-


トップへ戻る短編一覧に戻る


ココロ


 あいつが、死んだ。
 海に沈んで。
 水にのまれて。のみこんで。
 暗闇のなかに。
 落ちていったんだ。
 あいつの〈情報〉は、人の形をしていた。それは、ぼくがそう願ったからだった。そう望んだからだった。あいつは生前、確かに人の形をしていたのだから、ぼくは、人の形をしたあいつのことしか認識できない。だから〈情報〉は、めざとくぼくの願望に反応して、形質を人のように変容し維持している。それだけなんだ。
 慰霊ホールのなかは、広くて、暗くて、寒かった。いくつもの記録保存機と映写機が、ここには積まれているはずなのに、それらが発する熱よりも、霊魂たちの吐き出す寒気のほうが勝っているらしい。そのホールの片隅に、巨大なモニュメントが、ひっそりと立っている。今回新しく追加されたその慰霊碑は、百人を優に超すほどの〈情報〉を記録していた。
 あいつは、海に沈んで死んだ。この慰霊碑に記録されている人間はすべてそうだ。みんな、エネルギーの研究船に乗っていた。その船が壊れて、海の底に落ち込んでしまったんだ。
 慰霊碑の前に佇んでいる〈情報〉は、人の形をしているけれど、決して人と見間違えるほど人ではなかった。〈情報〉には顔がない。ただ顔の形をしたものが、首のうえに乗っかっているだけで、それはあいつの顔ではない。ただ青白く、ところどころ発光している。向こうが透けて見えるような、すべてが光で作られているような。決して人ではなくて、それは〈情報〉でしかなかった。
 だから、ぼくが「ねえ」と話しかけても、反応して顔をこちらに向けてくれるのは、あいつではなくて、あいつの残した〈情報〉でしかない。あいつではないんだ、この人形は。
「ねえ」
 それでもぼくは、あいつに言葉をかけないわけにはいかない。あいつはここにはいないけれど、きっとぼくの言葉はあいつには届かないけれど、ぼくは言わずにはいられないんだ。
「ねえ、いまどんな気分?」
〈情報〉の頬を、撫でようとした。実体のない〈情報〉を触ることはできなかった。〈情報〉は本当にただの光でしかない。ぼくの願望に照らしあわされたあいつの遺産だ。〈情報〉は、ぼくの行動に反応して、まるで頬を撫でられているようなしぐさをする。ぼくの手の位置と、ぴったり合うように演算して。
 触っている感じは、暗闇のように不安定で、ぼくの主観を除けば皆無だった。〈情報〉の発する光が、なぜだかぼやける。人形もモニュメントも、境界がわからなくなって、ぐにゃっと混ざって、頬を伝った。
 ぱちぱちと、頭のなかではじける音がした。
 それはなだれ込んでくる彼の思い出だった。

