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3F: テミ

「お兄さま!」
 テミは飛び起きるように目を覚ました。
「夢……またお兄さまの夢……」
 兄が行方不明になってから, 既に9年が経っていた。というのに近頃になって, 兄の夢を頻繁に見るようになった。
 テミはベッドから足を下ろし, 立ち上がる。帳を抜けると月の光が誘い込むように彼女の髪を撫でた。
「お兄さま, 今どこにいらっしゃるの?」
 果たして同じ月を, 兄は見ているのだろうか。テミは窓辺の縁に肘をつく。一層存在感を増した月の光が, 彼女の顔を包み込んだ。
「お目覚めですか, お嬢様」
 壁に背中を張り付けていたメイドが, テミに声をかけた。
「ええ, 目が覚めてしまって」
「お白湯をお持ちしましょう」
「お願いしますわ」
 メイドは背中からプラグを外し, 寝室と繋がっているキッチンへと消えていく。
 窓から覗く碧い月。その眼下には闇を吸い込んだように暗い砂漠が広がっている。テミの住むここは, 全方位が砂漠に囲まれていた。
 しかしテミはあの砂漠に立ったことがなかった。建物を出たことがないのだ。
 テミは建物の中で生まれ, 建物の中で育った。貴族階級の令嬢であるテミは, 危険な外の世界に出る必要がなかった。欲しいものは量産型のメイドロボットが与えてくれる。寂しいときはメイドロボットが慰めてくれる。身の回りの世話も, 話し相手も, 親の代わりも。すべてこのビルディング型都市の中で賄えた。
 都市といっても, テミは人と会うことは滅多になかった。テミが住んでいるここ3Fは都市の最上階であり, 貴族の中でも一握りの人間しか暮らしていない。そして往々にして貴族というものは自分の部屋にこもってしまう生き物だった。たまに気まぐれで廊下の大通りを散歩することはあっても, その気まぐれが重ならねば人と鉢合わせることはない。そのうえ, もし鉢合わせることがあったとしても, テミが行うコミュニケーションは会釈程度だった。両親が亡くなってから, テミは上品な微笑みを浮かべたりおべっかを使ったりして世間体を維持する必要がなかったのだ。
「お嬢様は, 月がお好きでいらっしゃいますね」
 いつの間にか傍に立っていたメイドがカップを差し出してくる。
「ありがとう」
 と言って受け取り, テミはその温もりを少量だけ口に流した。月光の縁にカップを置き, またテミは窓辺に耽る。メイドに何か言われたようだったが, 今は会話をする気分ではなかった。会話を無視してもメイドロボットは気分を害さない。
 人付き合い, といっても, 兄がいた頃も, 両親が亡くなるまでも, 交流をさせられた覚えがあるのは3Fの人間だけだった。同じ最上階に住む人間とだけ仲良くしていければ, 両親も満足していた。
 でも, テミは一度だけ階下に行ったことがあった。好奇心旺盛な兄に連れられたのだ。テミは当時を思い出す。2Fには大勢の一般市民がいた。靴を売る老婆, 靴を磨く少年, 服を売る中年男性, 服を着こなす美女。玉石混淆の街の装飾を兄は楽しんでいたようだった。どこへ移動してもどこを見渡しても, 新鮮でないものなどどこにもなかった。それはテミも感じていた。とても1日で回れる場所ではなかったが, 途中で探索は取り止めにして, 兄は1Fにも行ってみようと提案した。テミに断る理由はなかった。1Fに下りてみると, そこは砂漠へと通じる物々しい出入り口と, 上下階に通じる鉄の扉がある他は, コンテナがいくつも並んでいるだけで, とても狭かった。しかしその様相に退屈を感じたのはテミだけだったようで, 兄ははしゃいだようにコンテナの森へと探索に行ってしまった。
 それが兄との別れだった。兄の姿を見失ったまま, 彼の姿を再び見ることは叶わなかった。
 もう9年。今更になってどうして, 彼の夢を見てしまうのだろう。
 カップの残りを飲み干し, テミはそれをメイドに渡した。白湯を飲んで目は冴えてしまったが, テミは再びベッドへと戻った。シーツは案外に冷たくなっていた。彼女の体の熱を囲い込み, 吸い取ってくる。
 叶うことなら。布団に熱を奪われ, 再び訪れた微睡を感じながら, テミは思う。叶うことなら, もう一度お兄さまに会いたい――。
 そして朝が来た。
「またお兄さまの夢」
 深夜に一度起きたことによる倦怠感と, 同じ夢を何度見ても訪れる興奮とが一緒にやってきて, テミは胸のむかつきを覚えた。しばらくベッドの中でぼんやりとしてから, 起き上がる。すぐ傍で, メイドが佇んでいた。
「お目覚めですか」
「ええ, おはよう。もう充電はいいのですか?」
「メッセージを受信しております」
「メッセージ?」
 テミは眉を顰める。メイドロボットに通信機能も搭載されていることは知識として知っていたが, 実際に届いたことは今まで一度もなかった。彼女には知り合いと呼べる知り合いがいないのだ。メッセージを受け取ったといわれても, 現実味がなかった。
「一体, 誰から」
「メッセージを再生しますか?」
「ええ, まあ。聞いてみましょう」
 テミは恐る恐る承諾する。悪戯の類だろうか。しかし誰かから悪戯を受けるほど誰かに存在を認知されているとはとてもテミには思えなかった。メイドが両目を閉じ, 口を開く。機械のノイズがその口から発声された。
「メッセージを再生します」
 ノイズの嵐が止み, ほどなくして男性の声で咳払いが流れてきた。そして,
『おれは地下にいる。』
 それだけ流れて, またノイズが激しくなる。
「メッセージの再生を終了しました」
 メイドは口を閉じた。目を開き反応を窺うようにテミの顔を見る。
 テミはわなわなと肩を震わせた。
「お兄さま……?」
 その声は記憶に残っている声とは異なり, 大人の男性の声だった。芯が太く, 音程は低く, その奥にともすれば野心的な感情と思想の存在が滲み出るような。聞いたことのない声だった。
 けれど, テミはその声が現在の兄なのだと確信した。
「これは, お兄さまからのメッセージなのですね」
「差出人の情報は届いておりません」
「きっとこれはお兄さまに違いありませんわ……」
 テミはすぐに行動に移すことを決めた。
「メイドさん, すぐに支度をしてください。下に行きますわよ」


