-


トップへ戻る短編一覧に戻る


小さな広い箱のなか



 ここからは暗黒星雲がよく見える。雲のくせにそれは動かずに、ここの空に居座っている。もしかしたらゆっくりと、他の雲みたいに、縮んだり分かれたりしているのかもしれない。ただ、それがすごくゆっくりというだけで。
 ぼくが生まれたときから浮かんでいるあの暗闇を、ぼくは眺めるのが好きだった。なにか嬉しいことや、悲しいことがあったとき、この塔に来て、そのことを伝えるんだ。近所のネリーが転んだのを見ちゃった、とか、先生の調子がおかしくなっちゃって今日はお勉強お休みなんだ、とか。もちろん、口には出さないけれど。きっとあの暗闇なら、声に出さなくてもぼくの言うことを分かってくれる気がする。
(おーい、ラムー!)
 弟の声が脳内に響いた。遠くからぼくの名前を呼んでいる。ぼくがどこにいるのか分からないんだ。内緒でここに来たから、その情報をそとに漏らさなかったから、当然のことだけど。
(返事しろよ、ごはんだってさ)
 暗黒星雲を見上げた。じっとしてて動いているようには見えない。ぼくは上空を眺めながら、もう少しだけ無言に徹してみた。
(返事しろよ……今日はトートスの煮付けだぞ)
 弟の声を受動して、誰かがごくっと喉を鳴らしていた。ひとりではなくて複数の人間が、トートスを想起してよだれを垂らしている。
「分かった、今すぐ行くよ」
 そう言って、ぼくは立ち上がった。塔のてっぺんは少し肌寒い。地面の熱が届かないんだ。暗黒星雲のところは、もっと寒いのだろうな。そう思いながら手を伸ばした。もちろん届くことはない。なにもないところを掴んで、感触も味わえないまま。
「また来るよ」
 空に向けて発言して、塔を下りた。ぼくの発言に反応して、弟が(だれかと会ってたのか?)と不要な疑惑を向けてくる。この塔に通っていることは秘密にしていたので、ぼくはその疑念を晴らそうとはしなかった。確かに、ぼくはあの星雲に会っていたのだ。
 誰かが遠くでくしゃみした。脳内で音が響く。大丈夫、とその人が誰かに向けて声を出す。風邪なんて珍しい。そう感想を抱きながら、その思いをそとに出さないように気をつけて歩く。いちいち知らない人と会話なんてしていられない。面倒臭い。
 地面は温かい。今日はいつもよりも温かくて、一歩進めるごとになんだかくすぐったくなっていた。ふぅとつい声を漏らしてしまう。しまったと思ってももう遅くて、その声が星全体を駆け巡った。複数の人がぼくの吐息の意味を探っている。これだからアウトプットは嫌になる。
(ラム、どうしたんだ?)
 弟がそう訊いてきた。
「……なんでもないよ」
 弟だけでなく、他の人へ向けても発言した。ほとんどの人がその発言によって、ぼくの吐息から興味を失くしてくれる。つい息を漏らしてしまうことだって、だれにだってあるだろう。
 あの暗黒星雲は低いところからは見えにくい。地面が空気を温めてしまって、空に少しだけ膜ができているせいでもあった。だから、あの星雲のことを知らない人も少なくない。ぼくはあれを題材にアウトプットしたことはただの一度もない。あれは秘密の友達なんだ。
(今日はトートスのほかに、ラムが大好きな、コーヤ肉のソテーもあるってさ)
 弟がふいに言葉をかけてくる。足の裏に力が入った。足を進める。今日はコーヤ肉のソテーだ。
(いいなぁ、わたしも食べに行っていい?)
 ネリーが口を挟んできた。ネリーは、ぼくが彼女の転んだところを見たのを、知らない。ぼくはそのときぷいと振り返って、そのまま逃げ去ったからだ。
(こらこら、うちの家は鍋するんだぞ)
 ネリーの父親がそう嗜めた。知らないだれかが唾を飲み込む音が、頭の中に滲みこんできた。ひとりじゃなくて複数だ。ぼくは鍋よりもコーヤ肉がいい。
 お腹が空いてきた。お腹が減った音がする。音が惑星全体に伝わる。くすくすと誰かが笑っていた。すこし恥ずかしくなる。ネリーも弟も笑っていた。
「そう笑うなよ」と言って、その直後にまた後悔した。ぼくの声が全体に広がって、みんな、ぼくの恥ずかしい感情を読み取ってしまった。
 家に戻ると、温かいにおいが充満していた。コーヤ肉のソテーだ。ぼくはきっと満面の笑みでも表していたのだと思う、弟が苦笑いしていた。表情はアウトプットだけれど、視覚によるアウトプットだから、範囲は家の中に留まる。だから恥ずかしいことはない。ぼくはさっそく席について、食器を手に取った。
「ラムはほんとにお肉が好きだねぇ」
 お母さんがそう言って、お父さんが和やかに笑った。弟もくすくす笑っている。ネリーが笑っているのも分かった。ほかの知らない人たちも、なぜだか笑っている。そのうちの数人は、ぼくの味覚情報をどうにか認識できないか、試しているようだった。味わうことはインプットだから、そんなことできるはずないのに。
「肉が好きなんじゃないよ、コーヤ肉が好きなんだ」
「なにが違うんだよ」
「ぜんぜん違うよ」
 よく説明できないけれど。
 どこかでだれかが、(明日はコーヤ肉にしようかしら)と呟いていた。それを聞いたほかの人が、(そうしよう)と返している。ぼくは二人の会話に参加したかったけれど、他人にいきなり話しかけるのは失礼かもしれないから、控えることにした。アウトプットには節度が必要だ。
 いくつもの情報が脳内に流れてくるけど、コーヤ肉を前にしているぼくにとって、それは砂粒のようなものでしかない。においや食感を噛みしめると味が出てくる。その直接的で喜ばしい情報が、脳内を占拠して、ほかの介入を許さない。
「おかわり!」
 大声が響く。恥ずかしくはなかった。
「はいはい」と、お母さんがぼくから皿を受け取る。複数人がくすくす笑っていたかもしれないが、コーヤ肉の前ではそれはなんともなかった。においが恥ずかしさを覆い隠してしまう。
(ママー、うちもコーヤ肉にしようよー)
 ちょっと離れたところに住んでいる、男の子がそう言っていた。
(だめだめ、あんな高いもの)
 そうだ。そういえばこの肉は高級なものだったんだ。市場ですぐに見つかる肉だけれど、ほかの肉よりも高いんだって、このまえ聞いたことがある。
「お母さん」
「うん、どうしたの」
 食卓に並ぶ肉は、どれもコーヤ肉だ。普通の安い肉は、混ざっていない。この前コーヤ肉を食べたときは、ほかの肉が半分くらい混じっていた。高いから。
「今日はなんで、コーヤ肉なの」
 ぼくの質問のあと、一瞬の空白ができた。みんな口を閉じて、目を開けて。脳内に流れるアウトプットも、その一瞬だけは、途切れたように思えた。
(えー、うっそー。ラムってば知らないのー?)
