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ノア


 雨のにおいがくすぐったい。梅雨はとっくに過ぎ去ったはずなのに、今日は朝からどしゃぶりだ。水滴が滞りなく、辺り一面を打ちつけている。ぼくがどんなアクションを起こしても、その背景に雨の音が纏わりついていそうだ。暑いからという理由だけで、窓は開け放している。確かに涼しそうな風が入ってくるけれど、一緒に雨粒もやってきた。
 教師が黒板になにか書いている。チョークの音が雨と混じった。うしろの席が騒がしい。ねえ夏休みどうするー、どうしよっか、山行こうぜ山、えーやだよ、じゃあ海、アウトドアだねえ、映画行こうよ、あのホラーってもうすぐだろ、ホラーはやだよ……。うしろの連中は、雨粒が気にならないらしい。そんなに夏休みが楽しみなんだろうか。
 どうせ夏休みなんて、やってこないのに。
 頬杖をついてみた。手の平に押されて、口元が持ち上がる。でも愉快な気分にはどうしてもなれなかった。
 雨の音があればそれでいい。教師の喚きや、うしろの喧騒や、道路を走る車の足音は必要ない。雨の音だけあればいい。まっすぐ地面に降り注ぐ、それだけあればいい。
 でも、誰もそれに気付かない。のんきに日常を過ごしている。その証拠にまたチャイムが鳴った。起立、礼。授業が終わる。雨は降り続く。
 うしろは未だに落ち着かない。夏休みになにするのかまだ決めていないようだ。決断力がないんだろう。
 雨は今朝からとまらない。なのに誰も気にしない。あー傘忘れちゃった、貸してやるよ、ありがとー。少しずつ教室の人間が減っていく。みんな自ら雨に身を晒そうとする。傘を得意げに持って、家に帰ろうとする。テニス部は今日は練習ないぞ、わーやった、陸上部は廊下で筋トレだ、えーそんなあ……。雨が与える影響なんて、その程度だ。誰もがそう思いこんでしまっている。
 ぼくは違う。ぼくだけが知っている。

 次の日、今日も雨は降り続いている。睡眠をとったから確証はできないけれど、おそらく休みなく降り続いているのだろう。土がぐちゃぐちゃだ。コンクリートの道路は海辺みたいに波打っている。
 すごい雨だねぇ、降ってるねぇ。誰かがそんな会話をしていて、その声が雨水に染みた。雨の代わりにぼくが吐息をついた。かわいそうに、雨は誰にも認められていないんだ。ただつまらなそうに、鬱陶しそうに時たま話題に上がるだけ。本当はもっとすごいのに。もっと壮大なことができるのに。みんな、気付かない。
 なんて不憫なんだろう。雨の企てている衝撃的な計画に、誰も反応を示さないなんて。きっと、壮絶すぎるからダメなんだ。路上で汚らしい人が蹲っていても、この町の人間なら素通りするだろう。その要領で、二日続いているこの雨を無視しているに違いない。まさか気付かないわけないじゃないか。こんな、恐ろしい行動に。
 でも、ぼくはちゃんと気付いているし、それについて無視もしない。もしかしたらぼくは特別な人間なのかもしれない。だって。
 クラスメイトたちはぼくに関心を示さない。なぜならぼくが、おかしな人間だからだ。今時、「ぼく」だなんて呼ぶ人はいない。「ぼく」を使う人は、総じて弱い人間だとみんな決め付ける。それが怖くて、誰も「ぼく」を使えない。それがこのクラスに、この学校に漂う空気だ。雰囲気だ。規律、だ。それを破っているぼくは、おかしな人だということになって、みんなから無視されている。うしろの席の連中は、ぼくに話を持ちかけない。クラスの陰に押しやられて、窓際の席なのに、ぼくに太陽の光はかかりにくい。ぼくの相手をしてくれるのは、この雨くらいだ。
 だからぼくがなにをしようとも、ここらのヤツらは気にしない。それは哀れなことだけど、同時に愉快なことでもあった。
 なぜならば、優越感が得られるから。ぼくだけが達している地点から、うしろを見下ろすのが楽しいから。