2F: テミ

 9年ぶりにエレベータに乗り, 9年ぶりに2Fにやってきた。鉄の扉を出た先は繁華街だ。テミはあまりの人の多さに立ちくらみを覚え, 一緒にやってきたメイドに寄りかかった。
「お嬢様」
「大丈夫ですわ」
 その様子を, 道行く人々が物珍しそうに眺めては通り過ぎていく。上からの扉が開くのは久しいことなのだろう。テミは小屋の兎になったような気分を感じながらも, 周辺の様子を見渡した。
 人の群れ。この都市の中で生き, この都市の中で動き回る, 働き蜂の群れ。理路整然と並んだ低い家屋と廊下の上を, 忙しなく蜂たちが飛び回っている。その不規則で膨大な流れを見続けていると, テミは次第に頭痛を覚えた。生きている人がこんなにも沢山いることに, 嫌悪感を覚えてしまう。テミはメイドの手を握った。シリコン製の感触が手に馴染んだ。
「1階へ行くエレベータはどこでしたっけ」
「お連れします」
 メイドに手を引かれて, 人の流れに合流する。この建物内に, 3Fから1Fへと直通するエレベータはなかった。
 人混みの中を歩いていると, 高級メイドを興味深そうに見てくる者もいれば, 一目もこちらを気にしない者もいる。様々な過ぎ行く反応をテミは恐る恐る窺いながら, メイドの誘導に従った。それぞれがそれぞれ自由に動いているように見えるのに, 誰も他の人間とぶつからないのがテミには不思議で堪らなかった。同じような感覚を, 9年前もいだいたかもしれない。
「こんなところ, 早く抜けてしまいましょう」
「ええ, お嬢様」
「早く地下のお兄さまにお会いしなくては」
「お嬢様?」
 突然, 人混みの中でメイドが立ち止まった。手を引かれるままに歩いていたテミは, 額を背中にぶつけてしまう。
「ど, どうしたのですか? 急にこんなところで立ち止まって」
 テミの言葉に呼応するかのように, 通行人の舌打ちの音がテミの耳元を通り過ぎていった。
「お言葉ですが, お嬢様。お嬢様を地下にお連れすることはできません」
「えっ?」
「地下はたいへん危険でございます。1階までならご案内できますが, お嬢様を地下へお連れすることは, 私には許可されておりません」
「そんな! だったらどうして今まで黙っていたのですか!」
「お嬢様は"下へ行く"と仰っていましたので」
 どうやらメイドは, テミの言葉の綾を語義通りに受け取り, 詳しい文脈を読み取れていなかったらしい。
「でも, でも。そんなに地下は危ないところなのでしょうか?」
「地下は犯罪者や社会不適合者と見なされた者たちが収容されるフロアです。そんな場所ではお嬢様を守り切れません」
「でもお兄さまに会うには地下に行かなくてはなりませんわ」
「お嬢様のお兄上が地下にいらっしゃるのなら, お兄上も犯罪者である可能性がございます」
「そんなはずはありません……きっと冤罪ですわ……」
 テミは首を振った。また舌打ちが聞こえた。まるで中洲に見立てたかのように, 人の流れは2人を避けて進んでいく。
「でも……どうすれば……どうすればお兄さまに会えますか?」
 テミはメイドに答えを求めた。求めるものは与えられる。メイドは口を開いた。
「メッセージを受信しました。メッセージを再生しますか?」
「え?」
 それはきっと, 兄からの2度目のメッセージだ。あまりのタイミングの良さに, テミは運命じみたものを感じた。きっと神様が手助けをしてくださっているのだろう。
「ええ, 再生してください」
『一瞬でいい, 地下のロックを解除してくれ。出口で待機している。』
 やはり, あの男性の声だった。テミはその声を聞き洩らすまいと必死になってメイドの口元を見つめ込んだ。
「地下のロックとは何ですか? 解除はどうやるのですか?」
「犯罪者が逃げ出すことができないように, 地下の出入り口にはシステムロックがかかっています。権限のある人でなければ, ロックを解除することはできません」
「じゃあ, その権限がある人に頼めばいいのですね」
「権限のある人は, お嬢様です」
「えっ」
「お嬢様は, 3階にお住まいの世帯主でいらっしゃいますので」
「分かりました。それでは, 地下のロックを解除してください」
「本当によろしいですか?」
「はい。お兄さまのためにお願いします」
「ネットワークシステムにアクセスしています……お嬢様のアクセスを認証中……」
 メイドの中で目まぐるしくコンピュータが働いている。機械音が大きくなったためか, 中洲の面積はさらに大きくなった。メイドは空間中の一点に目線を固定しているかのように表情を固まらせている。今度は掠れた音が響き, それは人混みの雑踏に掻き消された。そしてメイドの目に生気が戻る。
「ロックの解除に成功しました」
「これで, これでお兄さまと会えるのですね!」
「お嬢様。解除してから約9秒が経過しました。ロックの再構築をお勧めします」
「ええ。今すぐ1階に行きましょう」
 テミは胸を躍らせる。ようやく兄に会えるのかと思うと, 胸が一杯になって涙がこぼれそうだった。
 兄に会ったらきつい抱擁を交わし, 兄の苦節の9年を労って差し上げよう。たった1人の家族を3Fに迎え入れて, 美しい月をお見せして差し上げよう。テミは数分後の未来を想像しほくそ笑む。
 そして1Fへと向かうエレベータに乗った。