 その空白に最初に色を注ぎ込んだのは、お隣のネリーだった。
「ほんとに、知らなかったのか?」
 弟がそれに続く。
「なにを」
 ぼくは本当に思い当たるものがなかったので、素直に訊くしかなかった。脳内で笑い声が歩く、足跡がついて気分が悪い。
「なんなんだ」
 ぼくだけが知らない。そんな孤独が胸をしめつけた。ぼくだけが知らない。悲しいと感じることは表に出ないものだから、きっと誰もぼくの気持ちに気付かない。複数人が笑い続けていた。ある人はぼくに対してではなく、娯楽映像を観て笑っているようだった。それでも気分が悪かった。
「そう落ち込むなよ」
 弟がそう言った。ぼくの感情は流れ出ないはずなのに、なぜ分かったんだろう。
(船がね、来るのだよ)
 どこかのおじさんが口を挟んだ。
「船?」
 ぼくの顔を見て、「ほんとに知らなかったのか」とお父さんが遅れて驚いていた。ぼくはコーヤ肉を口に入れたいと思っていたが、なんとなくそれは憚られた。手の居心地が良くない。
「遠くの星から、交流船が来るのよ」
「交流船?」
「そう、星間の、交流のための船。たいへんなことなのよ。お母さんも生まれて初めてのことなのだから」
 ぼくは頃合を見計らってコーヤ肉を口に入れた。それを咎める人はいなかった。噛む。
「それでな、おれ、交換留学生に選ばれたんだ」
 ぼくは急いで口の中のものを飲み込んだ。弟の言葉がよく分からなかった。疑問を口に出す必要があった。
「とっくに知ってると思い込んで、おまえには言い忘れていたんだろうな」
 お父さんの口調を耳にして、これが本当のことなのだと実感する。
「相手の星から数人、ここからも数人、お互いに留学しあうのよ」
(文化交流、そして技術の融合にたいへん役立つ企画であるのだね)
 さきほどのおじさんがまた口を挟んできた。
(ラムくん、きみの弟さんは、この星の未来を担う、重要な役割に選ばれたのだよ)
 その言葉に、弟が照れた顔をする。
「コーヤ肉は、そのお祝い」
 ぼくは皿の上を眺めた。コーヤ肉がたくさん。奮発して、弟を祝っていたんだ。そんなことに、ぼくだけが知らなかったなんて。
「そっか」
 ぼくが皿を見下ろしているから、お父さんにはそれが落ち込んでいるように見えたらしい。お父さんがぼくの肩に手を載せた。お父さんは、弟とは違ってぼくの感情が読み取れないようだ。
「まあ、少し長いお別れになるかな」
 お父さんがぽんぽんと肩をたたく。ぼくはコーヤ肉を見つめたまま。
「ごちそうさま」
 席から立った。お父さんの手が離れる。
「もういいのか、あんなに美味しそうに食べていたのに」
 弟に言われた通り、ぼくはまだ食べ足りない。けれど、今日はもう食べる気にはなれなかった。
「おまえが食べなよ」
 そう言って、自分の部屋に行った。
(ラム、悲しいの?)
 ネリーが訊いてくる。ぼくは答えずに、寝床に沈んだ。
 脳裡にあの暗黒星雲が甦ってくる。そこからおかしな形の人間が、船に乗ってやってくる。そんな想像をした。
 おやすみ。口には出さないで、脳内だけで呟く。いくつものアウトプットの中に、自分の言葉が混じって消えた。
(おやすみ)
 弟が、今の声を聞いていないはずの弟が、そう話しかけてきた。

 交流船が来た。重そうな大きな船だった。楕円を引っ張ったみたいな形をしていた。こんな形でどう空を飛ぶのだろう。お父さんに訊いてみても、良い答えは得られなかった。
 なにより驚いたのが、船から出てきた人が、ぼくらの姿となんら変わりがなかったことだ。頭でっかちでも四足歩行でもないし、ぼくらの二倍大きいわけでもない。ちゃんと頭と手と足があって、背の高さも、まちまちだった。
 船は三日後に出発する。それまでは互いに最初の交流を深めてゆくらしい。弟は交換留学生のひとりとして、みんなの前で挨拶をした。緊張しているらしく発言は途切れ途切れで、聞き取りやすいものではなかった。
 広い星はたくさんの人でごったがえした。交流先の人たちは、ここよりもずっと大きな星に住んでいるそうだ。船に乗っている人数は、もしかしたらぼくら住人と同じくらいだったかもしれない。
 盛大な祭りが開かれた。(祭りは、文化を提示するのがたやすいものなのだよ)と、いつもの物知りのおじさんが誰かに話していた。祭りとは、文化。小店が開き、食べ物が並べられた。ともかく人が多かった。
 ぼくは家族と、人混みのなかをぶらついていた。弟は交換留学生のひとりなので、ぼくらとは別行動だ。先ほど片言の挨拶を終え、どうやらいま弟は、船の偉い人の話を聞いているようだった。たまに(はい)という威勢のいい、だけれど同時に若々しい返事が流れていた。今後のことでも聞いているのだろう。
「ねえ、あれはなにかな」
 ぼくはお父さんに、目に見えたものを指差しながらふと訊いた。ぼくの指の先には、なんだかものものしい機械がある。箱のような形をしているけれど開きそうにない。一部分で、小さく光が点滅していた。
「さあ、なんだろうなぁ……あの、分かりますか」
 お父さんも知らないようで、お父さんは、物知りのおじさんに質問した。おじさんはこういうとき、いつもあっさりと教えてくれるんだ。
「四角くて、一部光が点滅していて……それと、長い棒のようなものが横についているんですが」
 お父さんがおじさんに説明する。見るという行為はインプットだから、ぼくらがなにを見ているのか、おじさんに通じないんだ。
(さあ、実物を見てみないことにはなんとも)
 お父さんの先回りした説明もむなしく、おじさんは答えられなかった。普段なら簡単に教えてくれるのに。おじさんは(すみません)と言って、それからまた、誰かとの会話に戻っていった。船からやってきた誰かと、会話をしていたらしい。
「失礼だったかな」
 とぼくはお父さんに訊いたが、(いえいえ、とんでもありません)と、おじさんが先に答えた。次の瞬間にはその会話の相手に断りを入れていて、大変そうだな、と思った。
 知らなくてもいいや。しばらく経つとそう感じるようになった。きっと、この星にはない特別な、だけれど向こうにとっては特別でもない機械。そう思っておけば難しいことはなくて、納得がいった。
 そう思ってすぐに、違和感が体中を駆け巡った。幾多ものアウトプットが、頭の中に、流れ込んでくる。見えない言葉に殴られる。頭がくらくら。体の軸が左右にぶれた。立っているのもしんどくなる。これは……情報の津波だ。
 ぼくはおぼつかない足取りで歩いた。前に向かって歩いているのか、確信がなかった。足を前に出しても、まるで横に進んでいるような感覚に苛まれる。ぼくはどこにいる。ぼくはここにいる。こことはどこだ。ぐるぐると思考が混ざった。情報がぼくを侵す。頭の中が、荒れて、荒れて。
「あの、あ、大丈夫ですか?」