 授業が終わってすぐ、ぼくは屋上に走った。今日は〝約束の日〟だ。〝決断の日〟まではまだ一週間ほどあるけれど、数日かの間隔で、〝約束の日〟は訪れる。今日で三度目だ。
 膝をふって走る。手すりを握る手が湿ってる。手を棒に滑らせて走る。最上階まで来ても足は止まらない。
 鍵は既に、持っている。一度目の〝約束の日〟の際に工面しておいた。こっそり持ち出したときは思わず心臓が縮んだ。普段ぼくは大人しいから、教師の目がつり上がるようなことはしないんだ。
 鍵穴をいじくる指が震えた。もう三度目なのに緊張してしまっている。なかなか慣れない。長い前髪が視界にちらついて邪魔臭い。そろそろ切ろうか。いやそんな必要ないか。思考が頭を駆け巡る。血液が必死に働いているのがよく分かった。時間がかかったけれど鍵が開く。
 屋上は雨のせいで、くるぶしくらいまでの深さの、広い水溜りになっていた。まるでバスタブの中でシャワーをしているみたいだ。ぼくは迷わず足を踏み出した。靴が一気に冷たくなる。傘は持っていない。切ろうかなと思っていた髪が、容赦なく額にくっついた。服も皮膚にひっつく。でも服と同化したような気分はまったくなかった。
 ああ、雨だ。
 両手を雨にかざした。体を鍵盤に見立てて演奏したら、鍵盤のほうはこんな感覚を得られるんだろう。そんな心地いいメロディーが、ぼくの手で跳ね上がる。
「やあ」
 途端に、そんな声。でも雨に掻き消されて、本当に声があるかどうかは分からない。ただ脳内で響いている。両手に降りかかる演奏が鈍くなる。やっと来た。
 ぼくは振り返った。そこには宇宙人がいた。姿は見えないけれど宇宙人だ。宇宙人はその、人知を超えた姿のせいで、ぼくごときの脳では認知できない。でも宇宙人のほうからぼくにコンタクトしてくれるから、ぼくはかろうじてその存在を知ることができた。
「……こんにちは」
 挨拶が通じるのかは分からない。これで三度目だけれど、宇宙人は返事をしない。それでもぼくは挨拶をした。それが地球人、日本人の在り方だと思ったからだ。
「〝約束〟の確認をしよう」
 宇宙人が言う。本当に言ったかは分からない。だけど言ったとぼくが思ったのだから、言ったってことでいい。
「はい」と返事をした。
「我々は地球人を滅ぼすことにした」
「はい」
「そこで我々は、少し昔の事件を参考にして、大洪水を起こすことにした」
「はい」
「しかし困ったことに、当時大洪水を起こした者は、もう決して起こさないと、地球人に対して〝約束〟をしてしまっていた」
「はい」
「だから我々は、地球人のきみの協力が必要となった」
「……はい」
 宇宙人はぼくに、三度目の説明をする。理解を促すためというわけではない。どうやら宇宙人は、ぼくの傍にいることで、こうやって説明をしている間に、ぼくになにかを作用しているらしい。ぼくの体がほんの少しだけ変わっていくのを、毎回感じている。
 気付けば宇宙人はいなくなっていた。どうやら三度目の〝約束〟は終わったらしい。
 ただ説明を聞くだけだった。
 聖書に出てくる話、『ノアの方舟』。ある日神様が、ノアという人間にお告げをした。神様は人間の堕落した姿に我慢がならないから、大洪水を起こしてやり直すことにしたと。ノアは堕落した人間の中では特別神様のお気に入りだったから、そのために神様はノアに告げたんだ。ノアが水に飲み込まれてしまわないように、方舟を造れって。そうして動物の雌雄一組をつれろって。神様はノアが方舟に乗せるべきものすべて乗せたのを確認してから、大洪水を開始した。はれて悪に染まった人間は流され飲み込まれ、世界中が雨に曝された。
 宇宙の生物には、階級というものがあるらしい。今の地球人はすごく下だ。神様はすごく上で、あの宇宙人は神様の少し下、らしい。
 階級が異なるごとに、できることも変わってくるらしい。たとえば神様じゃなきゃ、宇宙は創れなかった。
 宇宙人は階級が高いから、自分たちの技術で大洪水を起こすことができる。だけど、それと人類を滅ぼすのとは違うそうだ。宇宙人は、人類を滅ぼせるだけの階級にいない。神様と違って。だから、宇宙人はぼくみたいな特定の人物を保護しておくことで、人類を滅ぼすのではなくて、ほとんどを死なせることにした。神様は人類をわざと残そうとしたけれど、宇宙人は技術的に、階級的に、人類全部を滅ぼすことはできなかったんだ。だからぼくは選ばれた。どうやって選ばれたのかは知らない。ただ、ぼくが選ばれた。人類の生き残りとして。ノアとして。

