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精霊の指輪



 金曜日の昼休み。校舎の廊下を歩いていると、ひょいと視界に現れた金髪の青年が、僕の行く先をふさいだ。彼は僕よりも長身だが、その風貌はいつものようにおどおどしていて、実際の見た目よりも矮小に見える。
「あの、ブルースくん」
 彼は分厚い教科書『詠唱魔法入門』を胸に抱えている。彼の大きな体なら片手で持てる程度の分厚さではあるが、やはりその自信のなさそうな風貌が、教科書を分厚くしている。
「勉強、教えてくれないかなあ」
 捨て猫のような丸い瞳で、僕の同情を買おうとしてくる。いつものパターンだ。能力がないから、そのうえ一人でどうにかする自信も持てないから、人を頼るような手段しか取れないのだ。でも無駄だ。薄汚い小動物なんかに、誰が手を差し伸べるものか。
「他をあたりなよ。いつも言ってるけどね」彼を脇にどける。そのまま彼を背に残していく。
「ブルースくん! きみに教えてほしいんだ」僕の腕をつかんでくる、汚い金髪。すぐに振り払った。
「うるさいなぁ。僕は落ちこぼれに構ってやるほど、暇じゃないんだよ」
 そう言ってやるといつも、彼は薄汚れた金髪をしゅんと垂らして、とぼとぼ惨めに去っていくのだ。
 ふん。いい加減諦めたらいいのに。
 彼ほどしつこい人間はあまりいないが、ああやってすり寄ってくる人間は何人もいる。人の時間を犠牲にしても露ほども気にしないような奴らだ。自分一人で努力しようともせずにエリートから養分を食いつぶそうとしてくる。反吐が出るよ。
 この学園に僕よりも優秀な生徒はいない。学力、体力、魔力すべてにおいて僕がダントツだ。だからといって褒められるようなことでもない。こんな二流の学園で秀でていても、そんなのは井の中の蛙だ。僕は本来こんなところにいるような人間じゃない。大事な受験日に大熱を出したばっかりに、くそっ。
 突然、悲鳴が聞こえ我に返った。一階の廊下を抜け、ちょうど中庭に出たときだった。周囲を咄嗟に見渡す。までもなく異変は視界に入った。
 逃げ惑う生徒たち。中庭の中心を陣取る池が、……なんだこれは? 池の水がスライム状に形状を保ち、ツタや触手のように方々に延びている。まるで魔物だ。池の水が暴れている、何本もの水の触手が人々の悲鳴を掻き分けていく。
 それは、ほんの一回まばたきしたときには、僕の眼前を覆っていた。
 えっ、と思う間もなく、飲み込まれる。巨大な鉄球にぶつけられたかのような胸を突く衝撃が、体から空気を吐き出させる。容赦なく口から水が流れ込む。まるでナイフを突きたてられたかのように喉が痛い。ああ、痛い。痛い。
 意識が霞んでいく。なぜこんなことが。あの水は一体なんなんだ。なぜ僕がこんな目に遭わないといけないんだ。いくつもの疑問が噴出し急速に腐った感情が酸素を奪っていく。
 こんなところで死んでしまうのか。まだやりたいことがたくさんあったのに。エリート街道を進んでいくはずだったのに。僕は貴重な人材のはずなのに。こんなところで、こんなところで死んでしまうのか。
(それは悲しいですね)
 声が聞こえる。女性の声だ。混濁していく頭の中で、その声だけがハッキリと聞こえた。
(きっとまだまだやりたいことがたくさんあったのでしょうね。エリート街道を進んでいくはずだったのに、こんな二流の学園の生徒で人生を終えてしまうことが悔しく悔しくて堪らないのでしょうね。悲しいですね……。とても悲しいですね……)
 なんだ、この声は。まるで人の言葉をそのまま使いまわしたようなことを言いやがって。
(生きたいですか?)
