寝ても覚めても夢は見ない。どこにもあなたはいないから。夢を持ち去ったその人は、いまでは夢にも出てこない。
記憶、の確認、
もう誰も住んでいない平屋は意外と片付いていて、きっと誰かが住み着いているのだろう形跡があった。押すと崩れそうなテーブルに電源の入らないノートパソコンが置かれている。電源が入らないのはバッテリーを外してあるからだ。
私は手提げかばんの中から細長いバッテリーを取り出した。これを付けたとして電源が入るかどうかはわからない。長く廃屋に放置された機械が簡単に起動するとは考えにくい。もし付いたとしても、中のデータが残っているかどうかも疑わしかった。
それでも、動かないわけにはいかなかった。この中にはあなたの記憶が残っているのだから。
バッテリーをノートパソコンに取り付ける。その状態で、スマートフォンに使うような小さなモバイルバッテリーを、ノートパソコンに接続した。電源との接続を示すランプが、ほのかに灯される。
ノートパソコンのバッテリーをあらかじめ充電することができれば、こんな二度手間なことはしなくても済むのだが、その方法を知らなかった。電化製品に詳しい人に聞こうにも、もう開いている店はどこにも見当たらない。
電源ボタンを押すと、果たして、私の不安とは裏腹にディスプレイに光が付いた。
画面に表示される、パスワード入力欄。
パスワードは、わからなかった。
がさり、と音がした。咄嗟に音のした方へ目を向けると、玄関口に犬がいた。目元を垂らしたブラッドハウンドだ。
一目見て、その犬は元は人間なのだとわかった。ぼろきれのような外套をまとっていたからだ。
「あなたがここを片付けてくれたの」
もう人間の言葉は伝わらない、どこかの誰かの首を撫でる。犬は舌を出して小刻みに息を吐いた。
撫でる手元を照らすのはディスプレイだけだった。パスワードがわからないから、電源は付いたのに、私は中身を確認できないままでいる。
元人間の犬、その犬が元はどんな人だったのかはわからないが、犬になりたいと思っていたのだということだけは、見るようにわかる。
夢を見たら夢になる。ある人は鳥に、ある人は魚に、ある人は植物に、ある人はこの世のものでないものに。原因のわからないままこの現象は感染していき、人々は人々の望む姿へと変容した。
私が愛したある人は、ノートパソコンになった。すべての思い出をCドライブに記録して、本人は喋らない機械になった。
あなたを失くした私は夢を終えて、夢のない人生を始めている。そのおかげで人間のまま今まで生きてこられた。
平屋のなか、唯一の光源はパスワードを求めている。ブラッドハウンドがテーブルに鼻をこすりつけると、テーブルの脚が揺れ、それに連動してあなたはジジ、とノイズを吐いた。
ただバッテリーだけを抜き取ってあなたをここに置いてきた。あなたと決別する勇気も、あなたを持ち歩く気力もあのときは持ち合わせていなかったから。けれどもこうして再会しても、距離が戻ることはない。
すべてがおかしかった。犬になった人間も、機械になったあなたも、この世界になった知らない誰かさんも。
ただあなたと一緒にいたかった、と思い出しただけなのに。
誰かだった冷たい風が、玄関口から入ってくる。誰かだった空気を、犬と人間が吸っている。元々あった私の目から、一筋の涙がこぼれた。私はあなたと一緒にいたかった、という夢を得ていた。それだけだった。
そうして私は、パスワードになった。