●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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第2章



 兄は今日で退院です。入院時から異常は特に見受けられなかったと舞は聞いていたのに、舞の予想よりも長い入院でした。
 兄は病院の敷地を、数日ぶりに出ました。太陽がぎらぎらと照っています。兄は少し立ちくらみに襲われました。そのあたりの木に手をついて、一息つきます。数秒経ってみると、太陽はさほど強いものではありませんでした。兄は苦笑して、自分の姿を冷視している少女へ顔を向けます。
 少女、荻本舞は兄に林檎を差し出しました。かすんだ赤色をしています。兄は木から手を離して、それを受け取りました。そのまま口に運びます。
「行くよ」
 舞は端的にそう言って、先々に進もうとします。兄は慌てて追いかけました。林檎を口に押し当てます。
 ふたりはこれから、裁判所へ向かうのでした。食人の罪の有無について、決着をつけにいくのです。
 裁判所には既にシェパードがいました。他にも、ヨットに乗っていた男ふたりもいます。どうやら舞たちが最後のようです。
 物議が交わされました。有罪なのか無罪なのか。三十分ほどの長い時間が経過して、無罪という結果になりました。ただ、密告という新たな問題点が露わになってしまったわけですが。新たな問題点のほうは、また今度決めるとして、一時的に被告たちは解放となりました。
 舞は先日のショッピングモールに向かうことにしました。兄に頼んでお金を貰い、ひとりでぶらりと歩きます。兄は舞についてこようとしたようですが、舞がそれを拒絶しました。ひとりのほうが気兼ねなくていい、と言いながら。
(狙われてるから)
 瞳を泳がせて。
 舞は果物店に入りました。そのとき、ちょうど入口から人が出てきているところでした。鉢合わせする形になります。舞はさっと避けようとしましたが、向こうは大きな紙袋を持っているせいか、舞の存在に気付いていません。舞が避けたのと同じ方向に、果物の重さでよろめきました。
 舞があっと声を漏らします。その人が、舞の足を踏んでしまったのです。その人はふいに踏んでしまったものに驚いて、大袈裟に体勢を崩します。紙袋が宙に放り投げられて、その人の体が前のめりに。
「あいたた」
 その人は、自分の後頭部をさすります。
「あの、大丈夫、ですか」
 舞が遠慮がちに話しかけました。相手は、「あ、うん大丈夫だよー」と言って、なおも後頭部をさすります。
(なんで後頭部? 前のほうに転んだのに)
 舞のそんな思いが届いたのか、相手は「あ!」と叫びました。いきなりの発声に舞は一歩退きます。
「痛いのはこっちだった」
 えへへー、と、なにが面白いのかその人ははにかみます。
(変な人)
 その人は、だいたい舞と同年齢か、少し年下かくらいの容姿をしています。肩に届く手前のところでストレートの髪が切り揃われています。紙袋のせいで前が見えなかったのも頷けるほど、小柄です。全体的に小さく見えます。座り込んだ状態だから、そう見えるだけなのかもしれません。
「あー!」
 また彼女が叫びました。舞はもう一歩後ずさります。
「わたしのフルーツが! ひどいよ! 転んでついでに財布を溝に落としちゃうくらいひどいよ!」
 直接的な比喩です。
 舞は文字通り彼女を見下ろしました。彼女とそれと、まわりに転がり散った果物を。
「林檎がない」
「え? 今なんか言った?」
 彼女は文字通り舞を見上げました。未だに座り込んだままです。店員が迷惑そうな顔で彼女の様子を窺っています。店員がいることに彼女は気付こうとしません。ここでそのまま眠り込んでしまっても不思議ではないくらいに座り込んでいます。まるで自分の部屋にいるみたいです。
 舞は少々焦った気分になって、まわりを見渡しました。店員だけでなく、いくらかの人がこちらを見ています。観賞しています。それなら見物料でも払ってもらいたいところです。
 舞はここから立ち去ろうと思いました。しかしすぐに思いとどまりました。この視線の雨の中、はたして逃げることが可能でしょうか。
「あ、あの」
 とにかく起き上がってください、喉が詰まって、その言葉が出てきません。舞は、自分の周囲の圧力が、微妙に小さくなっていくのを感じました。路上でとまっていた蜜柑が、ころころと舞のほうに近づいてきます。
 舞は、とにかく散らばった果物を拾うことにしました。寄ってきた蜜柑を拾い上げます。その様子を見てやっと、店員がこちらに駆けてきました。舞と一緒に果物を拾い集めます。紙袋の中へと、綺麗に整えて収納していきます。ちなみに座り込んだ本人は、その光景を眺めているだけでした。
 紙袋にすべて入れ終えました。幸い、潰れてしまっているものはひとつもありませんでした。食べる部分はどれも皮に覆われていますし、特に取り替える必要もないでしょう。というか、取り替えるのは純粋に損害になるから嫌なのでしょう。店員は依然として座り込んでいる彼女に紙袋を渡して、そそくさと店内に入ってきました。
(えーっと)
 舞はまだ動けずにいました。こういう状況に陥ったことがこれまでなかったものですから、きっとなにをすればいいのか分からないのです。殺しのときは臨機応変に動ける舞にとっても、この状況は尋常ではありませんでした。
「しゅばっ!」
 ふいに、そんな不可思議な声。
「それじゃ! ありがとね!」
 彼女はそう言うと、目にも留まらぬ速さで走り去っていきました。なんだか、まだ彼女の幻影が残っているような気がします。なにをそんなに急いだのでしょう。舞は不可解な顔をすることもできずに、ただ呆然と立ち尽くすばかりです。
 舞とその女の人に注目していた連中は、片方の消失により散り散りになろうとしていました。その中に、なにか見覚えのある人がいたような気がして、ふと舞は人々に目を向けます。しかしその姿はもう見えなくなっていました。
(なんなの)
 そう思いながらも、舞は果物店の中に入っていきました。林檎が食べたいのです。店に入ったとき、先ほどの店員が苦笑した表情を向けてきました。林檎をふたつ買います。兄がくれた金額と、ちょうど同じ値段でした。もともと林檎をふたつだけ買うつもりだったのです。いえ、舞の分と兄の分、という意味ではありません。ふたつとも舞のものです。
 店を出ます。いつの間にか人はほとんどいなくなっていました。そういえば今日は平日です。それももう、昼間になっています。太陽は一日で一番高い位置です。ですからきっと、たくさんの人たちも、昼休みを終えて仕事に戻っていったのでしょう。少なくとも舞はそう推測しました。その推測が間違っていたと気付くのは、つまり、先ほどまでいた人たちは店々に避難していたのだと気付くのは、もう少し後のことです。
(――狙われてるから、ね)
 兄が一緒に来るのを拒絶したとき、舞の脳裏に浮かんだ言葉。それが再生してきました。
 ふたつの視線が生まれていたからです。


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