-


トップへ戻る短編一覧に戻る


1.2.3.

空気売りの少女

1.

 空気はいかがですか、地球の空気です。窒素に酸素が八対二。空気はいかがですか。地球の空気です。一パック一デシリットルです。空気はいかがですか。空気はいかがですか。地球の空気です。地球の空気ですよ……。
 なにやら外が騒がしい。通行人の喧騒には既に慣れているつもりだったが、未だ、気に障る声はあったようだ。その声は単一のものながらよく響く。私は壁を一方方向型の窓に切り替えた。こちら側から外を窺うことができるが、外側から家の中を覗き込まれる心配はない仕様の壁である。
 彼女は家の前に堂々と佇んでいた。声を張り上げて、空気はいかがですか、と繰り返す。彼女に視線をくれてやる通行人は少ない。ほとんどが気にかけず通り過ぎ、あるいは目を遣ったとしても、足をとめることはない。空気はいかがですか、少女の声はそれでも続く。
 少女の容姿を観察してみる。卑しいことと分かりつつも、私はたまにこうして、通行人を仔細に眺めることがあった。もちろん、相手側に気付かれたことはない。見るところ彼女の歳は十四、五といったところか。髪は長く、この地域では珍しい黒色である。第二発電塔の屋上から見える、ニル星雲の暗黒に似ている。こちらに背中を向けているため、その顔は見えない。背は低い。むろん年齢上背丈が低いのは当然のことだが、十代前半ということを鑑みても、平均値より低いことが窺える。実際の年齢が分からぬので、推測の域を外れることはできないが。
 少女の傍らには運搬用に浮遊装置の取り付けられている容器が置かれている。中にはふくらんだ袋がいくつも収納されていた。それが少女のいう「地球の空気」なのだろう。
 地球。なんと時代遅れな言葉だろう。終わった惑星。用済みの星。今更「地球」という言葉を出しても、興味を持つのは一部の学者か、文学に素養のある者くらいのものだ。
 空気はいかかですか、地球の空気ですよ。
 誰が求めるものか。どこぞの金持ちが小遣いのつもりでも思わない限り、あの袋が売れることはないだろう。私は少女を眺めることをやめた。壁を不可視性のものに切り替えた。スイッチひとつですぐに切り替えられるのは、この家の良いところだと思う。以前住んでいたところは、いちいち手動で壁を動かさねばならず、不便な思いをしたものだ。
 空気はいかがですかー、地球の、地球の空気なんですよー。
 視覚に壁を作っても、声が途絶えることはない。彼女はいつまでこの家の前にいるのだろう。よそでやってもらいたいものだ。が、性分上、そう声をがなりたてる気もしない。確かに鬱陶しい商売だが、わざわざ家を出るほど迷惑でもない。少女に声をかけるのが億劫なのだ。どうせ、暗くなればいなくなるだろう。
 私はなんとなく、情報受信機の電源を入れた。報道チャンネルを選択する。窃盗事件、行方不明……いくつか自分と関係のない報道を取り入れて、つまらなくなって娯楽チャンネルに切り替えた。美女が扇情的な格好をして微笑んでいた。ふん。あまりこの類には興味がない。カテゴリを変更する。面白そうな小説が紹介されていた。四足動物がヒトを育てるあらすじだ。しかし残念なことに有料だった。これは諦めよう。無料で良さそうな音楽があった。これを選択し、感覚器官を和ませることにする。じんわりとにじむ楽曲。落ち着きのあるメロディーだ。私は高貴なものを好む。この曲は自分に合う。保存することにしよう。
 空気は、いかが、ですか……。
 少女はさすがに疲れてきたのか、声色が小さくなってきていた。私はそれに気付いて彼女に興味を持った。疲れるということは、今まで直に声を出していたということか。発声機を用いることなく、自らの発声器官、喉を震わせて声を出していたというのか。努力家なのか、貧乏なのか……ともかく、珍しい類である。これは新たな発掘ができるかもしれない。私は高貴を信奉すると同時に、革新を求めてもいるのだ。