 誰かが、ぼくを救い出してくれた。視界が晴れてくる。ぱちぱちと頭の中がはじけた。ぼくの自我が、あふれる情報を駆逐している。ぼくの頭のなかに「ぼく」の居場所が取り返された。
「あの……」
「あ、ありがとうございます」
 ぼくを救い出してくれたのは、見たことのない女の子だった。ぼくよりも少し背が小さい。同じくらいの歳じゃないかなと思った。
 彼女は、ぼくが突然感謝するものだから、困ったように首を傾げていた。首を傾げる、これは疑問に思っているという意味がある。おじさんがこの前教えてくれた。
 ぼくは彼女の顔を見ながら、先ほどの津波のことを思い起こしていた。まれにあることだ。たくさんの人が集まったとき、ふと気を抜くと、一気に人々のたくさんのアウトプットが、自我を押し倒して入り込んでしまう。小さいころは、その症状のためによくお母さんに診てもらった。ぼくのほかの人は、こんなことにならないそうだ。
 良かった。今回は大丈夫そうだ。女の子が、直接近くで話しかけてくれたから、受信するアウトプットがそのひとつに集中され、そのおかげで脳内に余裕がうまれた。だからぼくは感謝したのだ。
「えっと……」
 彼女は、視線を動かして、なにやら思案している。なにを話せばいいのか分からないのかもしれない。ぼくも分からない。
 お父さんはどこへ行ったのだろう。きっと津波が起こっているあいだに、ぼくがあべこべに動き回ったから、はぐれてしまったのだろう。
「お父さん」
 ぼくは、彼女の横顔を眺めながら、お父さんを呼びかけた。人混みのどこかにいるはずだ。
 しかし、ぼくはすぐに気付いた。ぼくはまるで、白紙の上に立っているみたいだ。お父さんの声が聞こえない。誰の姿も見えない。インプットが閉ざされているんだ。
 ぼくの意識は、目の前の彼女だけに向けられていて、他の方向を除外してしまっている。津波の衝撃がいまだ抜け切っていないらしい。ぼくは彼女のほかに、ぼくのまわりに誰がいるか知覚できていない。聞こえない、見えない。分からない。こんな感覚は久しぶりだったので、ぼくはどうすることもできずに、ただ彼女のことを眺めていた。情報に飲み込まれそうなところを、助けてくれた彼女。話しかけてくれた彼女。しかしいまは、助けてくれたせいで情報がやってこない。
 こういうときは、どうすればいいのだっけ。ぼくは考えて、分からなくなってやめた。彼女は気まずそうにその場を動けずにいる。この子から離れたほうがいいかもしれない。ぼくはふとそう思って、だけれど自分も動けずにいることに気付く。
「あの」
 ぼくは彼女に話しかけた。あたりはしんと静まりかえっているけれど、それはぼくの主観であって、彼女にとっては人混みのなかなのだろう。そのためにぼくの声は掻き消されてしまったようで、ぼくの声は届かなかった。もう一度、「あの」と言う。
 二度目は気付いてくれた。不思議な目をしてぼくを見やる。
「あの、助けてください」
 いま、ぼくの声が届くのは彼女しかいなかった。実際には、お父さんにも、おじさんにも、ぼくの声は届いている。しかし届くというその実感が、いまのぼくは欠如している。彼女を介さないと誰ともぼくはアウトプットできないでいた。
「あの」
 また声を出そうとしたとき、視界がじわじわと蝕まれてゆき、ちくちくと胸が痛んだ。

 その次の瞬間には、また視界が端っこから甦ってきていた。黒い空間が、中心へ向けて崩れてゆく。それは、ぼくが暗黒星雲に会いに行く、あの塔が崩れる様子を想起させた。
 目の前はさきほどの少女ではなくて、人の顔でもなくて、真っ白な天井だった。まだ視界が曖昧だ。ぼやけている。天井が見たこともないほどの白色だった。ここはどこだ、と頭が考えて、ここはここだ、と自身で答えていた。
 天井はあまりに白く、そのためかかえってあたりは暗い。ここは小さな部屋だった。ぼくは自分が、小さな箱のなかに閉じ込められたおもちゃになる想像をした。その想像が過ぎ去ると、また曖昧な空気が視界を占めていた。ここは明るくて暗い。
「起きたか」
 聞こえる声は、脳内に流れてくるアウトプットなのか、実際に耳から取り入れている情報なのか、よく分からなかった。そこであたりをもういちど見渡してみると、明るい暗闇に、ふたつの目玉が浮かんでいることに気付いた。視界のもやがはがれていく。ぼくは自分の目をこすった。まだ目玉はそこにあった。でも体もあった。
 その人は、褐色の肌をしている。男の人だった。見たことのない顔だ。きっと船でやってきた、他の星の人なんだろう。その人は椅子に座って、難しい顔をしてぼくを見つめている。ぼくは体を起こそうとして、だけど体に力が入らないことに気付く。ふいにもどかしくなった。
「きみは、この星の子だね」
 男の人が言った。口が動いてようやく、その顔に口があることを知った。ぼくは頷いた。
「私もね、少なからず驚いたよ。異星であるのに、こんなにも、むしろ差異点をあげるほうが早いほどに似ていただなんて。……無論、私の生まれるずっと前に、この星々に交流があったことは文献で知っていた。しかしね」
 男の人はふと、口をつぐんで首を横にふった。その動作は否定的な意味をもつ。でもなぜこのタイミングでその動作が出てきたのか分からなくて、ぼくはその人から目を逸らした。部屋は明るくて暗い。ぼくの横たわるベッドと、椅子と、それしかない。扉がどこにあるのかも分からなかった。視界のもやは、まだ少し残っているのかもしれない。
「あの……」
 あの、声をかけてくれた女の子の姿を思い浮かべた。なぜかは分からない。分からないままに、ぼくは褐色の男の人に話しかけていた。
 男の人は、「なんだい」と思ったよりも優しい口調で、頭をぼくのほうへ固定する。ぼくはまた起き上がろうとして、まだ体が動かないことを自覚した。だんだんイライラしてくる。
「ここは、どこですか」
 頭の中は、いまだ真っ白だ。この部屋のように、真っ白に塗り包まれているけれど、暗くて、不明瞭。お父さんの声も、お母さんの声も、伝わってこない。よほど津波の衝撃が強かったのだろう。気を失ったのはこれで二回目だけれど、はじめてのときは、目覚めたときには治っていた。
「ここは交流船のなかだ。その医務室。きみの症状が私たちの星では見られないものだったから、治療のすべが分からなくて困っていたのだけどね。どうだい、もう大丈夫かい」
 ぼくは首を横に振った。遅れて、口で「いいえ」と発言する。この声はお父さんたちに届いているだろうか。思って、また首を横に振る。分からない。
「もうすぐ、きみのお母さんが迎えに来るだろう。きみのお母さんは医者だそうだね」
