第一章 [目次]


  三
 ぼくは自室で漫画本を読んでいた。部屋の中にはクーラーが取り付けられているが、それを動かすつもりはなかった。今は節電シーズンだ。それに、先ほどまで降っていた雨が、湿気もろとも熱を持っていってくれたみたいで、それほど暑くない。窓を開けていれば充分に涼しかった。この部屋は二階にあるから、風通りも良い。どうせそう思っていられるのも、雨上がりの今だけなんだろうけど。
 SFの漫画だ。SFの中でもスペースオペラというカテゴリに入るもので、ちょうど、宇宙スーツを着た青年が、奇怪な姿をした生命体へレーザー光線を浴びせている。今どき珍しい。
 兄貴、今なにしてるだろうな……。ふと、漫画を読んでいるとそう思った。宇宙スーツの青年は、兄貴とは似ても似つかないけれど。
「た、ただぃま……」
 ちょうどよく、兄貴の声が階下からあった。帰ってきた。怪我でもしたのか、ずいぶん弱弱しい声色だ。自信のない幼子みたい。
 ぼくはブックカバーを栞代わりにして、漫画をベッドの上に置いた。自室を出て、ちょっと急な階段を下りる。
 兄貴はまだ玄関にいた。靴もまだ脱いでいない。なにをそう、おどおどしているのだろう。ぼくの姿を視界に入れた途端、慌てふため始めた。小動物を前にした気分だ。おかしな兄貴。
「おかえり」
「へ? へえ!?
 頓狂な声をいちいち上げる。兄貴は自分の顔を指差した。だけどすぐに元の位置に取り繕う。
「わた、俺の部屋は二階です……よな!?
 噛み噛みだった。
「兄貴……大丈夫? やっぱり頭打ってたの」
「へ? いや、その……」
 兄貴はやっぱり様子が変だ。ぼくはよく分からないまま、兄貴を兄貴の部屋に案内することにした。兄貴は階段の急なことに驚いて、手すりがないことにもっと驚いていた。慎重に上っていく姿を見ていると、記憶喪失をつい危惧してしまう。
「兄貴、兄貴の名前はなに?」
「え……えっと、寺本雄吾くん」
「なんで『くん』付けなの……」
 本当に頭がおかしくなっちゃったんだ。
「じゃあ、ぼくの名前は?」
「ぼく……?」
 兄貴が眉をしかめた。なにを訝っているんだろう。階段を上る足がとまる。ぼくもついでにとまった。
「そっか。そういえばきみは、『ぼく』だったね」
 兄貴の部屋は、ぼくの自室のすぐ隣だ。隣というよりも、向かいといったほうが正しいかもしれない。二階には部屋が二つある。階段を上ってすぐ右側にドアがあるのがぼくの部屋、左側のが兄貴の部屋だ。
「ありがとう」
 親切にも兄貴は礼を述べた。そもそも部屋を案内するという状況が不思議でならないというのに。兄貴はそれ以上、詳しい説明をしてくれなかった。結局、頭に異常が生まれてしまったのか。きっとそうなんだろう。保険医の先生は病院への紹介状を書いてくれたのか。近いうちにでも、病院で診てもらったほうがいい。絶対そうしたほうがいい。
「寝るといいよ。お母さん、今日は遅くなるって」
「え、うん……」
 兄貴の喉は、まるで女の子みたいに優しい。絹みたいな声だ。普段の兄貴とは違いすぎる。これも仕方ないのかもしれない。頭を打って、脳がショックを受けて、一時的に混乱状態にあるんだ。きっとそうだ。こういうときは、ともかく脳を休ませなきゃいけない。
「じゃね」
 そう言ってドアを閉めた。兄貴のことは心配だけれど、実をいうと、そんなに心配してはいなかった。兄貴はもともと、怪我の多い人だから、どうせ数日も経てば元に戻る。怪我をたくさん受けてきた分、治癒力も強くなっているんだ。きっと。
 自室に戻って、ふと、壁にかけられている時計を見遣った。ぼくが帰ってきてから、三時間が経っている。外はすっかり暗い。
