あなたはきみに見られる。きみに見られている間は、あなたはきみを見ていられる。そういう双方向コミュニケーション。しかしきみはこれをコミュニケーションだとは感じていないだろう。
当然だ。
あなたはテレビなのだから。
発した光が、きみの顔を青く照らす。深夜にきみはひとり、部屋を暗くして、あなたの流す映画を観ていた。男女の叫び声、おどろおどろしいBGM、獣の雄叫び、銃声が鳴り響く。チカチカと明滅する光が、きみの顔を彩った。
部屋の隅にまで、あなたの光は及んでいる。箪笥の腹で影がゆらめいている。小棚に並んでいる本が、背表紙の繋ぎ目ごとに明暗にふちどられ、出来合いの柵を生み出している。光はこの部屋のいたるところを揺らした。そのたびにあなたのスピーカーは映画の音声を轟かせた。
きみがこの部屋で一人暮らしを始めてから、およそ二年が経とうとしていた。学生が住むアパートのワンルーム。あなたがここに運ばれてきたのもきみが住み始めてまもなくのことで、このボロのブラウン管テレビを、きみはキラキラとした目で大家から譲り受けた。
そのきみは、今ではすっかり緩んだ目つきで、あなたを見ている。きみがあなたを見ているから、あなたは、きみを見ていられる。その目が光の影響を受ける限り。この光がきみに影響を与え続ける限り。
映画が終わり、エンドロールが流れることもなく番組が終了した。コマーシャルの明るい曲が代わりに流れ、きみは目元をこすりながらこちらに近づく。あなたの画面いっぱいにきみの姿が映し出され、その直後に、電源のボタンを押され世界は暗闇に包まれた。
次に世界に光がもたらされたとき、カーテンの隙間からは陽光が差し込んでいた。
きみは食パンをかじってこちらを見ている。
『続いてのニュースです。代替エネルギーとして期待されている新資源の採掘現場において、相次いで幻覚症状が報告されている件について……』
朝の報道番組だ。きみは報道には興味がなさそうに、食パンにバターを重ね塗りした。しばらくして番組は天気予報のコーナーに入り、きみはあなたの音量を上げる。
このところ曇り空が続いているようだった。あなたはもう二年近く、窓の向こうに見える空模様でしか外を知らない。だからきみがなぜ天気予報をしっかり聞こうとしているのか、あなたにはあまり理解できなかった。
だとしても、きみに尋ねることはできない。あなたの放つ言葉、音楽、映像すべてあなたの意思によるものではないからだ。意思があること自体をきみに伝える手段がない。そもそも、本当にこれが意思と呼べるものなのか、自分でもわからない。
きみは朝食を終え、身支度を始めた。光の及ぶ七畳間、向かい側に簡素な台所と冷蔵庫。画面の右端できみは鏡と向かい合っている。この角度からだと、きみの横顔はよく見えても、鏡の中に映るきみはよく見えない。あなたの見ている範囲がスクリーンだとして、この部屋の右側にレイアウトされたきみは、この空間で唯一動いている客体だ。
占いコーナーも終わり、番組は仕切り直され、再びアナウンサーが報道内容を伝え始めた。きみも身支度を済ませ、物を入れっぱなしにしているショルダーバッグを持ち上げた。
そして、お決まりのように画面いっぱいにきみの顔が映し出され、その指があなたの電源を落とす。
暗闇にいる間、あなたに意思があるのかどうか、あなたにもわからない。電源がついていても不明確なのに、ついていない間はよりわからなくなる。眠っているのかもしれないし、ずっと何もない世界を眺めているのかもしれない。ただひとつ確実なことは、きみがあなたを見たり聞いたりしているときでないと、この画面が部屋の中を映すことはないということだった。
再び闇が開かれた。画面いっぱいのきみの顔。電源が点いたのを確認するときみは離れていき、部屋のいつもの内装が現れる。カーテン越しでも、窓の向こうが夜だとわかった。
次にきみは冷蔵庫から缶ビールを取り出して、かしゃこと音を立てた。一口飲んだ後にバッグを漁り、中から古いビデオカセットを取り出す。あなたの口を一押しし、中身をそれと取り替える。
またどこかからビデオを調達してきたらしい。しばらく読み込んだ後、あなたは映画の世界を映しだした。導入のBGMが部屋を満たし、きみはビールを流し込む。