 それからお母さんが来るまで、男の人はよく分からない話を延々と続けていた。ぼくに話しかけているようでも、ひとりごちているだけのようでもあった。ぼくはときおり体を起こそうとして、起きないことを感じて、また力を抜く。そんなことを繰り返しているうちに時間というものは経過して、部屋のなかが徐々に明るくなった。壁や天井が光っているのだと気付くまで、いくらか時間がかかった。でも気付いたところで、ぼくの体が動くようになるわけではなくて、ぼくは男の人の流れてゆく言葉とともに、もどかしい気持ちを、積もらせていくのだった。
 ……ふいに扉が開いた。壁だと思っていた白い平面は、壁であると同時に扉でもあったらしい。でも入ってきたのはお母さんではなかった。ぼくは背中がひんやりする感覚を味わった。入ってきたのはあの女の子だった。
「おや、アイ。どうしたんだ」
 男の人は椅子から立って、さっきまで自分の座っていたその椅子を彼女に促した。彼女は男の人には目もくれないで、ぼくを見つめている。背中がどんどん冷えてゆく。イライラした感情も同時に減少していた。
「この子が、きみをここまでつれてきてくれたんだ」
 男の人が嬉しそうに言った。部屋が明るくなったために、その人の表情も明るくなっているのかもしれない。
「違うよ。人を呼んだだけで、私は、運んでない」
「そりゃそうさ。言葉の綾だよ。同じぐらいの歳の子を、きみのようなひ弱な子が運べるわけがない」
「うわー失礼」
 どうやらふたりは友達らしい。ぼくはふたりの顔を交互に見ながら、また体が起き上がらないか、試してみた。体がかじかむ感じがする。いままでなかった感触だ。ぼくはもっと力を入れて、上半身を起こしにかかった。お腹が小刻みに揺れた。頑張っても仕方ない。お母さんが来るまで待とう。そう考え直して、また力を抜くまで、さほど時間はかからなかった。
 男の人は明るい表情をしているけれど、彼女のほうは――男の人は彼女を「アイ」と呼んだ――無表情で、あまり笑わない人なのかもしれない、とぼくは早々に思った。
「倒れたときは驚きました」
 ふいに、アイさんがぼくに話しかけてきた。ぼくはいまだ起き上がれずで、椅子に腰掛けた彼女を、ぼくは見上げる形になる。
「すいません。迷惑かけて……。それと、ありがとうございます」
 体は動かないのに声は容易に出せた。でも唇が乾いてうまく発音できたのか不安だ。彼女はぼくの言葉を聞いて、しばらく無表情を保って、それから分からないような顔をした。
「アイ、翻訳機はどうしたんだ」
「もとから持ってなかったの。祭りのときは無線のやつがあったし」
 アイさんはそう言って口をとがらせる。だけれど目が笑っていないのがどこか不気味だった。初印象と違っていて。
 でも良かった。彼女が来てから、頭や体がだんだん回復してゆく感じがした。ぼくはこっそり、もういちど体を持ち上げようとして、実際に少しは持ち上がった。頬がつられて持ち上がる。でもすぐに引っ込めた。アイさんにその顔を見られなかったか心配になる。彼女の目はまだ笑っていなかった。
 つまらないのかもしれない。表情はアウトプットのひとつだけれど、視覚的で範囲が限られていることもあって、簡単に嘘をつくことができる。そしてぼくは、彼女の表情が真意からくるものなのかどうなのか、分からなかった。そんなことを考えているうちに、彼女と男は会話を繰り広げている。ぼくは耳をかたむけて、はたと気付く。頭のなかに、ふたりの会話が入ってこないんだ。まだ全然治ってやいない。ぼくはまた不安に駆られて、天井に目をやって、その明るさに驚くのだ。
「……ところで、アイ。この人はなぜ倒れたんだ? 症状が分析できないんだ」
 ぼくはその声で、天井からまた目を離した。ぼくが倒れたのは情報津波のせいだ。頭のなかに、たくさんのアウトプットが流れてきて、自分の思考と他人の声とがごっちゃになったのだ。それを言おうとして、でもアイさんの口元を見てやめる。
「なに? レポートにでも書くの」
 アイさんは少し眉をひそめた。
「そりゃ書くさ。そのために来たんだから」
「正直だね」
 男の人は、両手を居心地悪そうに忙しなく動かしている。どこに収めればいいか了見がつかないらしい。だけれどアイさんは、その手にはあまり関心がないようで、男の人に目も向けない。
「私にも分からないよ。この星のことはまだ、分からないことがたくさんある」
 少し時間が経ってから、アイさんはそう言った。その顔もつまらなそうだったから、ぼくはすっかり教える気分をなくしていた。教えたところでどうなるんだ。言葉は直接伝わらないのだ。よく分からなかった。
「……ほらでも、インプットとか、アウトプットとか、そういうのが原因なんだと思うよ」
 取り繕うような彼女の付け加えに、思わずどきりとした。そのとおりだ。
「ああ、あれ。私にはあの器官のこと、よく分からないのだけどね」
 男が口の端を曲げた。不満を感じているのかもしれない。この人の表情は読み取りやすそうだ。
「そりゃそうでしょ。教授たちがいま調べてる最中なのに、きみが分かるわけない」
 気付けば天井や壁はいっそう白くなっていた。これらは照明の機能も兼ねているんだな、と、今更ながら納得する。アイさんの言葉に、男は露骨に眉をしかめた。はいはい、雑用係には分かりませんよ。男は小さくそう呟いたけど、アイさんは見向きしない。聞こえなかったのかもしれない。
 それから少しして、やっとお母さんがやってきた。お母さんはぼくの様子を見て、また倒れたの、と発言した。男の人が顔をしかめた。
「迷惑をおかけしました。この子、生まれたときから頭が弱くて。インプットの制御もろくにできないんです」
 ふたりはこの星の人間ではないから、ぼくのことなんて知らない。お母さんはそう判断したのだろう。きっとそのとおりだ。でも。
「ああ」と納得したように頷いた男の人は、その瞬間から、どこか違う空気を醸しだしていた。ああ、という少ない言葉が、ぼくへ届くまでに化物になって、首元をさらう。天井が一気に暗くなった気がして正面を向いた。でもそれは気のせいだった。急に体全体が重たくなった。だるくなる。
 アイさんからは、そんな気配は流れなかった。あの男からだけだ。なにか異様な、いままで感じたことのないアウトプットが男の一挙一動から漂っている。お母さんもそれに気付いたのか、一瞬だけ、男にひそやかな視線を向けているのが分かった。
「あの、これはよくあることなのでしょうか」
 男が、お母さんに質問する。レポートを書くといっていたから、そのために情報を収集しているのだろう。
「この子だけにあることですね。他人のアウトプットを受け取る機能に、少し欠陥があって、自身の思考をつかさどる皮質にアウトプットが直接的に干渉してしまう――そのために自分と他人の区別がつかなくなり、瞬間的に思考の働きをとめてしまう症状です」
 お母さんの説明に、男の人は考えるように顎を揉んだ。小さく唸る。