 私は食品保存庫を開け、飲料水を取り出した。少女にくれてやろうと思ったのだ。不審者に勘違いされても困るから、そうだ、「地球の空気」もひとつだけ買ってやろう。金を払う客は、少なくともいきなり現れて飲料水を渡す者よりも安心できるはずである。
 出入り口の開閉音に、少女が振り返った。予想以上に貧相な顔をしている。鼻はぺしゃんこで、唇はつんととんがっていながら柔らかそうだ。小顔なのか目が大きい。
「ひとつ頂こう」
 私の声に、彼女はぱっと顔を輝かせた。そうか嬉しいか。私も少し嬉しく思ってしまう。
「いくらだい」
「二〇〇シェルです」
「高いな」
「地球の空気ですから」
 はきはきと答える様子は見ていて楽しい。頂くといったのだから、撤回するつもりはない。私は少女の手の甲に、自分の手の甲をかざした。照合は数秒とかからない……はずが、いくら待っても精算は起こらない。
「あの、これはなにを?」
 少女が首をかしげた。私の手元を不思議そうに見つめている。私は驚いて、つい彼女の片手を手に取った。彼女の手の甲には、あるはずの模様がない。私はすぐに悟った。この少女は、他の星からやってきたのだ。それも、ここよりも下等な星から。それゆえに発声器も持ち合わせていなかったのだ。そして通貨の交換システムが通用しない。そのための技術が施されていないからだ。
「す、少し待っていてくれ」
 私は家に戻って、物入れを漁った。確かどこかに、現金があったはずだ。この地域では出稼ぎは非常に少ないため、現金しか受け取れない者の存在を失念していた。私は少々の恥に苛まれながらも、どことなく愉快に感じていた。異星からの商売、なんと面白いことだろう。私はこういう刺激を求めていたのである。
 一〇〇シェル硬貨をどうにか二枚見つけることができた。私は駆けて少女のもとに戻り、代金を払う。「遅れてすまない」と述べるのも忘れない。
「待たせたお詫びだ、この飲み物も与えよう」
「え、そんな。いいですよ」
 少女は言葉では断りつつも、顔で喜んでいた。
「そう言わずに。毒なんて入ってないから」
 少々言い方があざとかったかと思うも、発した言葉は戻ってこない。彼女は私の違和感に共感しなかったようで、心持、楽しそうに飲料水を受け取った。もしかしたら私は、彼女にとってこの星の最初の客かもしれない。浮遊機能はオフにしている容器をまた目にして、ふとそう思った。
「地球の空気」
「はい?」
「この商品のことだよ。買ったはいいが、これに用途はあるのかね」
 訊かずもがなだったかもしれない。意地悪なことを口に出してしまったか。率軽な行動は控えたいものである。
 私が前言撤回しようと口を開きなおした瞬間、少女が大きく腹を押さえた。うずくまる。
「ど、どうしたんだ」
 ここで倒れてもらったら困る。長距離移動や立ちっ放しが疲労を増産したのか。それともここの空気が彼女の体に害を及ぼしたのだろうか。先ほどの飲料水は……まだ飲んでいないか。飲んでなくともなにか悪影響を引き起こすことがあるのか? 私は一時混乱に陥り、正常な判断もできず慌てふためいていた。非情な通行人は見向きもしない。みな、自らの人生に忙しいらしい。
 少女は体を傾けているが、倒れることはなかった。しかし肩を震わせている。小刻みに揺れる。その震えがあまりに見慣れないものであったため、私はつい掴んで制止したい衝動に駆られた。しかしそれを実行に移したなら、途端に私は犯罪者となりえる。葛藤が微弱ながら続き、その間にも少女は震え続けていた。
 ある地域ではこれを、この状態の私を、「木偶の坊」と呼ぶという。どこかの情報で知覚したことがある。そのとき私は「木偶の坊」を冷笑していたものだが、いざ自分がそうなってみると、わずか、冷笑していた自分を冷笑せねばなるまい。
「袋についているストローをですね」
