第一章 [目次]


  五
 次の日も快晴だった。白い太陽は容赦もなく照りつけて、弱い影はとにかく薄くなっている。その分だけ強い影はもっと濃くなっているけれど、それはただ、それだけ太陽が明るいからそう見えるだけだ。太陽無双っていうやつだった。
 暑い。一昨日までの涼しさはどこかへ旅に出て行ってしまった。自分探しの旅にでも。
 まだ、兄貴の容態は回復していない。普段ならもうそろそろ治るころなのだろうけど、嫌な思いの通り、これは長くかかるのかもしれない。今はそう思う。母親はあんなに気軽そうに話していたけれど、それがむしろ不安を助長させている。
 ぼくと兄貴が家を出るときでもまだ、母親は睡眠の最中にあった。明日の準備とかのために、今日は職場に行かなくてもいいらしい。今のうちに寝溜めする魂胆らしい。一ヶ月のハードスケジュールを目前にして暇を出されたのなら、誰しもそうなるのかもしれない。明日、ぼくが夢から飛び出た頃にはもういない。
 学校に着いた途端に、いろんな人に声をかけられた。兄貴が横にいるからなのか、それともぼくが兄貴の妹だからなのか判別がつかなかった。大丈夫? 誰かがそう訊いてきて、んなわけないじゃん、って思いながら適当に会釈した。知らない顔だったから、たぶん、兄貴のほうの知り合い。なぜぼくが代弁しなければならないのだろう。現に、兄貴も現状に戸惑っているふうだった。意思を持って、みんなに声をかけられることを気煩わせている。
 昨晩、兄貴は風呂に入りたがらなかった。その前の晩、兄貴が転んだ日も眠ってしまって入浴できていなかったから、無理矢理にでも風呂場に押し込んでやった。水の音が聞こえるまで、ずいぶん長い時間がかかったように思う。おかげで汗臭くなることは免れたけれど。風呂から上がった兄貴はぼくと顔を合わせようとしないし。そのまま自分の部屋に直行していくし。歯磨きもサボろうとしていたし。
 今朝、朝食を摂りながら兄貴が要求してきたのがそれだった。歯ブラシを新しいものにしてくれって、そんなこと。予備の歯ブラシが洗面台傍の棚にあることも、忘れてしまっていたようだ。
 廊下で別れて、ぼくは高一Aの教室に入った。それと同時に、いくつかの視点。さすがに戸惑った。いつもならこんなことありえない。少し嬉しくもあった。それと同時に、兄貴が悪い状態にあることを嫌でも思い知った。重篤だ。命の危険なのかは知らないけれど、これは、まずいんじゃないか。まわりの視線を感じて、ぼくはそう思い直さないわけにはいかなかった。
 席につくと同時に、「おはよう」という聞き覚えの有り余る声。……坂松さんだ。
「……おはよう」
「寺本さん、人気者だね」
「そう、だね」
 まわりを見渡す。ぼくのほうを向いている人が多い。それほど兄貴が人気者だったのか、いや、そうじゃないだろう。それほど兄貴の蛮行が過ぎるんだ。それと社先輩。二人もそうなってしまったのなら、これはもう、そういう話にしかならない。そのうち、教師に呼び出されたりするんじゃないだろうか。
 夏休みまでもうすぐだ。計画はまだ煮詰まっていない。煮詰めるつもりもない。母親は長期の出張だし、兄貴はこんなだし、それで遊べというほうが不思議だ。
「ねえ、寺本さん」
 まだ近くにいた坂松さんが、そう話しかけてきた。
「……なに」
「わたしさ、前も言ったとおり、絢先輩の友達なんだよね」
 友達なのに「先輩」って律儀につける。
「だから」
「だから?」
 彼女はぼくの顔をやわらかく覗きこんだ。こんなに暑い天気なのに涼しい顔をしている。顎に手の甲をあてている。
「家に引きこもってても、体に悪いじゃん? だから絢先輩を、海にでもつれていこうと思って」
「海……」
「良い宿を知ってるんだよ。人もあまり多くなくて、すぐ山とも繋がってて」
 お、いいなそれー。五人組のひとりがそう言う。いつの間にか、ぼくは五人組に包囲されている。
