-


トップへ戻る短編一覧に戻る


地下都市アリス

執筆:小伏史央  編集:しゃん、U.C.O.

 アンは療養室を出た。いつまでも休み続けているのは性に合わなかったのだ。部屋を出た先は薄暗かったが、ずっと地上に出ていないアンにとって、気に障るようなことではなかった。
 地下都市アリス。幾層にもなる地下居住区域だ。環境の変化が進みつつある地上と比べ、地下は安定した生活環境を維持することができる。アンは、都市の開発時その構成員だった。今では大都市のひとつとして盛況に機能し、居住者の数も増えたため、アンは長い長い休暇を貰っている。そのあいだ療養室で過ごしていたのだが、活発に働いていた現役時代と比べて、近頃はあまりに暇でありすぎた。だからアンは、地上へ行ってみようと考えたのだ。現役復帰も視野に入れ、ぶらぶらと目的もなく寄り道を挟みながら、地上へ行ってみようと。
 階層を上っていくと、見知った顔を見かけた。幼児の養育室だ。保育係たちがせわしなく幼児たちの世話をしている。そのなかに、後輩がいた。
「あ、先輩じゃないですか!」
 彼女はわりと早くアンを見つけた。広い養育室で、幼児に食べ物を与えていた彼女は、それを済ませると入口のところに駆け寄った。少し小さめの体が、アンの目の前に来る。
「久しぶりだねえ」
 彼女は、この都市の開発時、アンと同じくその構成員だった。都市階層の緻密な構成と、周囲の地中環境をもとにして、地面を掘削していく。はじめは少人数から始まったこの一大プロジェクトは、徐々に成功への兆しが顕わになり、それに従い協力者も多くなった。彼女はそのなかで、仕上げ作業の時期から参加した新米だった。目立つほど役に立つやつではなかったが、少々考えの足りない行動をする節があり、その危なっかしさが印象に残っている。都市が都市として充分機能するようになってからも、ここでこうして働いていたようだ。
 嬉々とした様子の後輩と、昔話に花を咲かせた。開発当時の彼女の失敗をいくつかあげてみると、後輩は怒ったようなおどけたような態度をとり、その節はたいへんお世話になりました、と言うのだった。二人で話を交わしている間も、他の養育員たちは預けられたこどもたちの世話に奔走している。ある程度時間が経つと後輩は、「あー、いい休憩になりました」と快活に発して幼児たちのところへ戻っていった。暗い地下都市のなかでも、この空間はあどけなさで明るくなっているようだった。
 離れていく後輩の背中を眺めていると、ふと、変わった幼児がいることに気がついた。いや、幼児というべきではなく、児童というべきでもなく。
 その子と目が合った。
 その女の子は、他の子たちよりも発育が良く、一際背丈が高かった。ひとりで歩くことにも、意思疎通することにも、なんの支障もない様子だ。しかしアンと対峙するその目は、どこか思いつめたような暗さがあり、ここの明るさとは相容れない雰囲気を有していた。
 アンは目を逸らした。あの子は、特別だ。特別であるだけなのだ。アンが気にする必要はない。しかし直後に、目を逸らしたことが彼女に傷を与えてしまってはいないだろうかと、不安になった。アンは逃げるようにそこを後にした。