 少女の声。うずくまっていたのではなかったか。少女は顔が首筋まで赤くなっていた。その様子を見て、自分が早合点していたことに気付いた。彼女はただ、笑っていたのだ。腹を抱えて、体を傾けて、肩を小刻みに震わせて……。彼女の星の文化にとって、なにやら非常識で滑稽なことを、私は知らず知らずのうちにやってしまっていたということだ。
「袋に刺して、それから中の空気を吸うだけです。それだけですよ」
 彼女が楽しそうに説明をする。背丈は小さいが、態度は堂々としたものだった。高貴を意識して生活している自分にとって、若い彼女相手に笑われているのが恥ずかしくあった。しかし赤面してもいられない。私は率直に尋ねてみることにした。
「なにがそんなに、可笑しかったのだい」
「あ、笑っちゃってごめんなさい。だって、地球の空気を知らないっていうから」
「それは、きみの星では有名なものなのか」
「有名というよりも、定番って感じです。古くから馴染んでて、これのない日常なんてちょっと考えられないくらい」
 そんなポピュラーな代物だったのか。私は自分の知識不足を省みた。彼女がどこの星の者かは分からぬが、この辺りのことは良く知っているつもりだった。私は自らの無知を知らなければならない。
「よし、では、ひとつ試してみるとしよう」
 私は受け取った袋を手の上で転がした。重さを感じないほど軽い。筋力に自信のない私がそう感じるのであるから、たとえばブリンギー第四惑星系の連中にとっては、浮いているほどに感じるだろう。
「あ、だめです」
 付属のストローを外し、つきたてようとしたところ、彼女にそうとめられた。
「室内でお願いします」
「屋外では使えないのか」
「使ってもいいですが……ちょっと、困ることになるので」
「そうか。但し置きがあったのなら、購入の際にきちんと説明してもらいたかったものだがな。……まあ、これはポピュラーなものらしいから、仕方ない。これで失礼するよ」
 空気を吸ったところでどうにもならないことに、私は心中で五〇〇シェル賭けた。自分に賭けたので、損失も利益ももとから生じることはないが。
「あ、お水ありがとうございました。それと、お買い上げも」
 少女はそう言って、傍らの装置にスイッチを入れた。「地球の空気」が数パック入れられた容器が、地面と反発し浮遊する。ここを立ち去るつもりらしい。宿はとっているのだろうか。
「それでは。さよなら」
 出入り口の前で、私は少女の背中を、見えなくなるまで見つめていた。

2.

 室内でお願いします、という彼女の言葉から推測する。室外では困ったことになるというのだから、この空気はもしや快楽剤のようなものではないか、と。私も一度だけ試したことがある。体の奥底からじわりと快感が芽生え、指先にまで興奮が拡がるのである。その際は呆けた顔になる。よだれが垂れ、体の力が抜ける、快楽に浸った卑しい顔になるのだ。室内でないと困ったことになる空気、そう聞くと、当時の苦い記憶が甦ってくるものである。
 私は出入り口にロックをかけた。壁と扉が同化する。通気口も塞ぎ、代わりに酸素濃度調節機をオンにした。これは費用がかかるので、あまり使いたくないのだが、もし音が外に漏れてはもっと困る。せっかくあるのだからたまには金を使うのも仕方ない。
 今、この家は密閉状態となった。気圧については心配することはない。空気を抜いてしまうようなことがあれば、あるいは体がばらばらになってしまうかもしれないが。
 私は袋にストローを突き刺した。空気の漏れる音。慌てて口に含んだ。
 眩暈。靄。視界が狭まる。暗く。暗く。意識が。

 空が異様に青い。あんな色、見たことがない。いつだったか、海にプランクトン性の油が流出する事故があった。上空に見える色は、あのときの海を思い起こさせる。不気味で、吐き気がする。あの色が循環すると考えるとおぞましい。その色が、空になんの用だというのだ。
