第三章 [目次]


  一
 人々が行き交っている。今はちょうどお盆の時期にあたるから、嬉々とした表情の人が大勢いた。町に並ぶ背の高い会社や、大きな商店。それらがにぎやかに騒ぎ立てていて、同じに通行人の顔も騒がしくて、ぼくだけが切り取られたみたいになっていた。それと時を同じくして、彼らと自分が同じである錯覚にも陥る。ぼくもさわがしい内の一人だという錯覚だ。ぼくは待ち合わせ時間に早く来すぎてしまって、こんなにもつまらなそうな表情をしているというのに。
 実は、こんな中央部にまで出てきて友達と待ち合わせをするのは初めてだ。中学のときは、地元ではよく遊んだかもしれないけれど、電車で遠出するようなことはなかった。高校に入ってからも友達がいない状態だったし……だから、それなりに緊張もしていた。集合場所がここで合っているのか真剣に悩んだ。ここで合っているのは明白なのに悩んだ。
 行き交う人には、親子連れが多い。お盆の関係で、いわば子どもの日のようなことになっているのだろう。お盆といえば先祖への供養を最優先して考える、といった世帯は、そろそろ少なくなってきたのかもしれない。子連れの親は、だいたいが若々しい人たちだ。たまにものものしい、年を積み重ねてきた人も見かけるから、一概にはやっぱりいえない。
 わざとらしく、建物の壁に取り付けられた大型のモニターがはしゃいでいた。モニターに目を遣る人は、今のところぼくしかいない。斜め上を見ていると、日光が巧みに目に入ってきて鬱陶しかった。帽子をしている意味がなくなってしまう。ちょっとおしゃれして、肩からかけたポーチと似合いそうな、ベレー帽だ。
 携帯電話を取り出して、現在の時刻を確認する。待ち合わせ時間まで、あと二十分ほどある。早い子なら、そろそろ来るかもしれない。そう期待を抱きながら、ぼくはずっとそうしているように壁に背中を預ける。駅の出口を抜けて、横に避けたところの壁だ。N**駅の五番出口。そこが待ち合わせ場所だ。決めたのは坂松さんだ。そういう取り決めは、いつも彼女が上手にこなしてくれるらしい。海の宿泊のときは、関澤さんにたじたじの様子だったけれど。
 モニターはなにかのアニメキャラクターの動画にいつの間にか切り替わっていた。可愛らしいイラストがコミカルに動いて、秋から始まるらしいアニメの宣伝をしている。モニターに目を遣っているのは、依然としてぼくだけだ。
 通行人は楽しげに道路を渡り、人混みをまるで物怖じしないで通り抜ける。その術はぼくにもある。たぶん。通学路を歩いているときとか、人が多いときにその人たちとぶつからずに歩くなんて、当然といえば当然だ。だけれどぼくは、それを無自覚で達成できている自分のことが不思議だと思う。日本人の脳はどういった構造になって、どういった原理で人混みを進んでいるのだろう。
 夏休みが始まる前の自分のことを、ふと考えてみる。だいたい一ヶ月ほど前になる。ぼくは窓の外を眺めて、それでもクラスの様子に耳を傾けていた。
 ――やっぱりまずは無難に映画行こうよ、そういえばあのホラー映画って来月公開だったね、えーホラーとかやだよ……。
 クラスで五人組が繰り広げていた会話。それをまだ覚えている。正確にいうと、つい最近思い出すことができた。当時(といっても、時期としては最近というくくりになるのだろうけど)ぼくには、友達がいなかった。今でも、なぜぼくに友達ができたのか分からない。そんな心地がしない。浮かれてはいない。狐にほっぺたをつままれて、だけど痛みを感じることがなくて。ぼくは友達を持とうとしなかった。いなくてもいいと思っていた。悲しくて寂しかったけれど、決して友達に必死になるべきではないと心に決めていた。……だから、今の状況が不思議であることに、ぼくは一片の迷いも示さない。こうして、ホラー映画を観に待ち合わせをしている今でも。
