第一章 [目次]


  四
 英語の授業は苦痛でしかない。担当の教師はクソ真面目だし、そもそも英語が苦手だ。日本人に生まれたことが運の尽きだ。こんな話を聞いたことがある。海外から出張で帰ってきた母親が、たしか一年ほど前に、言っていたことだ。……日本人は真面目に文法ばかり学んで、結局実用的な英語を教えない。
 まさしくその通りだと思った。海外の映画を観ていても、海外の漫画を流し読みしてみても、たまに外人さんに道を尋ねられても、綺麗な文法を耳にしない。「あなたがやったの?」という文があって、これを英訳するなら「でぃどぅゆーどぅー?」って訊くのが文法上正しいことだとしても、日常なら「ゆーでぃどぅ?」でこと足りる。……と思う。ぼくは日本人だから確信は皆無だけど。
 ともかく真面目な日本人教師は、黒板の隅に「関係副詞」って書いた。意味はまだ知らない。
 説明を聞く。関係代名詞なら、中学のときに習った。あれは簡単だけど、それは日常会話で使わないことが前提だ。あれだけ修飾語を後ろにまわされたんじゃあ、理解できる内容も意味不明になってしまう。きっとそうだ。それとも英語を扱う国の人は、脳の構造からして日本人と異なるのかもしれない。宇宙人は実は近くにいました、みたいな。
 そんなこと考えたらだめだぞ、そんな言葉が脳内で踊った。外国人を宇宙人だと揶揄するだなんて、そんな考えはだめだ。なんで、自分の思考に自分の思考でツッコミしているのだろう。
 なんと、関係代名詞の前にコンマがあるかないかで、まったく意味が変わってくるらしい。そんなの聞いたことない。でも、これでひとつ情報を得ることができた。やっぱり、日常会話で関係代名詞は使わない。コンマのあるなしなんて、どうやって口で表すというんだろう。しないんだ。日本人は遅れてる。ずっと昔に決められた頭の堅い文法を、今になっても遵守してこれは違う、こうなんだと教え込んでいるんだ。きっとそうに違いない。なんて迷惑な話だろう。それじゃあ海外へ行くとき、ぼくはどうやってコミュニケーションをとればいいんだ。意思疎通ができなかったら、外国人も宇宙人となんの変わりもないことになってしまうじゃないか。
 滅茶苦茶だ。日本の教育は壊滅状態だ。こんなところで勉強しても、むしろバカになってしまうだけだ。ここは牢獄のようなところだ。いるだけでステータスが減って、社会に出るときの障害としていつまでも残ってしまう。鎖のようなものだ。
 ……でも、化学の授業だけは真剣に聞く。二時間目の化学では、背の低めの先生がご教示になっている。化学が好きだからこの先生も好きだ。先生も、真剣に授業を聞いてくれる生徒には優しい。その優しさは邪魔だけれど、別に深刻な支障になるわけでもないから無視をしている。
 あっという間に化学の授業は終わった。夏休み前最後の化学の授業だった。授業の終わり際、先生はみんなにテキストを配った。夏休みの宿題だ。十数ページの、簡単な問題集。これなら今日中にでもできるんじゃないだろうか。
 自由研究の宿題は出なかった。まあ、いいや。宿題でなくとも研究はできる。探せばもしかしたら、高校生向けの科学コンクールでもあるかもしれない。帰ったら探してみよう。そう思いながら、配られた冊子に名前と出席番号を記す。
 三時間目は国語だ。これまた憂鬱な授業だ。国語は夏休み前まで毎日あるのだから、陰鬱な感情が込み上げてこないわけがない。窓際といっても前のほうの席だから、化学の宿題を開く勇気もなかった。この教師は、よく生徒たちの動向を観察している。この前携帯電話をいじっていた生徒が歯牙にかかった。この教師は危険人物として、わりと警戒をしている。
 高校一年生の段階では、「国語総合」という授業となっている。二年になったら「古典」と「現代文」に分かれるらしい。
 最近は、文法の授業をやっている。
 そこでふと思いついた。日本人が日本語の文法を勉強しなければならないように、イギリスやアメリカだって、英語の文法を学ばなくてはならないんだ。つまり勉強しなければ分からないのはどの国だって当然のこと。……それでも、日常会話に支障はない。やっぱり、関係副詞なんてものは日常会話では使用されないんだ。少なくとも学ぶまでは、決して使いやしない。
 それに気付けただけで満足だった。ぼくは悦に浸って、チャイムが鳴っても板書するのを放棄してしまっていた。まあ、ノートを提出することはないからどうでもいい。
 その日の休憩時間は、回を重ねるごとに騒がしくなっているのが分かった。実際に耳に届くのは、さほどいつもと変わらない。だけど教室を取り巻く雰囲気が、学校を取り囲む空気が異変を伝えていた。それがなんなのかは分からないけど、それがぼくに関することであるのはだいたい理解できた。たまに、数人がぼくを見遣るんだ。ちらちらと。ぼくは視線に敏感だ。
 四時間目。午前最後の授業だ。数学Ⅰ。
 ぼくは強い少女じゃない。それは自覚している。だから逃げることができない。目を逸らすこともできない。ぼくはとっても弱いから。生徒たちの視線から逃れることもできないまま、ぼくは問二を解いていた。
 兄貴に変化が訪れても、ぼくに変化は訪れない。この閉塞した謎を教えてくれる人は、この教室にはいない。教室の外にだっていないに違いない。
 なにがぼくに目を向かわせるのか、まったく思い浮かばなかった。ぼくがなにをしたというんだ。この前、遅くまで学校に残っていたから? 教室の掃除当番をサボったから? 傘が水色だから? 美術の時間に彫刻刀で怪我したから?……ぼくがなにをしたというの?