 なにを言っているんだ、この声は。生きたいに決まっている。でももはや、今は水に飲まれている感覚さえ失われていた。周辺は暗闇で、僕が死の淵にいるのだろうことは明らかだった。
(諦めるのですか?)
 諦める? なにを? どうしようもないことを、どうしろというんだ。まったくせっかくの死に際に、こんなに煩わしい声が引っ付いてくるなんて。僕はどこまで不運なんだろう。
(もう一度聞きます。もし、生きられるのなら、あなたはこれからも生きたいですか?)
 ああ、生きたい。僕は生きたいよ。
 暗闇の底に落ちていく感覚。うるさい声をうるさいと感じることも、希薄になっていく。
(たとえ誰かに憑りつかれた人生だとしても?)
 ああ、生きたい。
(ありがとう。それだけ聞ければ、充分です)
 僕はながい眠りに落ちていく。暗闇の底にたどり着く。暗闇は僕を歓迎し、僕は、死の居心地の良さを知った。
 もう、起きることはない。
 と思っていたら目が覚めた。白い天井が視界に入る。僕はベッドに横たわっていた。
 上半身を起こし、辺りを見渡す。
「ここは……」
 呟くと、喉に痛みが走る。ここはどうやら、学園の医務室のようだ。そうだ、中庭で池の水が暴れ出したんだ。その水に飲み込まれて、僕は……。
(おはようございます)
「うわっ」
 突然、ものすごく間近なところから声が聞こえた。若い女性の声だ。自分の脳内に直接語りかけてきたんじゃないかというくらい、間近からの声。
(いえ、その通り脳内に直接話しかけているのですよ)
「だ、誰だ。テレパシーだなんて高等魔術、僕だって使えないのに、この学園の人間が使えるわけが」
(誰だとは失礼な物言いですね。忘れたのですか? 私ですよ)
「聞いたことない声だ。姿を見せろ」
(私ですよ)
 その声と同時に、目の前がまばゆく光り輝く。その直後には、光からぬいぐるみが現れていた。デフォルメされた女性の形をした、青く透き通った色のぬいぐるみだ。
「ぬいぐるみ?」
(ぬいぐるみとはなんです。確かに今はお人形サイズですが、私は大精霊様ですよ)
 ぬいぐるみが喋った。そして僕の周りをぶんぶんと飛び回る。全長が人の頭ほどの大きさしかない、自称大精霊のぬいぐるみ。それが浮遊し喋っている。異様な光景だった。
「それで、誰なんだ。僕はこんなぬいぐるみ見たことないし、そんな声も聞いたことがない。からかうのはやめてくれ」
(おや、どうやら忘れてしまったようですね。まあ無理もありません。死にかけていたのですから)
 ぬいぐるみが僕の目の前にまで旋回してきて、首を傾げる。
(でもあなたは確かに言いましたよ。私が憑りついてもいいから、生きたいと)
 記憶の混濁。確かに、意識を失う直前の記憶が、曖昧だ。いや、普通に考えて、池の水に襲われた直後に気を失ったのだろう。誰かと話す余裕なんてなかったはずだ。
(うーんどうしましょう。どうしたら私のことを信じてくれますか?)
 ぬいぐるみが、頭を抱えて右往左往している。そこへ、医務室の扉が開く音がした。
「あ、良かった気が付いたんだね! ブルースくん!」
 入ってきたのはあの落ちこぼれの金髪だった。
「心配したよ。急に池が生き物みたいに暴れ出して、ブルースくんを引きずり込んだんだからね。無事で本当に良かったよ」
 金髪は嬉しそうにまくしたてる。緊張しているのか目の前に浮かんでいるぬいぐるみの存在に気付いていないようだった。
「ちょうどよかった。きみ、ちょっと頼みがあるんだけど」
「えっぼくに頼み? いいよ。なんでも言ってよ」
「これ引き取ってくれないかな。さっきからうるさいんだ」
 好き勝手に浮かんでいるぬいぐるみを、両手で掴む。(なにをするのですかハレンチな!)と喚くお手軽サイズ。そのまま彼に差し出した。
 しかし、金髪の青年は困惑するようにだらしなく口を開けるばかりで、受け取ろうとしない。
「えっと……ごめんねブルースくん。どれのこと?」
「どれって、これだよ。このぬいぐるみ」
「ぬ、ぬいぐるみ? ブルースくん、ぼくにはなにも見えないよ」
「見えない……?」
 一体、どういうことだ。両手の感覚は確かなものだし、そもそも僕にはちゃんと見えている。絶対に僕は、ぬいぐるみを掴んでいるはずなのに。
(私はあなたにしか見えないのです)
「そんな……じゃあ本当に精霊なのか?」
「えっ精霊?」
「いやきみに言ったんじゃなくて」
 本当に精霊だとして、どうしてこの自称大精霊は僕の前に現れたんだ。目的はなんだ? そもそもなぜ精霊?