 **

「不思議だよね。違う、というだけで、人は寄り付かなくなるんだから」
 頬杖をついて、ぼくはそう言った。講師がモニタに表示されているグラフを指で示した。前を見るでもなく見て、ぼくは言う。
 喧騒が響く。ここは教室のなかだ。ぼくときみは、その最前席に隣り合って座っていた。でも、特に授業を熱心に聞いているわけではない。一番前の席は、一番天井から遠いという意味で、実はもっとも目立たない席だった。ともすれば教壇を見上げることもある。そのことに気付いている生徒は一定数いるけれど、先にぼくらが座っているものだから、結局後ろから席を埋めていくしかなくなる。ぼくらが座っている席というのは、最前席のなかでも特に目立たない、左端の席だ。右端の席は、そのすぐ前のところに講師用の扉があるから、あまり有用な席ではない。
「違うから、寄り付くってこともあるんじゃないか。スターとかさ」
 この講師の授業は、さほどランクの高い授業ではない。というよりも低い水準にあたるだろう。この講師の授業で席が全席埋まることなんて、見たことがない。だからぼくたちと他の生徒との間には、数席分の空白ができていた。最前席の良い席が取られているのなら、みんなは妥協して後ろから順に席を埋めていくしかできないからだ。
「スターは別だよ」
 言って、少しきみから目を逸らした。教室の様子に耳を傾ける。えー、であるからして、この情報係数はこの方法では求められない、ということになるわけであります。ねーねーやっぱさ、映画にしようよ、どうしてもあれさ、早く観たいからさ。あのグラフ間違っている気がするなぁ。そうそう、ホビトちゃんの新曲、あれほんと好きだわぁ。やだよ映画行こうよ……。教室のいたるところで湧き上がる喧騒。その雑音のなかで普段、ぼくはきみの声だけを選択していた。
「スターというか、クラスの人気者、とかは?」
 きみは付け加える。
「クラスの人気者は、みんなと同じだから、人気なんじゃないの?」
「えー。そうなのかぁ」
 きみは首をひねりながら、授業の内容をこまめにインプットする。ぼくもモニタを向いて、よくわからないグラフの説明を、手元の電子ノートに書き込んだ。
 ほどなくして授業終了の時刻になる。流れるチャイムは生徒であるホビトちゃんが、二年前に制作した曲だった。
「いつまでこの曲を採用するんだろうね」
 講師が、では終わります、と言うのと同時にきみに話しかける。講師がちらとこちらに目をむけた。特にそれ以上ぼくたちに干渉することなく、教壇横の扉から出ていった。後ろの席の人たちも立ち上がる。椅子を引く音が重なる。ぼくたちはいつも通り座ったまま混雑が過ぎるのを待つことにした。生徒用の扉は、教室の後ろにあるから、いつもぼくたちは最後だった。
「ホビトちゃんが卒業するまでは、たぶんこの曲のままだと思う。特に悪いわけでもないし、学校の宣伝になるからな」
 きみが立ち上がりながら言った。ぼくも荷物を机のうえに持ち上げてから、席を立つ。立ち上がってみると、ぼくときみの体格差は歴然だった。ぼくが女で、きみが男だという違いのためなのが第一だろうけど、きみは、男子のなかでも特に大きいんだ。向き合うとその広い肩幅のせいで、包まれたような気分になる。でもきみだから怖くはなかった。
 ついたままのモニタが、自動的に待機画面に切り替わる。すっかり人も減っていた。ぼくは天井を見上げた。天井がみずから発光し、穏やかな光を降り注いでいる。
 きみが動き出したから、ぼくは天井から視線を下ろした。教室内の階段を上り、生徒用の扉を抜ける。扉を出てから振り返ると、無人になった教室は、徐々に暗さを取り戻していた。
 今日の授業はこれで終わりだった。まっすぐ外へ向かう。廊下はいつもよりも少し汚れていた。靴のあとがまばらに乗っている。
 それは雨が降っているせいだった、と気づくのは、雨音を耳にしてから。歩きながら鞄を開けて、折り畳みの傘が入っているか確認した。
「雨降ってるのか。おれ、傘持ってきてないんだけどな」
 ねずみ色の雲が、空を覆っている。おおざっぱで重たい雨粒が、とどこおりなく地面を打ち付けている。さすがに走って帰れるような雨ではない。
 きみがなにか言いたげにぼくを見下ろしてくる。鞄の奥に、折り畳み傘の手触りがあった。
「なんか、ぼくも傘忘れたみたい」
 身を裂くような風が吹く。きみは軽く迷ったように排水溝へ流れていく雨水を眺めて、「そうか」と呟いた。