 雨はやまない。制服と肌との間に下着が密着して、気持ちのいいものではなかった。だけどそのイヤな気分も、雨が流してくれている。だけど雨のせいで気持ち悪くなっているのだから、延々と繰り返されてしまっている。雨が気持ち悪さを流して、そしてまた気持ち悪さを雨が作り上げて、それをまた流して。
 教室に戻ってみると、まだ数人残っていた。時計を見てみると、授業が終わってからまだ三十分しか経っていない。
 教室の連中は、誰もぼくに目を向けない。それがいつも通りのことだから、特に気にすることはないけれど。
 ぼくはみんなから無視されているけれど、いじめられてはいない。自分の席を見ても、どこも変わったところはない。ぼくが連中に対して思っていることと同じようなことだけれど、クラスメイトたちはぼくに興味がないんだ。だからこれはいじめではない。もしこれがいじめなら、ぼくはクラスメイト全員をいじめてしまっていることになる。そんなすごいことしていない。
 ぼくは部活動に所属してもいないから、用が済んだらすぐに家に帰ることができる。雨が降り注ぐ中、ぼくは家路を歩いた。傘は持っていない。
 家に帰っても誰もいない。両親は仕事だし、姉ちゃんはバイトだし。ぼくは制服を脱いで椅子にかけた。下着姿で自室のベッドに潜り込む。
 疲れた。宇宙人の相手はとても疲れる。なにか、内側からされているような感覚。宇宙人の前にいるときは、それを常に感じてしまうからだ。緊張が増していく。そのくせして心臓は安泰だ。変な疲れが蓄積していく。
 ベッドの布団はやわらかかった。日を増すごとに、やわらかくなっている。ぼくはそのまま眠ることにした。
 あと一週間で、人類が滅亡する。

 次の日も雨はやまない。
 すごい雨だねぇ、通学路を歩いていると誰かの声がする。それは昨日と同じ声に聞こえた。みんな傘を持っていない。だけど、すごい雨だねぇ、声は終わらない。
 みんなおかしい。雨が降りすぎて、とうとう理性も洗い流されてしまったんじゃないだろうか。
 教室に入ってもいつものように、誰もぼくに目を向けない――はずだった。
 逃げ去ろうかとも考えた。ぼくは廊下からたった今入ったところ、扉のところにいるから、逃げるのならば廊下側だろう。いや、その他にどこに逃げるというんだ。窓の外? いや、そんな莫迦げたことができるわけがない。じゃあ、今の状況が莫迦げていないとでもいうのだろうか。
 ぼくの席に誰か座っている。
 女だ。髪は短い。肩に届かない。眼鏡はかけていないが、目が悪いのか、眉間に皺ができているのがよく窺える。
 女は我が物顔でぼくの席に座っている。どこの誰なんだろう。ぼくは疑問に苛まれながらも、ぼくの席に近づくことを決めた。一歩一歩と慎重に床を踏んだ。床ではなく膝が軋む感覚がした。
 ぼくが傍まで来ると、彼女は当然のごとくぼくを見遣った。
「おはよう」
 そう言ってくる。
 ぼくは困惑した。ぼくは挨拶というものをまったくしない。家族とたまに、朝鉢合わせたときに交わすくらいだ。そんな、使い勝手の分からない挨拶を、ましてや覚えのない人にかけられるなんて。
 ぼくがなにも言わずにしていると、彼女は少しだけ首を傾げて、それだけだった。机の中からぼくの教科書を取り出して、無言でぱらぱらページをめくる。
「あ、あの」
 ぼくがそう話しかけると、彼女はすぐさまぼくのほうを向き、そして微笑んだ。もしかして、ぼくが話しかけるのを待っていたのか。そう誤ってしまいそうな笑顔だった。
「そこ、ぼくの席……」
 うしろの席の連中が、珍しくぼくの言葉に反応した。ぼくが普段まったく言葉を発しないからだろう。ぼくはきみたちに話しかけたわけではないのに。
 あっさりと彼女は席を立った。短い髪が、自身の耳をくすぐるみたいに撫でている。正面から見ると、鼻が低かった。
 うしろの席の奴が、ぼくをじろじろと見ている。いや、見ているのは彼女かもしれない。いや、やっぱりぼくのほうか。ぼくは試しに、立っている場所を移してみた。あ、ほらぼくだ。奴はぼくのほうを向いている。
「ねえあの、どうしてここに?」
 連中のことは放っておいて、ぼくは彼女にそう訊ねた。彼女がニッと笑う。
「おい、なんなんだよ」
 彼女が答えるよりも先に、ぼくを窺っていた奴が声をかけてきた。
「一人でなに喋ってんだよ」
 や、やめなよぉ。他の人が、奴をたしなめた。でもちらちらとその人もぼくを窺っている。おかしな子をみる目。そうに違いなかった。ぼくは一人で喋っている……まわりにはそう見えているんだ。
 彼女がぼくの手を取った。引っ張る。動く。教室を出た。もうクラスメイトたちはぼくへの関心を失くしているに違いなかった。変なやつ、みんなからの評価はそんなものでしかないんだ。
「きみ、宇宙人なの?」
 ひとけのない廊下まで走って、それからぼくは彼女に言った。まだ彼女はぼくの手を取っている。妙に触れられている部分がくすぐったい。
 こうしている間も、外は雨でいっぱいだ。
「ねえ、そうなんでしょ」
 彼女の瞳を覗いた。瑞々しい。もしここが砂漠だったなら、この瞳はオアシスのようになっていただろう。でも視力が悪いのか、目つきはやわらかいものではない。
 彼女はぼくの質問に、うふふ、と笑って。それだけだった。

