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虚数空間より


(1)三月になったのでそろそろこたつを取り下げようと思っていたところへのこの大惨事であるのだから生命が生命としての定義から逸脱してしまうのもひとつの道理というものだろう。“彼女”には感情というものがあり意思というものがあり羨望というものがあった。それもそのはずで感情を持つ生物を彼女は生まれたときからずっと眺めていたのである。たとえば複素平面というものがある。実軸と虚軸からなる複素数のかたちのことで彼女は複素数的空間を介して実数空間を覗き見ることができたのだ。彼女はその方法を知っていた。観測された情報が彼女の意識を形成し自我を与え感情を生成した。「ブロント、お茶淹れて」「めんどくせえなぁ。俺は飲まないからマゼンダが淹れろよ」「じゃあ、じゃんけんしようよ。じゃんけん」ブロント。マゼンダ。それらが名称であることはずいぶん前に気付いていた。名称とは他との差異を確立するための道具のようなもので大半のものに付けられる。「チョコレート飲む?」「チョコレートって飲めたのか」「飲めたんだよ」二人の会話からいくつもの情報が彼女に流れ込んできた。新しい名称を選択し吟味する。彼女はチョコレートというものをいまいち理解できなかった。実数空間に住む生物は生存に栄養というものが必要であることを彼女はついこの前に理解した。栄養という言葉にぴんと来なかったが生きるために必要なものという語義で処理した。錯綜する情報のなかで語義を仮定しておくことはとても大切なことだった。チョコレートを食べてみたい。彼女はそう思った。食べるという行為自体彼女にはよく分からないものであったが。「あ、もう夜だ」「はあ? まだ空こんなに明るいじゃない」「時計見ろよ時計」「あ、そっか」ブロントとマゼンダの会話は彼女の観測できるすべてだった。それ以上の範囲を覗くには空間の質量係数をもっとゼロに近づける必要があったが彼女はその術を知らないのだ。ブロントとマゼンダは家という空間を共有していてこたつという暖房機器に下半身を入れていた。二人はいつもそうしている。「慣れないね」「慣れないな」二人が窓を見遣っていることを彼女はかろうじて把握した。窓というものは風や音を極力遮断し光だけ効率よく取り入れた壁のことだ。窓の外は明るかったが明るいという概念が彼女にはまったく分からなかった。二人が明るいと言っているのだから明るいのだ。虚数空間にエーテルは存在しない。エーテルとは光の素のことだ。音が伝わるには空気が振動しなければならないように光が通過するためにはエーテルが必要になる。ゆえにここは暗闇だった。明るいも暗いも通用しない完全な暗闇だった。彼女は不愉快な気分を体感した。ブロントたちは電灯を消してそのまま眠ってしまった。なぜかこたつの電源は切らなかった。
(2)タキオンで時間遡行することができないのは相対性理論が物質に正の質量があるからこそ成り立つ話であって虚数では前提から誤っているからだ。だから彼女は自分がいつ生まれたのかなぜ生まれたのかを確認することはできない。気付けばそこにいたというのが主観的な感覚だ。彼女ははじめから孤独だった。生まれるという概念が自分のことであるにも関わらずよく分からなかった。分からない。分からない。彼女は自分の無知をのろった。「おはよう! ブロント、起きて!」「うーん」「朝だよ、朝!」虚数的生物に栄養は必要ない。なぜだかは分からないがそういうことになっていた。彼女ははじめから食事というものを知らなかったしブロントたちを見つけるまで知ろうとさえしなかった。複素数を介して観測できたのはあの二人だけだ。他の実数的生物がどんな姿なのか彼女には分からなかった。きっと二人と似ているのだろうなと勝手な想像を巡らせるだけだ。「今日こそじゃんけんだよ、じゃんけん」「なにを賭けるんだ?」