(あの、くすぐったいです)
 言われて、つい手を放す。逃げられる、と思ったが、ぬいぐるみはそのまま自由気ままに僕の周囲を旋回した。
 本当にこれが精霊なのか、もう少し判断材料が欲しい。
「いまから僕が話すのは、きみに向けて話すことではないよ。きみには見えないのかもしれないけれど、僕の目の前に、確かに喋る人形がいるんだ」
 金髪に向けて、諭すように言う。
「えっあっごめんね。わかったごめんねブルースくん」
 了解したとばかりに彼は謝った。
「それで」
(はい)
 金髪の青年からは、僕が明後日の方向を向いて話をしているように見えるだろう。しかし一応の事情を理解したらしい彼は、そのまま押し黙っていてくれるようだった。というか冷静に考えれば医務室から出ていってくれればそれが一番手っ取り早いのに。
「あんたは僕にその、なぜ、憑りついんたんだ」
(指輪を失くしてしまったのです)
「指輪?」
(はい。私の精霊力をつかさどっている、とても大切な指輪を)
「せ、精霊力」
(指輪の精霊力がないと、私は本来の力を発揮できません。自然の水を導くこともできませんし、ナイスバディな自慢の体もこんな幼子のような姿になってしまいました)
「自然の水を導く? つまりあんたは水の精霊なのか」
(理解が早いですね。精霊の中でも私は、水の流転を管理しています。しかし精霊力を失ったため、水を導くことができず、やんちゃな池ちゃんが暴れ出してしまって……)
 自称精霊のぬいぐるみが両手で顔を覆う。泣いているのか。
 本当かどうかはともかく、一応の説明にはなっているようだ。精霊だとか、指輪だとか、僕にとって未知のことを受け入れられれば、の話だが。
「それで、池の水に襲われた僕を助けてくれたってことなのか。指輪を失くした責任を感じて」
(いえ、別に責任を感じて助けたわけではありません。あ、いえ責任は感じていますよもちろん。ただ、助けたわけでもないのです。むしろ、私はあなたに助けてもらいました)
「助けた? 僕が?」
(あのままでは私は、自分を維持することさえできなかった。だから、生き延びるために、あなたを宿主にしたのです)
「あー。宿主」
 つい、唸ってしまう。宿主。つまり僕は寄生されたというのだ。荒唐無稽な話は信じたくないが、自分に不利な話が入ってくると、妙に真実味を感じてしまう。
「つまりあんたは」
(寄生虫だなんて失礼な)
「まだ言っていない」
 先ほどまでしくしく泣いていたように見えたのに、今度は薄く盛り上がった眉をつりあげて、怒ったような素振りを見せている。表情のうるさい精霊、だった。
(あ、いまちょっと信じてみようって気持ちになりましたね)
 そのうえどうにも、人の心がわかっているような言い方をする。
 彼女は真水のような純とした表情で言った。
(お願いします。もし指輪がわるい魔物の手に渡ってしまったら、大変なことになってしまいます。どうか指輪を探すのを手伝ってください)
「指輪があれば、力が戻って、僕から出ていける?」
(その通りです)
「わかった。……うん、探すよ」
「あの」
 僕の発言から会話の終わりを察したのだろう。金髪が声を出した。
「ぼくも……できることがあれば手伝うよ」
「ありがとう。第三者がいたほうが僕も助かるよ。ブロントくん」
「えっ」
「えっ」
「名前。覚えててくれたんだね」
「ああ、まあ、僕は記憶力がいいからね」
