第一章 [目次]


  一
 窓から覗く雨のにおい。梅雨はもう過ぎたはずなのに、今日は朝からどしゃぶりだ。暑いからという理由で、雨だというのに窓は開けていた。窓側の席に座るぼくには、嫌でもちょっとの水滴がかかる。鬱陶しいわけではないけれど、体の内にこもる暑さは、むしろ大きくなっている気がした。クーラーつけたい。
 授業に熱心に取り組む生徒は、夏の暑さの度合いのわりには少ない。あと一週間すれば一学期が終わる。夏休みになる。授業中の生徒たちの会話は、もっぱらその計画についてだった。どこ行こうか、山行かねーか、えーやだよ山とか、じゃあ海、きみってアウトドアなんだね、やっぱりまずは無難に映画行こうよ、そういえばあのホラー映画って来月公開だったよね、えーホラーとかやだよ……。ぼくの後ろのあたりで、そんな茶番が繰り広げられている。ぼくは誰にも気付かれないくらいの溜息をついた。後ろの子たちは、微妙に当たってきている雨粒が気にならないみたいだ。
 先生が、おいそこうるさいぞって注意した。雨の音が耳を撫でていた。先生の声と、生徒の笑い声と、雨の跳ねる音が混ざり合う。だけどわだかまることはなくて、それは教室のどこかに溜まり込んでいた。ぼくは消される前に黒板の文字をノートに写して、また溜息をついた。
 誰もぼくには話しかけない。
 曇り空は汚くなかった。それがねずみ色であっても、ねずみとは程遠い。ただ、それによってできる陰が、ぼくの顔にできる陰が、汚らしく思えた。窓にこっそり映る顔が、雨粒に晒されて歪んでいく。
 ほどなく授業終了のチャイムが鳴って、ほどなく授業終了の礼をした。今日の授業はこれでおしまい。あとは帰るだけだ。だけれどどしゃぶりの中を歩くのが嫌だった。だからぼくはこれといった目的もなく、終礼を終えたあとも学校に居座り続けた。ぼくの他にも、まだほとんどの生徒が残っている。いつもなら部活動をしている生徒は、教室をすぐ出ていって運動に励む。だけれど地面を打ち付ける水が原因で、どうやらほとんどの部活動が、立ち往生しているらしかった。今教室にいないのは、体育館で動く部活の人と、勇気をふりしぼって雨を歩いている人。
 雨ひどいね。誰かがそう言う。帰れないなー。誰かが返事する。
 雨の中を歩くのが嫌。それを噛み砕いていえば、ぼくは傘を持っていない。家に置き忘れてしまった。ぼくが登校したときはまだ小雨だったから、忘れたことに気付いても道中で引き帰すこともしなかった。今はただ鬱陶しい。雨ではなくて、自分が鬱陶しい。
 だけれどぼくには兄貴がいる。兄貴もこの高校に通っていて、二年生だ。兄貴が帰るときに、傘に入れてもらえばいい。いっそのこと傘を奪ってしまってもいい。兄貴は特進科というクラスに所属しているから、ぼくよりも授業が多い。けっこう待たないといけないけれど、濡れて帰るよりはマシなはずだ。
 あーあ、なんで傘忘れちゃったんだろう。誰かがそう呟いていた。ぼくと同じ境遇の人がいたことに親近感が沸いたけど、声のほうを向くのはしない。目が合ったりしたらいけないから。目が合ってしまったらどうすればいいのか分からなくなるから。だけどぼくには、兄貴がいる。きっとその子にはいない兄貴。でも雨がやめばいいなとも思った。
 時間が経つにつれて、教室にいる人は減っていった。粘り強く雨がやむのを待っている人もいるけど、だんだん、諦めて帰っていく。傘を持っているくせに帰らない人はなんなんだろう。そう一瞬だけ思って、だけど考えるのをとめる。ぼくだって傘があっても、どしゃぶりを歩くのは嫌だ。傘があっても絶対濡れる。
