●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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第1章



 ランプの灯りは個室をやさしく撫でまわし、壁にかかった時計は悠長に針を動かしています。小さな籠の載った机が、壁際でひっそりと佇んでもいます。シャワーの音が、隣から個室の中へと跳ね入っています。横幅の広い体つきの男が、その部屋の、大きめのベッドに腰を下ろしていました。男は腹をさすりながら、水音に耳を傾けています。
 ここはホテルの一室。荻本おぎもとまいはそこのシャワールームで冷水を浴びていました。体を伝い落ちていく滴が、排水溝に吸い込まれていきます。舞はそれを、水よりも冷たい目で見ています。それは、これから罪を犯す目。水滴は舞の体に留まることを知らず、ただ当然のように流れていきます。クセのある髪が、曲がりくねったまま水をふるい落としました。
 しばらくすると水音は消え、白いバスローブを着た舞がシャワールームから出てきました。男は舞に目もくれずに、机上の籠におさめられていたゴム製品をいじっています。数秒してから、やっと男は舞を一瞥して、手元のものを籠に戻しました。
「よお。いい体してんじゃねぇか」
「報酬をもういちど確認したいのだけど」
 男の発言には無視をして、舞はそう冷徹に言い放ちました。男は腹をさすりながら、わざとらしく笑い声を上げます。恰幅のいい声です。しばし笑い声が個室を占領し、それからまた男は舞を見据えます。
「よお。ずいぶん冷てぇじゃねぇか。とても、十七歳には見えねぇな」
 見た目だけとしてはやわらかい目つき。しかしその瞳は、がしりと舞を掴み込んでいるようにも見えます。
 舞の顔が、一瞬だけ陰りました。
「気付いてねぇとでも思ったのか? あ? 小娘がこんなことに手を染めやがって」
 影が舞の顔で細かく踊ります。それは、部屋のランプが小刻みに震えているからです。しかし男はその微妙な変化に気付かず、腹をさすりながら横柄に言いました。
「すまねぇが、おれは小娘とやる気なんて更々ねぇよ」
「でも」
「それで、いくら要るんだ?」
 影の揺らぎが次第におさまっていきます。ランプの震えがとまったのです。舞はとまったランプを見遣りました。男から目を逸らすためです。
「借金、してるんだろう」
 男が静かに言います。されどその口調は、特に質量が大きくなっているようでもありました。
「いくら借金してるんだ?」
 腹はさすったまま。男は臆せず声を出します。ベッドのシーツが、ほんの少しだけなびきました。それは本当に些細なことで、男だけでなく舞も気付きません。
 舞は男の視線に観念して、具体的な金額を口に出しました。
「多いな」
 男の言葉に、舞は目を伏せます。嘘をついていることを相手に悟られないつもりで。借金で後がない少女を演じるように。それでもランプが震えたり、シーツが浮かぶことはありません。舞は短く肩を上下させて、また男を向きました。
 その様子を見て、男は舞に訊ねます。
「よお。嬢ちゃん、いつからこんなことしてるんだ?」
「あなたが最初」
 今度は目を伏せません。嘘を守るための嘘は、一応論理的な思考によって導き出されるので、少なからずの自信が表れてくるものなのです。それでも舞は、瞳を泳がせてしまわないように意識しました。
「そうか。んなら、今ならまだ戻れるってことだな」
 男は腹を手で押さえながら立ち上がりました。広い肩が少しだけよろめきます。
「一年、いや、半年くれ。そうしたらオレが、全額肩代わりしてやろう。だからさっさと戻れ。体を売るな。自分を捨てるな。半年だけ耐えろ」
 立ち上がった男は、まるで熊のようです。片手は未だに腹を押さえています。よく見れば、その手の五本の指には、爪がありません。はがれたのでしょうか。
 ふたりの間には、なんともいえぬ壁がありました。シャワーを浴びた直後で清潔感のある舞と、どこか独特なにおいをもつ男。においが混ざり合うことはなく、ただ壁を作り上げています。
「それは、ほんとですか」
 しばらく沈黙が続いた後、舞がそう口を開きました。男は口を閉ざしたまま頷きます。
「ほら、さっさと帰れ。金が工面できたら、オレを呼び出したその番号に連絡するから」
 舞が目を泳がせました。それにつられて、ランプがまた身震いを起こします。男は依然として舞の顔を見据えています。舞は男と目を合わせないまま、静かに言いました。
「なぜ?」
「なぜ、か。は。オレはそうやって生きてきたんだ。困ってる人がいりゃあ助ける。それだけのことだろう?」
 ランプがさらに小刻みに震えます。まるで時を告げる目覚まし時計のように。揺れて、震えて。男はそれを見て、またわざとらしく笑い声を上げました。
「だからだ。だから、やるならさっさとやれ」
 舞は驚いた表情で男と目を合わせました。口が開いています。水に濡れてのびているとはいえクセのある毛から、水滴が垂れて肩に落ちます。それも心なしか振動しています。
「お芝居はここまでってんだ。借金なんてないことぐれぇ分かってんだ。ほら。そんなに抱きたいのなら抱けってんだよ」
 一歩、また一歩。男が二歩分歩いただけで、ふたりの壁は崩れてしまいました。においが混ざり合います。
「ほんとに……い、いの?」
 舞の声は震えていました。今まで一度も出合ったことのない状況に陥ってしまったのですから。男はもうなにも言わずに、ただ舞を見据えるばかりです。まるで舞のすべてを見透かしているようです。
 舞は唾を飲み込みます。喉の震えがおさまっていきました。舞は警戒しつつも、恐る恐る男の背中に手をまわしました。当初の目的どおり、男を抱きしめるのです。そして、ギュッと。
 男の肋骨が砕けました。向きを変えた肋骨が、内側から胸を突き刺します。心臓が破裂しました。落としてしまった水風船のように、周囲に中身を撒き散らしながら。男の眼球が外に押し出されました。外眼筋が尻尾のようについてきました。眼窩から血液が流れます。背骨もいつの間にか粉々になっていて、熊のようだった男の体がぐにゃりと折れました。そのまま上半身と下半身のふたつ折りになって、舞はやっと男から体を離しました。抱きつくのをやめました。
 白いバスローブは、すっかり赤黒色に染まっていました。
 圧力変化によって空気が流れ、その影響を受けて時計が床に落ちました。机の上にあった籠は、舞から遠ざかっています。空気に流されるほど軽いものだったのでしょう。
 扉が開きました。個室と外との出入り口が。舞は、血にまみれた顔をそこに向けます。
 外から、真っ黒い服装をした男が入ってきました。見たところ、齢は二十代半ばほどのようです。鍔の広いソフト帽を被っていて、そのせいで顔はよく見えません。
「けっこう時間がかかったな」
 その姿とは相反して、男は軽い口調で言いました。舞に馴れ馴れしく話しかけます。
「ごめん」
「謝ることはない。お手柄だ」
 そう言いながら、男は舞に布を差し出します。大きめのタオル。
「五分以内に服を着ろ」
 五分後、ホテルの駐車場から、黒い車が発進しました。運転席に黒服の男が、助手席に舞が座っています。
「……兄貴」
 自分の手元を眺めながら、舞はそう言いました。
「なんだ」
「これで、よかったんだよね」
 車が走ります。暗い道を。
「ああ。当たり前だろ」
 舞の兄は、路上から目を離すことなくそう答えました。


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