 寮で一日安静にしていたら、喉の痛みはほとんどなくなっていた。精霊に憑りつかれているからだろうか、怪我の治りが早くなっている気がする。でもそれを伝えると水の精霊は首をふるふると振った。
(ブルースさんの回復力が良いのですよ。私にはあなたを癒してさしあげる精霊力は残っていません。しくしく)
 さて、指輪を探すとは言ったものの、どこをどう探せばいいのか。なにか心当たりはあるのかと聞くと、おそらく学園のどこかにあるそうだ。
 今日は土曜日、休日だった。学園に来てみると人はまばらで、なにか物探しをしたり、ぶつぶつと(端から見れば)ひとりごとを呟くには絶好の日和だ。
 中庭に足を運ぶ。昨日の騒ぎが嘘だったかのように、そこは静まり返っていた。池の水も単なる水たまりのように静かだ。しかし、池のまわりは魔力で構築されたバリケードでぐるりと囲まれていた。学園側が安全のため封鎖したのだろう。
「ご、ごめんねブルースくん寝坊しちゃって! もう待っていないかと思ったよぉ」
 約束の時間よりもほんの数分だけ遅れて、ブロントも中庭にやってきた。相変わらずおどおどとした様子だ。
「数分くらい気にすることないよ」
「ふぇえごめんね……ブルースくん、やさしいね」
 申し訳なさそうに中途半端に首をもたげている。普段ならこんな落ちこぼれ然としているやつ、相手にすることはないのだが、今は曲がりなりにも協力者だ。無下にするつもりはないが、きちんと僕を手伝ってくれよ。
「それはなんだい?」
 ブロントはリュックサックを背負っていた。指輪を探すだけなのに、荷物を持ってくるなんて。弁当でも持参してきたのだろうか。
「あ、これ。えへへ。暇があれば勉強しようと思って、教科書だよ」
「へ、へえ」
 落ちこぼれも落ちこぼれなりに、努力する姿勢はあるらしい。
「それはそうと、どんな指輪なの?」ブロントが聞く。
「シンプルな銀のリングに、碧い宝石が埋め込まれているらしいよ」
「わかった! ぼく、がんばるね!」
 まずは最も可能性がありそうだという中庭を、丹念に捜索する。美化委員に白い目で見られながらも草根を掻き分け、岩をどかす。数本立っている樹木にひっかかっていないか調べ、怪しいところは土まで掘り返す。
 どうやら中庭にはなさそうだ。池の中も調べておきたいが、学園が設置したバリケードは特殊なロックがかかっていて、僕でも解除するのは困難な代物だった。それに、あるかどうかもわからないもののために校則違反を犯したくはない。
「なにか、他に手がかりはないの?」
 二人で探している間、ふらふらと中庭を漂ってばかりの精霊を横目で見る。
(そうですねぇ。指輪は強い精霊力を含んでいますから、近くにあればすぐに感じ取れると思うのですが)
「え、感じ取れるのか」
(はい。今も少し感じています)
 それを先に言えよ。
 だとしたら狭い場所を丹念に探すよりも、精霊力の気配を頼りに学園中を隈なく歩き回ったほうが早いだろう。
「その精霊力って、僕たちでも感じ取れるのか?」
(いいえ、それは難しいと思います。精霊力は人間とは縁のない力ですから)
「そうか……じゃあ手分けして探すのは無理だなあ」
 その言葉に、ブロントが反応し、わなわなと震え始めた。
「え、どうしたの」
「ぼく、もうお役御免……?」目をうるうると潤ませて、僕の顔を覗き込んでくる。はあ。
「そんなことないよ。きみが隣にいないと、ひとりごとを言いづらいからね。いてくれるだけで役立つよ」
「そ、そうかなぁ」
(あら。ひとりごとじゃありませんよ?)