 関澤さんは、無二のホラー好きらしい。ラヴクラフトが好きだと言っていたけれど、残念ながらぼくはその言葉がなにを指しているのか理解できない。どんな作品なのだろう。ラヴってあるから、メルヘンチックなお話? ホラーなのに? 見たことないから分からない。……それとも、作品の名前ではなかったりして。
 対称的に坂松さんはホラーが苦手のようで、今回、彼女は来ないことになっている。みんなズルイ……と、行かない集合時間をわざわざ取り仕切ってくれながら、ハンカチを噛み締めていた。
「おーい!」
 至近距離でそんな声。ふと横を見ると、改札を抜けたばかりの矢倉さんが手を上げていた。ちなみに、ぼくとの距離は一メートルもない。声を上げてついでに手もあげる必要、なかったんじゃないだろうか。
「おはよう……」
 ぼくは気圧されないように心中で噛み締めながら、そう返事をする。
「おはようって、もう二時じゃん!」
 今日の矢倉さんはテンションが高い。たぶんこの人、緊張している。ホラー観ることに緊張して高揚している。その気持ち、少しだけだけど分かる。気がする。
「関澤さんは?」
「まだ」
 今日、一緒に映画を観るのは僕を含めずに二人だ。矢倉さんと、関澤さん。
 坂松さんはホラーが苦手のようだし、加藤くんはお盆で親の実家のほうに行っているらしい。宇治くんの事情は知らないけれど、まあ、加藤くんと似たようなものじゃないかな。
 兄貴と社先輩は、今ぼくの家にいる。宿泊から戻って、二日経った日。その日に、社先輩がぼくの家に舞い込んできた。夏休みが終わるまで泊めてほしいって……なんてことだろう。兄貴もまるで示し合わせたみたいに快諾していた。
 それが原因で映画に来ない、だなんてことではないのだけど、ともかく二人は来ないと言った。いろいろと、試してみたいことがあるらしい。どんなプレイを試すつもりだろう。そういう思考にしか至らない自分が恥ずかしい。
 モニターの画面は切り替わっていて、汗のにおいをやわらげて心地いいものにしてしまうという商品の宣伝になっていた。いい顔している俳優が、爽快そうな背景とともに笑顔を晒している。そこに商品がスライドしてきて、ついでに湧き上がってきた文字が、商品の名称を曝け出していた。
 こういう宣伝映像は、誰がどうやって作るのだろう。芸術性はあるかもしれない。だけれどそれは認められない。まっとうに金のために創作するというものは、いったいどんなことを指すのだろう。そもそもぼくには、金を目的としない創作についても理解はできていないのだけど。国語の試験はいつも散々だし。
 関澤さんはまだ来ない。集合時間を一、二分ほど過ぎていた。ぼくは携帯電話を取り出して、アドレス帳から関澤さんを選び出す。そして通信を開始した。発信音が耳に心地いい。この音は好きだ。その音が、反対側の耳から入る人々の足音と一緒に跳ねている。
 関澤さんは出なかった。おかけになった電話番号は……とかも出ない。ただ単に、関澤さんが出ないだけのようだ。電源を切ってなんていないし、電波の届かない場所にいるわけでもない。
 まだかな……。矢倉さんが呟いた。せわしなく時刻を確認している。そう焦らなくても、映画が始まるまではあと一時間もある。誰か遅れることを見通していたのか、それとも映画館に行く前にどこかに寄るつもりだったのか、はたまた坂松さんの意地悪か、決めた集合時間は早いものだった。
 ホラー映画。ぼくはあまり観ない。観れないわけではないけれど、好き好んで観るものでもない。たまにミステリーファンと同様に、ホラーマニアがいる。関澤さんがそうだとカミングアウトするまでは、実を言うと、ホラーにそこまで熱中する人を、趣味の悪い人たちだと偏見していた。恥ずかしい。かもしれない。
