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無言


 私はその人を常に先生と呼んでいた。それが唯一の教義だった。
 以前暮らしていた宗教では祈ることが教義だった。四六時中私は祈り続けていた。祈り続けると私は私ではなくなる。他者が私と成り代わり罪を引き受けてくれる。そのために私は口が暇である限りぶつぶつと信仰心を養成させていた。先生と出会ったのは私が鶴豆百貨店で祈っているときだった。もうすぐ九月だった。
 先生は婦人服コーナーで落ち着きなく辺りを見渡していた。しかし婦人服には微塵も関心を寄せていない様子だった。まるで袋小路に迷い込んだ鼠のように見えた。あるいは道に迷った仔猫かもしれない。私はその人に販売員より先に近づいた。
「お困りですか」
 祈りを中断しても良いのは食事と睡眠。そして会話だった。教義の中で許されていることなら迷いなく行動を起こすことができた。先生は私を見た。その瞳は憐憫だった。牙を抜かれた獅子のようなその顔は今にも泣き出しそうだった。
「許してください」
 先生は唇を震わせた。そのまま会話が途切れてしまったので私はやむなく祈り始めた。この人は何を許してもらいたいのか。何か悪事を働いたのか。それとも宗教家なのか。祈りながらも考える。祈りながら考えるとその疑問はそのまま他者のものになってしまい定着しなかった。先生は身を縮こまらせていた。会話が途切れてもその場を離れるつもりはないようだった。私は再び祈りを止めた。
「何か悪いことをしたのですか?」
「これからです」
「ならばまだ謝る必要はないでしょう」
「順番はあまり関係ないと思います」
「確かにそうかもしれません」
 常に祈り続けているため活舌には自信があった。我ながら流暢な会話だった。しかし肝心なことは何ひとつ聞けていなかった。これからこの人はどんな悪行に走るつもりなのだろう。質問すれば答えてくれそうだが聞くのは憚られた。もし共犯になってしまったら祈る量もそれだけ増えてしまうからだ。先生はひとつ大きく息を吐いた。それから私の傍を離れて隅の試着室のあるところへ向かっていった。私も少し距離を保つようにしてその背中に同行した。
 試着室の前には中学生と思わしき私服の子たちがたむろしていた。私は自分の祈る声が彼らに聞こえないくらいの位置で立ち止まった。婦人服の陰から彼らと先生の様子を窺う。彼らは私が覗いていることに気付くかもしれない。気付かないかもしれない。天秤にかけられた私は祈り続けた。
 先生が彼らに向かって何かを呟いている。ここからでは聞き取れなかった。少年少女はそれを聞いて蛙の合唱のような笑い声をあげた。そのうちのひとりが翅虫でもあしらうかのように手を振った。彼らは先生に対して偉そうだった。その動作は先生との会話を終了させたらしい。先生はくるりと振り返りこちらに戻ってきた。そのあいだ先生が顔をあげることはなかった。目が合うことはなかった。
「おかげで助かりました」
 私の傍に着くなり先生は言った。祈りの時間を侵害しているという事実には気付いていないようだった。しかし会話のために祈りを中断することは教義上悪いことではないのだ。私はすぐに返答した。
「それは良かったですね」
 どんな悪事に及ぶつもりだったのか。私がどのように関わって悪事を免れたのか。聞く必要はなかった。鶴豆百貨店は一階に喫茶店を有していた。先生は悪事から解放されるとともに婦人服コーナーからも解放されたがっているように見えた。祈りながら先生を一階へといざなう。先生は団栗を掘り起こした栗鼠になった。
