第三章 [目次]


  二
 玄関には二つの靴が適当に置かれてあった。兄貴のと、社先輩のだ。その他の靴は履物容いれに納められている。普通、靴は一足あれば当分はそれで足りるのだから、使わない靴はしまっておいたほうが効率がいい。ぼくがそう考えた。母親が出張に出て行った次の日に。
 母親は、まだ帰らない。昨日久しぶりに電話があって、それによると、八月三十日には帰ってくるそうだ。夏休み最終日の前の日だ。
 宿泊から戻ってから、やっぱりぼくが家事を担っている。兄貴が手伝うことはほとんどない。兄貴に、手伝ってよ、と言いつけても、兄貴は掃除機の収納場所も知らないから、むしろ邪魔になってしまう。兄貴も申し訳なさそうだが、ぼくがなにも言わなくなると、結局手伝うことなく社先輩とともに空間を過ごしてる。
 二人がなにをしているのか、具体的には知らない。たとえば、ノーベル科学賞を身近の人がとったとしても、その人が培ってきた研究内容を具体的に理解できる人はほとんどいない。それと同じで、ぼくは兄貴たちがどんな楽しいことをやっていようが、身近の人であっても知る由も、知る術も持ち合わせていないのだった。
 ぼくは靴を脱いだ。玄関に散る靴は、これで三組になった。
 ほぼそれと同時に、トイレの水の流れる音がした。兄貴が入っていたのだろうか。
「ただいまー」
 とりあえずそう言ってみた。
「おかえりー」
 そうレスポンスがあった。けれど、それは兄貴の声ではなかった。いやに、馴れ馴れしい口調だな……。
「映画行ってきたんだっけ?」
 トイレから出てきた社先輩がそう言ってくる。やっぱり、いつもよりも妙に親しみを込めてくる。逆に近寄りがたかった。
「あの、社先輩……?」
 ぼくは疑問を感じたらその答えを聞かずにはいられない性分だから、この場合でも例外なく社先輩に目を向けた。
「あー……、やっぱ、変か?」
「変、です」
 この二人が変なのは、今日に限ったことではないのだけど。
「なんだかなぁ」
 社先輩は、自身の腰に手を置いた。腰の部分は女の子らしい体型といえて、少し出っ張っているようにも見える。くびれた腹回りが、それをぼかしていることはいるけれども。
「なんか、どうでもよくなってきてるんだよな。最近」
 社先輩が、依然馴れ馴れしい口調でそう言ってくる。
「由美はそう思わないか? ずっと苦しい状況に放り込まれて、そのままたくさん時間が過ぎて、それでも状況は良くなっていなくて……」
「社先輩……?」
 社先輩はさっき、ぼくのことを「由美」と呼んだ。それは、親しい仲の友達か、家族しか使わない呼び名、下の名前だ。
「正直、疲れちゃったんだよな。このまま、俺が社絢になって、あいつが寺本雄吾になって、そのままずっと一緒に監視し合ってもいいんじゃないかって……。監視ももうやめてしまって、お互い、相手の体を支配してしまえばいいんじゃないかって。あのとき、階段で転んだとき、そのことが原因でずっとこのままで、永遠に治らなくて……世間がそういう結論を出すようになるまで、ずっと、支配していればいいんじゃないのかってさ」
 なにを言っているのか分からない。
「どうせ誰も知らないんだしさ……こうやって堂々と話しても、どうせ、由美は理解できていないんだろう? あ? そうだろう?」
 怖かった。トイレのドアは、ちゃんと閉まっているのに、ぼくはトイレの中にまだ誰かいるような想像をした。それはトイレではなかったかもしれない。まるで社先輩という個室の中に、兄貴が閉じこもっているような……。
「そんな目をしても、どうせ、どうにもならねえんだ。由美、俺は……」
「…………」
「なあ由美、もし、もしも俺が、おまえのキョウダイだったとしたらどうする?」
「え……」
「どうもしないよなぁ。実際は、戸籍上はなんの関係もないんだから」
「それってつまり……その……兄貴と結婚して妹になるって……その……」
「楽観的なやつだなぁ。友達ができて、ちょっとは明るくなったか? 中学のときも、一緒に映画を観に行くなんてことなかったもんなぁ。ほんと、おまえは友達の少ないぼっちだったぜ」
「うるさいな……」
「あれ? 血も繋がってない先輩にそんな口きいてもいいのか? あぁ?」
 ウザい――。ぼくはもう社先輩のことは無視して、自分の部屋に戻ることにした。社先輩は、ぼくが遠ざかっていってもその場に立ったままだ。階段の上から彼女の様子を眺めてみたけれど、彼女は床を一心に見つめていて、なにを思っているのか想像もできなかった。どうして、頬に水粒が伝ったのかも理解できない。口元が歪んでいた。でも月一の血はきついよなぁと、先輩が呟くのが聞こえる。このときの社先輩の顔は、あまり綺麗とはいえなかった……。
 自室に篭って、漫画の続きを読む。まだまだラストまで長い。宇宙スーツは自分を着てくれる生命体を探しに、今度はある銀河系の上のほうの星に訪れていた。だけれど、その星の生命体は既に絶滅していた。……新しい展開だ。いつもの調子なら、星の住人に着てもらって、それによって住人たちの発展に繋がっていく。だけれど今回はそうじゃないみたいだ。どんどん、物語が深みに嵌っていく感覚が心地いい。