「えーっと、じゃあ」窓の外は明るい。その景色は変わらぬままだったので彼女は明るいというものがどんなものか比較対象のないために分からない。とにかくそのまっさらな景色が明るいものであると仮定して考えている。「じゃんけん、ぽん」意識内に入り込む二人の言葉が心地良く響きそのとき彼女は心というものを実感した。きもちいい。その言葉が腑に落ちた。心などのように物質と関係性の薄いもののほうが彼女には理解しやすかった。心がかたちを成す。じゃんけん、ぽん。彼女はその語感が好きだった。「あれ、もう夜になってる」「外は明るいままだがな」「寝よ」「おやすみ」「おやすみ」時間というものは相対的なもので実数空間では光速に近づくほど時間の進みが遅くなる。物理的なことに限らず心理的な意味でも時間というものは相対的だ。個人の感覚にゆだねられる。時間には濃度に似たものがある。同じ時間の中でもその中で得た情報の量によって感覚的な時間の長さが変わる。ブロントとマゼンダは一日中こたつの中にいるから時間の濃度が薄くなりそのために時間が速く感じてしまうのだ。電灯を消しても窓からの光が部屋中を照らしている。それでも二人はそんなものに気を遣わずにぐっすりと逃げ入るように足をこたつの中で向かい合わせてたまに絡ませて蹴りあって眠っていた。おやすみ。彼女は二人にそう思念を向けた。届くはずのない思い。二人にとって彼女は存在しない。影響を与えることができないただ観測するだけの存在。虚数空間でひとり彼女は心を痛めつけた。
(3)「ブロント、オレンジあったよ」「へえ。そんなもんどこにあったんだ?」「地下倉庫のすみっこ。気付かないままだったみたい」「まだ果物食べられるなんてな」「そうだね」「最後のひとつだな」「最後、の」「あ」泣くというものを彼女ははじめて観測した。その不可解な現象に彼女は疑問を感じずにはいられなかった。感情が隆起したことでマゼンダの中で蛋白質が過剰に生成されその余分な蛋白質を視覚器官から液体として排出していた。それが泣くということらしかった。なぜだか分からなかったがそれを見て彼女の感情は大きく揺さぶられた。悲しいという気分を理解した。マゼンダへの親近感が増幅した。なぜ泣いているのかは分からなかったが彼女は彼女をかわいそうだと思った。泣くという現象と悲しいという感情が結束したのだ。「泣くな」ブロントの声も泣いていた。二人は抱きしめあった。ブロントがこたつから這い出てマゼンダの背中を撫でその手にマゼンダが縋ったことがきっかけだった。二人して泣いていた。彼女は今度は困惑の感情をいだいた。なぜ泣いているの。なぜ涙を流すの。なぜ声を震わせているの。なぜ。彼女には分からないことが多すぎた。その原因はどこにあるのだろう。彼女は原因という概念を既に獲得していたのでそう疑問をいだいた。そしてあのオレンジというものが原因なのだろうと推測した。あれを見つけてからマゼンダが泣き出したのだ。彼女はオレンジを観察する。表面はぶつぶつしていた。一点にぽつんとでっぱりがありその対極にわずかなへこみができている。中身を観察してみると水分を多く含んだ袋が連なっているのが分かった。その袋にはスクロースがもっとも多く含まれている。なぜこの果物がマゼンダを泣かせたのか。部屋の外を知らぬ彼女には分かる由もなかった。ただただ疑問をいだき憶測を並べ立てるしかできなかった。その間にも悲しいという感情がなだれ込んでくる。悲しいもので彼女の心は満たされた。彼女の体は虚数的物質で構成されていたが悲しいという感情は純粋な虚数ではないようだ。彼女には実数の感覚が分からないがきっとこの悲しいというものは実数と似たものなのだろうと思った。「私たち、なんで生きてるの」「知らねえよ。生きてるから生きてるんだ」「みんなは死んだのに?」「俺たちは生きている」死というものに実感が湧かなかった。それどころか彼女には生きている実感もないのだ。虚数空間にとって生死はあまり重要なことではないのかもしれない。