 空は明るいけれど、すっとした純粋な明るさではない。雲が全部分に張っている。それが空の色に同化して、薄い青色を形成していた。好きな色かもしれない。雨はきっと降らない。降った後のような空模様だ。実際には雨なんて一粒も降っていなかったのだけど。
 そんな空とは関係なしに、通行人が晴れた顔で通り過ぎていく。改札口から定期的に大勢の人が押し出てきて、そのまま四方に散らばっていく。ぼくには人がまるでビー玉かなにかのようにしか見えなくなってきていた。だけどそんなこと、おくびにも出すわけにはいかない。ぼくは矢倉さんと一緒に、ほとんど無言で関澤さんを待っていた。
 隣で矢倉さんは、ひっきりなしに前売り券を読んでいる。いくら読んでも書いてある内容は変わらない。それでもずっと何度も読む。ぼくの冷たい視線にも気付かないらしい。緊張している。
 関澤さんがやってきたのは、集合時間を三十分過ぎた頃合だった。矢倉さんが大袈裟に文句を言って、ぼくも「遅かったね」って詰った。
「ごめんごめん」
 関澤さんは軽く謝る。
 とりあえずこれで面子は揃った。ぼくは「行こう」と言って、矢倉さんも「行こう」と言った。映画の上映まで、あと三十分弱。急ぐ必要もないけれどのんびりする必要もない。それに、早めに入場しておかないと、万が一のときに痛い目あうかもしれないだろうから。
「関澤さん、なんで遅れたの?」
 ぶしつけに、矢倉さんがそう訊いた。
「……いやー。それにしてもいい天気だねー」
「なにそれ」
 関澤さんのあからさまな話題転換に、ぼくは正直に感想を口に出した。なにそれ。
「質問に答えてよ」
 矢倉さんがむっとした表情で問い詰める。遅れる理由を訊くのも、あまりいいことではないと思うのだけど。遅れるほうが悪いのかもしれないけれど。
「……じゃあ、私が当ててあげるよ」
 そう言うと矢倉さんは、深く息を吸った。怒っているのか? ぼくにはそう見えなかったけれど、いつの間にか、感情が高ぶってきたのかもしれない。かもしれない?
「関澤さん、宇治くんとデートしてたでしょう」
「……はい?」
 ぼくのリアクションは無視して、矢倉さんが関澤さんを睨みつける。
「そんなことないよー」
 明るい口調で関澤さんが反論した。
「知ってるんだよ。関澤さんが、宇治くんと付き合ってること。隠したって、いつも一緒にいたんじゃあ分かるんだから」
 矢倉さんはそう言い放って、先々と映画館のほうへ進んでいってしまう。
「……今の話、本当?」
 ぼくは関澤さんに訊いた。なんだか、いろいろ話が捻じ曲がってきている。
「そんなこと、ないよ」
 関澤さんが目を伏せた。
「棟矢は、私に興味ない」
 宇治くんの下の名前が棟矢であることを、たった今証明された気分になった。
 言葉の綾なのかもしれないけれど、その言い方じゃあ、まるで関澤さんは宇治くんに恋をしているみたいだ。私は興味ないと、そう言うことはできなかったんだろうか。
「それに、夏休みに入ってからは、由美と一緒にいるからね」
 関澤さんが顔を上げた。

 ホラー映画はやっぱり怖かった。背筋がぞっとなぞられたみたいで、あまり気持ちよくはないけれど観終わった後の腑に落ちずに体だけ落ち込んでいく感じは気持ちいいかもしれない。
「関澤さん、怖くなかったの?」
 すまし顔の関澤さんに向かって、ぼくはそう質問した。なんだか眠たそうな顔をしている。つまらなかったのだろうか。怖くなくて。
「怖かったよ。ホラー映画は、怖がらせるために作られているのだから当然だけどね」
「じゃあ、怖いホラー映画は当然過ぎて面白くないってこと?」