 疑問が渦を巻いていく。ぼくの頭が飲み込まれた。そのまま螺旋状に、ぼくの体が吸い込まれていく。奈落の向こうへ、もう帰ってこれなくなってしまうくらい、宇宙に投げ出された宇宙飛行士みたいに。
 教師がぼくを指名した。問二の答えがなにか訊く。ぼくは3x-2だと答えた。正解だった。
 感謝するには値しなかった。教師は確かに、ぼくを渦から救い出してくれたのかもしれない。だけれどそれをいちいち感謝していては、ぼくは今まで、どれほど感謝したのか分からない。助けられても感謝しない。それがぼくのスタンスだ。感謝はされてするものではなくて、向こうが意図的にしてきたときに告げてあげるものだ。先生はぼくを救うために指名したのではないのだから、むしろ、この状況で感謝するほうが奇異な状態になってしまう。
 人の価値観なんて知らない。倫理観もついでに知らない。どう違うのか知らないけれど道徳も知らない。小学生のとき、道徳の授業が嫌いだったことを思い出す。数学の授業となんの関係もない。
 限界が訪れる前に授業終了のチャイムが鳴り響いた。それは本当に「鳴り響いた」で、頭の中をがんがんと叩いてくる。起立、礼。副会長が適当に言う。
 昼食の時間だ。ぼくは鞄から弁当を取り出した。ぼくの席は窓側の前だから、他の子のためにどく必要はない。
「ねー」
 肩を掴まれた。来た。朝から増長していた嫌な感じだ。肩が痛い。決して力を入れてきているわけではないはずなのに、鉄筋を載せられたみたいに痛い。重い。
「その弁当、手作りなんでしょ?」
 肩を掴んでいた手は放して、その生徒は軽々しくそう話しかけてくる。
 その顔には見覚えがあった。いや、ぼくは教室の生徒全員の顔を覚えている。その中でも彼女は特に、クラスメイトの中でも印象が強い。
 よく視界に入っていた、あの五人組の一人だ。雨がひどい日(一日目)に、ぼくと同じく遅くまで粘った五人組の、そのうちの一人だ。その彼女が、いったいどうしたというのだろう。
「ここ、座っていい?」
「いい……よ」
 感謝を求めたわけではない。数学の教師と同じだ。ぼくは許可を施したのではなく、彼女の目的を探るという、確固とした目的があった。だから感謝はいらない。感謝をするのは場違いだ。……そんなことを彼女も考えたのだろうか。彼女はうし、とだけ発して、ぼくの隣の席を失敬した。
 彼女は片手に弁当箱を携えていた。一緒に昼食を摂ろうというのだろう。手馴れた動きで机をくっつけてくる。弁当の包みをほどいた。
「暑いね今日も。夏は汗かいちゃうからキライ」
 彼女がそう話しかけてくる。ぼくは卵焼きを摘まんだ。
「なんの用なの」
 いきなりこんなことを言うのは不躾だったかもしれない。「しれない」じゃなくて、実際にそうだ。それでも彼女は眉をしかめなかった。
「寺本さん。ケーキはいちごを先に食べちゃうタイプ?」
「…………」
 箸を口に運びながら、彼女は頬を持ち上げた。楽しんでいるのか。それともぼくを嘲笑っているのか。
「まあ、普通そう思うよね。いきなり話しかけてきたらそりゃあ、警戒するのも無理ないか。……一応、クラスメイトなんだけどね」
 クラスメイトだったら、気軽に話しかけることができるのか。ぼくには分からない。
「ねえ寺本さん、あなたのお兄さん、なにかあったの?」
 彼女はぼくの要望通り、さっそく本題を持ちかけてきた。それと同時に、ぼくの頭を悩ませていたものが、綺麗に片付けられていく。……そうだ、この視線の原因は、兄貴にあったんだ。兄貴になにかあったのにぼくに視線が向かっているのではなくて、兄貴になにかったからこそぼくに注目が寄っている。
「正直言うと、あなたのお兄さん、雄吾先輩、変なんだけど」
 その率直な意見に、少しだけ胸が痛んだ。それと反比例しているのか、それとも比例しているのか、頭の痛みは消え失せていく。彼女が対等にぼくを見ているのが分かった。