「端から見たらひとりごとなんだよ」
 学園は広い。中庭を囲む四棟の校舎、第一体育館、第二体育館、講堂ホール、戦闘シミュレーション施設、魔法研究館、図書館、食堂……。学園内のすべての施設を、僕ら二人(と精霊)は練り歩いた。
「……で」
 念入りに歩いてみると、慣れたものだと思っていた学園内は異様にだだっ広い。日はもう沈み夜も深まり、丸一日を浪費したところで、中庭に戻ってきた。
「どこにも、ないようだったね」
 ブロントがすまなそうに首を伏せる。
(うーん近くにあるような気はするんですけどねえ)
「学園内にないとしたら、見つけるのは絶望的だなぁ」
「うう、あと探していないのは、池の中くらいだね……」
 高い校舎が邪魔をして、中庭からは月が見えない。空も心なしか黒ずんでいるようだった。あごと下唇の間をいじりながら、これからどうするか思案する。指輪が見つからないと、自由気ままで青透明な精霊に寄生されたままだ。昨晩は怪我の疲れで眠りこけてしまったが、よくよく考えると常に誰かに寝顔を見られている生活なんて、とても我慢がならない。寝つきは悪いほうなんだ。
 そう考えると災難だったな。あのとき中庭に出なければあんな目に遭わなかったんだから。あんな目に……あれ?
「そういえば、なんで池の水は静まっているんだろう?」
(おや? 言われてみれば。今も私の管理下からは自由なはずなのに、どうして池ちゃん大人しくしているんでしょう)
 なんらかの理由で池が落ち着いた? あるいは、誰かが落ち着かせた?
 精霊が不思議そうに池の周囲を旋回する。学園側が用意したとみられる、魔法のバリケード。白銀に光る透き通った壁……。
(あ!)
 精霊が口を覆う。彼女が見ているのはバリケードの一箇所だった。なんの変哲もない魔法壁のように見えるが、目を凝らしてみると、少し碧みがかかっているような?
(これ、私の指輪です)
「な、なんだって!」
「え、なになに」
 精霊の声が聞こえないブロントが、僕の驚きように驚いている。
「精霊が、このバリケードこそが探していた指輪だというんだ」
「そ、そんな! でもこれ、とても指輪には……」
(おお……一体誰がこんなひどいことを……。私の大切な指輪を無理やり引き延ばすなんて……しくしく、おおしくしく)
「指輪を引き延ばしてこんな形にしたんだって言ってる」
 精霊力を備えた指輪を、そのままバリケードとして利用したのか。精霊力のバリケードに囲まれたなら、池は確かに大人しくしているしかない。……しかし、精霊の力を利用するなんて、一体どんな奴がこんなことをしたのだろう。学園側が設置したバリケードだとばかり思っていたが、違うのか? まさか、危惧していたというわるい魔物が?
「も、戻せるのかな……」ブロントの呟きに、本人は聞こえないというのに精霊が返す。
(ええ、戻せることは戻せるはずです。少し、努力が必要ですが。しくしく)
「ま、まあとりあえず、見つかって良かったよ」
 彼女を慰める。精霊は変わり果てた宝物の前で、依然としておよおよと泣いている。泣きながらも、彼女は背の高い指輪に手を伸ばした。指輪の精霊力を取り戻そうとでもするのだろう。
 ところが。
(きゃっ!)「わっ!」
 バリケードの指輪が突然輝きだし、視界が明転する。両手両足に強い違和感が走った。これは。
「ブ、ブルースくん!」
 気付けば僕と精霊は、身動きが取れなくなっていた。体ががっちりと、筒にでも詰め込まれたかのように動かない。見えない壁。僕と精霊は光の壁に閉じ込められたのだ。
「ブルースくん、大丈夫!?」
「大丈夫じゃなさそうだ……」
(これは、罠?)
