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アギア・ソフィア


 ユスティニアヌス一世は、再建された私たちの出来栄えに感動して
「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」
 と叫んだのだという。その姿を見た覚えはないが、私のもとを訪れたツアーガイドや物知り顔のマンスプレイナーなどがよくそう言うものだから、きっとそうなのだろう。そうなのだろうし、その姿は私にも想像できた。
 ミラノ勅令によって、ローマ帝国内でもキリスト教が公認されたあおりを受けて、かつての都市コンスタンティノープルに私たちは建てられた。全国各地から大理石や彫刻が集められ、円蓋には巨大な十字架が描かれた。その十字架にはキリスト像が加えて描かれることもあったが、イコン破壊運動に乗じて取り消され、終息後に再び描かれ、また取り消されと、人間の都合に合わせてせわしなく明転を繰り返していた。
 再建される前には、市民の反乱によって燃やされたこともあった。重税を課したユスティニアヌス一世は市民から強い反感を食らい、ついには襲撃を受けた。元老院の中にも反乱に加担する者もいた。彼らは「ニカ! ニカ!」と勝利をうたったものの(ユスティニアヌスよ、市民は汝に勝てり)、ユスティニアヌス一世は皇帝の座に留まり、三万以上の血が流れ反乱は終息となった。そして重税による資金がつぎ込まれ、私たちは復活し、「ソロモンよ」という彼の叫びは実現したのだった。
 その際、私たちはずっとひとつだった。アギア・ソフィアとアギア・イリニはひとつながりの同じ聖堂だった。しかし後にオスマン帝国がコンスタンティノープルを征服し、トプカプ宮殿が建てられた際、わたしたちをつないでいた建物は破壊された。そこを遮るように城壁が作られ、私たちは個別のアギア・ソフィアとアギア・イリニに分離された。
 分断後、祭壇は取り下げられ、代わりにイスラム様式の内装が取り付けられることともなった。キリスト教聖堂はモスクに変わり、モザイク壁画も取り外された。前庭も破壊された。次第に自家撞着を体現した姿になっていき、その傷痕は永遠に残された。
 かのダビデ王は神に諭され聖堂を建てなかったというが、それは建物にも命が宿ることを彼が知ったからなのだろう。私たちは燃やされ、破壊され、分かたれるまで、何度も痛みを味わってきた。私個人が博物館にされてからは、その痛みを共有する相手もいない。私の痛みときみの痛みはつながりを絶たれ、私はきみのことがわからなくなり、きみも私のことがわからなくなった。


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© 2019 Kobuse Fumio