったということなのだ。ぼくは綺麗なスプーンを使ってオムライスを食べていた。でもそれだと前提から間違っている。ぼくは良い奴なのに。でもそもそも人間の思考なんてものは間違いだらけだし間違っていることを責めるわけにはいかないよ。そういう寛大な心を持つことが良い奴になるコツなのさ。と思ったけれど人間の思考なんてものは欠陥だらけだからさっきのこの思考もまた間違っているのかもしれない。というこの注釈が間違っている可能性もある。というこの。人間の思考も捨てたもんじゃないなぁとぼくはふいに褒めてみた。隣で独り言が聞こえてきたが声が小さすぎてなんと言っているのかは分からなかった。なぜこんなにも声が小さいのだろう、と思えばそうだ、あのぼくはぼくに殺されるのを恐れて、自ら無意識的に存在を隠そうとしているのだ。あははそんなことしても無駄なのに、とも思うけれど、良い奴であるぼくは、それに付き合ってぼくを無視してあげた。ぼくはなんて良い奴なんだ。そういえば最近推理小説読んでないなぁと思って書店の推理小説棚に行こうとしている自分の光景をふと思い出した。ぼくはなにも考えることができないときは昔の記憶を思い出すのが癖らしい。ところでなぜ急にぼくはなにも考えなくなったのだろうと思えば、そうだ、無視したからだ。何事も、無視をするとはつまり思考を停止するというのと同義だ。だからぼくは考えるのをやめて、元の世界にいたときの自分の行動を思い起こしているのだろう。ぼくは新本格推理小説を読みたくて新本格棚を探してみたのだけれど、さすがにそういう分類までして陳列しているわけではないようだった。本格も新本格も同じように推理小説の棚に並んでいる。予備知識はあまりないけどただ新本格系のを読みたいなぁと思っていたところのこの惨事なのだから、王冠を被った王様が言うにはカエルがぐえーと鳴いたからには帰ったほうがいいということだった。ぼくは書店を出ようと思ってでもちょっと棚に目をやったら、あの小説があったものだからわりと好きな作家なものだから手に取ったりして、それで気づいたら異世界に飛ばされていた。ような気がするけれど実際のところどうだったか、詳しくは覚えていない。人間の記憶というものは時間が経つごとに褪せていくものだけれどさっき時のない世界にいたことで記憶の褪せることに堰がとめられて、それでこの競技場に飛ばされたときに一気に大洪水が起きたのだろう。大洪水に恐れおののいている間にぼくが近づいてきてぼくを殴り殺そうとするものだからぼくは慌てて避けてついでにその殴り殺そうとする拳を真剣白刃取りしたら鳥が飛んでくるっくーと心地よいさえずりを鳴らしてぼくは襲いかかってきたそのぼくを殺してしまった。ぼくは生き延びたしゴールを決めた。
3
世界。再度。変わる。生きる。目的。果たす。条件。ぼく。他人。ぼく。死ぬ。達成。仮定。生きる。ここ。世界。空間。時間。両者。虚弱。思考。断続。疲労。加速。混乱。頭。脳内。シナプス。ぐるぐる。吐血。ぼく。条件。果たす。ない。ぼく。ぐるぐる。死ぬ。ぼく。死ぬ。
ここ(の)世界(は)どうやら助詞(や)助動詞以外(の)単語(を)ひとつずつ(でないと)使用する(ことが)できない世界(のようだ)(からつまりどういうことかというと)時空(が)虚弱(であるために)思考(電流が)低下(しているといえるのであろうから)ここ(で)(もし:仮定)単純(な)思考(だけしようものなら)急速(に)脳(の)機能(が)低下(し最終的には)死(に)陥る(と考えて良いのだろうし)実際(に)ぼく(つまりぼくではないぼくが)ひとり(死んで)いる。