「申し訳ありませんが、その、〈アウトプット〉〈インプット〉というものが、私たちには分からないのです。私たちの星にはない概念――この星の人間だけに宿る機能のようですが」
「そのようですね。この星特有のもののようです。この星では、物事の伝達手段は、大まかに二種類に分けられます――それが〈アウトプット〉と〈インプット〉です。アウトプットとは、伝達のうち能動的な行動――たとえば、話す、書くなど――で、インプットとは、その逆、受動のことです」
 お母さんが事務的に説明をする。この星に当然のごとく広まっている伝統は、他の星の人にとってはまったく分からないことになりえる。その一端を垣間見た気がした。そんなことも知らないんだ、という感情と、そうか、この星だけのものだったのだな、と納得する気持ちが同居する。
「あなたが、アイさん」
 お母さんは、視線を男からアイに移した。
「あ、はい」
 アイさんは椅子から立ち上がって、お母さんに向けて頭を下げた。腰から上半身を曲げている。男の人が眉をしかめた。
「アイ、オジギは伝わらないぞ」
 オジギ、という男の発音は、どことなくぎこちなく聞こえた。ぼくは、彼女の垂れた髪を見る。黒色で壁の光につややいでいた。綺麗だ、とふと思ったときには、彼女は頭を持ち上げていて、男の人をねめつける。
「そちらの星の挨拶でしょうか」とお母さんが質問をする。二人の顔つきから、それを訊いていいものなのかぼくは考えあぐねていたが、お母さんはそうでもないらしい。質問しないと認識の溝は埋まらない。これは誰の言葉だっけ。
「いえ、私たちの星でも、特に彼女やその周辺の人だけが使う挨拶です。私たちの星は広く――そのために文化に流派があるのです」
 男の言葉は、暗にぼくたちの星が小さいことを示していた。しかしそのことは傷つくような要素ではなくて、お母さんは「そうですか」とそっけなく答えた。
 それからうやむやな時間が過ぎて、ぼくは家に帰ることになった。まだ動きづらいけれどお母さんの肩を借りれば歩けないこともないくらいに回復していた。少しずつ、星の上でおこなわれている会話が届いてくる。
「ありがとうございました」
 ぼくはもう一度だけアイさんに挨拶をした。彼女の真似をしようと、腰を曲げてみようと思ったけれど、そうしたら前に倒れてしまいそうで怖かった。
 アイさんの「またね」という優しい言葉と、男の人の「さようなら」という事務的な言葉が、一緒になってぼくの背中を押した。男の人からは、あれから、不気味なものが含まれていて好きではなかった。あれはなんなのだろう。ぼくにはまだ分からなかった。

 アイさんと知り合いになった。というのも、昨日と同じように街を歩いていると、彼女とまたばったり出会ったんだ。昨日と違って、ぼくは彼女にスムーズに話しかけることができたし、彼女もさほど無表情ではなかった。
「あれはなに?」と、昨日おじさんに訊いても分からなかった箱を指で示す。あれはアイさんたちの星の人が持ってきたものだ。
 おじさんも知らなかったから、もしかしたら、アイさんにも分からないかな。そう思っていたけど、彼女はあっさりと、「共同無線翻訳機」と言った。難しい言葉だったけれど、言葉を少しずつ分解してゆくとだいたい理解できた。あれは、ぼくら異星の人の言葉を、自分の分かる言葉に変換して伝達する機械らしい――。
「きみたちはさ、頭のなかに、特別な器官があるらしいから、翻訳がいらないみたいだね。私たちはそうでなくて、分からない言語は、自分の分かるものに置き換えないと理解できないの」
 アイさんの説明に、遠くでおじさんが感心したように息をついた。おじさんが彼女を褒め称えていたけれど、その声は彼女に届かない。彼女にはぼくらが当然持っている器官がない。それがこの星の間の大きな差異なのだそうだ。
 なぜ、ぼくらにあって、彼女たちにはないのだろう。……それを疑問に思って、アイさんに質問してみた。彼女は分からないと答えて、ついでにおじさんも分からないと言った。もともと、ぼくらはアイさんたちの星から別れてきた流派である可能性が高いらしい。文献にあると、アイさんが付け加えた。それを鑑みるに、もともとあったものが、ぼくたちだけ残して、アイさんたちが失ったか、それともこの星にきてからぼくたちの流派がこの機能を手に入れたかのどちらかになるらしい。難しい話は好きではないけれど、アイさんの話はとても楽しく時間を浪費させた。
 アイさんが、この星の案内をしてほしいと頼んできた。ぼくは考えて、コーヤ肉の培養場につれていくことにした。あそこに面白い娯楽機が置かれてあることを知っていたからだ。
「地面が温かいんだね」歩いているとアイさんがそう話しかけてきた。一歩進めるごとに足の裏に熱が伝わる。地熱、というやつだ。
「そうだね。アイさんの星は、そうじゃないの」
「場所によるかな。私が住んでいたところは、寒いところ」
「そうなんだ」
「雪っていうのがね、降るんだよ。雪、分かる? この星にも降る?」
 ユキ。分からない言葉が出てくる。おじさんは今忙しいのか、それともおじさんも知らないのか、口を挟んでこない。ぼくは首を横に振った。アイさんが口元を小さく曲げた。
「白くて小さくてね。冷たいの。その粒が地面に積もって、地面が真っ白になるんだよ」
 そんな話をしているうちに、コーヤ肉の培養場に着いた。大きな建物がそびえている。大きいけどそれは古くて、壁がところどころはげていた。
 ここのおばあさんは子どもが好きで、自分でおもちゃを作ったりしている。ぼくも名前を貰うまではよくここに来ていた。
 建物の入口あたりに、箱のような立方体が置かれている。ぼくがアイさんをここに連れてきたのは、これが面白いからだった。電子音が鳴り響く。立方体から映像が飛び出てきて、その端っこから丸い玉のようなものが流れ出てきた。それを電子音にあわせてはじく。妙に癖になるゲームだった。
 でも。「ねえ、それよりこのなかって入っていいの」と、アイさんはこのゲームに興味がないようだった。「このゲームつまらない?」と訊くと、「うーん……ちょっと古いかな」と、一蹴されてしまった。
 仕方がないから、培養場のなかを見学することにした。部屋に入らなくても見学用にガラスが張っているところがある。そこならおばあさんは怒らないだろう。
「これがコーヤ肉だよ」
 ガラス越しに見える景色には、固形のコーヤ肉がいくつも並べられていた。チューブが天井からのびていて、それぞれのコーヤ肉に刺さっている。栄養を注入しているのか、悪いものを取り除いているのか、詳しいことは知らないけれど、こうやってコーヤ肉を商品に育ててゆく。
「これは……生き物なの?」
 アイさんが、不思議な質問をした。