 次に私は、強烈な活力を感じた。空は依然と気味悪いが、なにごとかが私に気力を与えている。……それは酸素のためであった。ここは異常に酸素濃度が高いのだ。私は深呼吸をした。酸素が毒となって私に襲い掛からないか、直後に心配に駆られた。今更遅かった。しかしどうやら、そこまで高い濃度というわけでもないようだった。
 ここはどこだろう。その疑問に辿り着くまで、けっこうの時間を要した。さきほどまで私は、家にいたはずだ、家で音楽を……いや……そうだ、少女が空気を売っていた。地球の空気を。ひとふくろの空気を買い、家に戻り、それを吸ったのだ……。そうだ。そして気付けばここにいた。
 あの空気が原因なのか。
 記憶をまさぐれど、それ以上の推測は思いつかない。とりあえず、「地球の空気」を吸うことでこの空間に来た、ということに落ち着かせておこう。私は高貴に振舞わなければならない。それは未知の世界に訪れても変わらない。
 あたりには見たこともない植物が――葉緑素が見受けられるから植物のはずだ――生い茂っていた。私の腰のあたりにまで伸びている。こんなに背の高い植物は初めて目にした。古い文献で、ヒトよりも大きな木があることを知識として取り入れていた。それには及ばないが、この植物は充分に私の興味をそそった。この不可解な状況下で、植物ひとつに気を紛らわせることができるのだから、私の高貴さは大したものである。と、自画自賛してみるが、未だ空は気色悪い。
 そもそも空というものは、曖昧なもので、上にある空気の一部の層だということは分かるのだが、定義付けるのは案外困難なものである。高貴とはいえない。私は空については見上げたことしかないが、空を尊ぶつもりは毛ほどもないのである。その上で気味が悪いのだから、それは嫌悪感に増幅していた。私は上を向いて唾を吐きかけてやった。
 するとなんということだろう、不思議なことに唾は、私の顔に戻ってきた! これはどういうことか……と、思ったと同時に、私は自分の愚かさに気付いた。上にあるものが重力によって下に落ちるのは、当然のことではないか。この空間に限ったことでもなければ、なんら不思議なことでもない。どうやら私は、現在のこの状況から、すべての物事が奇妙に見えてしまっているらしい。平静を欠いているのだ。私は頬を拭った。汚らしい唾だが、これが私に警鐘を鳴らしてくれた。この尋常ならざる事態、自我を見失ってはいけない。
 途端、足元が暗くなった。なにごとか! 私は左右を眺め回した。なにも不自然な点は――なにもかもが不自然だということを除けば――見つからなかった。しかし足元が、暗いのである。光を絞り出されたように……ああ、私はまた愚かなことをしてしまったらしい。私は空を仰いだ。忌々しい色をしている。雲が空と空間を共有していた。足元の光を奪ったのは、この太った雲だったのだ。
 私は怒りに身をまかせて走った。一秒もしないうちに考えを改めて足をとめた。膝がふるえる。まさか高貴なこの私が動揺しているのだろうか。そうに違いなかった。
 足を進めることにした。しかし走りはしない。走るのはいつだって危険がつきまとう。転べば怪我をする。歩いているときも転ぶこともあるが、その程度の衝撃なら地面の緩和剤がやわらげてくれる。……そこまで考えて、ここが家の近所でないことを思い出す。そしてまた走り出したい衝動に駆られるのだ。ここはどこだ。ここはどこだ。
 唸るような音が遠方から聞こえた。一定の音が揺れる。エルネス系第四惑星の羽虫どもがたてる音と似ている。聞き慣れないため、空気の振動を的確に感じ取るのは容易ではなかったが、私はどうにか音の発信源を突き止め、その方角を向いた。斜め後ろだった。
 巨大な物体が飛んでいた。私の体より大きいことが見て取れた。私が三人いてもその大きさには敵わないことが目算できた。あれは飛行する乗り物だ。形こそ奇怪だが、こちらに近づくにつれて揺れる草々の様子は、日常でもたまに見かける、布などの揺れと似ている。――こちらに近づいている!
