●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 ヨットには六人の人が乗っています。舞と兄、それと三人のおじさんと、仮面の男。
 もうすっかり、出発地点は小さい米粒のようになっていました。沖の波は予想外に穏やかで、ヨットの揺れはそう大きいものではありません。ヨットの帆が、風を受けて半月のように膨らんでいます。
 このヨットは、いわゆる密航船の部類に入ります。たとえば舞たちを舟に乗せいれた男は、借金を返せないがために逃亡しています。舞の兄は、男と会ったこと自体はありませんでしたが、彼のことを知っていました。
 舟の中は、基本的にみな無言です。ただ頬がふっくらとした男だけは、にんまりと口を曲げていましたが……それは、笑顔というよりも、彼なりの無表情なのかもしれません。
 舞は頭を兄の肩に預けます。もちろん怪我していないほうの肩に。反対側の肩は、未だ皮膚が抉れていて、朱を押したような色に染まっています。兄は帽子に表情をうずめて、舟の底を見下ろしています。その様子を、仮面の男がじっと眺めていました。舞はその視線に露骨に嫌そうに目を細めて、兄の肩に顔をうずめます。
「ねえ、ちょっと」
 仮面の男が、沈黙を打ち破ってきました。障子に穴を開ける子どものように、片手を遠慮なく舞たちに向けています。
 兄が顔を上げました。不躾な目で仮面を見遣ります。他の男たちも、仮面のほうに注目しました。舞だけが、興味なさそうに兄に体を預けます。
「その傷、痛そうですねぇ」
 仮面に隠されていても、その顔が笑っているのが見て取れました。兄に睨まれても、むしろ一層笑みを強めます。
「治してさしあげましょうか」
 強い風が吹きました。海水がでこぼこを作り出します。それに乗じてヨットが揺れました。半月型の帆が強く空気を打ちつけます。ヨットの揺れに乗りながら、仮面の男が一気に兄に詰め寄りました。兄が腰元のナイフを掴んだときには、既に男の手の平が兄の肩に触れています。
 ナイフを引き抜こうとした手を、舞がとめました。兄の手首を握って。少しだけ手首の骨が軋みましたが、特に損傷することはありませんでした。舞が、兄が怪我しないように配慮したのでしょう。結局、兄はナイフを引き抜かず、仮面の男は依然として笑ったままです。仮面に隠されて、その笑顔が視界に映ることはありませんでしたが。
「どうしたというんだ」
 兄が舞に問いかけます。舞はなにも答えず、ただ兄の肩に顔をうずめました。しかし兄は、はっとした表情になって舞から目を逸らしました。いえ、逸らしたというよりも、目視する対象を変えました。自分の肩へと。
 傷は消えていました。
「能力者」
 兄が呟きます。その声を聞いて、他の三人が驚きの声を上げました。仮面を今一度向きながら。
 仮面はまるで、未開の土地の部族のようです。色とりどりのペイントがなされています。隙間が開いているのは両目の部分だけです。仮面の男はみなの視線を浴びながらも、なおも肩を震わせています。くくくと笑っているのでしょう。
「の、能力者はお断りだ! 今すぐ降りろ!」
 オールを漕いでいた男が、そう言って怒鳴ります。もう片方の男もそれに同調しました。仮面の男はそれでも笑い、四十代ほどの男は困ったような顔をします。
「し、しかし」
 そう口を開いたのは、常に頬を持ち上げている、先ほどまで困ったような顔をしていた男です。男はまわりを見遣って、また言葉を続けます。
「ここまで来て、どうやって降ろすというんだい。せっかくの逃亡が台無しになってしまう。それに」
「それに?」
 仮面の男は楽しそうです。男の言葉を催促します。まるで他人事です。
「能力者なら、もうひとりいるだろう?」
 そう言って男は、遠慮がちに指を持ち上げました。それでも指先はぶれることなく、クセ毛のある少女を指し示しました。舞は、その指先をつまらなそうに見つめ返します。
 仮面の男が、今度こそ大袈裟に笑い出しました。喉を短く切る音が、水平線へと吸い込まれていきます。
「はあ?」
 先ほど怒鳴っていた男が、あからさまに顔をしかめました。
「彼女は武器を持っていませんね」
 仮面の男が、ふいにそう言います。
「おかしいとは思いませんかね? どこかに隠し持っているのかもしれませんが、見るところ彼女は、武器を持っていない。それは兄上という護衛がいるからなのかもしれませんが、それでも護身のための武器のひとつやふたつ、普通なら持たせるんじゃないですかね? しかし彼女は持っていない」
 兄はおもむろに仮面を見つめました。その瞳は、睨みというよりも、相手の品定めをするような目です。
「それはなぜか。予想ではありますが、それは彼女が、護衛よりも護衛らしいからなのではないでしょうかね。自分の身は、文字通り自分で守れるような」
 兄は目つきを変えないまま。
「それと、先ほど彼女は、兄上――あなたの攻撃をやめさせたでしょう? 手首を握って。それ自体はまあ、兄が妹の意思を感じ取って攻撃をやめたと、そう捉えてもいい。だけどですね、その後あなたは、自分の手首を心配そうに眺めた。ええ、見逃しませんでしたよ。あなたは一瞬ではあれど、自分の身を案じた。彼女に手首を握られただけなのにね。……つまり、そういうことでしょう?」
 饒舌な語りに、舞はつまらなそうに目を瞑りました。兄の肩に押された髪が、自分の顔をくすぐっています。兄は舞のそんな態度を一瞥して、それから仮面と向き合いました。
「その通りだ」
 オールを漕ぐ役割のふたりが、意味のない声を出しました。
「ま、ま。そういうことでね」
 頬を持ち上げたままの男がそう取り繕います。ひとまず論争はそこで途切れました。仮面の男はのそのそと自分の元いたところに戻って、腰を据えました。なんとも歯切れの悪い空気が漂います。
 風があるうちはオールは必要ないので、二本のそれらは中で横たわっています。潮気を含んだ海水が、オールに付着しています。そのにおいがヨットの中を流れて、留まっています。
 陸地は、すっかり見えなくなっていました。三百六十度、どこを見渡しても海です。たまに漂流物が目につくだけです。
 急に波が動き出したのは、そんな海上でのことです。


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