 さらに階層を上ってゆく。上るにつれて微妙に体が重たくなるような気がした。重力によるものというよりも、単にアンの心境の問題だろう。あの子の目が頭から離れなかった。
 アンは牧畜室のところで一旦止まった。牧畜室には、以前から興味を持っていた。入ってみると、なるほど一風変わった空気をしている。家畜の糞や餌のにおいが、空気と混ざっているが、処理が行き届いているのかさほど不快なにおいでもない。
「やあやあ、よくいらっしゃいました」
 一仕事終えた様子の従業員が、朗らかに声をかけてきた。アンが一礼すると、見ていきますか、と相手は言う。アンは頷いて、地上から移植した草で特殊にあてがわれている床のうえを進んだ。
 牧畜といっても、地上で飼育しているような動物は扱っていない。地下で動物を育てるのは様々な面で見ても効率が悪いのだ。したがって地下で育てる牧畜は、限られている。クロミという動物だ。草などを食べる地上の家畜と違い、クロミは液状のものを口に入れるだけで済む。そのため地下に運んでも飼育が難しくなることはない。大きさはアンと同じほどであり、黒い頭と、丸く伸びた胴体をしている。長い毛がところどころから生えているが、毛がまったく生えていない、むき出しになっている突起も特徴的だ。
「これは食肉用ですか?」
「おや、ご存知ないんですか。食肉用は地下では飼育しないんですよ」
 従業員によると、もともとクロミの主要飼育場は地上にあり、食肉用でないものを選別してここに連れてくるらしい。出産などは現在でも地上でしかおこなわれないそうだ。だとすると、クロミはいつ食べられなくなるか分からない。地上の環境がクロミの誕生を許さなければ、地下でもクロミを飼育することはできないのだ。それを思うと完全に地下都市が出来上がったとも言いにくいと気付かされる。アンはしばしクロミの突起部分を見つめた。
 食肉用でないクロミからは、分泌液を搾り取ることができる。クロミは突起部分から、食肉にするよりもずっと有用な分泌液を出すのだ。栄養豊富なその分泌液は、この都市の居住者たちに親しまれている健康飲料だ。
 数頭のクロミを見学していると、さきほどの朗らかそうな従業員が、やはり朗らかな声で搾り立てのを飲んでみないかと言った。まさか、いいのですか。思わず聞き返したが、従業員はすでにクロミの分泌液を手渡してくれた。
 恐る恐る、口に含む。搾り立ては、格別に甘かった。広がるような甘さが沁みこんで、アンは素直に感動した。
「おや、きみも飲みに来たのかい。お嬢ちゃん」
 また朗らかそうに、従業員が言う。アンは振り返った。
 そこにはあの女の子がいた。
 思いつめた目。暗い目。じっとアンを見つめる、目。
「どうしたの。なんでこんなところに」
 アンの問いかけには答えず、少女は従業員から分泌液を貰い、嬉しくなさそうにちびちびと飲む。
「……抜け出してきたのかい?」
 アンの様子を見て察したのか、それとも少女の特別な姿を見て悟ったのか、従業員が少女に訊く。飲んでいた動きが止まり、少女は、あらためて従業員とアンの顔を眺めた。陰のかかった目元と、しわくちゃになっている背中は、アンに悲痛を感じさせた。
「養育室がつらい?」
 悲痛な心は、自然とアンにそう言わせた。発言した後に浮かび上がる後輩の顔は、決して、居心地の悪いものには思えない。
「……ちがう。ちがうの」
 顔をふせながら、少女はやっとのことで言葉を紡ぎだした。特徴的な背中が、小刻みに揺れる。
「あたしは、偉くなりたくない。特別はいやだ。だから」
「だから、ここから逃げるつもりだった?」
 少女は、頷くかわりに残りの飲料を飲み干した。
 彼女は、幼いながらにして自らの運命を知っていたのだ。生まれてからすぐの時期には決定されてしまう人生の方向。そのなかで彼女は、特別だった。それは外見からしても明らかだ。しかし彼女のような特別な存在こそ、この階層を築き上げるうえで必要になる。誰も彼女を、他の方向に導いてやったりはしない。それが間違ったことだから、少女はこのまま重要な存在になるべきだから。
「どこへ行くつもりだったの。地上は、きみのような子が行って助かるところではないんだよ。もっと、時期が来るまで、きみはここにいるべきなんだ」
「そういう、決まりだから?」
「そう。決まりだから」
 床に敷き詰められた草葉が、少女の足もとで音もない音を立てていた。従業員はこの空気が嫌になったのか、それともそれなりの配慮なのか、暇そうな仕事に戻っていった。
 ふたりきりになった草葉のうえで、アンは、もう一度周囲を見渡す。クロミが天井にぶらさがっている。アンは、考え、少女に言った。
「……だったら、きみ、見てみる?」
 地上の世界を。