 百貨店に内設されているわりにはその喫茶店は個人経営の空気を醸している。カウンターで頬杖をつく店員のおじさんや家庭用然としたテレビがそのような雰囲気を作り出しているのかもしれない。私はアイスクリームの載ったメロンソーダを注文した。先生はホットコーヒーを注文した。先生は喫茶店の扉をくぐるときこそ兎のようにぶるぶるしていたがコーヒーを待っている内にここの雰囲気に馴染んだようだ。お冷からレモンの匂いがすることに好意的な感想を述べていた。私は先生の意見を尊重し私見を挟むことはしなかった。そのあいだ私は祈っていた。先生は決して多弁ではなく会話は途切れがちになるからだった。祈れば祈るほど私は他者と成り代わる。しかしそれは私と他者とを交代しているだけであって私に変化があるわけではなかった。その気楽さがこのメロンソーダのように甘ったるくて好きなのだ。ストローでアイスクリームを突っつくと緑色の海が白く歪んだ。先生は優美にコーヒーを啜っていた。頬杖のおじさんがテレビのボリュームをあげた。二〇二六年冬季オリンピックの開催地が決定されたという報道だった。その結果に私は胸をなでおろした。先生はカップの縁から口を離した。
「残念でしたね」
 先生の言葉に私はふふと笑った。笑いは会話に含まれるだろうか。曖昧だったためストローをくわえ込んだ。冷たい微炭酸が鼻腔をくすぐった。
「あなたは不思議な人ですね」
 と先生が続けた。その言葉の意味はよく判らなかった。私にとっては先生のほうがよっぽど不思議だった。疑問が先生にも伝わったのだろう。先生はさらに私の祈りを削っていく。それは直截的な話法だった。
「ずっと喋っていて疲れないんですか?」
「もうすっかり鍛えられました」
「どうしていつも喋っているのですか?」
「これは祈りです」
「祈り?」
 その説明をすることについては気乗りがしなかった。しかし好奇心旺盛な仔犬はそれを許さなかった。教義について話すことにした。人に信仰を語るのは気が引けた。宗教が良いものだとしてもその信者や教会が良いものだとは限らないからだ。先生は私の説明を聞いているあいだコーヒーに口をつけなかった。それなのに先生の唇は瑞々しく映った。
「不思議なことではないのです。ただの祈りです」
 説明の最後にそう付け加えた。それは心ばかりの反論だった。しかし先生は梟のように首を傾げた。
「でもみんな不思議がっています」
「祈る人は珍しくなりましたから」
「祈るのが好きなのですか」
「いいえ。祈るだけでいいという気楽さが好きなのです」
「だったらもっと楽なものがあればそちらに移るのですか」
 その質問には言葉を詰まらせた。会話を中断したのなら祈りを再開しなければならないが私は口を動かせなかった。次に口を動かすのは先生の質問に答えるときだろうという観念が強制力を持っていた。私は私だった。
「もし移ることができるなら」
 答えないのを見て先生が続けた。空になったカップを口につけようとして。それを再び下ろして先生は言った。
「うちに入りませんか」
 緑の海は干上がっていた。氷がからんと音を立てた。ストローが行き場を失いグラスの縁を転がっていた。私はその一連を見ていた。見ているのは私だった。先生の話に嫌悪感は含まれていなかった。
「どんなところですか」
「名前はまだありません。信者もまだひとりもいません。ひとりいれば充分だと思っています」
「それは。それは素敵ですね」
「教義はあなたが決めてください。祈りよりも楽なものを」
「では私はこれから教祖を『先生』と呼ぶことにします」
「先生ですか。皮肉ですね」
 私は満足だった。入信した。新しい宗教に教会はなかった。私以外の信者もいなかった。神もいなかった。喫茶店内にはニュースキャスターの音声が氷のように漂っていた。初めて無言になった私のもとへおじさんが飴を差し出してくれた。ふたりへのサービスだという。その飴は流氷の形だった。
 それから、
 それからの私はその人を常に先生と呼んでいた。それが唯一の教義だった。
 数日経ってから、先生とは以前から顔を合わせていたことに気付いた。会話相手として認識したのは、鶴豆百貨店の婦人服コーナーが最初だったが、それ以前から頻繁にすれ違っていたのだ。先生と私は同じ壁の中にいた。そうと気付くと、個人的な都合で先生を喫茶店に連れて行くのは憚られた。立場とは宗教のようなものだった。それでも私に課せられた教義はただひとつでありたかった。私は先生と顔を合わせるたびに、心の中で先生と呼び続けた。硝子細工の店が並んでいた。今日最後の仕事は下見だった。そこでまた偶然先生に会った。改宗してからちょうど二週間が経っていた。