 この学校では、昼ごはんは各自で用意することになっている。ぼくの場合、母が出勤前にお弁当を作ってくれている。どこで食べるかも自由だ。個人の責任に委ねられている。ぼくはいつも、自分の席で食べている。うしろの連中も自分たちの席をくっつけて、ともすればたまに、彼らと一緒に食事をしているような錯覚に陥る。
 でも今日は、そんなことはない。なぜなら、今日ぼくは、食事を教室でとっていないからだ。
 雨の音は、空に近づくほど激しくなる、と、ぼくはこれまで誤解をしていた。しかし本当はそうではなかった。雨粒は雲から落ちてきて、位置エネルギーを運動エネルギーに換えていく。下に落ちていくほど運動エネルギーが大きくなる。だから空から遠ざかるほど、雨粒が空気を打ち付ける力は強くなるんだ。
 だから、屋上は案外穏やかだった。いや、屋上というよりも、屋上に続く扉の手前、階段の行き止まりだ。屋上は雨に晒されていて、宇宙人との〝約束〟がない限り出たくない。
「これ食べていい?」
 彼女が弁当の卵焼きを指さした。ぼくは「いいよ」とすかさず答えた。でも既に卵焼きは、彼女に連れ去られた後だった。
 並んで座る。扉の向こうは雨で荒んでいる。池ができてるみたいだ。
「すごい雨だね」
 彼女がそう言った。嬉しかった。
「そうだよね。なのに誰も、傘をさしてないんだ。おかしいよね」
 ぼくの言葉に、彼女も嬉しそうに頷く。
「きみなら、一緒に方舟に乗ってもいいかも」
 ぼくは呟いて、彼女は首を傾げる。
 ふいに打ち付ける音が耳についた。それは雨の音ではなかった……と思う。
 ぼくと彼女が、同時に振り返った。その先には屋上と隔てる扉がある。
 そこに宇宙人がいることを、ぼくは直感した。

 宇宙人は雨に濡れるということを知らないらしい。それもそのはずだ。宇宙人には体が、少なくともぼくたち人類から見える体がないのだから。
「今日は〝約束の日〟ではなかったはずだけど」
「いや、今日で間違いないはずだが」
 雨の音がぼくの耳を邪魔している。それでも宇宙人の声は明瞭だ。脳に直接語りかけてくる。そんなに繋がっているのに、情報に齟齬が生じた?
「明日、人類を滅ぼす」
「え?」
 雨の音が大きくなった。ぼくは宇宙人ではないから、雨粒に容赦なく晒されて痛かった。でも我慢をして、痛みを忘れるよう努めて、そもそもなぜ我慢しなくちゃならないのか忘れて、痛みは消えていった。
「きみは選ばれた。ノアとして、我々と共に来てもらう」
 いつもの〝約束の日〟と変わらない、単調な説明。ぼくの心臓は意外と冷静だった。
「あ、そうだ」
 ぼくは傍の彼女を見遣った。彼女は開け放たれた扉の内側で、雨に濡れない程度に顔を覗かせている。
「あの子も一緒に乗せていいですよね」
 彼女が宇宙人なのかどうかは分からない。だけれど、ノアは家族を方舟に一緒に乗せたはずだ。から、その。
 宇宙人はなにも言わなかった。