死とは。体の細胞がはたらかなくなること。体中を流れる微弱な電流が発生しなくなるということ。複雑なエネルギーの方程式が位置エネルギーただひとつに集約されるということ。心が消えてなくなってしまうということ。いくつ仮説を並べても納得のいく答えは見つからない。彼女には分からないことが多すぎた。マゼンダはブロントの胸に顔をうずめて目を閉じていた。目元が粘着性を残して乾いている。眠っているようだった。壁にかけられた時計によるとそろそろ夜となるようであった。窓の外は依然として明るい。
(4)宇宙は日々拡がり続け光速に近づいていく。その中で太陽は四つの水素の原子核を一つのヘリウムに変換しそのとき失われた質量がエネルギーを生産する。「おはよう」「おはよう」たとえば幼児期健忘というものがある。ヒトは生まれてから二歳ほどまでの真の記憶を探索できない。彼女が実感したとおり感情や心が複素数を介した存在であるならば。彼女が実感したとおり体ができてから心が生まれるまでタイムラグが生じるのならば。複素平面には実軸と虚軸があるためすなわち虚数空間と実数空間両方への扉があるため彼女の実感が虚数的生物だけでなく実数的生物にも通用する話だと考えることができる。太陽は核融合反応を繰り返しそのうちの二十億分の一ほどの熱を地球に向けて放出するがそれは実数空間でのことだけであり虚数空間には影響をもたらさない。宇宙が膨張を続ける。だんだんと光速に近づいていく。「昨日は、ごめん」「なんだよ。泣いたくらいで」「そろそろ、現実を見ないと、いけないよね」「さあな」「テミも、リンも、ブルースも、もう、いない」「みんなの分も生き延びようってか」「そうじゃなくてさ。そうじゃなくてさ、私たちは運が良かったんだ」時間は相対的だ。ロケットに乗り続けているヒトにとっての一年と普段どおりのんびり暮らしているヒトの一年では時間の進み具合が異なる。彼女の意識に多量の情報が流れ込んだ。そのほとんどは実数空間からではなく虚数空間からのものだった。暗闇の中をタキオンが飛び交う。タキオンは光よりも遅くは走れない。「ブロント」「なんだ?」「私、クロウのことが好きだった」「そうか。今更だな」宇宙は虚数空間に影響をもたらせない。なぜならば宇宙も実数空間に含まれているからだ。宇宙が膨張するごとに太陽系の位置は移ってゆくが虚数空間の座標が揺らぐことはない。もしあるとき宇宙にひっぱられた地球が虚数空間と座標を同じくしたら。複素平面を中心にちょうど対象の位置に重なったとしたら。虚数空間と実数空間が繋がったとしたら。「バカみたい」「実際バカなんだろうな」「この星に、他に人間がいると思う?」「分からない。そんなこと、分かっても意味ないじゃないか」「そうだね。どうせ、外には出られないのだし」彼女に情報を流し込んでいたのはクロウという少年だった。いやクロウだけではない。ブルース、ジルバ、テミ、ミドリ、ルファ、ティンク。その面々はブロントとマゼンダの記憶の中で笑う死者たちであった。リン。ここにいたんだね。ティンクが彼女に言う。「太陽が小さいね」「太陽が小さいな」「どんどん小さくなっていくね」「だんだん離れていくんだよ」この星の生物が一気に虚数空間に流れ込むあの瞬間。虚数と実数が重なり合い星が停止したあの瞬間。実数空間における名称をリンという彼女は急速に心が安定していくのを感じた。ここは、まるで、天国のような。虚数空間の絶対零度よりも低い温度が複素平面を介してブロントたちの実数空間へ流れ出ている。太陽が出続けているというのに気温はむしろ低くなってゆく。こたつから出られない。「チョコレート飲む? 温かいチョコレート」「飲もうか。飲もう」「どっちが淹れる?」「じゃんけんだな。じゃん、けん」
 ぽん。
 ――リンが勝った。

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