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地球の終末は決して訪れない


 クヌギの木が不規則に並んでいた。クヌギの木といえば、根元にドングリが散らばっていそうなものだが、そんなものは確認できない。また、木々と向かい合うようにして川が地を張っている。されど流れてはいない。水が上流から下流へ動くことはない。
 小屋がクヌギの木に囲まれていた。木製の小屋は古びているが、廃れてなどいない。男が毎日のように手入れをしているからである。
 男はここで、一人で暮らしている。服は身に着けていないが、ドングリを連ねた首飾りを着けている。つまり、男には知能があるということである。首飾りをこしらえるだけの知能が。
 陽光が一帯を照らす。だがそれは、決して揺るがない当然のことであった。陽光が途絶えたことなどない。この太陽は沈まないのだ。
 男は刃物を作っていた。石を磨き尖らせ、それを丈夫そうな枝に巻きつける。前回の狩りの最中に、イノシシに刃物を壊されてしまったのだ。そのために男は、新たな武具を拵えているのである。
 ここにいるヒトは、彼一人のみである。他のヒトは生存していない。そもそも、彼は最初から一人であった。ここにいるときから、既に男は最後の一人であった。
 男を照らす太陽は、人工のものである。地球がまわりを廻っている本物の太陽は、この場に光を注がない。男にそれを知る由はない。
 刃物が出来上がった。男は無表情にそれを見つめて、試しにクヌギの木を突き刺した。幹を貫くことはなかったが、刃物もたいして破損していない。
 男は刃物を持って、早速狩りに向かった。クヌギ林を抜けると、緩やかな丘がある。丘を登りきると、絶壁とも呼べる急斜面が待ち望んでいる。男はそれを慎重に下っていく。岩の窪みに足を任せ、器用に目的のところまで下りていく。
 完全に下りきるよりも上のところに、洞穴があった。イノシシが棲家としている洞穴である。男は足を洞穴にかけ、そのまま中へと侵入する。しかしなかなかイノシシは見つからない。今は外へ出ているのかもしれない。
 男はそれでも、さらに奥へと進んでいった。一番奥で眠っているかもしれないと考えたのだろう。しかし結局、イノシシはいなかった。最奥の土を掴み取る。土の塊は崩れ、男の手から零れていった。すると、崩れたところから、光が差し込んできた。
 男は不思議に思いながらも、穴を広げていく。光は次第に大きくなり、完全に男は包まれることになった。男はつい目を閉じる。
 光の先は、男の知る場所ではなかった。クヌギの木は一本も立っていない。……いや、そもそも植物が見当たらない。花が一輪も咲いてなければ、雑草一本も生えていない。どこもかしこも灰色だった。
 そのとき、男は初めてヒトというものを見た。灰色の上に佇んでいるヒトたちは、みな衣服を纏い肌を隠している。
 男は灰色の世界に這い出て、今まで通ってきた洞穴を振り返った。入口は仄暗く、奥は真っ暗でなにも見えない。
 それから自分の体を見遣った。なにも纏ってはいない。男は再度ヒトたちの姿を目視した。服を着ていないヒトはいない。通信機器を持ったヒトも、腕に巻いた時計を見ているヒトも、椅子に腰掛けているヒトも、全て。
 どのヒトも、動くことなく止まっていたのだが。


 全ての物体が動いていない。今、男の視界に映るのは止まった空間なのである。物体を目視するには、その物体からの可視光線が眼球に届かねばならない。しかし今、光は止まっている。ゆえに本来は物体は見えないはずだ。しかし、この止まった空間には、止まったその瞬間の光が存在する。それらは動くことこそなけれ、存在しているがゆえに眼球に映ることは可能であった。
 ただしこれは、灰色に見えることの説明にはならない。色も可視光線によって認識するものなので、本来、物体と色は切り離すことはできないはずである。
