●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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ある医者の記



 ――この文章を、私の身に危険があった場合の保険に、また、可愛い助手のために残す。

 すべてのものごとには対極が存在する。表には裏が、陽には陰が、善には悪が、是には非が。それらは対極の位置に属してはいるが、互いになくてはならない存在である。表は裏がなくては成り立たず、裏もまた同様に表が必要不可欠だ。陰陽もそうだろう。闇があるから光があり、光があるから闇があるという話はあまりに有名だ。このようにすべてのものごとには、対極が存在する。なくてはならない対極が。
 しかしここで注意せねばならないのが、ここでいう「ものごと」とは、すべてが「有」の上でこそ成り立つものだということだ。表も裏も、表裏のある存在が「有」らないと意味を成さない。善悪や是非はその基準となる世相などが「有」らねばならないし、陽と陰はそれらを内包する自然が「有」らねばならない。名詞や形容詞で表せるすべてのものごとは「有」の上でこそ対極を成すのだ。
 では、「有」と「無」はどうなのか。「有」と「無」も対極関係にあるかもしれない。しかし「有」と「無」は、表裏や陰陽と違い、互いに干渉するということがない。そもそも「無」を名詞で扱っている時点でナンセンスである。
 さて、だとしたら「意識」と「無意識」はどうだろう。これは対極といえるだろう。「意識」も「無意識」も、同じく人の体に内包されている。ゆえに「有」の上での対極だと分かる。すると「無意識」は「無」ではないとなる。「無意識」と「無」は異なるのだ。これも「無」を名詞として見るべきでない理由のひとつといえよう。……ところが面倒の臭いことに、「無意識」が完全に「無」と異なるものなのかといえば、そうでもない。同一の部分もあるのだ。

 私がこんな似非哲学に興味を持ち出したのは、およそ一年ほど前のことだ。
 それよりもさらに前、二年ほど前に、私はムに飛ばされた。経緯は覚えていないが、私を支配するものが「意識」から「無意識」へとシフトしたのだ。
 ム。それはこちらの世界が「意識」を主とした世界であるのに対し、「無意識」が占めている世界のことである。「無意識」の中でも特に、ユングの言葉を借りれば、「集合的無意識」のことになるだろう。その世界は「意識」の世界と同じく、他の者と空間(あるいはそれに準ずるもの)を共有していたのだ。「無意識」が「意識」から影響を受けるように、ムも「意識」の世界に影響を受けるらしい。ムにはリセットと呼ばれる現象があった。人々の「意識」の改変、すなわち時代の変革が「無意識」に特に大きな影響を及ぼすために起こるらしい(と、当初私は考えていた)。
 そのリセットが、私にとって唯一の恐怖であった。もとからムにいた人間にとってはなんでもないことだが、私のような部外者にとってリセットは、死を意味したからだ。「意識」の世界からムへのシフトは、「意識」と「無意識」の内包関係が逆転することで生じる。体を支配していた「意識」が、私の主導権を「無意識」に譲ったというわけだ。だからリセットが起こることで「無意識」が一時的に消滅すると、その間に「無意識」を保存する「意識」が部外者には欠如しているため(意識が意識の役割を果たさないため)、脳などを動かせなくなり、死に至る、ということである。そのリセットこそ、夢心地な私に襲いかかる、唯一の恐怖であった。
 どうにかこの恐怖から逃れる方法はないものかと、幾度も思案した。リセットには該当地区というものがあることも理解した。日本国土にあたる部分が該当するならば、朝鮮半島や中国のほうへ逃げ込めば一旦はどうにかなる(意識の世界とムは、地理が酷似している)ことも発見した。リセットに限らないが、私はムについて発見したことがあれば、逐一紙にそれを書き記した。それは今も、あの莫迦に白い施設に残されていることだろう。不完全で、中にはメモ書き程度の、誤ったものもあるのだが。
 そしてあるとき、私は気付いた。「意識」から「無意識」にシフトしたことでムに来たのならば、「無意識」から「意識」にシフトできれば、元の世界に戻れるのではないのかと。
 私は必死にその方法を模索した。その結果、皮肉なことが露呈した。「意識」「無意識」というものは、要はただの観点の違いによるものだったのである。一枚の白紙があり、その片面を「表」と見るか「裏」と見るか、という単純なものでしかなかったのだ。そしてさらに、その観点の切り替え方こそが、リセットだったのだ。健全に「意識」と「無意識」が逆転している状態で、リセットを受ける。そうすると「意識」と「無意識」の関係が逆転、すなわち元に戻り、元の世界に戻ることができるのである。リセットと人類の時代は関係なかったのである。(確かに、震災などの大きなことが起きれば人々の「意識」に変化は生じるが、そうでなくとも、日々「意識」は移ろいでいくものである)。
 私は、その「健全な逆転」をどうしたら実現できるのか研究した。そして、私は大きな苦労を使い、あの施設を建てた。
 かくして私は、元のこの世界に戻ることに成功した。リセットから逃れることをやめたのである。「意識」と「無意識」はムに来る際に立場が逆転してしまうが、私が建てた施設内にいれば、それらはその位置に適応してしまうのだ。だから、「意識」が「無意識」として、「無意識」が「意識」として役割を果たしたので、私は死なずに済んだのだ。
 これは「有」と「無」の問題を引き合いにすればもう少し単純にすることができる。表裏、陰陽、善悪、是非……、そういったものは、すべて「有」の上に成り立っていると述べた。それと同じく、「無」の上で成り立つ対極もあるのだ。「意識」と「無意識」は、その形態において「有」と「無」に非常によく似ていた。「意識」と「無意識」の反転が「有」によって起こるのなら、その反対の「無意識」と「意識」(順序を逆に記述している)の反転は、「無」を基台に起こせばよかったのである。
 換喩的に「有」と「無」を出したが、決してそんな曖昧なものではなくともよい。何度も書いたように対極というものはなにかに内包されてこそ成り立つ。つまり対極を成立させるためには、内包する枠組みを作れば良かったのである。そしてそれが、私が作り上げたあの施設だったのだ。