 音が空気に振動を強いる。激しく揺れる。どうやらその飛行物体は私の存在に気付いているらしかった。上空で停滞を始めたのが理解できた。あれはもうすぐ着陸するつもりなのだ。私を救いに来たのか、私に危害を加えに来たのか。どちらでもないかもしれない。私は逃げることを選択する勇気も、そこに立ちどまったままでいる勇気も持ち合わせずに、結局後者の勇気を持っているふりをするしかできなかった。しかし。
「こっちです!」
 手を掴まれた。突然のことに膝がかたまる。
「こっちですって!」
 掴んだ手を、声は揺さぶらした。私は無意識的に声の主を見遣った。それは記憶に新しい少女だった。腕を掴まれるほどの距離で見てみると、肌の色が私より幾分薄いことが分かる。その少女はまさしく、「地球の空気」を売っていたあの少女のことだった。
 彼女が私を引導する。私はそれに従った。少なくとも謎の飛行物体よりは華奢な少女のほうが安心だった。売買のとき彼女に飲料水を遣ったが、それは飲んだのだろうか。ふとそう疑問に思って、安定しない状況から気を紛らわせた。草の中を走る。彼女は呼吸を大きくおこないながら走っていた。腕を掴む手はゆるめない。その顔持ちが妙に真剣だったため、私は声をかけるのも憚られ、ただ周りの風景も知らずに走っていた。ともかくあの飛行物体から離れていることは明白だった。彼女は私に逃げる勇気を与えたのだ。
 どれだけ走っただろう。私は幼いころに肺の処置を受けていたので、息切れを起こすことはなかったが、彼女はそうではないらしく、不規則に乱れた呼吸とともに座り込んだ。汗をかいているようだった。
 それからやっと、私は風景を確認することを思い出した。どうやらここはトンネルらしい。点々と電灯が設置されているが、それらがなければ光は届かないだろうと容易に推測できた。上下左右同じ物質で覆われており、あの忌々しい空を見なくても済んだ。
「ここは?」
 と彼女に訊いた。彼女は疲れた顔をしていたが、言葉を発せないほどというわけでもなく、簡潔に「下水道」と答えた。下水道か。ウヌンカプタ系を旅したというマール・リ・リーの伝記に書いてあったのを記憶している。生活における水を循環させるうえで、大切な役割を果たすらしい。
「しかし、ここに水はないな」
「いまは使ってないんです」
 そう言って彼女が立ち上がった。休憩は終わったのか。呼吸はおとなしくなっていた。
 使い終えた下水道。なぜ撤去しないのか疑問に思ったが、私はそれを口に出さなかった。それよりももっと大きな疑問が頭を占めていた。
「どういうことなのだ」
 私は訊いた。青い空。高い草。生い茂る植物。巨大な雲。そしてあの飛行物体……。そもそもここはどこか。気付けばここにいた。この状況はどういうことなのだ。不可思議なこの様相をどう説明をつければいいのだ。彼女に訊いた。
 するとあっけなく彼女は答えたのだ。
「ここは地球です」と。
 空気はいかがですか、空気はいかがですか、地球の空気ですよ……。
 脳内に声が甦る。その声の主が目の前にいることに今更ながら驚いた。ここは地球です、彼女はまさしくそう言った。ここが地球。まさか。しかしひょっとしたら……。また混乱に陥る。高貴を望む私にとってこれは羞恥に他ならない。けれども私は混乱せざるを得なかった。地球という惑星は本来、物語に出てくる想像上の星でしかないはずだからだ。
「まさか、そんなはずがない」
「そんなはずがあるんです」
「だって地球は」
 しっ、彼女は口元に指を立てて、私の言葉を遮った。その顔は幼く、真剣な面持ちがむしろ不真面目に見えてしまう。私はなにか声に出そうとして、その曖昧さに断念した。言葉にならない気持ちで、その顔を見遣る。様々な思考が脳内で錯綜した。私はそれを他人事のように傍観していて、感想を抱きもせずに娯楽に徹していた。これが私の思う高貴なのかもしれない。そうでないのかもしれない。
「彼らがやってくる。説明は後で。こっち、こっちです」
 また腕を掴む。ぬくもりを感じる。今度は意志をもって走った。下水道を行くと、横手に大きな穴があった。それは上に続いているらしい。梯子がかけられていた。角度の関係か光は差していない。
 薄暗くも光は皆無ではなかった。上へゆくごとに光が増しているのを実感した。ざらついた粒子がまとわりつく。悪い心地ではなかった。彼女に続いて上りきる。
 その情景は強いていえば楽園だった。私よりも背の高い木。木の実。ぼうぼうに生えた草。ずっとずっと続く植物の行列。私はこのとき初めて、植物を綺麗だと感じた。色とりどりの景色が、視覚器官を否応無く刺激する。この地面となら空の色も違和感なかった。青と緑が調和していた。白い雲が映えていた。なにもかもが美しい。
「ここが……地球か……」
 自然と言葉が漏れた。一時期、地球ブームというものがあった。私の住む星系一帯で広まった流行だ。ある創作物で生まれた「地球」、作者が「地球」の著作権を棄てたのが流行のきっかけだったと思う。「地球」を扱った創作物が爆発的に増えた。低い水準の文明と、高品質の自然。それらが調和を保って時代を生きており、互いに侵食し合っている。ルイ・レ・テンリポーの戯曲『テラ』で感じとった「地球」が、もっとも鮮明に記憶に残っている。あの幻惑的な自然。淡い極彩色をゆく動物。これを超える「地球」は、きっと今後生まれ得ないだろうと私は確信していた。――しかし実際に目にしたこれは、それを遙かに上回っている。比にならなかった。ここが地球か、感動に揺れて言葉がこぼれる。
 しかし少女は感動する素振りも見せず、ぷいと言うのだった。
「さっきの場所も地球なのに」

3.

