●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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ム(-1)



「とうっ!」
 静奈が片手拳をふりかざしました。意味はありません。
「今は勤務時間じゃないのだから、精神病患者を演じる必要はないんだぞ?」
「ダイジョブです。ちゃんと残業分ってことで給料上げてもらいますから!」
「おいおい」
 ここは深夜の道筋。やっと仕事を終えた医者が、それまで児童養護施設でアルバイトをしていた静奈を、家まで送ってあげています。夜道は危険ですからね。いつどこからお化けが出てくるか分かったもんじゃありません。
「それにしても」
 静奈が暗闇を見上げて呟きます。
「こんなことして、なんの意味があるんです? あの施設で精神障害のフリして、もうけっこう経ちますけど、まだなんの進展もないんすけど」
「なんだ。辞めるのか? こっちはそれでも構わないが」
「そうじゃなくてですね! えーっと、なんていうか……先生、もしかして本当に私が障害者になるの待ってたりしてます? 障害者を演じ続けてたら狂ってきちゃった! みたいな」
「お。頭いいな。見直したぞ」
「給料上げてくれます?」
「そのときは考えてやってもいいぞ」
「ちぇー」
 平坦な道が続いています。横道がたくさんあって、そのどこからお化けが出てきても不思議ではありません。
「あ、そういえばですねー。来てましたよ、舞ちゃん」
「ああ、そうか」
「なんだか、ムでの舞ちゃんとは印象が違ってましたね。なんとゆーか、髪型のワカメ感がボリュームアップしてました!」
「そうか……」
「なんなんでしょうねあのワカメは! というか、見た感じ舞ちゃんって普通の子だったんすけど、どこが精神病なんです?」
 静奈の左手首には、いつも着けているリストバンド。
「自閉症だよ。でもあれは軽い、生活にほとんど支障のない程度だ。人の嘘が見抜けない程度さ。……あ、今話したことは忘れろよ。医者には守秘義務ってもんがあるんだから」
「とうっ!」
 また静奈が拳をふりあげました。意味はもちろんありません。
「どうしたんだ」
「いや、もしお化けとか出てきてもアッパー食らわせてやろうと思いましてね。その練習ですよ」
 意味いみありました。
 静奈は布団に身を沈めました。静奈は特に精神力の強い人だと自負しているようですが、毎日八時間もあの養護施設にいると、どうしても疲労を感じずにはいられないのです。静奈はこどもが嫌いです。静奈は人が嫌いです。左腕のリストバンドが、今日は特に重たく感じられます。
 医者が言っていました。アルバイトをするにおいて、必ず守らねばならないみっつのこと。
 ひとつ、週の四十五時間以上をあの養護施設で過ごすこと。
 ひとつ、このことはまだ誰にも言わないこと。
 ひとつ、リストバンドは水浴のとき以外は、寝ているときもつけておくこと。
〈五秒後にこの世界は滅びます――〉
 途端に、そんな音が部屋中を駆け巡りました。静奈は目を擦ります。リストバンドに組み込まれたコンピュータが、ムに行く時間だよと告げてくれたのです。
(それにしても、このアラーム音ってダサいよね……。もっと華やかな音楽とかに変える方法はないのかな。今度、先生に聞いてみよう。これじゃあ趣味悪いよ)
 この部屋は、静奈の私物でいっぱいです。椋木さんちとは大違い。これぞ我が家といった感じです。
(どんなアラームがいいかなぁ。「この藪医者め」とかいいだろうなぁ……)
 静奈は目を瞑って、栄養剤を口に含みました。



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