「罠、みたいだね」
 身動きが取れるのはブロントだけだ。当のブロントはいつも以上におろおろおどおどした様子で体を震わせている。
「とりあえず、ここから出せないかな。ブロントくん」
「う、うん。やってみるよ」
 ブロントが僕のほうへとそそくさとやってくる。見えないだけにどんな形で閉じ込められているのかはわからないが、抜け穴があるかもしれない。
 しかし、またさらなる閃光。ブロントも捕まったか、と思ったがそうではなく、それは捕獲とはまた別の光だった。
「え……え?」
 ブロントが顔を青ざめる。僕とブロントとの間に、2メートルはあるだろう長身の女性が、立っていた。いつの間に現れたのか、どこから現れたのか。わけもわからない。
「そうはさせませんよ」
 女性は、とても眩しかった。極限にまで大きく近づいた月が、神々しく暗闇を照らしているような、刺す光。黄金の髪が輝いていた。
(あなたは……光ちゃんですか!)
「あらあ、水さん。ごきげんよう」
 女性がブロントに背を向け、こちらに顔を向ける。真っ白な肌、こんな状況じゃなければ見惚れてしまうほど端正な顔が、こちらを見つめてくる。
「この人、精霊が見えるのか」
(光ちゃんも精霊なのです)
 女性――光の精霊の後ろで、ブロントががくがくと膝を震えさせている。
(光ちゃん、あなただったのですね。私の指輪をあんなにしたのは)
「ええ、そうですよ」
(ひどい! どうしてそんなこと)
「ひどいのは水さんのほうよ!」
 激昂の態度を示すかのように、彼女の輝きが一層強くなった。せっかくの美貌なのに眉を吊り上げて、光の精霊は続ける。
「せっかくプレゼントしてあげた指輪を、また泉になんか置き忘れて!」
(ああっ! そうでした。そういえば手を洗うとき外したんでした)
「もう何度目よ!」
(ちなみに泉というのは業界用語でお手洗いのことですよ)
「ちょっと待って」話に割って入る。「精霊の指輪を、トイレに置き忘れてたってこと?」
(えへへー、そういうことですね)
 ええぇ……。中庭で池が暴れ出したのも、力を失って幼体化したのも、そんなしょうもないことが原因だったのか。まるっきり自業自得じゃないか。
 大きな溜息がこぼれ出る。こんな茶番のせいで僕は死にかけたのか……。笑ってごまかす水の精霊と、眉を吊り上げたままの光の精霊と、いまだに顔を青ざめているブロントと。三人を見渡して、もうひとつ溜息をつく。徒労感。
「あの……事情はわかりましたので、とりあえず僕だけでも解放してくれませんか」
(そんな! 私を見捨てる気ですかブルースさん!)