 兄貴は今までなにをしていたのだろう。文系特進科の授業が終わる時間からは、だいたい一時間半くらい経っている。兄貴と絢さんは保健室で安静にさせられていたから、たぶん、クラスの人たちよりも早く下校させられたんじゃないだろうか。それなのに、この時間になるまで帰ってこなかった。まるでなにか、帰ってこれない理由があったみたいな。
 ……考えすぎかな。
 ぼくは漫画本を手に取った。手元を誤って、栞代わりにしていたブックカバーをはずしてしまう。
 ……。母親が仕事から帰ってきたのは、夜十時を少し過ぎたあたりだった。どうやら学校側からの連絡はなかったようで、母親は兄貴の容態を知っていなかった。
 ダイニングの机で母親と向かい合う。ぼくは自分で適当に作って、既に夕飯は食べ終えていた。母親が、ぼくが作り置きしておいた料理を口に運ぶ。
「……それで? 雄吾がまた怪我したって?」
「そうそう。階段から転がり落ちたんだよ」
「それはまた、派手にやったねぇ」
 母親は気楽そうに箸を握っている。これは日常茶飯事なのだ。そんなに慌てることでもない。
「それに、他の人も巻き込んだんだよ」
「ありゃ、それは困ったもんだね」
 だけど他の人にも迷惑をかけたとなっては、日常茶飯事だと笑い飛ばすことはできない。わざわざ紙袋つきでお菓子を買って、迷惑をかけた家庭へ挨拶をしにいかないといけない。昨今の世間はそうなんだ。つきあいが悪くなっても良くないから。
「雄吾は今、寝てるの?」
「うん」
 トイレの水が流れる音がした。
「起きてる、みたい」
 ぼくは椅子から腰を持ち上げて、ダイニングを出た。出て少し歩いて、左側にトイレがある。ちょうど、兄貴がトイレから出てきていた。
「兄貴」
 呼びかける。……だけれど兄貴はぼくを無視した。無視したというよりも、気付いていないようだ。顔が真っ赤だ。一目散に階段を上っていく。
 ぼくはその後姿を見て、どうしても、兄貴が女の子のようにしか見えなかった。

 朝。ぼくは六時ぐらいには起床して、朝ごはんの準備をしていた。基本的に、食べることに関する家事は、ぼくが担当だ。学校での昼ごはん――ぼくと兄貴の弁当も、このときに作っている。
 七時になる前には、母親も起きてきた。洗面所で顔を洗ってからダイニングにやってくる。キッチンはダイニングの中に設けられている。
 机に並べられた朝ごはんを眺めて、「由美もずいぶん上手くなったじゃない」と言ってきた。純粋に嬉しい。中学校を卒業するまでは、まったく料理などしたこともなかったのだ。
「由美、ちょっといい?」
 弁当の準備がひととおり完了したところを見計らって、母親がそう声をかけてきた。ぼくはなんの疑問も抱かず、母親の向かいの椅子に座る。母親は机の上の卵焼きをつまみ食いしていた。それを嗜めると、まあまあ、と言ってもう一個口に運んでしまう。
「突然だけどね、私、明後日から一ヶ月間くらい、仕事で遠出することになったから」
「え、一ヶ月……?」
「そう。一ヶ月。だいたい、由美たちの夏休みが終わる直前に帰ってくることになるわ。いきなりだけど、どうしても断れない仕事だったし、これを上手くやれば、きっと給料も……」
「分かった分かった。問題ないよ」
 ぼくはそう言ってあげた。どうせ、無理だといってももう決まったことだから、と返ってくるんだ。それなら、気残りをさせずに仕事に送り届けたほうが、きっと仕事にも精が出る。
「お金はいくらか預けておくから、よく考えて使いなさい。花嫁修業だと思って……」
「はいはい。分かりましたよー。いいから早く出世してよね」
 母親が仏頂面をする。
 ……兄貴が起きたのは、七時半くらいだ。まあ、いつもと同じくらいの時間だ。
 階段を下りてきた兄貴を見て、ぼくは驚かずにはいられなかった。目が赤かった。目元も少し、染まっていた。泣いていたんだ。
「ごはん、食べる?」
 ぼくはなるべく笑顔を作ってそう言った。兄貴は、うん、と頷く。ほんとに、女の子みたいだ。泣いた直後の、素直に戻った女の子。
 まだ治っていないみたいだ。