もうすぐ、あなたは不要になる。明るい曲のコマーシャルから、そのことにはもう気付いている。それに、きみの今後のことも。
変わらないものはない。この定点カメラのような世界もそのうち転換され終幕を迎えるだろう。きみは無言で映画を鑑賞し、あなたは饒舌なスピーカーで意思のない伝達を続けた。
「どうも」
「いらっしゃい」
「あ、映画観てたんですね」
「もう終わるよ」
「なんて映画ですか」
「『ロープ』」
「へえ」
「コーヒー飲む?」
「あ、お願いします」
「オッケー」
「すごくあっさりしたエンドロールですね」
「古い映画だからね」
「私エンドロール見るの好きなんですよ」
「なんで?」
「文字が流れるのって面白いじゃないですか」
「どうだろう」
「目で追っかけるんですよ。文字と文字の間にできた道筋を」
「あー、なんとなくわかる」
「それに、どんな人たちが映画を作ったのかって、気になるでしょう」
「それはよくわからないな」
「そうですか」
「誰が作ったかは気にしない。誰が出ているのかも」
「映画好きなのに不思議ですね」
「映画好きと俳優好きは違うからね。監督好きも」
「小説とかも、書いた人の気持ちを想像したりするじゃないですか」
「それは趣味悪いと思うけど」
「そうですか」
「別じゃん」
「そうかもしれないですけど。え、じゃあ歌詞とかは?」
「見た人が決めるんだよ。なんでも」
「先輩、こだわりがあるんですねぇ」
「別にないけどさ」
「あ、ありがとうございます」
「砂糖とか入れたかったら勝手に入れてね」
「あ、そうそう。この前はちみつ茶っていうの飲んだんですよ」
「いいね。紅茶にはちみつ入れるの?」
「いえ、はちみつをお湯で溶かすだけなんです」
「お茶要素ないじゃん」
「ないですけど、淹れてくれた人がはちみつ茶だって」
「ふぅん」
「美味しかったですよ。今度やってみてくださいよ」
「考えとくよ」
「この電気ケトル、良いですよね」
「それ毎回言うね」
「何度見ても褒めたくなっちゃうんですよ」
「まあ、良いよね」
「一分ちょっとで沸きますし。ボタン押すだけですし」
「そういえば一人暮らし始めるんだっけ」
「そうなんですよ。寮をもう出ないといけなくて」
「あの寮ってそういう決まりだったもんね」
「でも一人暮らし、憧れてたんですよねえ。自由だし、料理もできるし」
「私も最初はよく料理してたなぁ」
「慣れるとやらなくなっちゃうもんなんですか」
「それは人によるんじゃない?」
「人によりますか。まあそうですよね」
「部屋は見つかったの?」
「いえ、なかなか見つからなくて」
「だったらさ、ここ住みなよ。ちょうどいいしさ」
「ああ。それもありですね」
「家具もほとんど置いといてあげるし」
「え、ほんとですか」
「社員寮にほとんど揃ってるらしいから、運べないんだよね。使ってくれるなら動かす手間省けるし」
「あーそっか。だから段ボールこれだけなんですね」
「うん。これだけ持っていく」
「じゃあ私ここに住みますよ。ここ安いし。住みたいです」
「今度大家さんに言いに行こう。立ち会うよ」
「助かります」
「あーでも、テレビは自分で買ってね」
「そっか、これじゃ地デジ映らないですもんね」
「チューナー付けたらいけるかもしれないけど、古いし」
「テレビ結構安くなってきてますよね」
「そうなんだ。まあそういう時期だもんね」
「粘ればもっと安くなりますかね」
「どうだろうね。逆に高くなるかも」
「ああ、それはありえる」
ベテラン演歌歌手の舞台が終わり、カメラは司会進行役の若い芸能人へとシフトした。年末恒例の歌番組。私はこたつに頬杖をついて、ぼけーっと過ぎゆく時間を享受している。
「この! このぉ! 怪物みかんめ!」
こたつの上では、妖精がみかんと格闘していた。蜉蝣のような四枚の羽を広げ、みかんに対して威嚇している。その後みかんに飛びかかり、人間と同じ形の手足でしがみつく。転がるみかんに抱きつく姿は、まるでボールにじゃれる猫のようだ。
私は棒ネットから別のみかんを取り上げて、皮の中央を爪でめくった。テレビからは次の歌手の歌声が流れている。指が食い込んでしまい、果汁が手首を伝う。
「あー! また勝手に食べてるー!」
妖精がこちらを指さした。
「まだ剥いただけだよ」