 ホビトちゃんの新曲が、喫茶店のどこかから流れていた。どこから流れているんだろう。ぼくはあたりを見回す。よくわからなかった。ただただ新曲が、人々の脳内に刷り込まれていく。こうやって流行歌は作られる。
「なにを探しているんだ?」
 きみがそっけなく訊いてくるものだから、ぼくも「スピーカー」とだけそっけなく答えた。きみはまた「そうか」とそっけなく答える。ぼくは次になんと反撃すればいいのか思いつかなかった。
 今日の喫茶店は、人が多い。きっと雨が降っているからだろう。コーヒーのにおいがして、どこからしているのだろう、と思うと同時に、手元のコーヒーを口にすすっていた。甘ったるい液体が、舌や歯に感触を残す。
「さっきの話」
 唐突にきみが口を開く。ぼくが反撃をあきらめたものと見なしたらしい。正解だった。
「さっきの話?」
「違うとか、違わないとか、人気者とか」
「ああ、授業中の」
 きみはオレンジジュースだった。きっと砂糖たっぷりのコーヒーよりも甘ったるい、きみの大好きなオレンジジュース。大男が喫茶店の小さなテーブルの質素な椅子に座って、黄色い飲み物を前にしている様子は、いつ見ても滑稽だ。
「人気者になる条件ってのはさ、みんなと違うことも、みんなと同じことも、関係ないと思うんだ」
 きみは真面目そうに言う。そんな話をしていたんだっけ。対してぼくはあまり真面目なことに関心がない。それでもぼくは、喧騒のなかできみの言葉だけを選択する。
「じゃあ、なに」
「運だよ」
 きみの即答は、取っ手がふいに欠けたコーヒーカップだ。
「そんなのあたりまえじゃん」
 大きな音を立ててコーヒーカップは机の上に落ちた。奇跡的に中身をぶちまけることはなかった。ただ少し跳ねたコーヒーが、ぼくの手を汚した。瞬間的に周囲の視線がぼくたちのテーブルに集まる。ぼくは視線に無頓着なふりをし、きみはただコーヒーカップに集中した。
 店員がやってきて、ぼくに平謝りをする。まばらな水滴を拭きながら、すぐに代えを持ってきますね、と言う。なぜそんなに急いでいるのだろう。ぼくとさほど年齢の変わらなそうな店員は、取っ手を拾って、持っていった。どこかでくすくす笑う声がする。あのコ可愛いよな。知らない誰かの声。あのコ、というのがぼくではなくてあの店員であることは明らかだ。そうか言われてみるとちょこまかとまたカップのほうを取りに戻った彼女は、可愛い。
「もう出よう」
 きみに言うと、きみはようやく店員から視線を外して、オレンジジュースを飲みほした。
 喫茶店を出てみると、外は嘘みたいに晴れていた。依然として曇ったままではあるけれど、地面はからっと乾いている。地下発電機の賜物だろう。
 喫茶店の横の購買に、安い傘が売られているのを今更になって見つけた。「喫茶店で雨宿りをする金で、これを買っていれば良かったな」ときみは言う。でも後悔した様子ではなかった。自動清掃機が購買の前を通る。ホビトちゃんの新曲がまた流れていた。
 きみは綺麗になった廊下に、あしあとをつける。喫茶店かどこかでなにか踏んだのが、靴の裏についているらしい。わざとそうやって廊下に汚れをおしつけているのか、そうでないのかは、わからなかった。でも上を向いているから、きっとわざとではないのだろう。きみは考えたように上を向く。つられてぼくは、上を向く。つられなくても、背の高いきみを見るときは、見上げなくてはならないけど。
「天井、だな」
 きみが納得したように言うものだから、「へえ、そうなんだ」と納得したように返した。「今ので意味わかったのか?」ときみは、顔を綻ばせて言うものだから、「わかるわけないじゃん」。笑って言った。
「曲だよ。曲は天井から流れていたんだ」
 人差し指を立てるきみの顔は、新たな発見に喜んでいた。そうか。天井か。天井は照明機能だけじゃなくて、音楽再生機能も備えていたんだ。
「訊かれてから気になって、ずっと探してたんだよ」
 そう言うきみは本当に嬉しそうだ。きみは発見をすると、甘ったるくて明るくて、子犬みたいな顔をする。だからきみは、発見のありそうな事柄を見つけると、それに飛びついて離れないんだ。子犬みたいに。
「行こうよ」
 と帰宅を促すと、きみは笑顔のまま表情を固めて、ぼくを見下ろす。ホビトちゃんの曲が終わる。