「……たとえば?」
 ぼくは訊いた。たとえば、どんなところが具体的に変なのだろう。兄貴が変になったのは既に知っているけれど、でも、他人から見た今の兄貴が、どういった評価を得ているのか気になった。
「えっと……。たとえば、女子トイレに入ってきたり」
「え……」
「たとえば、女子更衣室の前をうろうろしたり」
「え、え」
「たとえば、男子生徒に触られると、異常なくらいに反応したり」
「…………」
「たとえば――」
「もういい」
 ご飯を口に運んだ。流し込むみたいに噛み砕く。弁当のご飯はおにぎりみたいに固められている。このほうが食べやすいと思った、ぼくの工夫のひとつだ。兄貴の弁当も、当然そういう仕様になっている。
「それで、雄吾先輩になにがあったのかなって」
「ねえ」
「なに?」
 あまり今まで会話をしたことはなかったけれど、彼女の、クラスメイトには気軽に接するという思想に従って、タメ語を用いて会話することにした。たぶん、彼女は怒らない。
「その、雄吾先輩っていうのやだ」
「……じゃあ、寺本先輩」
「うん、それがいい」
「寺本さんって細かいんだね」
 彼女はそう言って、弁当の中身を口に運んだ。
「それに、絢先輩もそうっぽいんだよね」
「え……?」
「知ってる? 社やしろ絢先輩。寺本先輩のクラスメイト」
 彼女がぼくの目を覗きこむ。きっとぼくは、驚いていたに違いない。それを瞳に映し出していたに違いない。
「なにか知ってるの?」
 彼女が、興味本位なのかそう畳み掛けてくる。ぼくは汗が首筋を通るのを感じた。暑いせいなのか、肌寒いせいなのかよく分からない。爬虫類みたいに体温調整ができなくなっていた。まるでぼくは変温生物。だけれど温度変化は周りではなくて中側から起こっているのだから滑稽だ。
 兄貴に異常が現れたように、社先輩にも異常が出ていたんだ。二人とも、雨の激しい日に、足を滑らせて階段を転がり落ちている。
 そのときに頭をぶつけたのか、それとも。
「なにか知ってるんでしょ」
 彼女が畳み掛けるようにそう言ってくる。ぼくは彼女の目を見た。彼女は楽しそうに、ぼくの顔を眺めこんでいる。窺っている。ふと教室を見渡すと、ほとんどの生徒がぼくを見ているのが分かった。そんなに、兄貴が奇行を繰り出したということだ。顔を覆いたくなってきたけど、顔が赤くなる感覚は、不思議と訪れなかった。
「知ってるよ。知らないけど」
「……どっちよ」
 彼女が眉に皺を寄せる。もう食べ終えていて、端を弁当箱の床につき立てていた。ぼくはまだ食べきっていない。ぼくは顎を動かすのがのんびりしている。
「なにがあったかは知っているけど、なぜそうなったのか知らない」
 ぼくは前置きをした。この調子じゃあ、話したほうが、兄貴のためにもいいだろう。ただの変態にされてもらったら困る。頭をぶつけての、仕方のないことだと、身内であるぼくが説明してあげないと。
「やっぱり知らない」
 だけど言えなかった。わざと言わなかったのかもしれない。
 ほら、彼女はあからさまに不可解そうな顔をしている。ついさっきまで、現に、ぼくも話すつもりでいた。だけどそれじゃあ、兄貴が精神に障害をきたしていると認めてしまうようなものじゃないか。確かに類を見ない異常事態ではあるけれど、兄貴のことだから、きっと治る。放っとけばきっと治る。むしろ大騒ぎして治療沙汰にでもなれば、兄貴はその状況に順応してしまう。今まで兄貴は、ほとんど病院に行ったことがないんだ。怪我は無数にあるけれど。
「ふーん。知らないんだ」
 詮索するように、彼女はぼくの顔を下から眺め回した。くすぐったい視線だ。いっそのこと、本当にくすぐってくれたほうが我慢できるだろう。ぼくはぎゅっと目を瞑って、すぐに後悔して瞼を持ち上げた。視界に入るのはやっぱり彼女。
「し、知らないよ!」
