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しあわせをなおす

執筆:小伏史央  原案:犬子蓮木

 犬が、ボールをくわえて少年めがけ戻ってきました。少年の腕に飛び込む犬は、飼い主に撫でられて気持ち良さそうです。
 フィーは、ほおづえをついて、窓のそとのその景色を眺めます。青い空と、豊かな緑が広がるなかで、じゃれあう姿。対してフィーのそばにあるのは、中学校の宿題です。新しい中学校生活とともにやってきた勉強は、フィーにとってはあまりに簡単で、むしろ見るのも億劫なのでした。
 ひろびろとした土地を眺めながら。少女は狭い部屋のなか。けれど。
「あ、おーい。来なよー」
 少年が、窓辺にいるフィーに気付きました。向かいの家の、広い庭から、少年が手を振ります。フィーは宿題をちらと見てから、窓から身を乗り出して、「うん! いま行く!」と言ってそそくさと体をひっこめました。
 ニックが見てくれた。ニックが声をかけてくれた! 湧き上がる喜びをいだいて、階下に駆けて、研究室にこもっているパパに、行ってきます! 扉を開けます。目の前にひろがる草地。土の露出した線条が一本、つづいており、その道路を横切れば少年ニックの家です。
 庭に入った途端、犬が手厚くフィーを歓迎しました。口にくわえたボールを、投げてといわんばかりに差し出します。少し離れたところからニックが、おーいと手を上げていました。フィーは嬉しくなって目を逸らします。
 ボールを思い切り彼めがけて放りました。小さな弧をえがいて、ボールがニックに近づきます。キャッチしそこねたニックは、走ってきた犬と一緒に倒れ込みました。うわっ、と声を出しながらも笑った顔で、犬に顔を舐められています。
「あはは、やめろよラッキー」
 こぼれたボールが、草のうえを転がり、フィーはまたそれを拾いました。
「この前あげたのはどうしたの?」
「あー、あれ……。なんだか投げにくそうだもん。光ってるしさ」
「使ってよ。せっかく作ったんだから。投げたら勝手に戻ってきてくれるんだよ」
「それじゃあ投げる意味ないじゃないか」
 ようやく起き上がったニックは犬を撫でつけ、しごく真面目な顔で答えます。言われてみればそうだ、フィーは唇をとがらせます。ニックはまだ、わたしが作ったものだから、という理由だけでは使ってくれないんだ。
 そのボールは、最後に触れた人の体温、心拍数、触れる強さを記録し、そこから推定される背丈や熱分布を瞬間ごとに計算します。そして内臓されているサーモグラフィーで周囲の赤外線を分析し、最後に触れた人である可能性がもっとも高い対象について動くのです。パパが昔作って、今では倉庫に追いやられていたボールを、フィーはなおし、そのうえニックのために新しくもうひとつ作ってしまったのです。フィーはこうして、パパの最新の研究を間近に見ながら、その模倣をすることがよくありました。
「でも、使ってよね」
 フィーはそっぽを向きます。
 向いた先に、ちょうどパパがいました。フィーを呼んで、どこか興奮気味です。フィーが向かうとなにも言わずに抱きしめました。なにかすごいことをしたのだということが、よく分かりました。手に握ったままのボールを、指のなかで転がします。
 パパは、記憶のサルベージ技術の実用化に成功したのだといいます。それはフィーの小さいころから、孤独に研究しつづけていた内容でした。脳の活動パターンを酸素濃度や電流、またはその痕跡から解析し、脳に蓄積された記憶を情報として保存することができるというのです。さらにはその記憶というものには、脳下垂体からホルモンを分泌するなどといった、微細な活動の記録も含まれているというのですから、動物の一生をほぼ完璧に汲み取ることができてしまうのです。
 パパの話に聞き入っていたフィーの後ろで、ニックは不思議そうな面持ちで二人のことを見つめます。なにを言っているのかまったく分からないようで、ただ遊びを中止してじっとします。ラッキーもじっとおすわりをして、フィーの手にあるボールを注視しています。
「ねえ、なにがあったの?」