 思いつめた目は、いつのまにやら和らいでいた。少女とともに、階層を上る。地上に近づくほどに、空気の質感が活き活きとしているようだった。少しだけ地上を見せて、安全のようであるなら歩かせて、養育室に帰してやればいい。きっとこの子には経験も必要だ。
 牧畜室のときのような寄り道はせず、まっすぐに最上層に向かった。上る最中に、しばしば奇異の目で見られたが、直接話しかけてくる者はおらず、あっという間に最上層に到着した。出入口付近の大広間は、運輸作業員でごったがえしている。他の都市から運ばれてきた食糧などを、規則的に下の階層へと送ってゆく。分泌液の出なくなったクロミを、地上に送り出している者もいる。アンは少女をつれて、大広間を横切った。最上層ということだけあって、光が差して明るく、そして温かい。
「――待って!」
 少女と出入口を通ろうとしていると、背後から強く声がした。振り返ると後輩だった。真剣そのものの様子でアンを見据えている。少女を追いかけてきたようだ。
「先輩、なにしてるんですか。その子をどうするつもりですか!」
 後輩の見幕は、都市開発当時とは見違えて変わっていた。時の流れというものはこうも変えてしまうものなのか。あの従業員よりも朗らかで、どこか抜けていたかつての彼女の性格は、いま対峙している者には感じられなかった。
「先輩、その子は」
「知っているよ。この子は大事な子だ。だけど、それはこの子の意志ではない。地上を見せて、自然の厳しさを教える必要もあるんじゃないの」
「でも――」
 途端、大きな揺れがアリス上層を襲った。体勢を低くしつつ少女の身を守る。輸入品の運搬は一時的に停止した。幸いにしてそれらがアンたちに倒れてくることはない。クロミが暴れて地上へ逃げてゆく。
 アンはこの揺れの意味を理解した。ここでじっとしているべきか、それとも。アンは少女をつれて出入口のゲートを走った。アンの長年の経験が、ここから動くべきだと喚いていたのだ。
「待って! だめ!」
 後輩がアンの足を捕まえた。後輩は怪我をしているようだった。ぎらつく視線が痛い。「一緒に行こう。地上へ逃げるんだ!」アンは後輩を振り払って、それから手を差し伸べた。
「だめ! その子を地上には行かせない――まだ、まだ行ってはいけないのだから!」
「そんなときじゃない。この揺れの意味、きみも分かるでしょう」
「分かるから地下に潜るの!」
 後輩は断固として譲ろうとしなかった。それはアンも同じことだった。同じものが見えているはずなのに、それに対する対処法は、まったくの逆だ。どちらが正しいかなど、現時点で言うことなどできない。だからアンも後輩も、譲ることをしないのだ。
「そんなできあがったばかりの背中で――地上にいられると思うの。先輩は地上をなぜそこまで軽視しているの。外には、死。こどもにはそれしかありえない。最下層に避難するべきです」
「いいや。地下より先に逃げ道はない。地上には全方位への可能性が宿っている。この子は地上に」
「あたしは」
 ふいに少女が喋った。
「あたしは、地上に行くよ。お姉ちゃん」
 ふたりに向けて投げかけられた唐突な答えは、後輩を、そしてアンをも脱力させるに充分だった。後輩はちからが抜けたようにゲートを滑り転がっていった。アンにはそれを救い出す余裕などなかった。大きな揺れがもう一度起こった。視界がぐらつき、一瞬左右が分からなくなる。ゲートの一部が剥げ、アンの頭を直撃した。頭上をのぞく陽光がぼやけて途切れたが、すぐにアンは光を取り戻した。
「さあ、行こう」
 少女とともに、地下都市を抜ける。まばゆい地上の光がアンと少女の体を包み込んだ。