「生き物? どういうこと? 食べ物が生きているわけないじゃないか」
 アイさんが眉をしかめる。その顔は、昨日医務室で男の人に向けた顔のようだった。彼女は、嫌なことがあったときに、眉をそうやって歪めるらしい。
「そっか。この星では、食べ物は生き物ではないんだ。あの、とても生き物には見えない有機物は、細胞としての活動はあるようだけれど、生き物ではない――この星にとって生き物とは、細胞が活動しているものを指すのではなくて、意思のあるもの――人間だけ、なんだ。そうか。この星では生き物とはヒトだけなんだ」
 アイさんがぶつぶつ呟いている。その顔がだんだん深刻になっているようで、ぼくは怖くなって彼女の手をとった。アイさんは、ぼくの手をゆっくり見やって、「あのね、私の星では、あまり人の手は気軽に触るものではないの」とたしなめた。ぼくは恥ずかしくなって、申し訳なくなって、怖くもなって、彼女の手から手を引っ込めた。
(ラム。勉強の時間ですよ)
 先生が、突然アウトプットしてきた。勉強の時間。
「ごめん。ぼく、もう帰らないと」
「あ、そう。ごめんね。今日はありがとう」
 ぼくよりも背の低いはずの彼女は、ぼくよりもずっと大人びて見えた。それは星の違いのせいであったり、ぼくの成長が遅れているせいであったりするのかもしれない。でもぼくは、ともかく、彼女の知り合いになったんだってふと思った。
「また明日」でもその言葉を放つのに勇気が要った。
「また明日」アイさんは、こともなげに返してくるのだった。

 家に戻って、先生のモニターの電源をつけた。(それでは、勉強を始めます)先生が動き出す。モニターに早速文字が表れた。ぼくはそれを読んで、インプットに励む。ずっと昔に書かれた文章らしくて、堅苦しくて読みづらい。
 この先生は、ぼくが二歳のときに、お父さんが作ってくれたものだ。頭が普通よりも劣っているせいで、ぼくは普通よりも知識量が少なかった。それを補うために、この星にあるたくさんのアウトプットのデータを、ひとつのディスクに集めてくれたんだ。
 インプット。インプット。モニターに出てくる文字を、目で追ってゆく。必要に応じて声にも出した。先生とはもう一年の付き合いになるけれど、まだ、慣れた心地はしない。この作業はいつまで経っても面倒くさいことだった。
 勉強をしている間に、弟が帰ってきた。弟に話しかけたいけれど、勉強の間は、他のことをすることは許されていない。他の情報を取り入れたり、取り出したりしていたら、勉強の妨げになるからだ。ただでさえ遅れている知識を、効率よく取り入れるためには、きちんと決められた時間をインプットに捧げるほかなかった。
 弟は交換留学生として、明日、あの船に乗って異星へと旅立つ。その準備で弟は奔走されていて、とても疲れているように見えた。弟、まだ名前のない弟。

(ラム。重い。手伝って)
 ネリーがそう話しかけてきたのは、ぼくが起きてすぐのことだった。朝だ。船がやってきてから三日目、弟が旅立つ日だった。
「ネリー、おはよう」
 きっとぼくはあくびをしたのだろう。目覚めのあくび。その音がアウトプットとしてネリーに届いたんだ。
(おはよ。いま裏口のところいるから)
 重いと彼女は言っていた。おそらくなにかを運ぼうとしているのだろう。ぼくは寝床から起き上がって、衣服を整えた。家を出て隣へ向かう。今日も地面は温かい。いつまでも変わらない温かさ。
 隣の家は目と鼻の先だ。足の裏の感触を噛み締めるよりも早く、ネリーの姿を見つけた。庭に入ったときもう一度「おはよう」と言った。起きたばかりで喉が閉じているのか、声がうまく出ない。それでも頭のほうへは届いただろうと思った。このまえの情報津波があってから、ぼくは、自分たちのこの伝達の機能についてよく考える。近くにいてもいなくても、声は届く。それなのになぜ、ぼくたちにはわざわざ耳がついているのだろう。
「これ、ラム」
 ネリーが指差したのは、四角い物体だった。見覚えがある。一昨日、祭りのとき見かけた。昨日、アイさんにこれがなにか教えてもらった。
「交換留学生、ね。向こうの留学生のうちひとりが、私の家に泊まることになってるの。言葉が通じないと困るでしょ」
 なぜこれがここにあるの、とぼくが訊くよりも先に、ネリーは言った。交換留学生。弟が向こうの星に行くように、向こうの星からこの星に来る人もいるんだ。
「でね、おかしいんだよ。昨日、その留学生と話したんだけど、歳を訊いてみたら、十七歳だって……。お母さんたちよりも年上だって」
「え、十七歳? それって、あの物知りのおじさんよりも」
「そう。おじさんの一歳年上。でも見てみるとね、私たちと同じくらいにしか見えないんだもの。笑っちゃうよね」
 でも、ぼくもネリーもまだ三歳だ。
 ネリーと一緒に翻訳機を家のなかに運んだ。確かに、重たい。これをネリーひとりで運ばせるのはおかしなことだった。でもネリーのお母さんもお父さんも、いまはたいへんに忙しくて、ネリーに気が回らないそうだ。ネリーも、もとからぼくに手伝ってもらうつもりで、ぼくが起きるのを待っていたらしい。
「やあやあ、この星の子だね。はじめまして」
 運び終えて、庭に戻ると、そこに見知らぬ男の人がいた。白くて長い服を羽織っている。ヒゲが濃くて白かった。ぼくは、この前の、医務室にいた男の人のことを思い出す。
「えっと……」
 ネリーが困ったようにぼくに顔を向ける。ぼくは、ネリーの肩を小突いてから、「はじめまして」と男に返事をした。男はにっこりと微笑んでいた。
「良い家だね。大気が薄いことを考慮しているのか、実に適切な高さをしている。この庭の広さは、人口密度の低さ、つまり配給される土地の自由度が表されている。実に裕福な星だ、この星は」
 男は、微笑んだままヒゲを撫でた。白いヒゲが滑らかにほぐされていた。
「おっと、自己紹介が遅れてしまったね。未知の者と出会ったときは、互いの情報を交換する。そうすることでそこに交流が生まれ、新たな文化が生成されるのだよ。……私は、ルボルフだ。向こうの星で生き物の研究をしたり、教鞭を執ったりしている」
 ルボルフというその男の人は、そう言って胸を張った。きっと偉い人なんだろう。そんな振る舞いだった。
「ぼく、ラムです」
 ネリーは顔を伏せている。顔を上げる様子がなかったので、彼女を手で示して「ネリー」とだけ紹介した。ルボルフさんは仮面のように微笑んだままだ。
「ああ、きみがラムくんか。話は聞いていたよ」
 その途端。訪れる嫌な感じ。ぞわぞわと。お腹の底になにか埋め込まれたみたいな、それがうごめいているような、嫌な感じが。ぼくは気分が悪くなった。なにがあったんだ。分からない。
「きみ、生まれつき情報伝達器官が劣っているそうだね。……かわいそうに」
 かわいそう?