 見捨てるってなんだよ。しかし。
「それはできませんよ」光の精霊が、ぴしゃりと言い放つ。「今あなたは水さんの依り代なのですから、あなたを解放したら水さんも解放されちゃうでしょう」
 そういうもんなのか。
「水さんが完全に反省するまで、絶対に出してあげませんからね!」
 光の精霊がつんとつっぱねる。
 まあ、とりあえず平和に解決しそうだから、少しくらいは我慢してやろう。精霊同士のくだらない喧嘩に立ち会える機会なんて、そうそうないだろうから。
(うーむ、困りましたね……)
 しかし水の精霊が、ぼそっと呟く。
(光ちゃんったら、一度これくらい怒っちゃうと百年くらいはずっとこの調子なんですよね。とほほほ)
「そんな。それは困る! 百年も閉じ込められてたまるか!」
(百年なんてあっという間ですよ)
「百年後にはミイラだよ!」
 人間にとってはあまりにもスケールが大きすぎだ。思いきり体を揺さぶって抜け出そうとするが、光の壁の中では指先ひとつ動かすのさえ困難だ。
「ど、どうすればいい」水に耳打ちをする。
(うーん、そうですねぇ。光ちゃんはいま、人にも見える姿で顕現していますから、精霊力も人間の魔力程度に制限されていると思います。この状態なら、きっと頑張れば人間でも光ちゃんを撃退できるかもしれません)
 撃退……。残る方法は力ずくってことか。精霊相手に。急に物騒な話になってきた。
 しかも僕は動けない。
 動けるのは。
「ブロントくん!」
「は、はい!」
 ブロントが、青い顔のまま気を付けをする。
「頼む。この人を倒して、僕を助けてくれ! きみしかいない!」
「は、はいい?」
 素っ頓狂な声。無理もないし、僕だってなにを言っているんだと自分で思ってしまう。でも気付けばもう消灯時間をとっくに過ぎていて、周りに助けを求められる人はいない。中庭を囲む校舎はどの窓も電気はついていなかった。ブロントに頼るしか、もう方法がない。
「人間の、それも坊やが、私を倒すというのですか」
 女性はまたゆっくりと向きを変え、僕に背中を向けた。ブロントと対峙する、その長身の体は輝きも相まってブロントを包み込んでしまいそうだった。
「ひ、ひえええ。ブ、ぶぶぶブルースくん! ぼくには無理だよ!」
「諦めちゃだめだ! 魔法の実技で習ったことを思い出すんだ!」
「じ、じじじ実技いぃ?」
「胸の前に両手を突き出して! 手を重ね合わせて!」
「は、はいい!」
 僕が手順を言うと即座にブロントは動いた。言えば動けるやつだ。
「吸収の呪文を詠唱するんだ」
「きゅ、きゅう?」
「リュックから教科書を出せ! 『詠唱入門』の68ページ!」
「ぺ。ページまで覚えているなんてっ」
 慌てた動作が滑稽なのか、光の精霊はすべてにおいて隙だらけのブロントを、ただ見ているだけだった。きっと詠唱もさせてくれるだろう。
「な、ななななな」
「深呼吸!」
「すーはーすーはー」
「吸収の詠唱だ!」
「汝つわものの才幹こそ受け取らめ、荊の棘を育み給へえ!」
 教科書を持っていたため両手を突き出すことはできなかったが、それでもうまい具合に強度のある魔力吸収陣が展開された。
「ふふ。可愛らしい詠唱ですね」光の精霊が微笑む。
(そうですねー)
「水さんは黙っててください」
 よし。吸収の準備ができれば、もうこっちのものだ。この魔法は、相手の魔法攻撃を吸収し、威力を増幅させて返す魔法だ。本来は相手の攻撃のタイミングを見計らって不意打ち的に使わないと、すぐに解除魔法を返される意味のない魔法だが、相手は人間ではない。『詠唱魔法入門』なんて読んだことのない精霊だ。人工物の発明のことなんて知らないまま、自然に攻撃を繰り出してくるはずだ。
 さあまだかまだか、と彼女の様子を窺う。
 しかし、いくら待っても光の精霊は倒れない。
 いや、そもそも、彼女は攻撃をしなかった。
「あら、次の魔法はまだですか?」そう言って微笑んでいる。
 端から彼女は、戦うつもりなんてなかったのだ。
 相手に戦う意思がなければ、カウンターもなにもない。
 彼女を倒せない。
「ええっと、ええっと……」
 ブロントが必死に教科書をめくっている。でも無駄だ。僕は数分ぶりに大きな溜息を吐く。二流学園の落ちこぼれでは、彼女ほどの強敵を倒せる手段は吸収魔法しかない。