 その先に見えるのは絶望だった。アンは立ちすくんだ。
 予想通りだったというのに、それはまるで予想とは反していた。
 アンがいくらいたとしても足りないほどの高さ。その高さは鼠よりも、狼よりも、獅子よりも大きかった。頭部が視認できないほどの標高にあった。足は四本あるが前足は地についていない。
 その動物は二体いた。一体は尖った鉄器を手にしていた。それで地面を突くと、いともたやすく土が抉れ、地面が揺れた。砂嵐がアンたちを襲う。アンは絶対に少女と離れないようにしながら彼らと反対のほうへ走った。
 もう一体は両手で太い窪みのある箱のような筒のようなものを持っていた。なかには水が入っているようで、それが動くたびに水滴がぼたぼたと落ちた。それもまた地面を抉り取った。
「このバケツの水をな、ここに流し込むんだよ」
 彼らの鳴き声に押されるようにアンは走った。
 二体が口を開けて奇怪な音を立てている。もう陽光の熱さを感じる余裕もなかった。全身を襲う冷たさは恐怖だ。
「わー、あふれてるあふれてるー」
 振り返るべきではなかった。アンはそれを見た瞬間、足が動かなくなった。
 地下都市アリスの出入口は、鉄製の突起物によって崩壊状態にあり、露出した大広間に水が容赦なく流し込まれていた。
「終わりだ……都市が、都市が終わりだ」
 少女は動けないアンのそばを、そわそわと回っていた。初めての地上に興奮しているのと、いま目の前で理解不能の事態が起きていること、それらが一斉に襲い掛かって、彼女に挙動を強いているのだろう。
 たくさんの居住者が水のなかをもがいた。たくさんの仲間が地中に閉じ込められた。たくさんの家族が、息絶えた。あの従業員も、後輩も、われらが母である女王様も、みんな。
「アリさん死んだー?」
 彼らのうちの一体が、また大きな咆哮を上げる。その轟音でアンは我に返った。アンは生きている。少女は――特別なこの少女は生きている! わたしたちは生き残らねばならない。それが生命の義務だ。アンは自分に言い聞かせた。生きなければならない。
「あ、向こうに二匹いるよー」
「一匹は羽はえてるじゃん」
 しかしその羽はしわくちゃだ。まだ少女は飛ぶ術を知らない。アンは疲れてきたらしい少女を押してとにかく走った。六本の手足がまるで棒にでもなったようだった。茂みが見える。もう少し、もう少し。一体が追いかけてくる。追うまでもなく途端にアンたちは陰に飲み込まれる。捕まる――。
 強い風が巻き起こった。風を起こしたのはヒヨドリだった。くちばしにクロミをくわえている。さきほど地上へ逃げ出した、成虫のクロシジミだった。蛹から出たばかりらしく羽がしわくちゃだ。アンと走るこの処女女王アリ様と同じように。
 風が押してくれたおかげで、アンたちは進むのを速めることができた。茂みに入ればやつらに捕まることはない。
 アンは歓喜を感じとった。生き残ることができるのだ! われらの都市を再建することができるのだ!
 女王さえいればアリスは復活することができる。あの茂みの向こうで希望が待っている。
「飛び込もう!」
 アンと少女は思いきり茂みに飛び込んだ。
「あー。アリさん逃げたー」
 彼らは茂みのなかまでは襲ってこないようだ。逃げ切ったのだ。じわじわと喜びと安堵が込み上げてくる。ああ、生き延びたのだ。アンは仲間の死をいたみながら、都市の再建を誓った。
「お姉ちゃん……」
 少女が触角を震わせる。怖かったことだろう。アンは少女をなぐさめようと、手足を動かし撫でようとした。
 しかし、体が、動かない。
 蜘蛛と目が合った。


トップへ戻る短編一覧に戻る
© 2013 Kobuse Fumio