 彼女がいなくなった。
 確かに昨日、また明日ね、と行って別れたはずだった。相変わらずずぶ濡れのぼくを見ても、彼女以外は反応を示さない。まるでぼくが普通にしているみたいに、視線も送ってこない。
 彼女は学校に来なかった。でも考えてみればそうだ。もうすぐ人類は滅亡するんだ。それなのになぜぼくは登校したのだろう。いや、それはきっと彼女に会いたかったからなのだろう。でも学校に来たからといって彼女に会える確信は、もとからなかったはずなんだ。
 ぼくは一時間目の授業だけ受けて、それでも彼女が現れないから、きっともう学校には来ないんだと判断して、自分も学校を出て行くことにした。教師に肩を掴まれて痛かったけれど走って逃げた。おい、っていう教師の怒鳴り声は、彼女に会いたいというぼくの気持ちよりは弱々しいものだった。ぼくは走った。そして彼女を捜し始めた。
 どこにいるか分からないからどこでも捜した。雨が降り続く中、長い前髪を額にくっつけて捜し回った。どこでも捜し回った。雨のにおいはよく分からなくなっていた。打ち付ける雨の感覚も、その音も。彼女がいないと無意味に成り下がっていた。いつの間にか彼女の存在はそれほどまでに昇進していた。あのクラスの中で、ぼくに話しかける存在はそれだけで大切だった。
 とにかく町中を走り回った。昼間になると周りの目線が痛かった。そういえばぼくは制服を着ていた。学校から抜け出してきたんだった。周りの大人たちは誰も傘を持っていなかった。ぼくも持っていなかった。雨が道路を打ち付ける。

 宇宙人は言っていた。「明日、人類を滅ぼす」と。そして今日がその明日だ。
 正確な時間は分からないけれど、太陽は一日で一番高い位置にいるらしい。雨が降っているのに太陽がどこにあるのかよく分かった。というか見えた。鮮明に見えた。きっと滅亡の兆候だ。
 今日のいつに滅亡が始まるのか分からない。『ノアの方舟』の内容を思い出すに、ぼくが方舟に乗った途端に、この雨がもっと強くなるんだろうか。それじゃあ、ぼくが方舟に乗らない限り滅亡劇は始まらないのだろうか。それとも、既に始まっているのだろうか。
 少なくとも、あと十時間程度で今日が終わることに変わりはなさそうだ。
 知らないのは知らない。それよりも彼女のほうがぼくにとっては大切だった。どうせ宇宙人たちは、ぼくがいないと滅亡できないんだ。それならば待たせておけばいい。彼女を捜す時間は、ぼくが自由に作り出すことができる。……もちろん、宇宙人のほうにも事情というものがあるだろう。だからすぐに見つけてみせるさ。

 ぼくは彼女を捜す。暗くなっても捜す。一向に雨はひどくならないし、おさまることもない。ぼくが彼女を捜さなくちゃ。いけないのに。そうでない、と。
 うふふ、と彼女が笑っていたのを、ぼくはふと思い出した。そうだ、彼女はもしかしたら宇宙人かもしれないんだ。いや、これだけ捜しても見つからないということは、本当にそうであるに違いない。だから学校に来なかった。今日は、どこかの方舟で、他の宇宙人たちと一緒にぼくを待っているんだ。
 ぼくは駆けた。なんで今まで気付かなかったのだろう。ぼくはノアだ。選ばれた人類の生き残りだ。ならばこんなところで油を売っていないで、方舟のあるところへ、彼女のもとへ、すぐにでも行くべきだったんだ。
 雨はまだ降り続けている。

 学校の階段を駆け上がる。手すりに手を滑らせた。摩擦はあまり起きないけれど走っていて手の平が痛い。ついでに膝も痛かった。今頃になって走り回ったのが苦痛になってくる。一段。一段。ぼくは駆け上った。
 彼女がきっと待っている。方舟の中で待っている。彼女はやはり学校に来ていたんだ。それなのにぼくは、ろくに捜しもせずに、見当違いの蓋ばかり開けて。
 足元がぐらついた。