 雨がおさまる様子はない。むしろどんどん凶暴になっているみたいだ。なにをそう怒っているのだろう。ぼくには雲の気持ちが分からない。教室の生徒たちは単純に喋っているのに、ねずみ色の空の動きは複雑だ。
 ずっと向こうの空が渦巻いていた。暗い層が幾重にも押し潰されていて、どんどん雨粒が絞り出される。雨がおさまる様子はない。
 ぼくは学校が水浸しになるところを想像した。もし雨水がどこにも染み渡らずに、地面に溜められていったなら。まるでグラウンドが水槽のようになって、水かさが増すごとに生徒たちが上階へと逃げていく。だけれど水かさがとまることはなくて、ついには学校全部が水に沈んでしまうんだ。そんな想像もたやすくできるくらい、まだまだ雨は活発だった。そんな想像もできてしまうくらい、兄貴を待つのは退屈だった。
 だけれど溜息は出なかった。教室にはもう、ほとんど人はいない。目が合うのが嫌だから、具体的に数えたわけではないけれど、だいたい五人くらいだろう。五人は集まって、なにやら談笑をしている。どうせ夏休みの計画でも練っているんだろう。
 ぼくも夏休みになにをするか考えようと思った。人から誘いが来ないにしても、ぼく個人にだって夏休みは配給される。ぼくの夏休みだ。だったらぼくが計画を立てないといけない。
 宿題は配られたその日に終わらせるつもりだ。どうせ高校一年生、そんな多くの宿題は出ないだろう。あ、自由研究は出るのだろうか。あれが出ると少し困る。自由研究はどうしても独創性が求められてくるから、つい時間をかけてしまうのだ。時間をかけても、いいものはできないというのに。それでもどうにかアイデアをひねり出そうと、時間を無駄に浪費してしまうんだ。
 ちょっと遠めの教室で、がたがたと椅子が動く音がした。授業が終わったんだ。起立、礼。そのとき椅子は音を立てる。時計を見ても、確かにそんな時間だった。
 あと終礼だけすれば、兄貴たち特進科も下校時間だ。雨はやっぱりやんでなかった。少しくらい休んでくれてもいいのに、これっぽっちも疲れた様子がない。もしかしたら自分の元気さに麻痺してしまっているのかもしれない。いわゆるトランス状態。ランナーズハイ。雨を降らせすぎてやむことを忘れてしまっているんじゃないか。
 兄貴はきっと、ぼくが残っていることは知らないだろう。兄貴の教室のところで、待機しておこう。
 ふと教室を見渡すと、先ほどまでいた五人組はいなくなっていた。帰ったんだ。結局時間だけ潰して、得られるものもなしに帰っていった。無駄な生活。でも、もしかしたら、夏休みの具体的な計画が決まったのかもしれない。
 そろそろ終礼が終わるだろう。兄貴の教室に行かないと。
 ……だけれどその必要はなかった。ぼくが立ち上がる前に、兄貴がやってきたからだ。傘を持って。水色の傘。ぼくの傘だ。
「あ、兄貴」
「ようよう。やっぱ待ってたか」
 面倒くさいから腰は持ち上げない。そのままぼくは兄貴と会話をする。兄貴も億劫なのか高一A組の教室には踏み入ってこない。ドアのところで立ち止まっている。
「おまえ、傘忘れてただろ」
 雨はまだまだ降っていた。湿気がぼくの髪を梳く。だけど雨は櫛じゃない。髪は整うよりも散らかっていく。それでも梳き続けるし、ぼくもそれから逃げようとしない。
「持ってけって朝、母さんが」
 兄貴は傘を軽く持ち上げる。水色が教室の敷地内に侵入した。既に許可していたから、誰も迎撃しない。ただ雨は弾丸のように、未だに降り続けている。
 今、教室にはぼくしかいない。それは明晰なことではあるけれど、決して寂しいことではなかった。兄貴が来る前だってそう。ぼくはこの特異な特徴のせいで、孤独がつらくなかった。