「そういうわけでもないよ。だけど、だいたいそう思ってもいいかもね。たまにはメルヘンなホラーも見てみたい」
 関澤さんは活き活きとしていた。なんだかんだいって、ホラー映画を観るのは好きなんだと思う。彼女ははしゃぐようなことをしない。喜びを表現する方法が、控えめに設定されているんだ。
「……うーっ」
 後ろで、頭を抱えた矢倉さんがついてきている。路上ではあんなに怒っていた矢倉さんだけれど、ホラー映画は楽しく観ることができたみたいだ。その証拠に、つらそうに頭を支えている。倒れないか心配だ。
 ちなみに、この映画は奢りではなくて、ぼくが自腹で払った。高校生は千円だ。関澤さん曰く、ホラーに対してだけは、自己で金を負担するべきなのだそうだ。どういう理由が隠れているのかは知らないし、知るつもりもないけれど、そういうことらしい。ぼくも、いつも彼女に奢らせては悪いから、このとき奢るといわれても断るつもりでいた。そういう面でいえば断る面倒を省くことができたのだから、好都合だったといえるかもしれない。
 映画館を出ると、外はもっと青くなっていた。雲がもっと薄くなっている。空だけでなくて、目の前の風景も青味がかかっていた。もう日も沈む。
 ぼくたちは改札を通って、プラットホームに赴いた。矢倉さんはぼくらと反対方向なので、ここでお別れだ。ばいばいって適当に言って、矢倉さんはつらそうな顔をして電車に乗り込んでいった。
「ねえ、由美」
 電車を待ちながら、関澤さんが話しかけてくる。
「なに?」
 電車が来るまでは、あと二駅分くらいある。三分くらい待たないといけないだろう。
「棟矢のことだけどさ」
「うん……」
 ぼくは関澤さんの顔を眺めた。俯いた顔。ホラー映画を観ているときよりも、その顔は真剣そのものだ……そうなんだろう。
「私、棟矢と特別な仲なんだよね」
「えっ……」
「付き合ってるとか、そういうわけではなくて。ただ、小さい頃から一緒に遊んでて、幼馴染で……」
 関澤さんは言う。
「ある日、ずっと昔のことなんだけどね。確か、私が幼稚園の、年長さんだったときだと思う」
「うん……」
「私は棟矢と、河川のところでよく遊んでいたんだ。ほら、学校の裏のほうの」
「うん……」
「でもある日、私が足を滑らせてしまって、川に落ちてしまって。知ってると思うけど、あの川、流れ速いからさ。あまり近寄らないように言われてたんだけどね」
 関澤さんの声は沈んでいった。ぼくと目を合わせない。それでも、また浮上して話し出す。ぼくは相槌を打つのに精一杯で、彼女がなにをぼくに伝えたいのか、透視することができなかった。透視なんて、やったことないけれど。
「でも、落ちる直前に棟矢が手を取ってくれて……だけど、そのせいで棟矢も落ちてしまって」
 関澤さんが、顔を上げた。
「川の中で転がったんだ。波に押されて、私と棟矢はひとつの固まりみたいに転がっていった……」
「…………」
「ちょうど、由美、あなたのお兄さんたちみたいに」
「…………」
 電車がやってきた。
 ぼくは彼女の肝心の言葉を待ったけれど、彼女は、なにも言わずに電車に足を踏み入れてしまう。ぼくもそれに倣ったけれど、まだ、彼女の口元に注意していた。
 それなのに、関澤さんはなにも言おうとしない。
「関澤さん?」
「…………」
「…………」
 電車の中は、人が多い。お盆だからだろう。子連れの人が特に多い。そういう人たちが座席を占領してしまっているから、ぼくたちは手すりを持って、隣り合うしかなかった。
「今度、詳しく教えてあげるね」
 関澤さんがやっと口を開いたかと思えば、結局、話はお預けにするという内容だった。
 ぼくは頷いて、だけど腑に落ちない感覚に苛まれて。
 ホラー映画を観た後の余韻は、もうすっかり消え去ってしまっていた。