〝決断の日〟に人類は滅亡する。その日は、明日。いや、もう今日になったはずだ。違う。もう昨日だ。
 天井は白かった。それがなぜかというと、うちの家の天井は総じて白いからだ。理由になっていないけれど。
 ここはぼくの家だ。自分の部屋の、ベッドの上で。ぼくは天井を眺めていた。なにも分からないまま、なにも考えられないまま。ぼくは天井を見つめていた。白い天井はまるで、ぼくの頭の中のよう。
 雨は降っていない。部屋の窓にはカーテンがかかっているから、確信はないのだけど、雨独特の、打ち付ける音も、体をくすぐる湿ったにおいもしない。
 ぼくは傘を持っていなかった。誰も傘なんか持っていなかった。きっと今日のような、晴れた日なら誰も傘なんて持たないのだろう。持つとしたら日傘だ。
 昨日、人類が滅亡したんだと思う。そうだ。きっとそうなんだ。
 雨がやんでいるのは、きっとみんな流れた後だからだ。もしかしたら〝決断の日〟は昨日ではないのかもしれない。ぼくは流されている間ずっと眠っていて、やっと今、起きたのかもしれない。きっと誰も、ぼくのほかには、人類は生き残っていないんだ。
 窓の外で、車の通るエンジン音がした。

 ぼくはノアだ。ぼくはノアなんだ。
 きっとそうだ。さっきの車の音は、宇宙人が運転手かもしれないじゃないか。すっかりこの惑星は、宇宙人のものになったんだろう。
 ああ、そうだ。彼女はどうしたんだろう。

 ぼくは天井から目を逸らして、ベッドから下りた。いつもとなんの変わりもないように見える部屋だ。机も椅子も、壁にかかった時計もなにも、前とおんなじ。
 だけれど、きっとこの部屋は流された後の、新しい空間なんだ。ぼくのために宇宙人が、わざわざ作り直してくれた部屋なんだ。
 学校の階段で転んだときのことを思い出す。昨日、あるいは昨日以前のこと。ぼくは彼女に会うために、方舟がある屋上へと走った。そのとき足を滑らせたのだろう。気付けば洪水は過ぎ去っていて、目覚めたここは普段となんら変わりのない、自分の部屋だった。
 扉を開けた。その先に続く視界も、見慣れているものだった。家全体を、おんなじように作り直してくれたのだろう。挨拶が通じるかは分からないけれど、次に宇宙人に会ったら、ありがとう、と伝えないと。
 台所に行くと、そこのテーブルに、いつものように弁当が置かれていた。まさか、こんなところまで再現したというのか? ふいに、もういなくなってしまっただろう母の顔が浮かんできて、悲しくなる。でも仕方ない。それくらい人類は堕落してしまったんだ。仕方ないんだ。
 弁当箱を開けてみた。本当に、まるで本物の母が作ったみたいに、いつもと似た趣の弁当だ。これをぼくは、人類が滅びる前、教室の隅で食べていた。
 ああ、そうだ。もう誰もいないんだ。
 うしろの席の連中も、教師たちも。誰も、みんな、いないんだ。
 車の走る音がした。宇宙人は、すっかりこの星を使いこなしてきているらしい。
 ぼくはこれからどうしたらいいのだろう。

 洗面所も以前とおんなじように存在した。顔を洗おう、そう思った。
 鏡を見遣る。そこには顔が映っていた。前髪は長いけれど、全体的に見れば髪は短い。肩に届かない。眼鏡はかけていないけれど、目が悪いのか、眉間に皺ができているのがよく窺えた。正面から見ると鼻が低い。女だ。
 鏡には彼女の姿が映っていた。

 おはよう。
 背中に当たる言葉。ぼくは咄嗟に振り返って、その声の主の姿を確認した。姉だった。洪水に流されたはずの姉だった。
 ぼくはノアだ。ぼくはノアなんだ。
 なにやってんの。
 姉の口が歪む。
 ぼくがノアだ。ぼくが。
 想像なわけがないんだ。妄想のはずがないんだ。
 姉ちゃんは洪水に流されたはずなんだ。家族ではあるけれど宇宙人がそれを拒んだから、聖書に出てくるノアの家族とは違って流されたはずなんだ。
 宇宙人がいるんだ。ぼくと会話をしたんだ。まさかそれが絵空事なわけがないんだ。夢なわけがないんだ。ぼくがノアなんだ。
 夏休みなんて始まるわけがないんだ。


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© 2012 Kobuse Fumio