1F

抱擁; ぼとり, と雫がこぼれた。


1F



私は長年の夢を手に, 1Fのフロアへと駆け出した。
ああ, テミ。やっと会えるね。
砂漠のように渇望していた心は, 扉から出ていく協力者たちの声でさらに昂った。
扉が開いた, テミのおかげで。
タイミングを見計らって, 再びテミへメッセージを送った。
私は地上へと続く階段を上り, 出口に立った。
そうしている間にもテミは私のために3Fから下りてきてくれていた。
私の欲求に付随してやって来たその概念は, 多くの賛同者を集めてくれた。
革命。
その計画はさらなる協力者を呼び寄せた。
これを実行に移さない手はなかった。
専門家よりも3Fの無知な人間のほうが, 建物のシステムに対する権限が強いことを教えてもらった。
持つべきものは協力者だった。
私はどうにかして地上に出なければならない。できるだけ早急に。
穢される前に彼女に会いたかった。
彼女はたちまち穢されてしまうだろう。
しかし彼女のような天使が, こんな薄汚れたスラムに来られたら困る。
テミは私のために奮起してくれた。
メッセージはテミのもとへと送信された。
革命。
金と食糧, あるいは「誠意」さえ賄ってやれば, 地下の人間は私に協力してくれた。
そのうちの1人にこの建物の開発に関わった人物がいた。
地下に追いやられた技術者。
どうにかして私の存在をテミに伝えなくてはならないと思った。
積年の思いを, 実行に移す時が来たのだと後押ししてくれているのだ。
それはきっと私に対する神の啓示だろう。
メイドロボットの目と耳を通して, テミが最近, 頻繁に同じ夢を見ていることを知った。
そしてそれが果たされる時が来たのだ。
地下に落とされてから, テミの存在だけが心の拠り所だった。
きつく抱擁を交わしたい。
あの天使に触れたい。
9年ぶりの再会を果たさなければならないと思った。
私は彼女にどうしても会いたかった。
なんとかわいそうな, 箱庭のテミ。
それは生まれのせいであって, 彼女のせいではないだろう。
人間の苦しみを露ほどもわかっちゃいない貴族の思想が彼女には染み込んでいた。
彼女の甘い思考回路や世間知らずな言動や, メイドとの会話を自分勝手に中断させるような傲慢さ。
テミの発言はすべてメイドの耳を通して確認できた。
テミの行動はすべてメイドの目を通して確認できた。
それさえ成功すれば後は簡単なことだった。
操作することはできなかったが, 情報をリアルタイムで抜き取ることができた。
刑期を終える者たちを何人も雇い, 彼らをロボットの定期検査に紛れ込ませた。
私はこの地下で長い長い時間をかけて高級メイドロボットのハッキングに成功した。
天使を拝むためならどんな努力だって厭わない。
9年前コンテナの陰から見た彼女は天使だった。
彼女の金の髪とつややかで柔い顔を見たとき私はこれが運命なのだと悟った。
彼女――テミとの出会い。
その光景だけを思い続けて生きてきた。
逃げ惑う彼女の腕を掴み, きつく抱擁し, そして短剣を突き立てるのだ。
赤く滴り落ちる血の雫が, ぼとりと落ちるあの瞬間を, 想像するたびに私は胸を熱くする。
少年を殺したときよりも, 貴族の夫婦を殺したときよりも, きっと素晴らしい多幸感が訪れることだろう。

B1: 殺人鬼


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