 男は衣服を身に纏うことに成功した。初めての違和感に苛まれながらも、男は店を後にした。金は払っていない。払う金など持ち合わせていなかった。あったとしても、固まった店主がどうやって勘定できようか。
 男はいちいち、路上のヒトそれぞれの顔を覗きこみながら歩く。どれも人形のように動かない。されど無表情というわけではない。あるヒトは頬を持ち上げ、あるヒトは眉を歪め、あるヒトは口を大きく開けていた。男はそれらの表情を、ひとつひとつ真似して歩く。
 刃物は先ほどの店に置き忘れていた。男はそれを思い出すも、構うことなく歩を進めていく。どこへ向かっているのかは本人でも分からなかった。なにも考えずに、灰色の空間を散策する。
 男はしゃがんで、地面を指でなぞった。細かな刺激が、これが土ではないことを語る。男は試しに穴を掘ろうとしたが、ヒトの指では到底無理なことであった。
 進んでいくと、大きな橋が男の視界に入った。そこへ向かうと、これまた大きな川が地を区切っている。だがやはり、水の流れは皆無であるようだ。灰色の桶が、水に浮かんでいる。それは氷の溝に嵌められたように動かない。
 男は自分が住んでいたところのことを思い浮かべる。そこはここと同じく、川は流れることを知らず、クヌギの木からドングリが落ちることはなかった。しかし灰色に染まってなどはいなかった。可視光線では物体と色を分離できない。
 橋を渡りきる。橋から水面までは距離があった。止まった桶を触ることは諦め、そのまま川から離れる。
 ヒトはどこにでもいた。探すまでもなく、男の思う同類はいたのである。イノシシの洞穴の先に、こうやって広がっていたのである。しかしいずれも動かない。足を進めることも、手を振ることも、まばたきさえしない。
 男はそのうちの一人に触れてみた。頬の皮は柔らかい。顎はすらりと滑らかで、滞るということを知らない。男はすぐに、その顎にひげがないことに気付いた。そして自分の顎と触り比べてみる。
 男は自分の鬚を掴んで、思いきり引っ張ってみた。数本抜ける。だがあまりの痛みに男は叫び声を上げてしまった。音は空気を震わせて広がる。空間は止まっているというのに、動いている男の作用には準じるようである。ただし、男の声が通り過ぎれば、空気はすぐに硬直した。あくまでも作用している間だけのようだ。
 それからいくつかの方法を試し、男は鬚を剃ることに成功した。少々剃り残しが残っていて、手を滑らせてみると芝生を撫でるような感覚が尾を曳いた。
 男はまた歩き続ける。灰色の世界は、慣れればさほど関係はなかった。リンゴが赤かろうが青かろうが、それが木に生ることに変わりはないのである。
 いくら歩いても、依然として植物は見当たらなかった。人造の石が地を覆い、人形のようなヒトが佇む。
 しかしそんな光景にも、ついに変化が訪れた。いや、光景が変化したわけではない。もとからその空間だけ、隔離されたように色彩豊かになっていたのだ。
 少女が水池に足を踏み入れた。水は音をたてることなく波紋を広げる。水が止まっていないのだ。水池だから流れこそ滞っているものの、波紋は広がり、そしてついえる。そして色があった。透明色、水特有の色が。
 少女が男を向く。そしてにこりと、なんの抵抗もなく目を細めた。男を目で確認してから笑ったのだ。動いたのだ。
 水池の真上だけは、灰色ではなく青色だった。


 少女は発言した。「こんにちは」と。男は驚いて耳を押さえる。少女はその様子を見て、「言葉分からないの?」と呟いた。男はなにも答えない。彼は言葉を理解していなかった。
 少女は白いワンピースを着こなしている。左耳の上で、白い花の髪留めが添えられている。黒い髪は長く、背中まで真っ直ぐに下ろされている。十代半ばあたりの容姿だ。
「みんな動かなくなっちゃったから、あたしが最後の一人なんじゃないのかと思ってたけど。なんだ、いるじゃん」
 少女はそう言い放って、白い足を水池から出した。また波紋が広がって、水面が波打っていく。男は棒立ちになってその光景を眺める。動くヒトを見たのは、この男にとって初めてのことなのだ。