「……それで、寺本さんも、先輩――お兄さんと一緒に来たらいいなって。共同の療養旅行というか。そんなカンジ」
 チャイムが鳴った。

 ぼくは高二文Cの教室を訪ねた。兄貴と、社先輩に用があるからだ。
 ぼくはもう授業をすべて終えたけど、兄貴たち特進科の人たちにはまだ授業がある。今はそれを臨む休憩時間だ。
 教室に二人はいた。他の生徒と言葉を交わそうとも、顔を合わせようともしない。他の先輩たちも、気を遣ってか二人には声をかけない。二人はそれぞれ目の遣りどころを探しているみたいに机に突っ伏せていた。
「兄貴……それと、社さんも」
 ぼくは勇気を振り絞ってそう言った。クラスと違って、ここはぼくのことをよく知る人が少ないだろうから思ったよりも発声がラクだ。良かった。そう思うのは一瞬だけ。兄貴と社さんの他に、教室にいたすべての先輩がぼくを向いている。さすがにマズイと思った。動悸がする。どくんどくん。ぼくは声を出す術を忘れて、それでも兄貴に視線を送った。途切れた回線のように届きにくい。だけれど社さんが席を立って、ぼくのほうに近づいた。
「由美」
 社さんがそう言う。その馴れ馴れしい口調に、ぼくは驚いて肩をひくつかせた。それに気付いたのか、社さんが慌てて「ごめん」と言う。
 その間に、兄貴もぼくのほうへやってきていた。「どうしたの?」と、まるで女の子のような言い方をして、すぐさまぶんぶんと首を振る。「どうしたんだ?」そう言い直してきた。
「ちょっと」
 ぼくはそう言って、二人を自分の教室につれていった。文Cの人たちはきっと、ぼくの話に興味を示してしまうだろうから、わざと場所を替えたんだ。
 教室にはもう、ほとんどの机が空になっている。だけど一部分だけ、海上の珊瑚みたいに黒くなっているところがあった。
「あ、こっちこっち」
 店でもなんでもなく教室だというのに、そんな台詞を坂松さんは言う。ぼくは二人と共に五人組の集まっている席に行った。十秒もかからない。兄貴も社さんも、困惑したような心配したような顔をしている。特に社さんは、しきりにぼくの顔を見てくるのだから、つい照れてしまう。
「先輩、夏休みの計画ってもうできてます?」
 早々、坂松さんがそう訊いた。訊かれた社さんは、え……、と言葉を濁すだけだ。そうしながら兄貴のほうをちらちら見遣る。兄貴のほうは、困ったように顔を背けていた。
「ない、よ」
「わ、俺もない」
 社さんが言ってすぐ、兄貴もそう言う。兄貴は訊かれていないのだけど。坂松さんも、不思議そうに兄貴の顔を見た。それだけで、すぐ目を逸らす。
「はい。寺本先輩も一緒に行きましょうね」
「……どこに?」
 兄貴が訊いた。今度は社さんのほうが顔を下げている。変わってる。
「Y**町のほうに、いい宿があるんすよ。ちょうど、海と山に囲まれとって、人も少なくていいところなんすよ。そこにみんなで行きたいと思いましてっすね」
 五人組のひとりが言った。どうやら、坂松さんが話していたことは、この人の受け売りだったようだ。
「金はあるっすから、心配しなくても大丈夫っすよ」
 そう言いながら、その人は他の子を指差す。その子が五人組でどういう立ち位置なのかは分からないけれど、前からその子が金持ちの子であることは知っていた。よく遊びに行くし、よく持ち物を替える。
「えっと……つまり、この八人で海に行こうってこと?」
 兄貴が確認を求めた。金持ちの子が、こくんと頷いた。それにしても、八人分の宿泊料を一人で払うだなんて、いったいどれだけの財産があるのだろう。どれだけ小遣いを貰っているのだろう。
「でも、この子にそんな、金を払わせるなんて」
 社さんがぶしつけにそう言った。
「あ、私、関澤です」
 この子呼ばわりが気にかかったんだろう。金持ちの女子高生は、そう名乗った。それに乗じて、どんどん他の三人も名前を称える。