 パパが家に戻ると、ようやくラッキーはボールをくわえることができました。草原にボールがやわらかく打ち付けられます。
「インタビューの人とか、偉い学者の人とか、きっとこれからたくさん来るようになるよ」
「へえ! にぎやかになるんだね」
 このひろい草原の住宅地は、中心都市から離れたところにある、特に目立ったもののない区域です。建物は少なく、かといって農耕がおこなわれているでもない、めったに人の来ない物好きの住むところなのでした。真ん中を横切る道路を、パパの大型車以外が通るところを、フィーはまったく見たことがありません。
 そのめったにない車に、犬のラッキーが轢かれたのは、翌朝のことでした。

 固まってつめたくなったラッキーの体を、決して腕から離さず、ニックは崩れるように泣きました。流れ落ちる涙が、風にふかれて、地面にこぼれます。フィーは湿った地面を指でなぞり、胸の痛みを感じていました。
 大人たちも、その事故を悲しみました。そして二人の肩に手を載せて。生き物はこうして、いつかは死んでしまうんだよ、それが生き物のさだめだ。諭すように語りかけます。
 けれど、フィーはみとめませんでした。ニックの目からこぼれ落ちる涙は、悲しみがうみだしたコルチゾールを、体のそとに出すためのもの。それを見て感じる胸の痛みは、アドレナリンなどのホルモンが心臓を圧迫しているから……。この悲しみはきちんと説明できるのに、犬が死んでしまう理由が、そしてニックが泣いているところを見なくてはいけない理由が、とても曖昧なのでした。どうして生き物のさだめだから、という綺麗事で悲しまなければならないのでしょうか。どうして。
「ちがう。ちがう……」
 フィーは呟いて、もう動かないラッキーの体を撫でつけました。枯れ草のような毛が、フィーの手の平をくすぐります。つめたくて固まっているけれど、フィーは、どうしてもみとめることができません。
 そうだ! フィーは思いつきました。パパから聞いた話を、頭のなかで、反芻します。
 きっとニックにも喜んでもらえるはずです。フィーは立ち上がりました。手を載せていた大人がのけぞるのも構わずに、家に駆けます。パパが試作した記憶サルベージの道具は、大きなものではなく、持ち運びの利くものでした。フィーはそれを持って、まだみんなが取り囲んでいるラッキーのところへ近寄ります。解析機から針のようなものや鏡のようなものが延びています。それを手にとって、機材の意味を考えて、ラッキーの頭に針を突き当てました。
「なにをしているんだ」
「なおしてあげるの。わたしが」
「なに言ってるんだ。死んだらもうなおらないんだよ!」
 ニックは興奮した様子で反駁しますが、フィーにそれを気にかける余裕はありませんでした。この犬を生き返らせることができたら、きっと、ニックも喜んでくれる。怒りや悲しみを引っ込めて、笑ってくれるに違いない。フィーはラッキーの頭に細い針を刺しました。ニックが一層怒りを顕わにしましたが、フィーをとめる大人はいません。変人科学者の一人娘は変人。そっとしておいてやろう。彼女にやらせてあげよう。フィーが最新技術の使い方に集中している間に、ラッキーのそばにいるのはニックだけになりました。膝をかかえて、犬と少女を眺めます。涙は乾いていましたが、むしろそのために悲しみは流れきれずに、ニックの体を支配します。夜になりました。
 翌日には、フィーは犬になにかしようとはしなくなっていました。大人たちや、ニックは、彼女が納得して諦めたんだろうと思いました。けれど実際はそうではなくて、フィーは、昨晩のうちに死んだ脳から活動の痕跡を抽出し、それを逆算して記憶を解析することに成功していたのです。
 大人たちがいつもの生活を取り戻しつつある間に、ニックが悲しみを引きずりつづけている間に、フィーは作業に没頭しました。パパの研究室から取ってきた幹細胞を、死体から摂ったラッキーのDNAをもとに、さまざまな器官に分化させていきます。ある程度体全体の構成ができあがると、それぞれの細胞の核にレチノイン酸を浸透させ、細胞分裂を早めました。そうしながら、パパの論文を盗み読み、サルベージした記憶を織り交ぜていきます。
