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リアリティ


 熱帯魚が空を泳ぎ出したあたりから、なにかおかしいと思っていたんだ。でもそんなの、ただの怪奇現象じゃないか。実際に目の前で起きていても、それはテレビ番組の出来事にしか思えなかったんだよ。だからおれはなにもできなかったし、なにもしようとしなかった。行動を起こしたところで、どうにかなるものでもなかっただろうしさ。
 教室に入ると同級生が泣いていたんだ。同級生というかそいつはおれの幼馴染だった。そいつは机に肘をつきながらずっと目元をこすってばかりいたんだよ。
「どうしたんだ?」
 だからおれは声をかけた。友達が泣いていたから声をかける。不自然のない当然の行動だったけど、その声はおれのものではないような気がした。このときからもう遅かったんだろう。
 そいつはやっと目元から手を離してさ。腫れぼった目のまましてさ。
「あたしの名前はなに?」
 だなんてことを言い出すんだよ。おれは肩すかしを食らった気分でさ、そりゃまだこのときは異変に気づいていなかったからさ、空を魚が泳いでいたけどさ、教室にはおれとそいつの他に誰もいなくてさ。
 そいつの名前が、どうしても思い出せなくなっていることに、そのときようやく気付いたんだ。
「お前の名前だろ? 忘れるわけないだろ」
 忘れるわけないだろ。でも現に忘れていた。まさか、幼稚園のころからずっと一緒にいるやつの名前を忘れるわけがないだろ。そう言ったままなにも言葉が出てこなくて、おれと幼馴染はにらめっこしてさ、しまいにはそいつワッと泣き出しちまった。びしょ濡れの机は、乾く暇もなかったよ。

 ホームルームの時間になっても誰もやってこないから、きっと今日は創立記念日だったんだなと思って、幼馴染の手を引いて学校を抜け出すことにした。すると校門を跨いだあたりでコラァーって怒声が飛んできて、それが体育教師の声だとわかって、なんだ休校ではなかったのかと思うと途端にやるせなさを感じた。
 名前の思い出せない幼馴染は相変わらず涙を流していて、このままじゃ涙で海ができそうなくらいだった。ここが海になったとしてもとっくに空にはキンギョやグッピーやテトラが泳いでいるから、なんの変化も起こらないだろうけどさ。でもそれを幼馴染に言うとそいつは違うと言う。「だってキンギョもグッピーもテトラも、海にはいないじゃない」確かにそうかもしれない。
 体育教師が怖いから校門にそのまま突っ立っていたが、教師はそれっきり存在感を出さなかった。でも考えてみれば当然のことで、生徒がいないのなら今日は休校で、休校ということは体育の授業はないのだから、あの竹刀ゴリラの存在が忘れられてもちっとも不思議ではないってわけだ。
 ここにいても仕方ない。おれは幼馴染の手を引いて帰宅路を歩くことにした。きちんと意識してそいつの手を握りしめて、たまに話しかけたりしてやらないと、こいつのことも忘れてしまいそうだった。こいつもこいつで青い涙を流してばかりいるくせして静かなもんだから、このままでは本当に置いてけぼりにしてさっさと一人帰ってしまいそうだったよ。
 カラスが地中を飛んでいる。泥まみれのカラスがAとRの発音を複合したようなarというようなerというようなそれ以外の英語の教科書に出てきそうなそれでも発音記号では表現できないような鳴き声で深く深く飛んでいた。魚が空を飛んでいるのは近頃頻繁に見ていたけど、鳥が地面を泳ぐというのは珍しい。おれはカラスの鳴き声について関心を懐いてまじまじとその黒い背中を見送ってしまった。

 さっさと家に帰ったおれはさっそくゲーム機を取り出した。まったく創立記念日だというのに間違えて登校してしまった。教室にはそりゃ誰もおらず、ただなぜかいた竹刀ゴリラがおれを意味もなく殴るもんだから目から火花を出してしまって、学校は大火事だ。
 ゲーム機に電源が入らない。どうしたものかと思えば電池切れだった。電池のストックも切れているようだ。仕方ないから近場のコンビニに行くしかない。でも脱いだばかりの靴を履くのは面倒臭い。億劫な気分のまま瞬間移動している妄想をしていたらコンビニについていた。
 電池のついでになにかスナック菓子でも買おうかと菓子コーナーを漁っていたら、名前がひとつ103円で売ってあった。名前には間に合っているのでハナから買うつもりはなかったが、どことなく親近感が湧く名前だった。無駄遣いでも買っちゃおうかな、買ってしまおうかなと思いながらも、他の菓子を選び取り、足に名残惜しさを感じながらレジに向かった。レジに店員はいなかった。そもそもコンビニなんてものはなかった。
 空を仰ぐと綺麗な熱帯魚色だ。サメまで泳いでいた。サメがおれの頭の4分の1ほどをかじった。痛いと思った。どうやら夢ではないようだった。そのままとぼとぼと歩いていくと透明人間がいた。透明人間は地べたに座り込んで泣いていた。どうしたのかと聞くと置いてけぼりにされたのだと言う。そうかそれは災難だったなあんたのことは名前も素性も知らないがおれが責任を持って家まで送ってやろうと親切心を顕わにすると透明人間はいっそう泣き出すのだ。まっさらの地で泣き出すのだ。周囲6378.137キロメートル以内に家屋がある気配がちっともしない場所で、めそめそと泣き続けるのだ。
 その涙は油のように空中で浮かび上がった。油は明度の濃い粒とそうでない粒とに大別できて、連なると
   ○●●○○●●○○●
 というように「○●」と「●○」が交互に並ぶような行列を描いていた。行列の涙は空へと昇っていく。
 それを見ているとなんだか、さっき名前を買っておけばよかったなって、おれは少し思うのだった。


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