 穴に落ちる感覚というものが未だに体に刻み込まれている。あれは幼いころのことだったか、具体的にいつだったかよく覚えてないが、ともかく昔。私は暗い穴に落ちたことがあった。まるで虚数空間を感じとったような、観測できない領域に踏み入ったような、独特なものを幼いながらも抱いていた。
「あの人たちは、守ってるんですよ。この地球を」
 少女が言う。地球は実在する。
「ずっと遠くに……」
「いいえ、ずっと近くに」
 彼女の言葉に理解が及ばなかったが、彼女は私の困惑に気付かなかったようだ。彼女の説明は、突飛で、信じにくく、受け入れがたい。地球は実在する。あの飛行物体の中には地球人――私や彼女と同じ容姿をしているらしい――が乗っていて、確認した私を不審人物と看做したらしい。
「地球は、他の星との交流はもっていないんです」
 それはなんとも奇妙な話だった。星ひとつだけで、孤独に繁栄してきたのだというのだろうか。それはまるで原始的だ、それがこれほどまで美しくなければ心から軽蔑しているところだった。高貴の心をもってして軽蔑するところだった。
「あなたは――きみは一体……だれなんだ」
 疑問に突き当たるのは容易なことだった。軽蔑を取り除いたあとの意識内を、疑問というものが占めていたからだ。だれだ? だれなんだ? 空気はいかがですか、地球の空気ですよ……。突如現れ、私に空気を売った少女。そしてこの「地球」で、また突然現れて、腕をとった少女。
「だれだというんだ」
 重ねるように問いかけた。これは私の高貴に反するのだと思う。私は私の未熟性をありありと痛感していた。『テラ』に感銘を受け、その主人公を目指した。そのころ抱いた夢は、いまださめぬのだ。その舞台の上で、私は問う。
「わたしは……」
 表情を曇らせる。空に浮かぶあの白い雲とはうってかわって、顔面に広がるその雲は、暗く、深く。私はこの表情が好きではなかった。飲料水を渡したときの朗らかな笑顔こそこの少女の魅力なのだと助言をすべきだ。しかし私の口はいかようにも動かなかった。寒くもないのに唇がかじかんでいた。乾燥していた。私は自分の顔が曇っていくのを実感した。私は彼女に負けたのだ。私は私に負けたのだ。
「こっち」
 また腕を掴むのは少女のほうだった。腕をひいて歩く。私は滑車のようについてゆくしかできなかった。それは恥ずかしいことであった。この不可解な状況の中で私はいまだに恥を重んじていた。相手、すなわち恥の対象、が彼女ただひとりであるにも関わらず。低い草が足元をくすぐった。私は笑うことができなかった。くすぐったいという感覚はあったがそれが笑いに変換できないのだ。感覚神経だけ働いているらしかった。運動神経はただ歩くということしか考えにないようだった。陽極、陰極、反転して電流が流れていく。刺激が私の体を駆けた。その刺激がどこから来ているのか私にはどうしても分からなかった。
 自然が続く。緑が繁る。足元をくすぐる。木というものはいつ見ても高い。六本脚の生物……昆虫の類か。太陽の光がふりそそぐ。ここの光は私の星より幾分強い。調節できないのか、とさきほど訊いて、また恥をかいた。
 森の中をゆく。木々が陽光を遮る。さりとて暗くはならなかった。木漏れ日が充分に明るいのだ。
 そしてその先に、広がる。
 視界が途切れる。……わけではなかった。ただ暗くなったのだ。さきほどまで明るかったというのに、ふいに暗くなったのだから、視覚器官に異常が起こる錯覚に陥ったのだ。すぐに気付いて良かった。また恥をかくところだった……。
 よく見えないが彼女の様子を確認する。までもなく、彼女は歩き続けていた。腕をひかれている私もまた歩かねばならない。暗闇を歩くのは不安だった。
