●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 病棟は静かです。平日の昼間ですから、普段の喧騒に慣れてしまった人たちにとって、今日は静かに感じられることでしょう。しかし兄は、その日の病棟の静けさを知りません。今日で退院。既に病院の敷地を出ているからです。
 自分の妹は、先ほどショッピングモールへと向かいました。兄はついていこうとしましたが、拒否されてしまいました。その真意に、兄はまだ気付いていません。
「ですから、とうに傷は癒えているのですよ」
 缶コーヒーを一口飲んで、ポン・シェパードはそう言いました。兄は「そうか」と呟いて頷きます。ふたりは病院付近のベンチに腰掛けていました。すぐ傍には飲み物の自動販売機があります。高い位置にある太陽からの光は、ベンチを覆う天井が遮っていました。
 兄は陽光から隠れるために、このベンチに座っていました。ベンチは三方が壁に囲まれています。壁のない面は道路を向いています。このベンチは、つまるところバス停なのです。
 兄が座って休んでいるところに、シェパードがやってきたのでした。バス停横に設けられた自動販売機にお金を投入して、コーヒーを購入します。それから兄のほうを向いて、その横に腰掛けたのでした。
「それにしても」
 兄は言います。
「なぜ、あのとき怪我を代わってくれたんだ? 確かに能力者のほうがダメージは少ないだろうから、客観的に見ればそのほうが効率がいい。しかしそれは、俺とあんたが仲間だった場合のことだ。なぜあんたは、初対面の人の傷を、無償で受け取ってくれたんだ?」
 バスがやってきました。両者とも、バスに乗るためにベンチにいるわけではないので、バスには目もくれません。バスから数人の人が降りて、そのままおのおのの向かうほうへ行きます。みな、シェパードの奇異な仮面に目をとられていました。
「その理由は、まあちょっと説明しにくい部分がありますね。とても単純な理由なのですが」
 シェパードはそう前置きをして、兄に説明を始めます。
「理由はざっくりと分けてふたつあります。まずひとつめは、そもそも舟の中では、あなたとわたしは仲間だったということです」
「仲間」
 太陽の光は、ベンチを照らせません。
「お互い、目的は国を出ることでした。目的が同じで、互いに邪魔者にならないというのなら、それはつまり仲間だということです」
 なるほど、と兄は頷きました。目遣いで続きを促します。
「そしてふたつめが……これがどうも、面倒臭いのですがね」
 シェパードはまた前置きをしました。言いにくそうにしているわけではないようですが、口を迷わせます。
「快感なのですよ」
 ざっくらばんの言い方に、兄は少し間を置いて首を傾げました。帽子は今は脱いでいて、自分の傍らに添えられています。
「傷を受け入れる瞬間、そのときの高揚感が、わたしに快感を与えるのです」
「そ、そうか」
「怪我をしている人がいて、その傷がさほど大きなものでないのなら、わたしは無条件でそれを引き受けます。それによって、わたしは得がたい快感を得ることができるのです。だから、あなたの銃創もいただきました」
 兄はシェパードの瞳を見つめました。仮面から唯一覗く瞳は、茶色味がかかった黒をしています。磨きたくなるような黒です。
「それじゃあ、人の傷を、他人に移しかえることもできるのか?」
 兄はふと思い至って、シェパードにそう疑問を口にしました。その間に、またバスが来ていました。兄とシェパードの姿を確認して停車します。しかしバスから降りてくるものはいません。シェパードが「乗りません」と運転手に告げました。あっけなく自動ドアは閉まり、バスは進んでいきます。
 バス停のベンチからは、病院は見えません。壁と天井に遮られているからです。ちょうどふたりの背中の方向に、病院はありました。
「それで、移し変えられるかという話でしたね。もちろんできますよ。まず自分の体に引き入れてから、もう片方の人間に移せばいいのです。うまくやれば、自分の体に宿す時間をほぼゼロにして移すこともできるでしょう」
「それは、死人に対してもか?」
 兄が畳みかけるように問いかけました。瞳孔が揺れています。
「いいえ。死体から傷を引き受けたり、死体に傷を移すことはできませんね。あくまでも対象は生きていないといけない」
「それと、あんたが移せるものは傷だけなのか? たとえば病気は、移せないのか」
「さっきから質問ばかりですね。病気は無理です。わたしが操れるのは、物理的な衝撃で生じた傷だけです。生活習慣が引き金で血管が詰まっても、わたしはそれを取り除けない。虫歯も厳密には無理ですね。わたしが引き受けられるのは、ただ、一般的な『怪我』だけです。たとえばバスに轢かれでもして、その体がまだ生きているのなら、わたくしはその怪我をすべて担ってやることができる」
「そうか。なるほど……」
 兄はなにを考えているのか、深く唸ります。シェパードはそれを見て、顔色を変えることなく立ち上がりました。顔色を変えない、といっても、その顔は仮面に覆い隠されていて分かりません。兄は立ち上がったシェパードを窺いました。シェパードは既に兄に顔を向けていて、「それでは、わたくしはこのへんで」と言いました。そのままバス停から離れていきます。自動販売機の近くに置かれていたゴミ箱に、空き缶を入れます。
 シェパードが立ち去ってからも、兄はしばらくベンチに座っていました。頭痛はずいぶん和らいだようです。代わりにずっと日陰にいたせいで、体が冷えてしまったような感覚がありました。
 バスがやってきました。自動ドアが開いて、人が降りてきます。今回は、特に人が多いようでした。二十人は超えているのではないでしょうか。兄はそれを怪訝そうに見遣ります。
「ダーツと矢」
 先方に聞こえないような声で、兄は呟きました。バスから降りてきた面々は、みな同じジャケットを着ていたのです。そのどれもに、同じマークが貼られています。
 ダーツに赤い矢が刺さっています。そして刺さった部分から、青い血らしきものが流れています。それはまさしく、標的を殺め損ねた家屋の、扉の裏に描かれたものと一致していました。
 兄は目を光らせます。なるべく向こうから不審がられないように、傍らの帽子を被りました。深く、目元を隠します。そうしつつ相手を視界におさめます。
 そのどれもが男でした。柄の悪そうな者が大半ですが、中には落ち着いた雰囲気の者や、爽やかそうな者もいます。しかし、標的の二人は、その中にはいないようです。
 男たちは兄には目もくれずに、そのまま迷いのない足取りでバス停を後にしました。今までバスから降りた人と、なんら変わりのない行動です。しかし、兄にとって彼らは、なにか特別な存在にしか見えませんでした。その集団がなにを意味するのか、兄は少なからずの知識を持ち合わせていたのです。
 依頼主から連絡を受けて、兄と舞はこの町にやってきました。そういう際、兄は必ずその町の下調べをします。そのとき情報として、彼らのこと、そしてこの町における彼らの地位は知っていました。こうして直に見るのは、初めてでしたが。
 男たちはどんどん進んでいきます。その方向は、舞が向かった方向、ショッピングモールの方向でした。
 兄は、男たちの尾行を始めました。


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