 それでも兄貴は、滞ることなく朝食を食べた。おいしいと、何度も呟いてくれていた。照れるからやめてよと言っても、耳に入っていないみたいに、おいしいを繰り返す。
「ねえ、兄貴」
 ぼくは、兄貴が箸を置いたのを見計らって話しかけた。
「なに」
 兄貴は、やっと兄貴と呼ばれることに慣れたみたいだ。だんだん治っていっているのかもしれない。
「お母さんが、明後日から出張だって」
「……そう」
 その顔を、ぼくは見逃さなかった。安堵の表情。未来訪れる災厄を、とりあえず延期させることのできたような顔。ぼくは兄貴が兄貴でないことに、この瞬間ようやく気付いた。兄貴はまるで悪魔に取り憑かれたみたい。兄貴は階段から落ちたときに死んでしまっていて、たとえば雨の妖精なんかが、兄貴の体を乱暴していたのなら。
 そんなことを思ってしまうくらいには、兄貴の様子はおかしかった。母親は大丈夫だというけれど、どうしても、これは普段と違う。ただ怪我の多い少年という枠組みを、壊してしまった窓のようだ。先の見えない窓。
「学校、行くの?」
 ぼくは訊いた。
「……行くよ」
 意外な答えが返ってきた。
「寺本くんに会わないといけないし」
「……え?」
「な、なんでもない!」
 兄貴の口から唾が飛んで、次いで「あ!」と兄貴は口元を抑えた。

 八時。ぼくらは一緒に家を出た。いつもなら、ぼくは兄貴より先に出発するのだけど、怪我をしているのだから、一緒にいたほうがいい。それに兄貴は、学校までの道順を忘れてしまっていた。ショックだ。一年以上歩いてきた道を、ただ頭を打つだけで失くしてしまうなんて。……恐ろしい。素直にそう思う。
 その日は突き抜けるように晴れていた。雲ひとつない。昨日一昨日の雨が嘘のようだ。……実際、その二日間は嘘のように降っていたのだけど。夏の暑さが嘘みたいに。
 学校まではだいたい、十分くらいかかる。細道を通って、大通りに出たら、あとは真っ直ぐだ。複雑でもなんでもない。だけど兄貴は、必死に道を覚えようとしていた。
「あの……由美、ちゃん」
「…………」
 さすがに、兄貴の奇行にも慣れてきた。
「普通の兄貴は、妹に『ちゃん』を付けません」
「由美!」
「なんで語尾を強めるのさ」
 空は青い。夏が既に始まっていることを、嫌でも思い出させる。
 大通りは静かだ。夏の暑さに疲れてしまっているのかもしれない。二日間の清涼の後のこれだから、無理もない。だけどぼくたちは、学校へ赴く。兄貴はいつも腕時計をする習慣があったけれど、今日はつけていなかった。ぼくはスカートのポケットから携帯電話を取り出す。そこに表示されていることを信じるには、八時十分になっていた。まだ学校まで、半分も歩いていない。
 ひとえに、兄貴がのろいからだ。道を忘れてしまったから、ぼくの動きを逐一見ていないと動けないんだ。それはイライラする。夏の暑さと共に、ぼくに疲弊を強いていた。
 足が重たい。ブリキ人形みたいにぼくの足はぎこちない。だけど兄貴は後ろから、スムーズな足取りでついてくる。だけど遅い。ぼくは頭を掻き毟りたくなって、だけど通行人に見られたくないから我慢した。
 ようやく学校に着くと、兄貴の動きは素早かった。ぼくを通り越して(途中「ありがとう」って言ってきた)、さっさと自分の教室へ行く。ぼくはあっけにとられながらも、とりあえず、学校の内容は記憶したままだということを学んだ。
 ぼくも、高一Aの教室に入る。早々に窓は開け放たれているけれど、決して、涼しい風が舞い込んでくるわけではない。頭が熱せられて、シュウマイのようにでもなってしまいそうだった。
 兄貴に事故があっても、誰もぼくには声をかけない。……いや、まだ事故があった事実が広まっていないだけなのかもしれない。
 どちらにしたって、それはぼくじゃなくて兄貴だ。
 人並みに友達の多い、兄貴のことだ。