 ああ、僕の人生はこんなところで終わるんだ……。百年間、こんな光の中に閉じ込められて、そのうち現代アートのひとつとして展示されてしまうんだ。さようなら、僕のエリート街道。さようなら、僕の輝かしき未来。
「ラ、ライトニング!」
 ところが、その諦念を打ち破る叫びが、僕の目を醒ます。見るとブロントが、『詠唱魔法応用編』を片手に、光属性の攻撃魔法を放っている。応用編まで持ち歩いていたなんて、勉強できないくせに、なんて勉強熱心なんだ。
 ライトニングは強力な攻撃魔法だが、ブロントの魔力では小さな威力しか発揮できない。しかし、いつの間に展開したのか、吸収陣が何個も連なっていた。ブロントが放った攻撃魔法は吸収陣に吸収され、威力増幅され吐き出される。吐き出された魔法が、今度はその斜め先に展開されていた吸収陣に吸収され、それがまた別の吸収陣へ、さらにまた別の吸収陣へと、小さな威力の攻撃が倍々に膨れ上がっていく。
「まあ、これは素晴らしい戦術です。ですが、この程度では私は倒せませんよ」光の精霊が防護魔法を展開する。だめだ、これだけ威力を上げても倒せる相手ではない。
 最後の吸収陣から、魔法が吐き出される。
 そして。
 校舎が破壊された。
 木っ端微塵に、校舎が崩れ落ち瓦礫の山となる。
 障壁となっていた校舎が消えたことで、優しい月の光が、中庭に差し込まれた。
「これは……」光の精霊が目を丸くする。「最初から私ではなく、あの建物を狙っていたのですか」
「精霊さん!」ブロントが叫ぶ。「あのお月様のように、いつも僕たちに光を届けてくれて、ありがとうございます。どうか、お友達の精霊さんを許してあげてください! みんなに光を届ける綺麗なお月様でいてください!」
「まあ」
 慣れない詠唱を立て続けてに発動したからだろう、ブロントは息も絶え絶えの様子だった。その状態で、いつもとは打って変わってはっきりとした口調で、言う。
「僕の友達を、助けてください!」
(なんと。なんとなんとまあ)
「……仕方ありませんね。まったく」光の精霊が、乾いた音で手を叩く。それと同時に、体がふっと軽くなった。そのまま転がるように地面に体が落ちる。束縛から解放された。自由になったんだ。
(こんなに光ちゃんの扱いが上手い人がいたなんて……。ブロントさん、なんて末恐ろしい男の子なのでしょう……)
 水の精霊が口を覆う。徐々に彼女の体が大きくなっていく。「あら、指輪の力が……」初めて、彼女の声が脳ではなく耳から届いた気がした。
 光の精霊と同じく、2メートル近くある精霊。水の体を月の光が透き通り、神秘的な波紋を胸に描いた。柔い冷気が僕の肌を撫でる。
「綺麗だ……」これが、あのぬいぐるみの、本来の姿。
 ぐっと息を飲む。水の精霊はにこりと微笑んで、その手を僕の頬に添えた。ひんやりとした月光が頬を伝う。それは息を飲むほど美しくて、それは心が一杯に満たされるほど、潤っていた。
「ありがとう。ブルースさん。ありがとう。ブロントさん。お二人のおかげで、元に戻りました」
「ああ、あなたが水の精霊さん……!」初めて彼女を見たブロントが、目に涙を滲ませる。
「さ、水さん。もう帰りますよ」
「はぁい」
「もう失くさないでくださいね」
「気を付けます」
 瓦礫と、月と、水と。二流だと思っていた学園の、みすぼらしい中庭が、あまりにも綺麗で、眩しくて。
 目をこすると、水も光も消えていた。
「ありがとう」「ありがとう」
 二人の精霊の声が、僕の胸を旋回する。そのまま声は遠く、僕ら人間のわからないところへと、去っていった。
「行っちゃったね」
 残された二人。ブロントが笑う。
「そうだね」
 僕も笑った。
「あの……」地面に落ちている教科書を拾って、彼に差し出す。「いままでごめん。僕で良ければ、これから一緒に勉強しようよ」
 それを聞くと、ブロントはぱあっと月のように顔を輝かせる。
「うん。よろしくね。ブルースくん!」
 こうして、僕はこの学園で、なによりも大切な友達に出会えたのだった。
 ……校舎をひとつ、犠牲にして。

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