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雨はまるで弾丸のように


 走ったところで結果は等しかった。バスは待たずに過ぎ去って、道路を無情に突き進んでいく。俺は諦めて、歩いてゆくことにした。どこへ向かうのかも、知りはしないのに。
 俺は傘を持ち合わせていなかった。もしかしたら持っていたのかもしれないが、今この手にないのなら、用意していたとしても持っていないのと同じだ。雨は遠慮することなく俺の肩を濡らしてきている。肩から全身に伝っていく水は、いつまで経っても俺を濡らし続けている。すっかり服が体に密着していても、程度というものを知らないようだ。
「動くな」
 背後からそんな声がしたのは、バス停から離れて、人通りのない裏道に入ったときだ。野太い声と、背中を突きつける冷たいもの。その冷たさが雨によるものなのかなんなのかは分からなかったが、ともかく背後で男が凶器を突きつけていることは理解できた。
「なにが欲しい」
 向こうから要求されるのも癪なので、俺はこちらからそう質問しておいた。背後の男は驚いたのか、背中の凶器をぶらしてくる。その隙を狙って組み伏せることができそうだが、俺はそんな面倒なことはしないでおいた。
「なにが欲しいって……金に決まってるだろう」
「決まってるとは思わないがな」
「いや、すべては金だ」
「確かにそうかもしれない」
 そういえば俺も、金に踊らされたひとりであった。そんな俺が、金がすべてではないと断言できる要素はない。
「残念だが、金はない」
 雨は憚らずに降り続いている。体は芯まで冷え切っていたが、心臓だけはいまだ活発に動いていた。俺はまだ、いやむしろこれまで以上に、生きたいと願っているのかもしれない。
「俺は一文無しだ。ほら見ろ、傘を買う金もない」
 傘を買う金を持っていないのは事実だった。俺は本当に一文無しなのだ。
「確かに……。なにがあったのだ」
「なにもありゃしない。ただ自分から破滅しただけだ」
「破滅?」
「ああ、破滅だ」
 どうせ背後の男は、違法的に俺に近づいたのである。だから吹聴されることはないだろう。そう俺は考察して、男に鬱憤を打ち明けることにした。雨でも拭い取れない、ぬめぬめとした鬱屈である。
「俺は最近、株で大儲けをした」
「ほう。それはよかったじゃないか」
「だが俺は、調子に乗って、さらに多額を勝ち取ろうと躍起になってしまったのさ。気付けば金は消滅していた」
 ――あの女が原因であることに違いはなかった。しかし実際に行動に移ったのは俺自身であるのだから、文句を言うにも言えずまま。あの女はいつの間にか消えうせていた。
「それは災難だったな」
「おまえは、なぜこんなことをしているのだ。人通りのないところで、人を脅して、金を貪って……そうせねばならない状況に、おまえもいるのだろう?」
「ああ……そうだ。私も仕方なくこんなことをしている」
「なぜなんだ」
 背中を伝うものが、少しだけ揺れた。
「私は昔まで、富豪の家に住んでいた。努力せずとも遊んで暮らせる生活を送っていた。というのに、ある女が詰め寄ってきて、私は家から追い出されてしまったのだ。私がまるで罪を犯したみたいに、家族みなに誤解を生ませ、それを助長されたのだ――」
「それは災難だったな。俺も女に唆されてさらなる欲に手を染めてしまったのだから、世の中、怖いものだ。特に女にはな」
「まったくその通りだ。あの女、あの白い顔していったい今頃どこにいるのやら……」
「白い顔? それは偶然だな。俺を騙した女も、非常に白い肌をしていたぞ」
 俺は背中を虫唾が走ったのを感じた。それは凶器のためではない。もっと危険な存在のためだ。
「も、もしや……長い髪で、たらこ唇ではなかったか」
「そうだ! さらに、右手の中指にはペンだこができていて、舌が異様に長かった」
「まさにあの女だ!」
「俺たちは、同じ女にたぶらかされていたのか!」
 その途端だった。
 俺は血まみれになった。
 バスが後ろの男を跳ね、男は凶器を制御しきれなかったらしい。
 裏道は狭く、そのためかバスは遅い。俺は咄嗟にバスを見つめた。バスの中には顔面蒼白な男の運転手と、女がいた。女は色白で、髪が長く、たらこ唇で……。
 傷口に当たる雨は、まるで弾丸のようだった。


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© 2012 Kobuse Fumio