 意識が巡る。眩暈がする。暗闇のせいだけでないことはかろうじて分かった。しかしそれがなんのためなのかはまったく見当がつかなかった。意識が攪拌される。脳内を掻き乱された。実際そうでなくともそんな感覚が体にとりついた。空気は、空気はいかがですか。地球の空気ですよ……。脳内が音響ホール。声が混ざる。意識が混ざる。だれだ? だれなんだ?……こちらの案件についてですが……きみ、茶を持ってきてくれないか……まいどありー……十円足りない!……。複数の声が流れ込んでくる。眩暈とともに吐き気がした。脳の容量というものを明らかに超えていた。ここにいてはいけない。ここにいては身が持たない。
 足が止まった。彼女が歩みをやめたのだ。
 暗闇の中。だというのにぴかぴかと脳内で光が弾けていた。頭が痛い。
「ここからは機密空間です。先ほどの革命思想の人々には、特定できない周波で成り立っています。エーテルに準ずる物質の消滅により、光の届かない空間になっていますから、ちょっと不便ではありますけどね」
 彼女の言葉はよく分からなかった。ただ、ここが暗闇であるということはよく分かった。暗闇の限界。光が届かない場所。だというのに温度は、ひんやりとはしていたが、凍えるほどではなかった。熱源が光の他にあるに違いない。その答えに辿り着くのは容易なことだった。少女が言う。
「人の心、人の記憶、人の感情……それがこんなに温かいなんて、知っていましたか」
 ねえ十円貸してよ! 声が脳内に響く。その「円」という情報が、通貨のひとつであると私は理解できた。「十円」というのは些細な金額で、しかしそれが足りないゆえに目的の品物が買えないのだそうだ。瞬時にそれを理解していた。ここには。
「ここには、人類があるんですよ」
「地球人……」
「そう。そして――」
 情動が流れ込む。脳細胞が新生する。意識の改革。保守的であるのに改革的だ。情報。地球の情報。それが望むシナプス。偽造された情報が風景を描き、実感を抱かせる。古臭い言葉、新しい概念。なにもかもすべて。よみがえる。保存。保存。これは人類の保守的な放棄なのだ。生き残ることを求めて発展を破棄した――臆病な生物。永遠の現生。私は分かってしまったのだ。なにもかも。高貴を捨てて。我々は地球人の見る夢でしかなかったのだ。
 光の及ばない空間。地球上の死滅空間。時間を制御する装置。暗闇の装置。暗黒に溶ける、成長を捨てた人類。人々の記憶。記憶が紡ぎだす情報。私が感動したあの『テラ』も、ブリンギー第四惑星系も、すべて夢の中の出来事なのだとしたら。
 私の人生もすべてただの情報に過ぎないのだとしたら。
 そこに、私がいた。

 意識が回復する。どうやら眠ってしまっていたようだ。どうしたものか、家の中が密閉されている。酸素濃度調節器が働いているので、体になんの支障もなかったが、冷や汗物だ。機械がとまったらどうするんだ。
 なぜ密閉などしたのか思い出す……そうだ、「地球の空気」だ。私は袋入りの空気を吸って……。
 袋は床にあった。中身は抜けきっている。どうやら、この空気の正体は睡眠薬の類らしい。気付けば眠ってしまっていた。だから屋外での使用を控えさせたのか。
 なにか、とんでもない夢を見た気がする。しかし思い出せない。そもそも夢なんてものはそんなものだ。怖い夢を見た、楽しい夢を見た、その感覚だけがたいてい残る。……しかし、なにか、こう……。
 ふと、壁を可視性に変えてみた。ちょうど外を、反重力性の車が走る。
 反重力? あれはどんな原理なんだ?
 疑問がよぎった。いままでなんの疑問も感じていなかったというのに。……宇宙の膨張と関係がありそうだが、詳しいことは分からない。
 原理の分からぬまま応用化されたもの、まるでお話の中みたいだ。
 なにかを忘れている。夢のことがまだ気になっているんだろう。私としたことが、高貴を心得るはずが、なにをそう細かいことを考えねばならないのだ。
 あ、このまえの少女だ。容器の中の袋はまったく減っていない。私の他に買ってくれる人がいないらしい。
 空気はいかがですか、空気はいかがですか、地球の空気です……。窒素に酸素が八対二。空気はいかがですか、地球の空気ですよ……地球の気分を堪能できる、夢のような空気ですよ――。

トップへ戻る短編一覧に戻る
© 2012 Kobuse Fumio