●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 まだ暗い、太陽の昇っていない時刻。舞たちは目的地に到着しました。車のライトが、空気中の水分子ひとつひとつを照らしていきます。光が当たっただけで化学変化が起こることはないはずなのに、ライトを切っただけで空気の動きは見えなくなりました。
 車は茂みに隠します。ちょうど背の高い草が生い茂っていて、舞の兄はそこに駐車したのです。夜中で、さらに車の色は黒ですから、おそらく見つかることはないでしょう。そう、彼らは人に見つからないよう心がけないといけないのです。彼らはホテルで標的のひとりを殺めました。そこからここまで直に移動してきたのです。
 一見、その建物は廃墟のようでもありました。しかし扉を開けてみれば、中はまるで豪邸。扉の内側に、ダーツの絵が刻印されていました。ダーツには一本だけ矢が刺さっていて、そこから液体のようなものが流れています。そんなデザインです。
 ここに、二人目と三人目の標的がいるのです。
 ふたりは足音を立てないように気をつけながら、建物に踏み入りました。舞は特になにも持ち合わせていませんが、兄のほうは拳銃を握っています。それで殺めるつもりなのでしょう。
 暗い廊下を進んでいきます。灯りはどこからも漏れていません。標的は眠っているのでしょうか。
 廊下を進むと、広間のような部屋に続いていました。舞とその兄は、廊下の両壁に背中を寄せて、広間の中を窺います。中は真っ暗でよく見えませんが、どうやら誰もいないようです。
 舞がまず先に、一歩だけ広間に足を入れました。それと同時に、空気を切る静かな音。
 兄が咄嗟に舞の肩を掴みました。そして一気に引き寄せます。弾丸は舞を掠め、傍にいた兄の肩に食い込みます。呻き声を出してしまいました。広間の奥から足音が届きます。そしてまた、サイレンサーによって無口になっている銃声がひとつ。
 ふたりは走ります。それを男たちが追いかけました。男たち。走りながら兄は彼らの姿を視界に入れます。
「あれは」
 その姿はそう、兄の記憶にあるいでたちでした。ひとりは暗闇でも分かるぼさぼさの金髪、高身長で、まるでスポーツ選手のように厚い胸板です。もうひとりは闇に溶けた黒い髪をした、すらりとした体系。彼らはそう、標的のふたりその人たちなのでした。
(暗殺が気付かれたのか)
 兄の肩から、だらだらと血液が流れます。ですがそれほどひどくはないようです。舞を引きつれて走ります。
 兄は後方の男たちに、拳銃で射撃をしました。しかし弾丸は届きません。それは、向こうからも届きにくいということを示していました。拳銃の種類の差異なんて些細なものです。舞たちは走ります。建物を飛び出て、茂みの車へと。幸いなことに車は無疵でした。車の存在には気付かれなかったのでしょう。急いで乗り込みます。キーをまわし、エンジンをかけます。どうにか男たちが建物を出る前に発進させることができました。夜道をまた走ります。ライトをつけて。
 舞は呼吸ひとつ乱れていませんが、兄は息を切らせていました。舞はタオルを取り出して、ハンドルを握っている兄の肩に押し付けます。兄は少し声を漏らしますが、それは弾丸をくらったときほどではありません。タオルに色が広がっていきます。その色は、夜道に影響されてあまり明るいものではありませんでした。
「気付かれてた」
 舞が言いました。
「ああ。なぜだと思う」
 舞のほうを向かずに、兄は言います。
 舞は首を横にふりました。その動きは視界に入ったようで、男は「そうか」と呟きます。
 後方を走る車はありません。男たちは深追いしてこなかったようです。追えなかったのか、あえて追わなかったのか……。バックミラーを横目で確認しながら、兄は目を細めます。
「これからどうするの」
「まず逃げる」
 舞の冷たい言葉に、兄は軽い口調で答えました。舞はおもむろに兄に顔を向けます。ぼんやりとした目で、兄の横顔を。
「どこへ?」
 車は休むことなく進んでいきます。助手席から舞が見る光景は、まるで道のほうが動いているみたいです。退屈そうにそれを眺めます。長く沈黙が続いていました。だけれど沈黙の空気が車内に留まることはなく、開いた窓から流れ出ていきます。
 次第に空が白けてきました。夜明けです。車は海沿いの道路脇に駐車されました。潮風が舞のクセ毛をくすぐります。潮風が傷に染みるのか、兄は少し眉をしかめました。
 早朝の風は肌寒く、早朝の海は静かです。
 兄の肩からの出血はもうとまっていました。しかし傷口は痛々しく染まっています。
「この先で、舟が出るはずだ」
 兄が言います。
「会ったことはないが、つながりはある人だ。その人と、ひとまず海を越えて逃げよう。身の安全を確保してから、依頼主に失敗の連絡を入れればいい」
 ふたりは車を離れ、海岸のほうへと歩いていきました。最後まで、車にとりつけられていた探知機に気付くことなく。
 砂浜にかための草が生えています。それを踏むと、砂と一所にすりおろされる音がします。舞の靴に砂が入って、それでも舞は表情を変えません。兄の体に腕をまわして、その体を支えました。兄の体を触るときの舞は、まるで人形のような顔をしています。兄の足取りは、あまりはっきりとしたものではありません。出血によって、血中に含まれる酸素の濃度が低くなってしまったのでしょう。
 遠くを、消波ブロックが並んでいます。打ちつける波の音が聞こえます。舞は耳に意識を込めました。みっつの手と、それと同じ形の頭。それらが絡み合って、消波ブロックは音を奏でます。
 消波ブロックのさらに先に見える港では、ちょうど漁船が動き出しているところでした。舞は歩きながら、その景色を眺めます。空気を撫でる機械音が耳をくすぐって、漁船は消波ブロックの切れ端を通っていきました。
 朝の静けさに同調するように、一際波が弱いところがありました。そして、そこにはヨットがありました。それなりの大きさもあって、容量としては、だいたい十人くらいでしょうか。白い帆は、今のところ閉じられています。
 中から、ひょいと男が顔を出しました。四十代ほどの男で、頬が丸くふくよかです。男は舞たちを見て、にっと歯を見せました。その歯は、少し黄ばんでいます。
「荻本兄妹だな。話は聞いてるよ。さあさ、乗るといい」
 男は頬を持ち上げて、ふたりを中に引き入れます。
「さあ、もう出発だ」
 すぐさま男が言い放ちます。その言葉に反応して、ヨットに乗り込んでいた他の男たちがオールを漕ぎ始めました。どうやらエンジンはついていないようです。ゆったりとヨットは進んでいきます。
「ちょっと待ったー」
 途端、今度はそんな声が聞こえてきました。砂浜のほうからです。
 舞は声のほうへ顔を向けました。そして少しだけ唇に力を入れます。ヨットを引きとめたのは、なんとも奇妙な人間でした。
「どうしたんだ?」
 舞の兄が舞と視界を同じくします。その視界には、奇怪な仮面を被った背の高い男が、こちらに手をふっている姿が映っていました。男は砂浜から既に一メートルほど離れているヨットに、そのまま走って飛び乗ります。
 兄は体を翻して、腰元のホルスターからナイフを取り出しました。隙のない動きで、迅速にそれを男の首に押し当てます。
「……乗せてください。この舟は国外へ行くのでしょう? 金は払います。食料もいりません。乗せてください」
 仮面のせいで表情は窺えません。兄は不躾そうに仮面から覗く両目を睨みましたが、仮面の男はというととんと動揺する素振りを見せません。
 その間にも、ヨットは沖へと進んでいきました。


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