 こちらの世界に戻ってから、私はさらにムについての興味を強く感じた。それと同時に、危険な橋を前にした恐怖も大きくなった。せっかく助かった命、無駄にすることはできないが、研究のために粗末にする勇気も、私は持てずにいたのだ。しかしムについてさらに知りたいと思い募るのも同じ。
 私が出した結論は消極的なものだった。つまり、こちらの世界にいながらにしてムを観察しようと考えたのだ。そのため神経内科の仕事も捨てなかった。仕事を続けているとたまに、「無意識」が「意識」に打ち勝ってしまいそうな患者に出会う。最近よく病院に来る荻本舞という少女がいるのだが、彼女の話を聞くとどうも、ムが噛んでいそうである。この前の診断で、夢を見ないと訴えてきていたが、あれはもしかしたら、彼女の「無意識」付近の地域がリセットを起こしたからなのかもしれない。
 病院に限らず、ムと関わりのありそうな情報は舞い込んでくる。私がムから戻ってきてから数ヵ月後に起きた、世間を騒がせた悲惨なバス・タンクローリー事故では、数人だけ生存者がいた。そのほとんどが未だに生死の境を彷徨っているそうだが、そのうちのひとり、ほとんど植物状態だった男が目を覚ましたらしい。話によると、その男は、起きた途端いわゆる錯乱状態に陥り、リセットがどうの、深層意識がどうの喚きだしたらしい。脳死に近い状態でのいきなりの回復らしく、担当医たちも考えあぐねていると聞く。これはまさしくムが関係しているはずだ。男との面会許可が下り次第、すぐにでも男から話を聞くつもりだ。
 他にも、たとえば私は施設の小型化にはかった。施設はムにあるが、あれと同じ原理のもの(すなわち、「意識」と「無意識」を逆転させるためのもの)を作れないのだろうかと考えたのだ。試行錯誤を繰り返し試作品ができ、それは現在、助手が使用している。問題なく使えているようだ。

 謎が解ければ解けるほど、私の「意識」「無意識」への興味は深まっていく。私は世界の裏側を覗いているような気がして、楽しくてならないのだ。
 だがふいに、私は思い知ることがある。このまま深まり続けていけば、そのうち真の対極に帰結してしまうのではないか、と。真の対極。便宜的にそう呼称したが、それをどう説明すればいいのか分からない。「光と闇」、「表と裏」、「意識と無意識」……「有と無」さえも含めるすべて――対極が存在する「有」「無」上のすべて――は、最終的にふたつの対極におさまるのではないか。それらを表す言葉はないから(少なくとも私は知らないから)、仮にそれを「黒」と「白」としよう。
「黒」と「白」は対極ではあれど、ビックバンの起こる前の宇宙のように、同一の枠におさめられている。「黒」を背景に「白」があるのか、「白」に「黒」が覆い被さっているのかは定かではないが、それらが拡がり宇宙となり、人となり、ムとなったのではないか。
 おぼろげながらもはっきりしている「ム」の文字が脳裏にちらついて、仕方ない。


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