 この工程は、およそ三ヶ月の時間を要しました。その間も、フィーはニックの家に通いつめて、ふさぎ込むニックを励ましました。
「死んじゃったのは、仕方ないんだよ。でも、ニックと遊べて、ラッキーも幸せだったはずだよ。それなのにニックが悲しんでたら、きっとラッキーも悲しいよ。それに、わたしも……」
 そうやって励ましながらも、フィーは、生き返ったラッキーをニックに見せるときが、楽しみでなりませんでした。その日を待ち侘びながら、フィーはニックに言葉をかけました。時間とともにニックは明るくなっているようでもありました。
 そして、冬が始まるころ、ついにラッキーが復活しました。培養器から誕生した犬は、三ヶ月前までと、なんの変わりもありません。同じ姿。同じ行動パターン。そして同じ記憶。正真正銘のラッキーです。
 これで、ニックが笑ってくれる。わたしに笑ってくれる! フィーは早速、犬をつれて家を出ました。車は三ヶ月前ほどは来ていません。なにもない過疎区域よりも、中心都市に研究を持ち運んだほうが、安上がりなのです。犬は死の直前の記憶を思い出しているのか、最初は怖がって道路を渡るのを嫌がりました。
「大丈夫だよ。行こう」
 恐る恐る歩く犬とともに、敷地内に入ります。手入れを怠っているらしく、草がほうぼうに伸びていました。
 呼び鈴を押すと、しばらくしてニックが出てきました。犬がそれを見て、ニックに駆け寄って押し倒しました。尻尾をぶんぶんとまわして、ぺろぺろと顔を舐めて。
「すごいでしょ。ラッキーがなおったんだよ!」
 混乱した様子のニックは、犬を胸に抱いて、しばらくして深刻な顔つきになりました。
 ニック、笑って。わたしに笑いかけて。喜んで。フィーは食い入るようにしてニックの反応を期待します。
「ちがう……」
 けれど言います。
「ちがうよ。この犬はラッキーじゃない。ラッキーは死んじゃったんだ。そう言ってくれたじゃないか」
 その言葉に、さあっと引いていくものをフィーは感じました。ちがう? なんで。なんで。
「なんで?」
 胸がちくちくと痛みました。冬の風が勢いを増して草原を撫でます。玄関を隔てて、分断されたみたいな温度差がありました。風が吹きます。
「理論は完璧なのに……。体も、記憶も、死ぬ前と全部一緒なんだよ。それなのに。なんで? この犬はラッキーなんだよ。本当になおったんだよ!」
「死んだらなおらないんだよ。命はひとつしかないんだ」
「そんな、そんな」
「きみは頭も良いし、本当にラッキーと同じ犬なのかもしれない。でも、同じでも、ちがうんだ。ちがうんだよ」
 フィーは胸にあふれるものを抑えきれずに、走り出しました。振り返らずに家まで走りました。パパは都市に出かけています。狭い部屋で膝をかかえると涙があふれました。この涙はコルチゾール、この涙はコルチゾール。なのに。いくら繰り返しても涙がとまることはありません。ぼやけて見えない部屋のなか。ぼやけて見えない窓のそと。
 夜になり、フィーは電灯をつけました。泣きすぎて喉の奥につっかえたような違和感が残っています。窓のそとを眺めると、ちょうど犬の鳴き声がしました。そういえば、向かいの家に置いたままだった。フィーはようやく気付きます。でも、もとは向かいの犬なんだし。向かいの、ラッキーなのだし。それとも生み出したのはわたし? フィーは頭のなかで思考を重ねます。良い答えはなかなか出てきませんでした。机のうえの宿題は、考えるまでもなく埋めることができるのに。
 なぜニックは、ラッキーをラッキーとして受け入れてくれなかったのだろう。本当に、本当に同じ犬なのに。……いいえ、心から答えが欲しいのは、その問題ではありません。フィーが本当に作りたかったのは、犬のクローンではなくて、犬と遊ぶボール。ニックにあげて、喜んでもらえて、一緒に遊ぶことのできるボール。しあわせな毎日があれば、それで良かったのです。
 フィーは考えました。しあわせな毎日を、どうやって取り戻そう。あの犬をどうやって、ニックに受け入れてもらおう。
 考えて、考えて。ひとりの空間でフィーは考えました。ニックが死を受け入れたのなら、今度は復活を受け入れてもらえばいい。その方法は? どうやって? わからない。わからない?
