その出会いは本当に些細なことだった。
私、筒倉雪人は、浅草寺の初詣の帰りに寄ってみたネットカフェが会員制であることを知り、嫌気が差していた。
手に提げている紙袋が、妙に煩わしい。中には人形焼が入っている。土産ではなく、家でひとりで食べるつもりだった。
ネットカフェはやめて、もう帰ろうと階段を下る。ちょうど下から人が上っているところだった。急用があるのか、駆けて階段を上っている。彼は腕の時計に目を奪われていて、私に気付かない。私がどうこうする前に、私と彼はぶつかってしまった。
私は紙袋を取り落とす。彼も紙袋を持っていたようで、段にふたつの紙袋が転がった。
彼は「すいません」と荒い息遣いで言い、紙袋を手にとってネットカフェの中に入っていった。
少々乱れたスーツを正し、紙袋を拾い、私は浅草駅へと向かっていった。
ドアを開けても、靴を脱いでも、出迎えてくれる人はいない。私はひとり暮らしだ。そしてフリーター、いや無職だ。職が見つからない二十四歳だ。
スーツを脱いで、椅子にかける。脱ぎながら紙袋を椅子に載せる。中身は人形焼十個入りの箱だ。
スーツのポケットに入れたままだった、おみくじの紙を読む。吉。縁の欄に、突然の出会いがあると書かれていた。なんとなく、それをまたポケットに戻す。
部屋着を着てから、紙袋から箱を取り出した。だがその箱は、想像より大きかった。少々不思議に思ってよく見てみると、二十個入りと書いてある。まさか、店の人が間違えたのだろうか。
さらに紙袋の中には、見覚えのないものがあった。手にとってみると、それは身分証明書だった。私のものではない。
顔写真が添付されていた。肩までかかりそうな、捻じ曲がった黒髪だ。気だるそうな目つきが、鈍くまた鋭い。
名前も記されていた。野畑玄。脳内で何度かその名を反芻する。
翌朝、私はまた浅草へと向かった。昨日と同じで、人でごったがえしている。雷門の前にかかる道路も、未だに車が通れないようになっている。
一隅のビルに入る。階段を上る。
昨日諦めたネットカフェの扉が、ひっそりと佇んでいた。私は紙袋を持ったままの手で、そのドアを押す。
入ってすぐに、受付があった。私はつい声を漏らす。
「あ……野畑さん?」
受付をしていたのは、身分証明書のと同じ人だった。
「はい?」
野畑さんが、不可解そうに聞き返す。私は紙袋を渡した。少し沈黙が流れて、野畑さんは「あぁ」と納得したように頷いた。
ラーメン屋で私たちは隣り合う。
「昨日はどうもすみませんでした」
「いえ、私もぼうとしていましたので」
麺をすする。口の中がほんわりと温かくなった。
「人形焼、店長に食べられてしまいました」
野畑さんはそう言う。湯気が野畑さんの鬚に絡みついている。それを鬱陶しがることもなく、彼は豪快に汁を飲む。
「店長といっても、俺はフリーターなのですがね」
「あ、私もフリーターなんですよ。というより最近バイトもやめてしまって、無職なんです」
「そうなんですか……」
野畑さんは頬杖をつく。
私と彼の出会いは、そんな些細なことだった。
どの段階で、階段の何段目で彼に惹かれていたのかは分からない。
私はネットカフェに会員登録した。家にコンピュータのない私は、そのネットカフェに通って就職情報を漁った。
野畑さんの退勤時間と合った日は、安いラーメンを一緒に食べにいった。互いを互いで慰め合った。きっと職にありつける。そう肩を叩き合った。
そんなある日のことだった。
秋葉原で電化製品を見ていると、野畑さんを見かけた。
私は偶然の出来事に胸を躍らせ、彼に駆け寄った。
だが彼は少し迷惑そうに、少し会釈をするだけでいなくなってしまった。隣には、女の人がいた。
まさか、隣にいる女の人は……。
気付けば私は、浅草寺にいた。恋は簡単に崩れる。そりゃあ、野畑さんは私を、恋愛対象に見てはいなかったのかもしれない。男同士なのだ。私のことを、少し奇怪な人として見ていたかもしれない。
ふとポケットに手を入れると、ぐしゃぐしゃになった紙切れがあった。それを取り出してみて、それがおみくじの紙であると分かる。
――突然の出会いがあるでしょう。
その辺のゴミ箱に捨てた。
その瞬間、突然肩を掴まれる。振り返ると、掴んだのは野畑さんだった。
「ここにいたのか」
息が荒い。走っていたのだろうか。
「放してください!」
未だに肩に載っているものを、私は荒々しく振り落とした。
「おい雪人」
「野畑さんは――」
私は言う。ゴミ箱に沈んでいった紙を眺めて。
「野畑さんは、私のことなんとも思っていないんでしょ」
沈黙。野畑さんは、空をゆっくりと眺めて、そのまま言った。
「俺、就職できるんだ。今日俺と歩いていた女は、これからの段取りを教えにきたつーか、会社の人間だ」
だから残念だが――と野畑さんは続ける。
就職できたから、残念ながら私との縁は終わり。きっとそう言うつもりなのだろう。言いあぐねているのか、また沈黙が過ぎる。
風が吹いた。それに押されるように、野畑さんがこちらを見据える。
「残念だが、俺はこれから忙しくなる」
やっぱり。私は俯く。しかし野畑さんは、「だから」、と続けた。私は顔を上げる。
「だから俺と、一緒に暮らしてくれ」
はれて私と彼は、会員登録をしたのだった。