 ベッドはふかふかではない。残念ながら、そんな高級なものではない。どちらかといえば安物だ。それでもぼくは、ベッドがあることに感謝している。いきなりなんなんだろう……。自分でも疑問に思いつつ、「次巻に続く!」で締めくくられた最後のページを見終わって、ぼくは漫画本を閉じた。それを近くの本棚に納め直す。次巻を読むのは、もう少し後でいいや。なかなか盛り上がってきたところだったけど。
 自分の思考にずっぽりと嵌っていたい気分だった。漫画などの他の思想に侵されないで、今は、じっくり自分と向き合っていたかった。なぜ急にそんな気分になったのかはよく分からない。だけれどその要因のひとつに、社先輩のさっきの言動があることは予想された。さっきの社先輩はいつも以上に変だった。異常だった。普通という範囲を超えていた。……あれ? もしかしたら、兄貴も社先輩も、やっぱり脳に異常があったんじゃ……。そういえばまだ、病院に行っていない。医師に診てもらっていない。兄貴と社先輩が断固として拒否したからだ。なぜ拒否したのかは分からないけれど……。そうだ。――兄貴たちが正常であることを証明することもできていなければ――異常であることも診てもらっていないのだからはっきりとは分かっていないじゃないか。今まで気付かなかった。やろうと思えば、二人は意図的に狂うこともできたんだ。その可能性も充分にあったんだ。
 つまり、ぼくは兄貴たちについて、もっと深く調べてみないといけない。ぼくは夏休みの長い暇時間を、化学の研究に費やそうと考えていた。だけれどたった今、それを撤回する。もちろん化学もするけれど、それに従事するのは中止した。そうして空き時間を作り上げて、兄貴と社先輩の観察を行う。バレないように慎重に……。そのあたりは、動物を観察するのと同じ了見だ。
 ぼくはベッドから起き上がって、ドアをそっと開けた。社先輩はもう階下にはいなかった。たぶん兄貴の部屋だろう。
 ぼくは兄貴の部屋のドアの前に立ちはだかった。そしてそっと、耳をドアに押し当てた……。

「つまり、なに? 雄吾は、別にこのままでもいいっていうの!?
 兄貴の声だ。
「ああ、そう思う……。要するに、慣れの問題だと思うんだ。イメチェンだよ、イメチェン。俺たちはあの雨の日から、まるで別人のように性格が変わってしまった……まわりの見解は、だいたいそんな感じだ。実際のところはそうじゃないが、それでも、端から見ればそうであることに違いはない」
 社先輩の長い台詞に、兄貴が反論をする。
「私たちがまるで異常じゃないみたいに、みんながそのうち慣れていくってこと?」
「そういうことだ」
「んなわけないじゃん! 雄吾は、このまま私になってもいいっていうの? このまま私を雄吾にしておいてもいいっていうの? 私は嫌だよ。絶対に嫌。私は夏休みのうちに元に戻って、家に帰って家族と一緒にご飯を食べて、前のような楽しい学校生活を送って、新しい友達を作って、卒業して大学入って……。そんな、そんな私の人生設計はどうなるの。私の人生をそう簡単に片付けないで。これは雄吾一人の問題じゃない。私と一緒に、真剣に考えてよ。諦めないでよ。私の体を返してよ……!」
「……ごめん。俺だって元に戻れるんなら、それこそ最高だよ。……だがな、どうやるんだ?」
「…………」
「方法がなんにも分からねぇ。俺たちのような人がいるのかと思ってネット検索してみても、出てくるのはそんな小説や映画やドラマ――作り物ばかりだ。元に戻す方法以前に、そもそもなぜこんなことになったのかも、分からないじゃねぇか」
「それは、階段で……」
「それだって、確証はねぇんだ。ただタイミングが重なっただけかもしれない。階段で転んだことで入れ替わったのかもしれない、あの大雨が原因だったのかもしれない、どっかの宇宙人が原因だったのかもしれない、そもそもこれは俺たちの幻覚なのかもしれない、夢なのかもしれない……。可能性はいくらだってある。まるで大きな樹形図だ。俺たちは元に戻ろうにも、その方法が、なんにも分かってないじゃないか」
「…………」
「泣いたって結果は変わんねぇよ。俺だって戻りたい。それは本心だ。だがな、現状からすると、それが失敗に終わる可能性のほうが、成功しない確率のほうが、ずっと高いんだ。それを意識して、もしそうなったときの対処法も考えておかないといけない。違うか?」
「そう、だけど……」
 兄貴の反論は次第に弱くなっていく……。ぼくは、今の会話を吟味しようと試みた。だけれど、どういう意味なのかさっぱり分からない。「入れ替わる」という言葉が使われていたけれど、つまりなにが入れ替わったのだろう……。
「社って、キョウダイいたっけ」
 社先輩がそう言う。
「いないよ……」
「そうか。俺にはいるぞ。由美っていう妹がな」
「知ってるよ……」
「いや、知らねぇさ」
「……?」
 ぼくは耳をより強くドアに押し付けた。それはむしろ聞きとりにくことに気付いて、音を立てないよう慎重を期しながら耳を離す。
「我が家には、おかしなタブーがあってな」
「……タブー?」
「ああ、タブーだ。たとえば、机の上に乗るのが大罪だったりしてな」
「なにそれ」
「実際には、母さんが小さい頃、机の上に乗って、机の足が折れちまって、それで大怪我をしたことがあるらしいんだ。それを教訓に、まるで戒律のように俺たち子どもにそれを押し付けてるんだけどな……」
「いい話じゃん」
「まあそんな感じで、俺の家族の中では、いくつかのタブーがあるんだ」
「まさか、本当に諦めて、それを私に教え込んでおくってわけじゃないでしょうね!?