「おれ、明日の朝には行くから」
 そうやって、急に本題に入る。
「どこに」
「海の向こうに」
 真面目くさった即答。そんなこと、言わなくても知っているのに。きみは発見が好き。初めて会ったときから、きみはそんな人だった。
 ぼくは歩きだす。いつまでも購買の傘に未練を持ってはいられなかった。きみも遅れてついてくる。歩幅が大きいから、遅れるという感覚もいだく暇はなかっただろう。
「おれがいなくなったら」
「大丈夫だよ」
 即答には即答。ぶつ切りの会話が続いていた。生徒証を提示して学校の敷地外に出る。校門を出た先は道路だ。いつまで経っても数の減らない自動車が、規則正しくも速いスピードで通り過ぎていく。道路に発熱機能はないから、まだ残っていた水たまりが、ぴしゃりとあたりに飛び散った。
「おまえ、おれの他に話す人いないじゃないか。おしゃべり好きのくせにさ」
 いつからぼくがおしゃべり好きになったのだろう。ぼくはきみとしか話さないのだから、おしゃべり好きなわけがないじゃないか。信号が青になる。
「半年はいないんだぞ。最低で半年だ」
 研修生兼、研究者連中の雑用係として、きみは新種エネルギーの発掘現場と他国のラボを行き来する。その間、この学校に帰ってくることはない。
 ぼくたちが渡り切った後であっても、歩行者側の信号がまた赤になるまでは、車は進むことができない。待機している車のうち一台に、迷惑な車があって、大音量でホビトちゃんのデビュー曲を流している。ホビトちゃんは人気者だ。
「帰ってくるんでしょ」
「何か月も先の話だ。その間、おまえは」
「だから大丈夫だって」
 手を掴まれる。あ、と思った。ちがでてる。
「どこが大丈夫なんだよ。自分の怪我にも気づけないやつが」
 きみの大きな手が、ぼくの人差し指を抱えた。きみは常備しているらしい看護シールを、その傷口に貼る。いつ怪我したのだろう。小さな怪我で、気づいてもさほど痛みは感じなかったけれど、血は蟹の吹く泡のような有様だった。つまった呼吸を意識しながら、きみの手のひらに包まれた指を意識しながら、今日一日のことを思い返す。朝起きて、朝ご飯を注文して、学校に出て、授業を受けて、授業を受けて……。ああ、コーヒーカップの取っ手が取れたときだ。あのとき、きっと欠けた先が指を切ったのだろう。
「もういいよ。ありがとう」
 お礼は言いたくなかった。でも、もういいよ、だけなのもなにか足りなかった。嫌なお礼を言ったところで、その不満は解消されなかった。きみがぼくの手をとったまま、離さないのも、癪に障った。
 信号を渡ったところでぼくたちは足を止めていた。そのまま手を掴まれている状況はどこか落ち着かなかった。きみは真面目くさった顔をする。その顔は好きじゃない。ぼくは好きじゃない。
「おれは好きだ」
 だから、その真面目なところが嫌なんだ。
 きみが、左手の薬指を突き出す。薬指だけを伸ばすのは難しそうだった。車が通り過ぎる。ぽつりと水滴が落ちてきて目元を濡らした。また降ってきたのではなくて信号機についていた水滴だった。
 薬指が、水滴をなぞり取る。視界がぼやけても必死にぼくはきみを見ようとした。そんなことをしてくる奴はどうして、みんな難しい顔をするのだろう。
 また目元が濡れた。続けて濡れた。止まらなかった。きみの左手を掴んだ。それを自分の首に持っていった。それはきみにとって発見だったのかもしれない。きみはようやく嬉しそうな顔をした。嫌悪感が湧き上がりすぐに収まった。きみの左手をつかむぼくの右手で、不器用に貼られた看護シールが磁気に共鳴している。薬指がぼくの首に入っていった。視覚に表示されるファイルが、同期中の案内をする。きみの〈情報〉が、ぼくの。
[同期完了しました。この記録媒体は安全に取り外すことができます。]
「ごめん。その」
 きみが言うより先にぼくは全力で首を振る。穴は既に塞がっている。
「帰ってきてよ。半年後には。そしたらぼくのも、あげるから」
 うまく言えたかどうかは、わからない。
 そんなことは言いたくなかった。
 それはただの言葉だ。
 でもきみは、ぼくの言葉を、ただぼくの言葉だけを選択する。
 そしてその後、ぼくがぼくの〈情報〉をきみにあげる瞬間は、永遠に訪れなかった。
 きみが帰ってくることは、なかったからだ。