「あ、そうだ。わたしが死ねばいいんだ」
 ――そして生き返ればいいんだ。
 フィーは機材を整えました。解析機から、今度は鏡の形状をしているほうを用いて、自分の脳を透写します。ラッキーのときの死後の脳と比べると、生きている状態の脳を解析するのは、容易に済むことでした。汲み取った情報を記録媒体に保存します。自分の細胞を使って、自分の体を作り上げる細胞をつくり、準備はあらかた完了です。
 最後にフィーは、手紙を書きました。復活を願う手紙です。フィーのクローンを作り上げる簡単な手順が、一般の中学生でも分かるような簡単な手順が、書かれます。その他にはなにも書きませんでした。思いがこんがらがって、時間を多く費やしてしまいそうだったからです。
 家を出ると、暗闇。夜もすっかり深まって、冬の寒さが、容赦なくフィーを覆い隠します。ニックに復活を受け入れてもらうためには、フィーが死んだ後、もう一度誕生する場面を、彼に実感してもらう必要があります。その最も確実な方法は、フィーがニック自身に生き返らせてもらうことです。フィーは、向かいの家のポストに、手紙を入れました。
 そして、道路に寝転がります。そろそろパパが帰ってくる頃合です。夜風に包まれた娘の体など、気付くこともなくあの大型車が押し潰してしまうことでしょう。その先に残るのは、きっと肉片だけであり、ずたずたに切り裂かれた本体は、もはや新しいものに移行するでもしない限り、機能しなくなるはずです。
 パパが来るまで、その瞬間が来るまで、フィーは待っていようと思っていました。けれどそれは叶いそうにありません。つめたい空気は、フィーから熱を奪ってしまい、次第に星がぼやけては、とうとう見えなくなりました。

 目を醒ますと、そこはベッドの上でした。どうやら病室のようです。天井に表示されている日時によると、もう三ヶ月が過ぎていたようです。
「起きた! おじさん、起きたよ!」
 ヴェールのかかったような声が、頭に響きます。永い眠りから醒めた視界は、どこか曖昧で、まるで自分が自分でないようでした。
 その感覚は、時間とともに薄れていきます。明瞭な実感が定着すると、ニックの姿が、目の前にありました。この三ヶ月で、背もすっかり伸びたようです。ニックのそばにはあの犬もいます。消毒された体が気持ち良さそうです。
「手紙、読んでくれた?」
 ニックは手の平でフィーの額を撫でました。伸びた髪が払われます。
「読んだよ。なんで手紙を書いたのかも、分かった。書いてあることは、よく分からなかったけど」
 熱がこもったように額に意識が集まります。いくら簡単に書こうとしても、難しいことは、難しいままのようです。
「でもね、いいんだよ。それはもういいんだ」
 犬が、居心地良さそうにベッドの脇に擦り寄っています。看護師がそれをたしなめていました。
「この三ヶ月でね、ぼくとこいつは仲良しになったんだ。こいつがラッキーか、ラッキーでないかは、関係なかったんだ。今ではぼくの、大事な友達なんだ」
 病室にパパが入ってきました。怖い顔をして抱きしめるパパを見て、ほんの少し胸がちくりと刺激されます。心配かけて、ごめんね、パパ。でも、それと同時に、なにかわだかまるものがフィーの胸にはありました。ひっかかるような、なにか……。
 数日間のリハビリの後、無事に退院となりました。フィーはてっきり、ラッキーを生き返らせたときのようにすぐに歩けるものだと思い込んでいたのですが、自分の足は、まったく言う事を聞かなかったのです。それには驚きを隠せませんでした。ラッキーのときは上手くいったのに。わたしが人間だからだろうか。それとも細胞分裂に問題が? レチノイン酸の副作用? フィーは自分の体を案じますが、懸命なリハビリは、着実に足に実感を吹き込んでゆき、無事自由に動けるようになりました。
 都市の病院から家までは、パパの大型車で行くことになりました。この三ヶ月の間になおしたのか、それともさほど傷つかなかったのか、パパの車に損傷は見られませんでした。パパの配慮でしょうか、それともフィーの体があっけないものだったのでしょうか。轢かれた瞬間には、寒さで眠ってしまいましたから、よく覚えていません……。
 あれ?