「さあな……って、そんな怖い顔するなよ。自分の顔に睨まれるのは割とマジで怖いからやめろおい。……それでな、そのタブーの中に、こんなものがあるんだ」
 息をつく声がした。たぶん兄貴だ。
「由美の『ぼく』発言については、決して触れないこと」
「あ……」
 つい声を漏らしてしまった。それを必死で抑えるけれど、もう出てしまった声は仕方ない。
「おい、由美いるのか!」
 社さんが叫んだ。
 ぼくは一目散に玄関に走って、適当な向きをしていた自分の靴を急いで履いて、慌てて家を出て行った。陸上部なみの速さを出した気がした。

 ぼくが『ぼく』を使うようになったのは、いつごろからだっただろう。気付けば『ぼく』を使うようになっていた……。少なくとも、記憶にある限りではずっと昔だ。記憶のあるよりも昔、と、そういえるかもしれない。
『ぼく』を使うのが普通でないことは、小学生の高学年くらいになってやっと知った。そのときには既に、ぼくは孤立していたような気がする。記憶が曖昧だから、どうしても断言はできないのだけど、ぼくはもしかしたら『ぼく』のために、クラスから浮いてしまっていたんじゃないだろうか……。
 なぜぼくは、『ぼく』を使うようになったんだろう。
 ぼくはぼくの他に『ぼく』を使う女の子に、会ったことがない。いたなら……ぼくは……。ぼくはその子のことを軽蔑したと思う。なぜ女の子なのに『ぼく』を使うんだって、その子のことを蔑んだと思う。自分のことは棚上げ――というよりも、ぼくには自覚が足りなかったんだ。
『ぼく』が異常であることにも、ぼくが『ぼく』を無意識に使用していることにも。まるで頓着しなかった。固執しなかったのにまるで癖のように、それも永遠に治らないような、その人の個性のように、ぼくは気付かないまま、自覚した上で無意識に『ぼく』を使っていた。
 そんなにおかしいとも思わない。今でも思わない。高校に上がるとクラスメイトとの距離もけっこう広くなって(それとも、ただまわりの子たちが一歩大人に近づいたからのだけかもしれない)、そのおかげで『ぼく』を詰られることはなかった。小学・中学でも少なかった詰りが、高校に入ると皆無になったんだ。ゼロ。まさしくゼロだった。
 ぼくは友達がいなかった。
 視覚をにおいで察知してしまうくらい、ぼくには友達がいなかった。
 その代わり、化学が好きだった。秋に、高校生向けの大会がある。科学の大会だ。化学ではなく科学。ぼくはなにをしようか、まだ考えあぐねている。レポートを書いて提出すればいいらしい。一次選考、二次選考、三次選考(最終選考)があって、大賞が選ばれる。例年行われている、なかなか有名な大会らしい。
 ……なにいってるんだろう。
 ぼくは、空を観賞しながらぼーっとしていた。石でできた階段に座っている。ここは、ある大きめの公園だ。小さな頃はよくここで遊んでいたと、母親がたまに語ってくれた。
 ふいに、恐ろしいほど鮮明な記憶が蘇ってきた。それも、数週間の間隔をあけた、豪華な。ここまでくるともはや白昼夢となんら変わりなかった。
 兄貴と社先輩が踊り場から転げ落ちる光景……それを思い出すと、つられて脳になにかがやってきた。兄貴たちのあれよりも前に、どこかで、それと似たものを見た覚えがある――。
 携帯電話の着信音が耳に届いた。