 つい声が大きくなってしまった。だけれど誰も、ぼくのほうを改めて見たりしない。自分が思っているよりもその声は小さかったのかもしれない。
 今更、後戻りはできない気分だ。雨は降っていないけれど、ぼくの額は湿っていた。彼女はもう、弁当箱を布製の包みにくるんでいる。それをぽつんと机の上に置いて、まるで、主人の帰りを待っている番犬のようだ。ただの箱にも見える。
「わたし、絢先輩の友達なんだけどさ」
 ぼくは弁当箱を鞄に直した。ちゃんと全部食べた。
「友達……」
「そう、友達。だから心配でさ、寺本さんがなにか知ってないかなって思ったんだけど」
 ふいに彼女の声が静かになった。絹みたいに柔らかく、だけど肌に馴染みそうにない。彼女はぼくのほうを向いているけれど、ぼくを見ているわけでないことは理解できた。そんなに疎くない。ぼくは、迷った。
「ねえ、あの、坂松さん」
 ぼくはとりあえず、彼女を呼びかけた。向かい合っているけれどぼくを見ていない彼女を、ぼくは呼び起こす。
「あ、名前」
「うん?」
「名前、覚えててくれたんだね」
 そう言って、坂松菊恵は小さなえくぼを見せた。
「あ、うん……」
 ぼくだってちゃんと、クラス全員の名前を覚えている。もう半年ぐらい経つことになるんだ。授業中に先生に指名されたり、ともかくいくらだって名前と顔を知る機会はある。ぼくにはそれが絶対的に少ないけれど、ないというわけではもちろんない。
「昨日、雨ひどかったね」
 ぼくは言った。彼女は突然の話題転換に戸惑ったようだが、すぐに適応して頷いた。対人能力がぼくの比じゃない。だけど悪い気はしないから、ぼくは先を続ける。
「それで昨日、階段が濡れていたんだけど……」
「あ、そうだったそうだった。美術が終わってから、そこを通って転びそうになったんだよ」
 彼女が同調する。そう。転びそうになるぐらい、階段の踊り場は雨に濡れていた。階段は教室なんかと同じく、建物に完全に包まれているから、普通なら濡れることはない。だけれど、小窓が開いていた。誰の仕業かは知らないけど、今は、知る必要もないのだろうけど。
「そこで、昨日、兄貴と社さんが転んだんだ」
「転んだ……?」
「踊り場のところで、足を滑らせて……」
「二人、一緒に?」
「うん」
 いつの間にかひそひそ話になっていた。他の子にはたぶん、話は聞かれていない。ぼくが意図的におこなったことではない。いや、たぶん、坂松さんが意図的に施したことだ。ぼくが彼女に話すことを躊躇ったのと同じように、彼女も、それなりのことと察してくれたに違いない。ありがたい話なのかもしれない。
「それで、二人とも意識はあるのにぼーっとしちゃって、保健室に運ばれたんだけど」
「ふむふむ」
 坂松さんが、考え込むように腕を組んだ。
「それを見たのは、寺本さんの他に誰がいる?」
「高二文Cの人みんな」
 高一の時点ではA・B・Cの三つのクラスがあるけれど、高二からは、特進を除けばAとBの二つに減る。その分特進科ができるのだけど、いちいち「文系特進科」「理系特進科」と呼ぶのは億劫だから、たいてい「文C」「理C」と呼んでいる。この学校にいつの間にか流れているしきたりみたいなものだ。
「そっか。じゃあ、その人たちにも話聞いてみるよ」
 そう言って、坂松さんは席を立った。くっつけていた机を、元の位置に直す。坂松さんはそういう礼儀がきちんとしている子のようだ。普通の子なら、机なんてそのままにしているのに。
「ありがと」
 坂松さんは最後にそれだけ言って、自分の席に戻った。机の傍に置いてある鞄に弁当箱をおさめて、机の上に置いてあった教科書類を持って、そのまま教室を出て行く。だけど出てから、「寺本さんも、急いだほうがいいよ」と言ってきた。
 そうだ。五時間目はコンピュータ室だ。一階の端にあるから少し歩かないといけない。
 時計を見ると、チャイムの鳴る十秒前だった。