「あたし、むい。あなたの名前は?」
 少女が言う。だが男は、なにも答えずに不器用に口を動かしていた。少女、六はそれを見て、さほど顔色も変えないで「まーいっか」と呟いた。
 六は裸足のまま地面を歩き、灰色との境界の手前で足を止めた。ちょうど男の正面である。背はずいぶん低い。頭の天辺は、男の肩にも届いていない。
 男はじっと六を見つめた。緩やかなワンピースから、白い肌が晒されている。辺りが灰色であることに相反して、その容姿は輝いて見えた。
「なんであなたは止まってないの?」
 六は堂々とした口調でそう言った。眉ひとつ動かさずに。目を逸らすことなく。男はその顔に、少々ではあるものの狼狽した。近くにまで詰め寄られ、さらに意味の分からない音声を投げかけられたためだろう。
 男はなにを考えたのか、自分の首にかけていたものを外した。ドングリで出来た首飾りである。それを両手で扱って、そのまま六へと伸ばす。六は特に抵抗を示さず、六の胸でドングリが艶めいた。
 六は男からドングリへ視線を移す。クヌギの木から男が摘み取ったドングリだ。比較的大きくて、丸い形をしている。
「そっか。そうだったんだね」
 六はまた男を向いて、笑顔を強めた。
「あなたがとおだったんだね」
 六の言葉のどれかに知っている言葉があったのか、男はせわしなく頷いた。男の名は、十というのだ。
「ホントにいたんだ。あたしはてっきり、ただの言い伝えだと思ってた。……だったらホントに、色の世界は存在するの? あなたはそこから来たの?」
 六は捲くし立てるように質問を積もらせる。しかし十はそのどの言葉も理解できないようで、ただ困った顔をするだけだった。
 六は大きな溜息をついて、地面を向く。灰色の地面と六の足指が向かい合っている。
 ……しかし実際には、それは灰色ではなかったのだ。この世界において、色の存在しない世界において、それは唯一の無色なのであった。
 ある日、唐突に世界に色が生まれた。それは九人のヒトだった。もとよりその世界に住んでいたヒトたちは、その出現にざわめいた。ヒトにとって、色は理解できるものではなかった。眼球が、視神経で繋がる脳が、色という不可解な存在を認められなかったのである。
 可視光線によって物体は目視することができる。しかし物体と色は、可視光線では分離できない。しかし、この世界の住人にとって、色はそもそも認識されていなかったものなのだ。
 唐突に出現した色は、到底ヒトたちが受け入れられるものではなかった。ゆえにヒトたちはそれを拒絶した。
 すると、地球は止まったのである。色を拒絶したことにより、それと分離することのできない物体も自動的に拒絶されることとなったのだ。ヒトは完全に盲目になった。それは概念上の盲目である。物体が見えないのではなく、概念として、物体が遮断されたのだ。
 この世界が灰色だけだったのは、最初からの当然のことだったのだ。色の存在が地球を止めたのである。


 六と十は、イノシシの洞穴へと歩いていた。
 六の話によると、六以外の八人のヒトは、既に死んでしまったそうだ。ただし十は、その話を理解できなかったが。
 六と十の他のヒトは、みな灰色で動かない。しかしそもそも、ヒトは灰色だったのだ。十は今一度自分の手を眺めた。決して灰色などではない。
 そして洞穴のところへと着いた。……十が驚きの声を上げる。洞穴のあったところへと駆けた。手を触れてみても、穴があった痕跡は消滅している。塞がったというよりも、まるでもとから存在しなかったように。
 空は灰色で、地面は灰色で、路上のヒトはみな灰色で、六と十だけに色彩があった。十はその場にしゃがみ込んだ。六が「大丈夫?」と言って十の背中をさするが、十はなにも言わずそれを振り払う。
 近くの店に入って、置き忘れていた刃物を掴んだ。そしてそれを思いきり路上のヒトへと投げつける。刃物はなんの迷いもなく空気を切り、ヒトの腹を貫いた。