 ネリーは顔を伏せたままだ。ルボルフさんの顔は仮面を被ったまま。なに。なに。頭が痺れてくる。(こっちだよ)(あら、こんにちは)(この件ですが……)(まだ足りないのではないでしょうか)(レポートは書けたの?)誰かのどこかの声が流れてくる。普段は意識しなくても良いはずのアウトプットたちが、ぼくの体を縛り付けて。
 だめだ。こんなことだめだ。
(ラム……ラム……聞こえるか? ラム!)
 弟だ。弟の声だ。
(そいつの話を聞いちゃいけない。星からやってきた連中誰の話も聞いちゃいけないんだ。まるで考え方が違ったんだ。同じように見えて見えないところが決定的に違ったんだよ、ラム! あいつらは俺たちの知らなかった概念を持っている――「差別」という概念、ああ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い)
 ぼくは駆け出した。「おい、きみ!」ルボルフさんが太い声をぶつけてくる。つんのめりになりながら走り抜けた。弟の気持ち悪いという感情が、恐ろしいほどに伝わってきて、走り出さずにはいられなかった。ネリーが遅れて声を上げる。ルボルフさんがなにか悪態をついていた。
 ぼくが駆け込んだのは家ではなくて、コーヤ肉の培養場でもなくて、いつものあの塔だった。廃れた扉をくぐって螺旋階段を駆け上る。一気に屋上まで辿り着いた。そこにはいつもの暗黒星雲が見えた。
(ラムのばか)
 ネリーの声。悪いことをしたな、と思って、でも、息が切れて言葉が出なかった。
 ――差別。弟はそう言っていた。あの気持ち悪い感じに、名前があったのだ。サベツ。心のなかで反芻する。言葉として理解すると、なんだか気持ち悪い感じが薄まってきて、それに気付いてまたゾッとする。具体的にサベツというものがどんなものかは分からないけれど、ぼくらの知らないものだということは理解できた。
 暗黒星雲はいつも通りそこにあった。塔の上からじゃないとよく見えない、暗くて遠い霧。でも、なんだか、いつもよりも明るくなっているような気がした。
 船は今日が終わると同時に出発する。弟はこっそり悪態をつきながらも、順調に留学生としての準備を進めているようだ。もちろん、こっそりといっても、ぼくら星の人間には筒抜けなのだけど。
「ここにいたんだ」(ここにいたんだ)
 ふいに、声が響いた。二重になって降りかかってくる。ぼくは咄嗟に振り返った。この感覚は、とても独特で、覚えている。直接的なアウトプットがこないものと思い込んでいるときに話しかけられたりすると起こる、一種の錯覚――ぼくの後ろにはアイさんがいた。両手を組んで、屋上に座るぼくを見下ろしている。垂れた髪が暗い空に馴染んでいた。
「なんで、ここが?」
「うん?」
「なんで……わかったの」
 この塔にぼくが通っていることは、誰も知らない。このアウトプットに満ちた星のなかで、ぼくのほかに誰も。知らないはずなのに。
「この塔はなんだろうって、入ってみちゃった」
 そう言うアイさんの表情は、普段より緩んで見えた。でもどこか、疲れているように見える。気のせいだろうか。ぼくはアイさんの視線がくすぐったくて、でも同時にぼくもアイさんからうまく視線を逸らすことができなくて。塔の上には、地面の熱は届かない。
「ここって、入っちゃいけないところだった?」
 そう真正面から質問されては、そうだとは、言いにくい。ここはぼくの場所。そのはずだったのに、ここを独り占めするのもよくないかな、と思いつつある。ぼくはなにも答えられずに、変に意味のない声を垂れ流すしかなかった。
 沈黙が訪れる。その沈黙は気持ちの良いものではなかった。情報津波に襲われたときの、あの空白の時間を思い起こす。沈黙というものは、あの空間が、異常でもなんともないのに訪れる、不気味な時間。ぼくは頭をひねり出した。
「あ、そうだ。アイさん」
 ぼくはなんとか話題を見つけあげた。訊きたいことがあったんだ。
「なに?」
 アイさんは、特に沈黙を苦に思わない人のようで、案外あっさりと返事をしてきた。ぼくはちょっとおどけて、おどける素振りを咄嗟に作って、そうじゃないんだと自分を苛む。
「アイさんって、なん歳?」
「うん? 十九歳」
「えっ」
「十八歳」
 ネリーの言っていたことは本当だったんだ。向こうの星の人間は、ぼくらよりも、ずっと年上の人たちだったんだ。同じくらいの歳だと思っていたのに。ぼくは頭を抱えた。沈黙を破るための質問が、さらなる苦しみをぼくに仕向けている。
「ラムは?」
 アイさんが訊き返してきた。話の流れで、ついでのように訊いてきた。その気軽さがぼくには苦だった。ぼくは三歳なのだ。
 ぼくは答えようと口を開ける。唇がかじかんだ。
「さ、さん。三歳……」
 小声でしか言えなかった。でもきっと、聞こえただろう。その不可思議な様子に、彼女はもう一度聞き返してくるかもしれない。もう一度答える勇気はなかった。
 しかし、アイさんはもうぼくに顔を向けていなかった。ぼくではなく、空をキッと睨んでいる。怖い顔。怒っている?