 先生はまだ白い服を着ていた。今年はそんな人が多い印象だった。先生は昆布屋の看板に見入っていた。私は先生に声をかけた。先生は驚いていた。私は仕事で来たのだと言った。先生は納得した様子だった。それにしては、先生がその格好でここまで来ていたことは不思議だった。しかしそれを聞くのは、今日の仕事にはない。
「先生」
 と私は文脈も作らずに呼びかけた。信仰心の顕れだった。先生は頷いた。確かにここなら、気兼ねなく同行できるかもしれない。試着室の件を思い起こす限りそのはずだった。鶴豆百貨店からここまでは、片道一時間程度かかるからだ。
「適当に散策するので、一緒に来ますか」
 先生は再び頷いた。先生が何も話さなかったので私も何も話さなかった。食事も睡眠も会話もしていないのに祈らなくても良いのは、二週間経ってもいまだに新鮮なことだった。ひとり分の宗教は鰯ではなく鯨だった。先生は立ち止まり、店先に展示された硝子細工を見ていた。硝子細工は頭部の鼻から潮水を吹きだしていた。
 どこかの高校生がウィンドウショッピングをしていた。取り壊し中の青緑色の建物は張りぼてになっていた。先生を促し歩き始めた。通りを抜けると港の匂いがした。停止したクレーン車の音は異様なほど静かだった。無言で歩く隣人を窺うと、先生もまたこちらを見ていた。私たちは完全に、この町の季節外れの静寂に飲み込まれていた。それは長くは続かなかった。
 まず悲鳴が聞こえた。その悲鳴は無言だった。先ほどの高校生の腰に老人がぶら下がっていた。顔を青ざめた高校生は助けを求めた。私はすぐさま彼女のもとへ駆けつけた。先生は立ち往生しているようだった。老人をたしなめた。彼は酒に飲まれた様子だった。昆布屋から店員がなんだなんだと門を出てきた。老人はまるで駄々をこねる児子のように足をばたつかせた。一連のやり取りはすべて無言で執り行われていた。雲ひとつない好天だった。
 クレーン車が動き出した。そのうるさい工事は無言だった。張りぼてが張りぼてとしてさえ機能しなくなる。店員が警察の存在をほのめかした。老人はそれでも駄々をこねていた。高校生は汚く罵り声をあげた。先生は少し後ろで佇んでいた。
 途端に例の看板が音を立てて倒れた。工事のうるさい音が耳についた。当事者たちの喧騒が響き渡った。無言は長くは続かなかった。私は祈り始めていた。私は祈り始めていた。私は祈り始めていた。
 あるいはこの静寂を償うために看板は犠牲となったのだ。そう思うと祈らずにはいられなかった。長年染みついた習慣は二週間ではすすぎきれなかった。先生がようやく私の隣に追いついた。先生は何も言わなかったがその目を見て私は悟った。老人も高校生も店員も割れた看板も鴉のような聡い目で私に注視を向けていた。二週間ぶりの祈りは激しかった。彼らは救われた。
 そのまま騒ぎはうやむやになった。老人はそそくさと逃げていった。高校生もばつが悪そうにその反対方向へ去っていった。店員は看板を持って店に戻った。通りには私と先生だけが取り残された。体感的に短い出来事だった。
「また祈っちゃいましたね」
 先生が他人事のように言った。私は先生にお辞儀をした。あるいはそれは倒錯的な光景と捉えられるかもしれなかった。でもそれは仕方のないことだった。
「もう帰ります」
 先生が去り私は自分の義務を果たしてから帰路に立った。翌朝になると私の宗教は決定的なものになっていた。たった二週間の家出だった。しかし前の状態に戻ったのかというとそれはあり得ないことだった。もはや宗教はひとつではなくなっていた。私は先生を先生と呼ぶことも放棄できなくなっていたから。仕事も給与も居住地もテレビ番組も喫茶店も服飾も性別もすべてが宗教になっていた。すべての宗教が纏わりついた。それは口が裂けても気楽とは言えない代物だった。
 朝なので勤め先へと向かった。同じ道を行く中学生たちが先生おはようございますと私に言った。その群れの中には先生もいた。まだ白い夏服を着て登校する彼らはまるで羊のようだった。


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© 2017 Kobuse Fumio