 六が悲鳴を上げる。ヒトから血液が流れ出た。しかし、その血液はヒトの着ていた服と全く同じ色をしていた。十は刃物の突き刺さったヒトへと走り寄り、今度は思いきり蹴り上げる。しかしヒトは佇んだままで、倒れることはない。作用している間しか動かない、空気と同じように。
「やめて!」
 突き刺さった刃物を掴もうとしたとき、六はそう叫んだ。透明な涙を流している。言葉の意味は理解できなかったが、それでも男は動作をやめた。
 血液が出ているヒトは、顔色ひとつ変えずに佇んでいる。他のヒトも、その光景に反応することはない。
 空は果てしなく灰色だった。
 ――地球はふたつの世界で出来ていた。色の「ある」世界と、「ない」世界で。六は「ある」世界のヒトだった。
 しかしある日、六は「ない」世界に迷い込んでしまった。六の他に、八人のヒトが迷い込んでいた。彼らは「ある」世界に帰ろうとしたが、迷ってしまったのだから、そう容易に帰ることはできなかった。
「ない」世界に住んでいたヒトたちは、その九人を見て――想像を超越する物体を見て――死んでしまった。脳がフリーズでもしたのだろう。それを見て九人は、この世界のヒトにはなるべく遭遇しないように努力した。しかし、九人のうちの一人がある日、不慮の事態で命を落としてしまった。八人はそのヒトを埋葬することにした。「ない」世界の住人の目から隠すためだ。しかしそれは、色を広げてしまうことの要因となってしまった。死んでも色が落ちることはない。その体が地面に馴染んでいくことで、その場所だけ色彩をもつようになってしまったのだ。それがあの、水池の一帯である。
 一帯の色彩によってこの世界の住人は、集団的に色を目撃することになってしまった。そして止まったのである。集団の目から物体が切り離されてしまったのだ。
 それから八人は、より一層力を入れて「ある」世界へ帰ろうと努めた。しかし一向に帰り口は見つからなかった。そして一人、また一人と死んでいってしまった。六は九人の中で最も幼かった。「ない」世界に迷い込んだときは物心ついてなかったほどだ。
 そんな六には、よく自分の状態が理解できなかった。説明されても、その実感はなかった。だからたまに、「ない」世界のヒトに話しかけ、「なんで灰色なの?」「なんであのお婆さんは止まってるの?」などと訊くのだった。ことごとく、質問を受けたヒトは動かなくなったが。
「ある」世界から迷い込んだヒトたちは、十人目の出現を待ち侘びた。もはや自分たちが通ってきた道は塞がっていて、探しても無駄だと判断したのだ。もう一人訪れれば、その新しく出来た道から帰ることができる。そう期待をかけたのだ。
 十は、色の「ある」世界の最後の一人だった。十が「ない」世界に来たことによって、「ある」世界に住むヒトは皆無となったのだ。つまり、十の後にまたヒトが「ない」世界に迷い込んでくることはない。十のいた世界は、「ない」世界とはまた別の理由で止まっていたのだ。なにもかも人工の世界――人類が滅んだ後の、ただ生き永らえている人造の飾り。ケーキを飾る、練り飴のようにそれは動かないものだった。
 地球の終末は決して訪れない。
 なぜなら、終末が訪れる前に止まってしまったから。途中でやめてしまったから。これより先に滅亡が訪れようとも、地球は既に止まっているのだから。
 水池の近くで、六はドングリを埋めた。池の水をかけて、育つように願う。六の髪留めの白い花が、仄かに色彩を放つ。この花は、「ない」世界にやってきてからずっと枯れていない。そもそもこの花は、人工のものであった。「ある」世界の人工物。
 六の傍に、十の体が横たわっていた。
 十は太陽光電池で動いていたので、陽光の降り注がないこの世界ではもう動かない。


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© 2012 Kobuse Fumio