「アイさん?」
「ラム、あれ、いつからあったの」
 アイさんは、ゆっくりと指を持ち上げる。そのうちのひとつの指が、上空を指した。それを目で辿り、さらにその延長へ進んでゆく。……その先には暗黒星雲があった。
「え、あれは……ぼくが生まれる前から」
「ずっと?」
「うん」
 アイさんが息をついた。あの暗黒星雲がどうしたというのだろう。ぼくはあの星雲に、よくおしゃべりをする。弟たちに聞かれたくないから、思うだけに留めていたけれど、ぼくにとってはおしゃべりだった。そのおしゃべり相手が、どうしたというのだろう。
 暗黒星雲は、普段通りにそこにある。変わったことは――。
 明るい! 光った!
 ぼくは思わず立ち上がった。唾を飲み込む。喉の音がアウトプットとして星中に広がった。(どうしたんだ?)誰か知らない人が、ぼくの異様な感情を察知して疑問を声に出す。疑問の連鎖が起こっていった。心臓が早鐘を打っている。アイさんの手がぼくの腕に当たった。
「逃げるよ!」
 手が腕をすべって、滑らかにぼくの手を取る。そのまま引っ張られて、足が引きずられて。
「走って!」
 走って。アイさんの声は、アイさんに自覚はないかもしれないけれど、この星の全体に伝わっていく。頭ががんがん痛かった。この星の人々が、口々になにやら喚いている。アイさんの言葉に反響する。頭のなかが。
(ラム、どうしたんだ!)
 いくつもの声のなかで、一際聞き取りやすい声。弟の声だ。
「分からない……アイさん、どう、いうことな、の」
 走りながらだと言葉がつっかえる。階段を駆け下りるのは少し怖くもあった。でもアイさんは言葉を汲み取ってくれたようで、ぼくの手を引き続けながら答えてくれた。
「あの暗黒星雲――あれは生き物。きっといままで眠ってたんだろうね。大きな船が来たせいかな、目覚めちゃった。目覚めて、動き出しちゃった」
 走りながらだというのに、アイさんの言葉はスムーズだ。淀みなく流れる言葉を、頑張って受け止めた。でも分からない。あれが生き物? そんなわけないじゃないか。ぼくが生まれる前から、ずっと、ずっと眠っていたというのか?
 そんなわけない、と言おうとして、ふと口を噤む。時間の流れなんてものは、ぼくの器では測れるものではないんだ。三歳と十九歳に、どれだけの間があるのかなんて、ぼくには測れないんだ。
(おい……あれ……)(なんだあれは)(ママ! お空が光ってる!)
 塔の上からじゃないと見えなかったはずの暗黒星雲が、いまは地上から見えているらしい。背中に光を感じる。前方に影がのびていた。明らかに光っている。
「どこへ行くの、どうして逃げるんだよ」
「あの光が届かないところ。あの星雲の反対側に――あっ」
 足がとまる。ぶつかった。走っていた人。ぶつかった。
 ぼくはようやく、周囲の様子を目で捉えた。アイさんも、いまになるまで気付かなかったのかもしれない。
 惑う。喚く。叫ぶ。走る。人々が走る。星もなにも関係ない。みんながあの光の届かないところへと、走って、走って。喉の奥を苦いものが通る。ぼくはアイさんの顔を見た。青ざめている。
 ――こんなはずないのに。
 ぼそっと呟いた声は、隣にいるぼくでもやっと聞き取れるものだった。
 背後から轟音が走る。
 頭のなかは、混沌としすぎていて、むしろ静かだ。暗闇のように、すべてが混ざり合わさってできた黒色みたいに、頭のなかは健康状態にあった。
 ぼくらの傍を、男の人が走り去った。「あ、ルボルフ教授だ」ぼくは呟くが、アイさんは青ざめたまま動こうとしない。ルボルフさんはぼくたちに目もくれない。自分のことで必死になっているのが、よく分かった。
「おい! アイじゃないか!」
 ぐいとぼくの手が引っ張られる。アイさんの肩が引っ張られて、それにつらなったらしい。アイさんの手は固く、ぼくの手を握り締めている。ぼくは一昨日の、ショックのせいで体が動かなくなったときのことを思い出した。
「おい、大丈夫か。ここは危険だ。見ろこの光。毎時二〇〇〇ジリールだ。毎時二〇〇〇ジリールだぞ! 体が壊れてしまう! この星を出るんだ。ほら、ラムくん。きみもだ。この星は終わりだ」
 アイさんは動かない。
「おい、アイ! 船がもう出――」
 閃光が見えた。きっとあの星雲から飛び出た光だ。放射的に明るく光っていたのと他に、まるで光線のような、いや、光線そのものが、飛び出てきたんだ。男の耳を掠める。顔の側面が抉れた。血液が遅れて噴き出す。においはよく分からなかった。鼻が利かなくなったのか。絶叫が響く。苦痛に悶えるその顔を見て、ぼくは、この男の人があの医務室で会った人だと思い出した。男が蹲る。
 逃げないと。死ぬ。死ぬんだ。ぞくぞくと体に湧き上がる。ぼくは逃げようと足を踏み出した。アイさんの手がほどけなくて、前に進まない。
「アイ!」
 男が荒げた声で叫ぶ。大声が耳に痛かった。男は蹲ったまま顔をうずめて叫ぶ。「アイ!」だけれど声は彼女には届かない。人形のようにアイさんの体は凍っていた。握られた手がほどけない。(ラム、ラム! ラムどこにいるの!)女の人の声。お母さんだと思って、でも、もしかしたらネリーかもしれないと思った。よく分からない。分からない。
 星は光に包まれている。この星は終わりだ。男のさっきの言葉が、頭のなかでぐるぐると廻っていた。この星は終わりだ。終わりなんだ。
 また光線が見えた。ぼくはこの一瞬の間だけは非常に動体視力がよくなる。それはアイさんの傍を通り過ぎて、腕を伸ばしたぼくの体に突き当たった。
 なにもかも熱くなって、なにもかも活発に感じて、それでもなにも分からなかった。
 なにも。

トップへ戻る短編一覧に戻る
© 2013 Kobuse Fumio