「あれ? じゃあ、なんで休憩時間のうちにでも届けてくれなかったの」
 ふと気付く。そもそも兄貴がすぐに届けてくれれば、ぼくの下校時間までに届けてくれたなら、ぼくはさっさと帰れたはずだ。それなのに兄貴は、自分の授業がすべて終わってから届けにきた。考えてみたらそれは、ただの時間の無駄遣いだ。
「ああ、ごめんごめん。忘れてた」
 悪びれもせずに謝ってくる。雨の音が妙に大きく聞こえた。すっかり耳になじんでしまっているけれど、そのくせしていつまでも残っている。
 黒板が雨に残響していた。音ではなくて空気に。乱雑に消された黒板上には、まだチョークの色が混じっている。今日の黒板消しの当番が誰だかは分からないけど、これでもちゃんとしたほうだと思う。粉は残っていても、上に筆を進めたら充分に読める。やり直しはさせられない。そんな絶妙な消し加減だ。
 そういえば、今日は教室掃除を誰もしていなかった。担任もそのへんは大雑把な人だから、たぶんみんなサボったことにも気付いていないだろう。そういえば、ぼくも今月は教室の担当だった。
「ほら」
 つかつかと入ってきた兄貴が、適当に傘を差し出した。ぼくはそれを受け取る。手にとって、窓のほうを見遣った。いままで幾度も見ている。雨はやはりペースを保っていて、このままやむのを待っていたら夜になってしまいそうだ。バケツをひっくり返したような雨、といいたいところだけれど、それだとバケツの大きさが大変なことになるだろうから取りやめにした。ぼくが学校に登校した時間帯からいままで、ずっと降り続けている。
「帰らないのか?」
 兄貴が訊いてくる。無頓着な表情だ。ここでぼくが「帰る」と言っても「帰らない」といっても疑問を示さないんじゃないだろうか。どちらを答えてもそれが当然だとでもいうように、自分だけ先に帰っていくんじゃないだろうか。
 ちょっと、試してみたくなってきた。
「良い天気だね」
「……なに言ってんだ。おまえ」
 だけれどちょうどいい言葉が見つからなかった。「帰る」でも「帰らない」でもない、第三の適切な表現。それがどうしても見つからなくて、自分でもあべこべだと分かることを発言していた。やっぱり兄貴は呆れ顔。そのままなにも言わずに、自分の教室のほうへ戻っていった。荷物を取りにいくんだろう。
 ぼくはまだ、席を立てずにいた。ふんぎりがつかないというか、なんだかこの時間まで待っていた自分がもったいなくて仕方がない。なにか意義のあることをしないと、どうしても立ち上がれないでいる自分がいる。効率の面で見れば、このまま濡れて帰って、シャワーを浴びて、遅れて帰ってきた兄貴を叱りつけるほうが無難だった。それなのにぼくはそれをしないで、雨と生徒の音に耳を傾けていた。
 窓から涼しい風が吹く。夏だから寒くはない。だけど暑くもない。ちょうどよく涼しい。でもずっと浴びていたら風邪を引いてしまうかもしれないと思った。
 座ったまま、椅子の下におさめてあった鞄を持ち上げた。机の上に置く。そろそろ帰る支度をしよう。……といっても、準備するようなことはなにもない。教科書はロッカーに入れておけばいいし、宿題は出なかったし。持って帰るものがない。鞄も置いていっていいんじゃないだろうか。だけれど、校則というものがある。登校時には、必ず学校指定の鞄を持たないといけない。いわば鞄は、通行証みたいなものだ。これがないと入れない。
 廊下を人が通った。兄貴のクラスメイトの人だ。直接話したことはないけれど、成績優秀だって話はよく聞く。長い髪をくくることもせずに垂らしている。先輩はぼくを一瞥した。それでも進む速度をまったく落とすことはしない。教室の前の廊下を歩いて、そのまま、階下へ続く階段を下っていった。