「剥いてあげるってゆったじゃん!」
「だって時間かかりそうだったし」
「やーらかくほぐしてるんだよ!」
剥いて露わになった実を、ひとふさ取り外して、妖精の顔に押し付けた。顔半分を隠されて、妖精は「うー」と嫌そうに口をすぼめる。
みかんの皮を敷いて、その上にそのひとふさを置いてやった。そのままだと妖精の口では噛み切れないので、薄皮も破いてやる。妖精は破いた穴をビリビリとこじあけて、粒状の中身をもぎ取っていった。
電気ケトルのお湯が沸いていた。こたつから手を伸ばして、取っ手を掴む。帰省しない年末年始は徹底してお手軽思考で過ごすつもりでいた。あらかじめ開けておいたインスタントの蕎麦に、お湯を注いでいき、蓋を閉じる。
「やっぱ年末は蕎麦だよね!」
「妖精の文化もそうなんだ?」
「それはどーだろー」
蕎麦が出来上がるのを待つ間に、みかんの続きを食べた。妖精も格闘ごっこにはすっかり飽きたようで、私が剥いてやったひとふさをのんびりと採掘している。
私の前に妖精が現れたのは、ちょうどテレビを買い替えた日のことだった。羽のついた小人。少年とも少女ともいえる顔立ちのそれは、片付けようとしたブラウン管テレビから現れた。テレビの中から壁をすり抜けるかのように、物理法則を無視してひょっこりと。
それ以来この妖精はうちに住み着いている。
今度は国民的アイドルグループが踊りを披露しながら歌唱していた。舞台上だけでなく観客席にまでメンバーを配置し、規模の大きな踊りを見せる。カメラはそのうちのひとりにフォーカスした。その最中に観客席の人間がフレームに映り込む。
「あ、妖精と話してたね」
「そうだねー」
観客が、誰もいない方向へ口を動かしているのが見えたのだ。テレビを見ていると何度かこういう映り込みを目にすることがある。
妖精の存在はもはや公知のものとなっている。けれど彼らはカメラに映らない。妖精と話している人間を撮ると、独り言を呟いている人間しか映らない。
カップ蕎麦の蓋を開けた。もわっと湯気が立ちあがってくる。妖精は羽を広げ宙を舞い、湯気をくぐり抜けて笑った。
「食べる?」
「うん!」
小皿に麺を一本取り分けて、容器の傍に置く。妖精は小皿のうえに着地し、ぺたんと座り込んで麺を両手で掴み上げた。それを咥えて、果てのない恵方巻のように食べ進めていく。食欲旺盛な妖精だった。
私も麺をかきこむと、蕎麦の匂いが口内をつついた。舞台に集合したアイドルたちが最後のポーズを決めている。蕎麦をすする音と拍手の音とが混ざり合った。
「どーして無視するんだろうね?」
ふいに妖精が、麺から口を離して言った。司会が、次に歌う歌手とトークを繰り広げているところだった。
「妖精がいるの?」
「たくさんいるよ!」
彼らの周辺を飛び回っている妖精を想像する。あまり気持ちの良い光景ではなかった。テレビに映らないはずの妖精が、妖精の目には見えているのだとしたら、カメラ自体は妖精を捉えられているのに、人間の目が認識できていないという理屈になる。
「誰でも、直接目で見たら、見えるよね」
「うん。あの人たち無視してるんだよー」
「生放送だからね。無視するしかないんだよ、きっと」
彼らだけではない。出演するほとんどの人間が、カメラの前では妖精はいないものとして振る舞っている。いるように振る舞っても見えないのだし。たとえ全員が見えていることであっても、記録に残せないのなら、集団幻覚の可能性だってあるだろう。
「きれいに食べた!」
妖精が嬉しそうに両手を広げた。身長以上の麺を完食し、ひとふさのみかんも色のある部分はすべて平らげていた。
「よく入るなぁ」
「ふへへ。かとーな人間とは違うんだよ!」
こどものように威張る妖精の頭を、小指で撫でた。妖精はまた「うー」と顔をすっぱくする。もしかしたら本当にこどもなのかもしれない。そのうち大人になって、彼らの時代が来るのかもしれない。
番組もついに最後の曲となり、すべての出演者が舞台上に現れた。合唱が響き、彼らは画面へと手を振る。妖精もこたつから手を振っていた。
もしかしたら、舞台上の妖精たちも手を振っているのかもしれない。私は、見えない彼らに向かって、手を振り返した。
そうしていればきっと、カメラ越しでも見えてくるような気がして。