 助手席につくと同時に、湧き上がる疑問。――わたしはどうして、道路に横になったことを覚えているんだろう。記憶を保存したのは、家を出る前だったのに。
 いえ、けれど、もしかしたら夢だったのかもしれないのです。どちらにせよ道路に横になることは決めていたことです。決めていたのなら、夢のように、想像のように脳が疑似体験することも考えられます。そしてその疑似体験も、情報として家を出る前に抽出された可能性もあるのです。こんがらがる話でしたが、フィーはそう自分に言い聞かせて、納得することにしました。
 でも……。
「ねえ」
 フィーは訊かずにはいられませんでした。
「わたし、本当に生き返ったんだよね。本当に、いまのわたしは、クローンなんだよね」
 すべて自分で計画したことなのに、肝心の結果がよく分からないことが、フィーには我慢なりませんでした。けれどフィーの質問は、どこに向かうでもなく消え去って、パパもニックも答えてはくれません。
 景色の移動がとまります。家に着いたようです。降りて道路を見つめても、なにか分かるわけではありません。
 たとえば、フィーの準備にはなにかミスがあって、それに気付いたパパがあらためて死体のフィーから記憶を取り出したのか。仮説はいくらでも出てきますが、それは想像に過ぎません。考える根拠が足りないのです。ああ、わたしはクローンなのだろうか、それともオリジナルなのだろうか。もともとの目的はニックに笑ってもらうことだったのに、それが解決された今となっては、実験の結果のことで頭がいっぱいになるのは、パパから受け継がれたさがなのでしょう。
 でも、結局骨折り損だったなぁ。フィーは久々の部屋に入って、以前のように窓際でほおづえをつきます。机のうえには勝手に戻ってくるボールが置いてありました。ニックにあげたものの他に、もうひとつ、倉庫にこわれたまま置いてあったものをなおしていたことを思い出します。
 しばらくそれを転がしていると、ニックが家から出てきました。
「おーい。フィー!」
 ニックが手を振ります。なんだか初めて名前を呼ばれたような気がしました。
「な、なにー」
「これでさ、うちの犬と遊ぼうよ」
 ニックが示すのは、いつか彼にあげた、勝手に戻ってくるボール。
 ニックが窓に向けてボールを投げました。
「で、でも。これじゃあうまく遊べないじゃん」
 ボールは、力足りず窓に届かず、壁にぶつかりました。跳ね返って、地面を転がり、ニックのところに戻ってきます。
「遊べるよ。勝手に動くボールなんて、面白いじゃないか」
 ニックがボールを持っていることに気付いて、庭から犬が駆け寄ってきました。手の甲に鼻を押し付けて、投げて投げて、おねだりします。
 フィーは嬉しくなってすぐさま顔をひっこめました。今日は宿題もありません。代わりにボールを手に取ります。
 階段を下りて、行ってきます! パパに言ったら、行ってらっしゃい、パパは珍しく返事して。
「ほら!」
 扉を開けると、ちょうどニックがボールを投げるところでした。手からボールが離れていきます。犬がさっそく走ります。フィーも走りました。競争だ! フィーが思うときには既に、足の速い犬はボールに追いつき、地面を蹴って、くわえました。
 犬が嬉しそうにニックに戻ってくるところを、フィーは、もうひとつのボールを取り出して、いきなり犬の頭上めがけて放りました。犬は慌てて口のなかのものを取りこぼし、フィーのボールを追いかけます。それも見事にキャッチ。
 フィーも、ニックも、それを見て笑いました。犬がこぼしたニックのボールが、犬を追いかけていたのです。犬は驚きとびあがり、近づいてくるボールを警戒しますが、犬のところに戻るとぴたりととまり。
 犬がボールを独り占めしているうちに、うりふたつのボールは、どちらがどちらか分からなくなっていました。
 あたたかい風が草を撫で、笑顔の渦のなか、フィーは未来を想像します。
 このしあわせがなによりも欲しかったものなのです。


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