 五人組は男子二人、女子三人で構成されている。男子は、どこにいくか先ほど説明していたのが加藤くんで、もう片方が宇治くんという。社さんは知っていたのか、その自己紹介を適当に流していた。逆に、兄貴のほうはちゃんと聞いている。後で名を呼ぶとき、名前を忘れていては不便だと考えたのかもしれない。
 女子のほうは、坂松さんと、関澤さん。それともう一人、微妙に髪の色が違う、矢倉さん。今度は、兄貴のほうが知っていたみたいで、社さんのほうが熱心に聞き入れていた。なんだろうこの二人。同性にしか興味ないんだろうか。それか、異性の名前しか今まで覚えていなかったのだろうか。あるいは、異性の名前は階段で転んでも残しておけたのだろうか。
 他の五人も、二人の異常性を目の当たりにして口を噤んでいた。いつの間にか静かになった教室で、ただどこからも暑さが立ち込めてきている。
「……ぶっちゃけた話、俺ら、先輩に早く治ってもらいたいんすよね」
 加藤くんがそう言った。ぶっちゃけすぎかも。そう思ったけれど、今更遅い。兄貴がまた顔を伏せてしまった。社さんも、固まったように加藤くんの顔を見ている。社さんのほうが兄貴よりも凛々しく見えるのが不甲斐ない。
「それで、療養に……」
 空気が澱んできていることにさすがに気付いて、加藤くんはそれ以上言わなかった。だけれど、それだけ言えばもう続きは必要ない。兄貴はまだ顔を伏せているけれど、社さんは気丈に、大きくこくりと頷いた。
「それじゃ、つれていってくれるんだね。私は金、払わないよ」
 兄貴が顔を上げて、そう言い放った社さんのほうを見た。尊敬した眼差し。ぼくの目にはそう映った。
「具体的には、日程はどうなってるの」
「それは、先輩の都合に合わせようと……」
 坂松さんが言う。少し声が弱い。やはり普段と違う様子らしい社さんに狼狽しているのだろう。
「それじゃあ、夏休みが始まった次の日からにしよう」
「へ?」
「そうしましょ、そうしよう」
 兄貴が同調した。途中つっかえる言い方は、最近はよくあることだからもう慣れてしまった。慣れてしまう自分が悔しい。窓の外はやはり快晴で、湿ることも潤うことも知らない。
「ぼくもそれでいい」
 ぼくも乗じた。正直、家にいると料理が大変だ。母親ほどのレパートリーは持ち合わせていないし、夏に残り物をどう保存していくのかの心得もよく知らない。そしてなにより、海に行きたい。早く、冷たい水に浸りたい。塩辛い水を蹴飛ばしたい。
「それじゃあ、それで決定ってことで」
 関澤さんが締めくくるように言った。

 家に帰ると、母親がせわしそうに荷造りをしていた。ぼくたちは邪魔にならないように、自室に直行する。ぼくはベッドに転がりこんで、漫画の続きを読んでいた。積読が多すぎて、さっさと消化してしまいたいのだけどなかなか山は削れていかない。
「あの……」
 ノックの音と共に、そんなか弱そうな声が聞こえた。か弱いといっても言い方の問題で、実際には低い男らしい声が届くだけなのだけど。
「なに?」
 ドアの向こうの兄貴に向けて、ぼくは視線を向かわせることもせずに返事した。漫画のページをめくる。ドアはまだ閉まったままだ。
「いや……なんでもない」
 それだけ述べて、兄貴は自室に戻るつもりなのか立ち退く。そんな足音がする。
「ねえ、ちょっと兄貴」
 ドアは開けないけれど、僕は少し大きめの声を出して兄貴を呼び止めた。
「……なに」
 兄貴の姿を見ないで兄貴と会話すると、どうしても、それが兄貴だとは思えない。話し方がまるで別人だ。兄貴がなんの用でここへ来たのか、そしてなにが原因でやめたのかは分からない。だけれどぼくには、兄貴が悩んでいるようには見えなかった。ただ現実を突きつけられて、これからどう対処していくのかを検討している子のようだ。
「なんでもないよ」
 そう言った。しばらくして、隣の部屋のドアが閉まる音がした。
 もうすぐ夏休みだ。

第二章