ふはははとぼくは笑いださずにはいられなかった。というのはこの世界はぼくの住んでいた元いた世界なのだ。いや確かに、時間も空間も弱弱しくしか存在していないこの世界には、書店などありはしない。もともとあの書店があった世界というのも、実はぼくにとっては本来いるべき世界ではなかったということなのだ。ふはははは。ぼくは実はこの物語の犯人であり画策した当本人でありラスボスなのである。つまり四人のぼくを集めたのはぼくなのだ。ぼくは四人のぼくを他の世界から集めることで世界を移動する手段を得てそしてこのようにぼくを死なせていくことでその世界におけるぼくを占領することができる。つまりぼくは世界におけるぼくを吸収しているのだ。このようにして。ぼくはぼくを飲み込むことによって世界を手に入れている。まあ全部うそだけど。でもこの世界がぼくの元いた世界というのは本当のことだ。ぼくは世界を渡り歩くことでぼくを死に導き最終的にぼくのなかに取り入れてしまうのだが(ところで(これは(うそ(だ)しかし困ったことに移動先の世界を自分で選択することはできないのだった。だからぼくはたびたびこのようにして世界を移動しいつかこの世界に帰ってこれるときを心待ちにしていた。いまそれが果たされたのだ。充足感に満ち溢れる。本来この世界では満足に思考もできないようになっているのだが、やはりここが故郷であるぼくは違う。こうやって*自*由*自*在*に認識を垂れ流すことができた。ふはははは。……おい、え、あれれ。ついにこの世界の思考制限にやられて一人死んでしまった。だめだそうしたらまた異世界に飛ばされてしまう。せっかく帰ってきたというのに。おいやめてくれ死ぬな死んではならないやめろやめてくれああ。
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あああなんということだぼくはまたぼくを何人も集めてあの世界を渡り歩かねばならないということなのかなんという絶望だせっかく帰ってこれたと思ったのになんという仕打ちだなにをそんなに怒っているんだいとぼくはその怒っているぼくに向かって話しかけたあたりかまわず喚き散らして怒りを表現しているとぼくがなにをそんなに怒っているんだいと話しかけてきたなんだいこのぼくはぼくを慰めるつもりなのかいいい度胸じゃないかこれからぼくはぼくに殺されるということも露も知らずにそうだ犯人はぼくなのだとぼくは口に出して大声で言ったなんだ怒っていたと思ったら急に自分が犯人なのだとこのぼくは言い始めた推理小説の真似ごとだろうかそれにしてはトリックも動機ももろもろも感じられないしそもそも事件ってなんのことだろうなんというチープな小説だそんなぼくは古典SFなり読んでいたらいいんだそうだそうだそう罵倒しようものかそれとも心のうちに秘めておくべきか迷っている間にぼくはぼくを血走った眼で見てくるぼくはもうさっさと目の前のぼくを殺して次の世界に行ってやろうと考えたきっとぼくからしたらぼくは血走った充血した目の殺人鬼に見えているかもしれないが実際にぼくは何人ものぼくを殺してきたのだそういえばぼくは目薬を持っていたんだったぼくは内ポケットから目薬を出してそれをぼくに差し出したするとぼくは案外あっさりとそれを受け取るものだからもしかしたら案外冷静でいるのかもなと思ったぼくが突然目薬なんて取り出してくるから驚いたが有り難く受け取ることにした確かにぼくの眼は赤くなっているようだったから目薬をさしておく必要もあるだろうなと思ったしそれにぼくからの親切心を無碍にできるほどぼくは人間ができてはいないしそういえばさきほどからなにか違和感があるのかと思えばぼくとぼくの思考が同時的に進行されているこれはつまりこの世界では実体というものが存在せずそれこそ本当に水槽の脳のようないやそれよりもタチが悪いそうだこれは文字だ言葉だぼくたちは言葉という存在に落とし込められて一段落に押し込まれようとしているなんだってそれは大変だいったいぼくたちはどうしたらいいんだいそうだなひとまずおまえが死ねばぼくひとりになるから一段落につきひとりというルールを結果的に守り通すことができるんじゃないかえーなにを言っているんだいぼくが死ねるわけないじゃないかそれになんできみはさっきぼくのことをおまえと言うんだい同じぼくだというのにいまおまえもぼくのことをきみと言ったじゃないか同じことじゃないかそうかこうやってぼくたちは今までは客観的に自分たちを見ることでむしろぼくと呼べるだけの近さがあったのに今こうして同じ段落に入ってつまりすごく近い距離にまで入ったらむしろ嫌悪感や自分とは異なる点が露出してきて相手を他者として認識するようになるんだななるほどつまり人間が家族に対してと他人に対してで態度を変えるのはそういう理由があったためなのだなつまり人間は家族であれば家族であるほど消し去りたいと思いながら消えることなく生きている生き物なのだただしその家族という存在がすぐ近くにいる場合に限り喉がかわいたおいそこのぼくちゃん飲み物を買って来いよそこの自動販売機でなにを言っているんだいこのあたりに自動販売機なんてないよそれに今度はまたぼくに呼称が戻ったと思ったらちゃんがついているじゃないか残念なことにぼくはぼくっ娘ではないんだそういうテンションのお話ではないんだよではどういうテンションのときに女は一人称をぼくにするというんだそんなこと知らないけどきっとそういうテンションだってあるだろう男が私って言うみたいにってそれはあたりまえに使うことじゃないかそんなでも急になんでこんな話をしなきゃならないんだ無駄話ばかりしやがってさっさと死にやがれなにをするんだ眼が真っ赤っ赤だぞ病院行ったほうがいいんじゃないか違うこれは故郷を離れたときのあの離別の涙だ充血だそれはなんとも文学的なことだけどぼくは死ぬわけにはいかないよぼくはまだやりたいことがたくさん残っているんだぼくだってそうに決まっているだろう故郷に帰って安息の日々を過ごしたいそれは誰しも思うことだろういやぼくは故郷じゃなくてもいいこの都会でもいいんだそれよりもぼくはこれからももっとたくさん本を読んでいたいしオムライスを食べていたいしかわいい店員さんに見つめられていたいんだ三番目のが真理だねだから死ぬわけにはいかないんだなんだそれっぽっちの理由で理由なんてどうでもいいよ生きたいと思うのは人間の道理だろうでもそれはぼくの思っていることでもあるのだろうねだからぼくを殺そうとしているのだろうねだからぼくはぼくに向かって死ねとは言わないよでもぼくだって死にたくはないだから共存の道を今こそ切り開いて平和に解決しよう手を取り合ってといってもまさかぼくがそんな話に乗るわけがないからここはひとつ契約といこうじゃないかぼくがぼくと契約を交わすというのはなんともシュールなことだけれども契約としてはなんの問題もなく成立するはずだろうぼくはぼくが元の世界に戻ることができるよう支援しようなにを言っているんだそんなことぼくにできるわけがないだろう虫が良すぎるいいやぼくは知っているんだよ具体的になにをするのかといえばぼくは元の世界に戻る方法を実は知っているなんでぼくが知っているっていうんだ知っているんだよだってぼくはぼくだからねなにを言ってるんだぼくたちは気づいていたはずさ本を開いたときに異世界に飛ばされたことや助詞や助動詞の制限が加わったこともあったしぼくたちは気づいていたはずだし気づいていたのに無視をしていたんだそれは思考停止と同じことだと思わなかったのかいぼくたちは元の世界に戻る方法を知っているんだよそれを今ぼくはぼくに気付かせているだからそれを交換条件につまりぼくが元の世界に戻ると同時に僕もまた元の世界に戻ればいや同時にというのは同じタイミングとかそういう意味ではなく深い意味はないのだけれどだからだからぼくたちは、知っていたはずさ、ぼくたちはいつでも元の世界に戻れるんだ、分かるだろう、逆に言えばぼくたちは、いつだって異世界の扉を開くことができる、そう、いまこそ本を閉じるときだ。了。
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ハッと我に返った。
白昼夢でも見ていたのだろうか。本を立ち読みしながら、どこか遠くへ行っていたような気がする。
なんと知らぬ間に本を最後まで読んでいた。飛行機が急上昇する。三百ページ以上あるこの本を、立ち読みで読み切ったというのか。にわかには信じられなかった。
なんだか居たたまれなくなって、その本を買うことにした。レジに持っていく。いつもの店員さんに本を差し出した。
差し出しながら、本を眺める。蒼い海の表紙は、読み終えた後に再度眺めるとまた違った意味合いが感じられて面白い。微笑を漏らすと、いつものように店員さんの視線を感じた。
カバーをかけるかと言われたが、もう少しその表紙を見ていたかったから、いいえと答えた。
海のイラストには、大きな文字でタイトルが記されている。
――「ONE」というタイトルが。