 **

 ぼくは中学生のころに、大人の男から乱暴を受けた。ひとりの人間が選択し保存できる〈情報〉は、自分のものを合わせて三人分まで。ぼくはもちろんそのころ中学生だったから、誰の〈情報〉もみだりに受け取らずに、ただ自分だけの認識を育んできた。
 それをあの大人がぶち壊したのだ。
 あいつは最初から動物的な生殖行為には興味を持っていなかった。人間的な、〈情報〉の同期を求めた。新人類は種の可能性を閉じ込める。ただ保守的に保存の道を歩む人間は、人間でありながら動物という枠組みをわずかに外れた。
 人間は「主観」というものに支配されている限り、決して分かり合うことはできない。なにごとにも個人の認識によって世界は確約された。同一のものを見ているはずなのに人によってそれに対する認識は大きく異なった、そしてそうだというのに、その認識の溝を埋めることもなければ、ともすればその「主観」の存在さえも認識することができないことが大半だった。人間は個人で見て、聞いて、感じて考えている限り、クオリアから抜け出すことも、イデアを知覚することもできない。
 あいつはぼくを押し倒したかと思うと、すぐさま薬指をぼくの首に突き刺した。強制的にあいつの〈情報〉がぼくの中に――あのときはまだ「わたし」だった――なだれ込んでくる。
 死んだな、と思ったのに、そんなことはなかった。ぼくは肉体的にはなんの不自由もなく生活することができたし、なによりも怪我ひとつつかない行為だったのだ。あいつはただぼくのなかにあいつをばらまいて、それだけで逃げていったのだ。それは放課後の教室の出来事だったから、初めは家族に知られることもないことだった。あいつは教師だった。
 けれど、日を追うごとに、ぼくの頭はおかしくなっていった。たまに、ふと気が付くと、友達のことをこどもだなぁ、おさないなぁと思ったりする。かわいいなぁ、こいつもやっちまいたいなぁ。それは教師のリアルタイムの思考だった。ぼくは成人男性の思考を眺めていたのだ。
 頭のなかで上映される彼の「主観」は、いつも冷酷なのに同時にとても幼稚だった。大人になってもずっとこどもでいるみたいだった。でもそもそも、大人になるってどういうことだろう。いくつになっても大人にはなれないんじゃないか。ずっとこどものままなんじゃないか。ぼくたちが見ている大人たちの、ぼくたちが予想している内側は、むなしい空想にすぎないんじゃないか。ぼくにはわからなかった。
 次第に、彼の「主観」がぼくの「主観」を侵してくるようになった。ぼくが「ぼく」になったのは、だからそのころだ。情報係数がゼロに近づく。ぼくは、ぼくは……。頭がずきずきと痛む日々が続いた。ぼくは、ぼくは……。吐き気が続いてもなぜか学校を休もうとは思わなかった。それは教師としてのぼくが、仕事面倒だなぁ、と思いながらも、通帳のことを心配しているからだった。
 女の子がぼくなんて言うんじゃありません! ついには母親に叱咤された。それはそうだ。ぼくはぼくの意識に関係なくぼくのことをぼくと言っていた。ぼくのことをわたしと呼んでいた当時、自身をわたしと呼ぶことになんの違和感もいだかないように、ぼくはそのころ、完全にぼくだった。
 そしてばれた。教師が現行犯で捕まったのは、ぼくが強く人を押し倒して自由にしてしまいたい衝動に駆られたときのことだった。急遽執り行われた〈情報〉検査で、ぼくがあいつの被害に遭っていたことが発覚した。そのころになってようやく母親がぼくに対して優しくなった。でももう遅かった。賢明な治療がほどこされた。ある程度の回復は望めたけれど、完璧ではなかった。完璧な「ぼく」の除去は既に不可能な領域になっていた。ぼくはぼくだった。ぼくはぼくであって、ぼくでしかなかったんだ。
 そのあいつが、先日、死んだ。釈放された後、懲りずに生徒目当てに研究船に乗ったところ、その船がその船だったのだ。
 海に沈んで。
 水にのまれて。のみこんで。
 暗闇の底へと沈んでいったのだ。

 **

 慰霊ホールを出る。外は雨が降っていた。
 どこか清々しい気分だった。事故に遭った人たちには悪いけれど、過去と完全に決別できた気がしたんだ。
 携帯通信機に、着信が入っていた。メッセージを選択する。
[やあ。久しぶり。そっちはどう? こっちは忙しくて大変だ。最近あった沈没事故のせいで、こっちの研究は大打撃だよ]
 きみからのメッセージ。二人が卒業して、もう何年も経つのに、きみは一度も帰ってくることなく、向こうで頑張ってみるみたいだ。
 わたしは、――わたしは、空を仰いだ。
 きみには、感謝している。きみがくれた〈情報〉のおかげで、わたしは人と出会うすべを学んだ。
 いま、わたしのお腹のなかには種の可能性が宿っている。


トップへ戻る短編一覧に戻る
© 2013 Kobuse Fumio