 その後にまた、数人の先輩たち。あれ、寺本の子まだいるじゃん。先輩の一人がそう言った。ぼくはそれを聞いたけど、先輩はぼくに聞かせるために声を発したわけではないみたいだ。それ以上ぼくに声をかけることはなくて、そのまま進んでいく。代わりにその人は、ぼくの兄貴に話しかけていた。その集団の中に、兄貴もいたのだ。
 兄貴は適当にそれを繕って、ぼくに視線だけ送って階段を下りていく。あの視線は、先に帰るぞっていうなんの変哲もないサインだ。サインを送るならもっと複雑で難しいもののほうが面白いのだけど、残念ながらそれだとぼくが分からない。
 兄貴よりも授業数は少ないのに、ぼくのほうが遅れて帰宅することになりそうだ。
 それでもぼくは、踏ん切りがつかずにいた。未だに椅子に座っている。なぜかという理由も特に存在しなかった。ただ、もったいなかっただけだ。傘が来るのを待つのに、一時間以上を費やした。そのくせして雨は強く地面を打ちつけたままだ。なにか得るものが欲しかった。傘を待つことで、手に入れることのできる特権のようなもの。待つことを後悔しなくても済む材料。
 ぼくは椅子に座ったまま。なにか起こらないか期待し続ける。机の上には鞄があって、机の横には傘がある。鞄は淡い藍色で、傘は明るい水色だ。ぼくの皮膚は肌色で、髪はたぶん黒色だ。黒板はチョークのせいで濁った白色をしていて、その前方の教卓は机と同じ木の色をしている。ぼくは色を数えながら、なにか起こらないか希望を抱いた。なにか起こってほしかった。化学しか予定のない夏休みを、どうにかして彩りたかった。
 夏休みまであと一週間。来週の水曜日の終業式を終えたら、一ヶ月もある余暇が始まる。クラスのみんなは、その計画を練るのに必死みたいだ。ぼくもそろそろ考えないといけない。遊びに誘ってくれる友達がいなくても、自分で楽しめるなにかが必要だ。誰もいない教室で、そんなことを思考する。
 時間は無情に過ぎていく。一人では夏休みの計画も立てられないことに、ぼくはついに気付いた。一人ですることなんて限られている。
 ぼくは数十分ぶりに溜息をついた。その途端、教師が廊下を通った。おい、やることないなら帰りなさい。無神経にそう言って、そのまま通り過ぎていく。結局、なんの利益もなしに帰るのか……。ぼくは私物を潰されたような気分になった。たしかに時間もぼくの私物だ。
 汗をかいていた。そのことにやっと気付いた。雨が降っていても汗はかくんだ。体の内にこもる熱というのは、雨くらいじゃ簡単に流せない。むしろ化学反応の溶媒になるばかりだ。もう帰ろう。
 ふと窓の外を見た。さっきまで自分が、机上の鞄ばかりに顔を向けていたことに気付いたからだ。頻繁に窓の外を眺めていたのに、夏休みのことを考えている間は藍色の入れ物ばかりを見ていた。
 ……汗が流れ出したのは夏の暑さのせいだけではなかった。暑さをかろうじておさえてくれるものが、いつの間にか途絶えていたんだ。
 雨はすっかりやんでいた。
 やった。そう思った。成果がやっと現れてくれたんだ。待った甲斐があった。期待はたまには満たされるんだ。
 そうなると傘は煩わしいものだった。だけれどそれくらいは気に留めることじゃなかった。雨がやんだことが素直に嬉しい。
 ぼくは造作もなく立ち上がった。椅子を引くのにさほど大きな音は立たなかった。さっき通り過ぎた教師が、反対側からまた現れた。ぼくの姿を見て、なにか声をかけようとしたみたいだけれど、もう帰るつもりの様子を確認したからか、なにも言ってはこなかった。
 ずっと座っていたせいなのか、湿気のせいなのか、制服のスカートに大きな皺が寄っていた。